「衝動」


「何?」
 屋形の奥にある私室でくつろいでいた蘇我入鹿の元に一人の従者がとある情報を持ち込んできた。
 その者がどこからか仕入れてきた情報に入鹿は秀麗な眉を僅かに寄せた。
「鎌足が南淵請安の学堂に通っていると?」
「はい、左様にございます」
 従者が頷く様を見て、入鹿はふむ、と呟いた。
 鎌足は神祇の一族である中臣家の嫡男であり、唐の書物にも通じた秀才としてその名を知られている。
 最近はその秀才ぶりに目をつけた軽皇子に気に入られ、皇子の屋形にも出入りしているという噂である。
 年は二十九。図らずも入鹿と同い年であった。
 入鹿と同じく、周易の教えを説く学問僧、旻法師の学堂にも鎌足はよく顔を出していた。
「最近、あまり顔を見ないと思っていたら……そうか、請安の学堂に通い始めたか」
 独り言でも呟くかのような口調で、入鹿は言った。
 鎌足とは僧旻の学堂で何度か顔を合わせることがあったが、せいぜい挨拶する程度で、面と向かって話をしたことは一度もなかった。
 鎌足は浅黒い肌をした地味な雰囲気の男であった。講義中も特に発言することなく、後方の席で黙って座っている。
 だが時折、僧旻が投げかける質問に対する理路整然とした答えや物怖じしないその態度から、いつしか入鹿は鎌足の存在を意識するようになっていた。
 決してひけらかすわけではないが、その博識さ、そして頭の回転の速さは、受け答えだけ見ても充分に理解できる。
 それに鎌足は特に武芸に秀でているわけでもなさそうなのに、全くと言っていいほど隙のない男だった。
 その一切無駄のない立居振舞いと、控え目ではあるが確かな知性を感じさせる雰囲気が、入鹿の目を引きつけて離さないのだった。
 あの男と自分とでは、一体どちらが上なのだろうか。
 そのは何も学問に限って事ではなく、人としての器の面で視た場合どうなのだろう、と入鹿は時々ふと思うことがあった。
「一度、試してみるか」
 鎌足とは話らしい話もしたことがない。
 一度、顔を突き合わせて、あの者がどれほどの人物であるのか探ってみようか……。
 ふいに心に芽生えたその考えに入鹿はふ、と口の端を上げた。
 入鹿は従者を下がらせると立ち上がり、その足で書庫に向かって歩き出した。

 数日後、入鹿は飛鳥川の上流に位置する南淵請安の学堂に向かって馬を走らせていた。
 請安の講義は昼、未の刻より一時か一時半ほど続くと聞いている。
 今、学堂に着けば、ちょうど講義の途中ではあるが、それゆえにさりげなく後方の席に座ることができる。
 請安は大らかな性格で、少々講義に遅れる者がいても構わずにいるという噂なので、咎められることはないだろう。
 蘇我家の御曹司が急に来訪したことに対しては、驚きはするだろうが……。
 何にしろ、あの男は……鎌足は必ず、後方の席に座る。僧旻の学堂でも、鎌足が座るのはいつも一番後方の出口から離れた席だった。
 隣とはいかなくても近くの席に陣取ることができれば、講義の後、捕まえて話をすることくらいはできるはずだ。
 そう考えると、人の悪い笑みを口もとに浮かべ、入鹿は馬に鞭を入れた。
 やがて、請安の学堂に着くと従者の一人に手綱を渡し、入鹿は学堂の入り口に歩を進めた。
 すると、学堂の中からがたがたと何やら物音が響いた。続いて入り口付近に近付いてくる数名の足音に入鹿は目を見開いた。
 戸が開く気配に思わず、物陰に身を潜める。
 すると、若い官人らしい数名の男がぞろぞろと学堂から出てきた。
「請安先生は大丈夫だろうか。酷い鼻声だったな」
 入鹿も顔だけは見たことのある若い官人が言った。
 どうやら講義は早めに終わってしまったようだった。
 入鹿はちっと舌打ちをしたが、鎌足はまだ外に出てきていないのを確認し、安堵の息を吐いた。
「それにしても、請安先生は鎌足殿に特別に目をかけておられるなあ」
「そりゃあそうさ。鎌足殿の秀才ぶりは学堂の中でもとび抜けているもの」
「でも、旻法師の学堂では鞍作殿が一番の秀才なのだろう?鎌足殿も確か旻法師の学堂には通っていたよな。ということは、やはり鞍作殿の方が上だということか」
「さあ、そうとも限らないのではないか。旻法師は少々蘇我家に阿ったところがおありだから……。まあ、入鹿殿が稀にみる秀才なのは誰もが認めるところだが」
「実際のところ、一体どちらがより優秀なのだろうなあ」
 官人達ののんびりとした会話を聞いて、入鹿は唇を曲げた。
 まったく、勝手なことをほざきおって……陰で何を言われているか、わかったものではないな。
 だが……。やはり周りから見てもあの男の秀才ぶりは一目置くものであるらしい。
 少なくとも、僧旻の学堂一の秀才と謳われる自分と肩を並べるくらいには、その英知は認められているようであった。
 学堂の周辺に人の気配が消えるのを待って、入鹿は入り口に近付いた。
 鎌足は未だ学堂から出てこない。ひょっとすると、何らかの理由で今日は休んでいるのだろうか……
 と、少々落胆した気持ちを抱え戸口に近付くと、僅かに開いた戸の内側から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「大丈夫ですか?知り合いによい薬師がおりますので、今度来る時、風邪薬でも持ってきましょうか」
 鎌足だ。
 低く響くその声に入鹿は俄かに緊張し、入り口付近で立ちつくした。
「いやいや、結構。薬に頼らんでもこれしきの風邪、寝ておれば直る」
「また、そんな……もう若くないのですから、気をつけたほうがいいですよ」
「そんなこと、そなたに言われんでもわかっておるわ」
 応えている鼻声の主はおそらく請安であろう。
 二人は相当打ち解けた仲であるらしく、軽い口調で会話を交わしていた。
『請安先生は鎌足殿に特別に目をかけておられるなあ』
 先程の官人の声が耳の奥に蘇る。
 なるほど。確かに随分と目をかけてはいるようだな……。
 戸口で息を殺しながら、入鹿は二人の会話に聞き入っていた。
「それでは、どうぞゆるりと休まれて下さい。また後日」
「ああ、またな。それまでに直しておくよ。また、そなたに皮肉を言われてはかなわんからな」
 そう言い残すと、請安らしき人物はごほごほと咳き込みつつ、奥へと消えていったようだった。
 おそらく学堂の裏に住居があるのだろう。
 ぼんやりとそう思った瞬間、がた、と人が立ち上がる音が戸の内側から聞こえた。

 戸を開けて出てきた鎌足は入鹿の顔を見て、一瞬目を瞠った。
 だが、すぐに平静を取り戻し、黙って拝礼した。
「どうなされたのです。入鹿殿がこのようなところのお越しとは」
 顔を上げると、鎌足は入鹿に鋭い目を向けてきた。
 その黒い瞳に視線を合わせると、ほんの少しだが見上げるような体勢になってしまい、入鹿は内心むっとした気持ちになった。
 こうして面として向かい合ったのは初めてだが、よもや鎌足が自分より背が高いとは思っていなかった。
 遠くから見ていても、割と上背はあるなと思ってはいたのだが……。
 何だか気に食わない。
 とはいえ、普段から武芸の鍛錬も怠らず身体も鍛えているので、体格ははるかに自分の方が立派だ。
 それでも、この男に見下ろされるのは、正直いい気持ちがしなかった。
 小癪な男め、と内心悪態をつきながら、入鹿はつくり笑いをその頬に浮かべた。
「たまには請安殿の講義も聞いてみようかと思ってな。だが、残念ながら今日の講義は既に終わってしまったようだな」
「ええ。いつもならもう半時ほどは講義をなさっておいでなのですが、あいにく請安先生は風邪を引き込んでおられまして……。大事を取って今日は早めに終わらせたようです」
「左様か」
 それは残念、と口先だけで嘯くと入鹿は鎌足をじっと見つめた。
「最近、旻法師の学堂で顔を見ないと思っていたら、そなたもこちらの学堂に通っていたのだな。もう、旻法師の学堂には来ぬつもりか?」
「いいえ、そのようなことは。また、都合をつけて参りたいとは思っております」
「そうか、それならばよい。そなたのような優秀な生徒が来ぬと、法師とて張り合いがないだろうからな」
 入鹿は笑みを頬に浮かべて言った。
「ところで……」
 笑みを絶やさぬまま、入鹿はさり気なく切り出した。
 鎌足はそんな入鹿の顔を冷静な様子で見つめていた。
「そなた、唐の兵法書、六韜に詳しいらしいな」
「詳しいかどうかはわかりませんが……はい、愛読はしております」
「全六巻六十章、全て暗記しているという噂を聞くが、それは誠か?」
 入鹿が言った瞬間、鎌足の瞳の中に強い光が揺らめいた。
 自分の投げた問いに対し、予想通り警戒を強める反応を見せた鎌足に、入鹿は内心にやりと笑った。
「竜韜の」
 鎌足が言葉を返す前に先手を打って口を開く。
 そんな入鹿の顔を鎌田はただ黙って見つめていた。
「最初のくだりはいかようであったかな?昔、読んだのだが忘れてしまった」
「……」
「教えて頂けるか、鎌足殿」
 先日、従者から情報をもらってからというもの、書庫に置いてあった六韜を何度も何度も読み返した。
 全て暗記したとまではいかないものの、各章の出だしくらいは空で言えるようになった。だから、鎌足が質問に対して誤った場合は、すぐに指摘できる。
 鎌足が六韜を愛読していて、全巻全てを暗誦できるという噂は学堂に通う者の間で有名だが……それは誠か否か。
 そして、自分の質問に対し、鎌足がどんな態度で応えるのか……。それをじっくりとこの目で見てやろうではないか、と入鹿は鋭いまなざしを目の前の男に向けた。
「第十八章、王翼」
 ややあって、鎌足がゆっくりと口を開いた。
「武王、太公に問うて曰く『王者、師を帥いるに、必ず股肱羽翼有りて、以って威神を成す。之を為すこと奈何』」
 さすがだ。
 すらすらと答えた鎌足に、しかし、入鹿も余裕のある表情で応えた。
 まだまだ、このくらいは序の口だ。鎌足が難なく答えるであろうことなど、入鹿は計算済みだった。
「まだ続けますか?」
「いや、結構。さすがだな。噂は本当だったようだ」
 にっこり笑って入鹿は続けた。
「それでは豹巻、第四十七章の始まりは?」
 入鹿は一瞬たりともその表情を見逃すまいと、鎌足の双眸を見つめた。
 だが、その冷たい色の瞳には期待したような動揺の色は全く浮かんではこなかった。
 かといって、鎌足はすぐに口を開こうとせず、押し黙ったままである。
 痛いくらいの沈黙が暫くの間、辺りを包んだ。
 やがて、鎌足は一度瞼を深く閉じると、ゆっくりとそれを開いた。
「忘れました」
 淡々としたその声音を聞いた瞬間、入鹿の方が動揺しそうになった。
 信じられない。まさか……まさか、こんなところで躓くとは。
 予想外だ。期待外れも甚だしい……。
 それとも、あの噂は偽りであったのか?
 驚きのあまり言葉を返せずにいる入鹿に対し、鎌足は更に言った。
「お教え頂けますか?入鹿殿」
「え……?」
「入鹿殿ならご存知でしょう。それとも、こちらもお忘れになりましたか?」
 黒く冷たい瞳が、まるで試すかのようにじっと見つめてくる。
 問いかけに答えられなかったにも係わらず、冷静な様子で切り返してくる鎌足に、入鹿は思わずむ、と唇を曲げた。
「武王、太公に問うて曰く『兵を引きて深く諸侯の地に入り、高山磐石に遇い、其の上は亭々として草木あるなく、四面に敵を受け、吾が三軍恐懼し、士卒迷惑す。吾以て守らば則ち固く、以て戦わば則ち勝たんと欲す。之を為すこと奈何』」
「お見事です。さすがは入鹿殿」
 内心苛立ちを覚えつつも答えた入鹿に対し、鎌足は微かに口の端を上げた。
 余裕に満ちた表情と態度で。
 ……おかしい。
 一体、何故このような事態になったのだ。
 自分がこの男を試すつもりであったのに、いつの間にか立場が逆転しているではないか。
 この男、一体何を考えているのだ!?
「では」
 焦れる入鹿を尻目に、鎌足はよく通る低い声で言った。
「虎巻、第三十九、絶道は?」
 そう言うと、鎌足は微かに笑った。

『言ってみろ、入鹿。お前の考えなぞ、とっくに読めているぞ。どうせ、この数日で必死に六韜を暗記してきたのだろう?吾のことを試すために』

 鎌足の冷たい笑みは無言のまま、入鹿にそう告げていた。
 そんな鎌足の表情を目の当たりにして、かっと頭に血が昇る。
 入鹿はぶるぶると震える両の拳を必死に握り締めた。
「お教え頂けますか、入鹿殿」
「……」
「絶道の始まりは?」
 挑発めいた口調に思わず目の前の男を殴り倒したい衝動に駆られる。
 小癪な……この成り上がり者め!
 所詮は田舎者の山猿のくせに図に乗りおって。
 入鹿は唇を引き結び、鎌足を睨みつけた。
「武王、太公に問うて曰く、『兵を引きて深く諸侯の地に入り、敵と相守りて、敵人、我が糧道を絶ち、又我が前後を越えんに、吾、戦わんと欲すれば則ち勝つべからず。守らんと欲すれば、則ち久しゅうすべからず。之を為すこと奈何』」
「素晴らしい」
 見事に答えた入鹿を見下ろし、鎌足は言った。
「本当によく勉強なさっておいでですね。吾も倣わねばなりません」
「……!」
 全く心にもないだろうことを言ってのける鎌足に拳の震えが酷くなる。
 入鹿は奥歯を噛み締めて、己の中で湧き起こる激しい衝動に耐えた。
 そんな入鹿の胸中を読んだかのように、鎌足は静かに拝礼した。
「それでは、吾はこれで。失礼します、入鹿殿」
「……」
 特に慌てた様子もなく、涼しい顔で去っていく男の背に、掛ける言葉はさすがになかった。
 それよりも、自分の中に満ち満ちているどす黒い感情を抑えるのに、入鹿は必死だった。
 何と不敵で生意気な、食えない男か。
 おそらくは答えを全てわかった上で、自分に問いを投げかけてきたに違いない。
 こちらの策を逆手に取って……。
 腹立たしいことこの上ない。あんな成り上がり者にいいように試されるなぞ、いくらなんでも自尊心が許さない。
 小憎らしい……。
 いっそ殺してやりたいほどだ。
「憶えておれよ」
 鎌足。
 今日受けた屈辱、いつか倍にして返してやる。いつか……必ず。
 入鹿は怒気を孕んだ強い瞳で、段々と小さくなる鎌足の背中を瞬きもせず見つめていた。



                <終>


2007年の誕生日プレゼントにいただきました。
晶様、有り難うございました!

晶様の素敵サイトはこちら