「初嵐」
 


            初秋。未だ夏の気配の残る野辺に、一人の皇子の姿があった。
            黒鹿毛の愛馬に跨った凛々しい皇子は、後方から遅れてやってきた同じく年若い皇子に声
           を掛けた。
           「草壁」
            見るからに快活そうな皇子の声は、高く、強く野に響いた。
           「大津、悪い……少し遅れてしまった」
           「いいや、構わないさ。それに、ほんの少し遅れた程度じゃないか」
            大津と呼ばれたその皇子はにっこりと愛嬌のある笑みを頬に浮かべた。
 
            大津と草壁は父を同じくし、母同士が実の姉妹であるという、繋がりの濃い異母兄弟であ
           った。
            父は現天皇。壬申の乱で勝利を治め、帝位に即いた大海人皇子である。
            大津と草壁は同年の生まれであったが、草壁の方が僅か数ヶ月前に生まれたということで、
           一応は兄皇子ということになる。
            だが、幼い頃から双子のようにして育ち、共に成長した二人にとって、どちらが兄でどち
           らが弟というような上下関係めいたものは、意識の中にはなかった。
            寧ろ、明朗活発で文武に長けた大津の方が、ともすれば兄のように草壁に接することもあ
           った。
            草壁は繊細で優しく、病弱な性質であった。決して才気に乏しいというわけではないのだ
           が、万事に控え目な性格で、大津から見ればつい手を貸してやりたくなるような、放ってお
           けない存在の兄皇子だった。
 
            心優しく、繊細で、奥ゆかしい。
            そんな兄皇子のことが、大津はとても好きだったが、反面、歯がゆさのようなものを感じ
           る時もあった。
            現在、草壁は皇太子という地位にある。
            草壁の母である鵜野讃良皇女は皇后である。その長子にして一人息子でもある草壁が皇
           太子の地位に即くのは自然なことであるが、草壁はその地位に引け目のようなものを感じて
           いるように見受けられる時があった。
            特に自分に対して……。どこか遠慮しているような雰囲気を言葉や態度の端々に感じるこ
           とがあった。
 
            幼少の頃より才気煥発であった大津は父からも祖父である先帝からも愛され、また期待を
           掛けられて育った。
            大津の母、大田皇女は若くして亡くなったが、先帝の皇女という貴い血筋であった。
            存命であれば皇后の地位に即いていただろうと思われる。そうなれば、皇太子の地位にあ
           ったのは大津皇子の方であったろうに、と囁く者も少なくなかった。
            大人しく、病弱な草壁より、快活で聡明な大津の方が次期天皇に相応しい。
            そんな密やかな声が朝堂内のそこかしこに漂っている。
            大津にしてみれば、勝手なことを言い散らしてくれるな、誰がいつ天位に即きたいと言っ
           たのだ、と半ば呆れたような気持ちでいたが、草壁は大いに世間の評を気に病んでいるふう
           だった。
 
            繊細な草壁が世間の目を気にする気持ちは分かる。
            それに誰かと比較され、ましてや劣っているなどと言われるのは、確かに嫌なものだ。気
           に病む気持ちもわからなくはない。
            だが……。
            草壁は既に立太子した身なのだ。
            世間がどう噂しようと、父は草壁を次期天皇として選んだのだ。
            もっと自分に自信を持って、堂々としていればいいものを……何かにつけ、どこか自分に
           遠慮している様子を見るたびに、大津は軽い苛立ちのようなものを覚えていた。
 
           「ああ、気持ちがいいなあ」
            それでも……。
           「遠乗りなんて、久しぶりだ。忙しいとつい外出するのが億劫になってしまいがちだけど、
           こうして来てみるといいものだね」
            深呼吸しつつ、柔らかな笑みを浮かべる。
            そんな、のびのびとした兄皇子の表情を見ていると、小さな苛立ちなぞ、忘れてしまう。
            やはり、吾は草壁のことが好きだ……。
            少し大人しすぎるところはあるが、素直で、純粋で……一緒にいると心が安らぐ。
            大津は草壁の明るい表情を見つめ、胸が温かく解けていくような感覚を覚えた。
 
           「それにしても」
            秋草の香る野を歩きながら、大津は言った。
           「随分、馬術が上達したな。殆ど遅れずについてきたから驚いたよ」
            正妃である山辺皇女の手土産にと、秋の花を手折りつつ、道を進む。
            同じく花を手折っていた草壁が笑顔で応えた。
           「最近、馬術も史に教えてもらってるんだ」
            草壁は明るい笑みを零したが、その一言に、大津の表情から笑みは消えた。
           「史って……中臣の嫡男の?」
           「そうだよ。前にも話しただろう?最近、相談役として話を聞いてもらったりもしてるんだ」
            草壁は嬉々とした様子で話す。
            だが、大津は反比例するかのように、苦い表情を浮かべていた。
           「史って若いのに怜悧で博識で、本当に頼もしいんだ。しかも、武術にも優れてるんだよ。
           あんなに細いのに、凄い遣い手なんだ。槍や弓の腕もなかなかだし」
           「……」
           「馬術なんて、もう惚れ惚れするほどなんだよ。どんな馬でも簡単に乗りこなしちゃうんだ。
           亡くなった内大臣も馬術は上手だったって聞いたけど、やっぱり血筋なのかなあ……。本当
           に見せてあげたいくらいの、鮮やかな手綱さばきだよ」
            大津の憮然とした様子にも気付かず、草壁は夢中で話している。
            その瞳は明るく輝いていた。
           「教え方も上手くてさ。甘すぎず、強すぎず……ああいうのを飴と鞭って言うのかな。人を
           その気にさせるのが上手いけど、要所要所でちゃんと注意もくれるんだ。おかげで弓も馬も
           随分と上達したよ」
           「ふーん、良かったじゃないか。いい先生が見つかって」
           「うん」
            大津はちょっとした嫌味のつもりで言ったのだが、まったくもって通じなかったらしく、
           草壁は無邪気に頷いた。
            素直に頷く兄の姿を見て、大津はむっと唇を曲げた。
 
            中臣史は先帝の腹心であった中臣鎌足の子息であり、中臣家の嫡男である。
            女人と見紛うほどの美麗な男子で、宮中の女人達にも人気が高かった。また、才智の方も
           非常に高く、大舎人の中でも抜きん出た存在であるという。
            そんな史が草壁の側に仕えるようになったのは、一年ほど前からである。史の才を見出し
           た鵜野讃良皇后の口添えがあって、仕えることになったと聞いた。
            初めの頃こそ草壁は、無位無冠の史をあまり信用していないようだったが、今ではすっか
           り気を許し、側近くに仕えさせているようである。
            二言目には史、史と煩いほどの気に入りぶりだ。
            だが、草壁の口から史の話を聞くにつけ、大津は何となく面白くない気持ちを抱いていた。
 
            史の姿は宮中で何度か見かけたことがある。
            確かに噂になるだけあって、史はなかなか華のある美男子だった。
            浮名も随分流しているようで、あちらこちらで噂を聞く。
            花も実もある怜悧な男。しかも二十六とまだ若い。
            齢も近いし、草壁にとっては頼もしい兄のような存在なのだろう……。
            だが、あの男は何かにつけ如才なく、隙がなさすぎる。
            その隙のなさが大津には得体の知れない不気味な存在に映る時があった。
            しかも、史は名うての女たらしだ。人に取り入り、誑し込むことなぞ、お手のものだろう。
            史が草壁のことをどう思っているのかはわからないが、野心があるのなら非常に危険だ。
            純真な草壁を上手くそそのかし、操るくらいのこと、あの男ならやりかねない。
            大津にそんな危惧を抱かせるほど、史の才智、そして如才のなさは際立っていた。
 
            油断ならない男だ、と大津は史の美貌を脳裏に描いた。
            言うべきかどうか、一瞬逡巡したが、大津は思い切って口を開いた。
           「あんまり信用しすぎるなよ、あの男のこと」
           「え?」
            草壁が歩みを止め、大津を振り返る。
           「あの男って……史のことか?」
           「ああ、そうだよ」
            大津が硬い声で答える。
            草壁は不思議そうに目を見開いた。
           「何で……」
           「何故だって?決まってるじゃないか。中臣家は壬申の戦の際、近江朝側につき中心となっ
           て戦った一族だ。一族の統率者だった中臣金は当時の右大臣だぞ。その金も戦後、処刑さ
           れ……中臣は今や没落豪族だ。そんな落ちぶれた家の嫡子が一族の再起を掛けて、讃良皇
           后に取り入ったとしても、何の不思議もないだろう」
            おっとりとした草壁も大津の強い口調に、さすがに表情を強張らせた。
            大津はそんな草壁を見つめながら、更に言葉を紡いだ。
           「お前は随分、あの男のことを信頼しているようだが、あの男の方は真に忠心を抱いている
           のかどうか、疑問だな。口先だけでお前に取り入って、立身を果たそうっていう魂胆がある
           んじゃないか」
           「大津」
            言いつのる大津を草壁は鋭い瞳で見据えた。
            見るとその頬は強張り、怒りのせいか顔色も青白く変わっていた。
           「それはさすがに言いすぎだ。史に失礼だろう」
           「失礼?は……これは驚いたな。お前は皇太子だろう。なのに、臣下であるあの男に敬意ま
           で払っているのか?信頼するのは結構だけど、しっかり手綱を取っておかないと、乗り手が
           入れ替わる事態に陥るぞ。せいぜい操られないよう、注意するんだな」
           「なっ……何てこと言うんだ!いくらお前でも怒るぞ、大津」
            草壁は顔を朱くさせ、柳眉を逆立てた。
            今まで目にしたことがないほど、怒りを露にする草壁を前にして、大津はようやく冷静さ
           を取り戻してきた。
            まずい、言い過ぎた……と後悔した。
            草壁のためを思って忠告するつもりが、つい勢いづいてしまい、余計なことまで言ってし
           まった。
            すぐ熱くなるのは悪い癖だと、普段から山辺にもよく諭されているのに……。
           「大津は」
            冷静になり始めた大津とは裏腹に、草壁は怒りの真っ只中にいるようだった。
            冷たく、きついまなざしで大津を睨み付けた。
           「史のこと、何にも知らないだろ。何も知らない大津に、そこまで侮辱する資格は絶対にな
           いよ」
            草壁の冷たい口調に、大津はひくっと眉を奮わせた。
            ……確かに。自分はあの男のことを殆ど何も知りはしない。
            見た目と世間の噂だけで判断しているのだ。
            そんな自分に史を批判する資格なぞない。草壁の言は正しい。
            だが……。
            草壁の突き放すような冷たい物言いは、大津の気持ちを動揺させた。
            いけない、怒ってはいけない。冷静にならなければ……。
            そう思いつつも、大津は眉を上げ、草壁を強い瞳で見返した。
           「知りたくもないね。あんな得体の知れない、見目だけの男のことなんか」
 
            大津の声に、草壁はただ呆然と目を瞠っていた。
            痛いほどの沈黙が場を支配する。
            やがて……草壁が静かに目を伏せた。見ると、その手はきつく握り締められていて、草壁
           が烈しい怒りを押し殺しているのが、よく伝わってきた。
           「そうか。なら、それでいいじゃないか……もう、吾のことも放っておいてくれ」
            そう言うと、草壁は大津の脇をすり抜け、馬を繋いだ方向へと戻っていった。
            やがて草壁は連れてきた舎人と共に、元来た道を帰っていった。
            大津は愕然とした思いで、遠くなる兄皇子の背中を見送っていた。
 
 
            残った舎人達と共に明日香に戻ると、夕刻近くになっていた。
            日中は晴れていたのに、夕に近付くにつれ、天候は崩れ、大津が山辺皇女の屋形に着いた
           頃には雨が降り始めていた。
            雨と共に強い風の音がする。
            部屋で酒を飲み、山辺を待ちながら、大津は風の音に耳を澄ました。
           「秋の初めの風だな」
           「これから少しずつ、秋めいてくるのでしょうね」
            酒を注ぎつつ、侍女が応える。
            秋の初めに吹く強い風のことを初嵐と言うのだという。
            そのことを遠き昔に教えてくれたのは、母だったか姉だったか……。
            そんなことをぼんやり考えているうちに、帳が上がり、美しく装った山辺皇女が入室して
           きた。
 
            美しい黒髪を艶やかに結い上げ、薄い化粧を施した山辺は本当に綺麗だった。
            山辺はくっきりとした華やかな目鼻立ちの女人で、化粧なぞしなくとも充分に美しかった
           が、大津が来る時は必ず、薄い化粧を施していた。
           「大津」
            にっこりと微笑んだその笑みの美しさ。
            明るく素直なその気性を表すかのような清々しい笑顔である。
            山辺こそ明日香一の美人だ、と大津は見るたびに、妻に惚れ直す思いでいた。
           「どうしたの、こんなに早くにおいでになるなんて。今宵は草壁様のお酒に付き合う予定で
           はなかった?」
            侍女から酒壺を受け取りつつ、山辺は大津の隣に座った。
            それを潮に、侍女達は部屋から下がっていった。
           「ああ……それが草壁の奴、阿閇皇女に花を届けたいって言うんで、取り止めになったんだ」
           「まあ、そうなの。それは残念ね」
           「いや、ちょうど良かったよ。吾も山辺に花を渡したかったし」
            侍女が部屋の隅に飾った花を見遣りながら、大津は山辺の肩をそっと抱き締めた。
           「それに……会いたかったから」
            華奢な肩を抱き締めると、ふわりと良い香りが漂った。
            初夏の花を思わせる、爽やかな香り。山辺の香りだ……。
            甘い香りに包まれながら、大津は山辺の肩口にそっと顔を埋めた。
 
            今日は。
            本当に酷いことを言ってしまった……。
            草壁を深く傷つけてしまった。
            あんなに烈しく言い争ったのは、いつぶりだろう。
            童子の頃には他愛もない喧嘩をよくしたものだが、成人してからは、もしかしたら初めて
           の喧嘩かもしれない。
            ……今日の件は、一方的に吾が悪い。心底、後悔している。
            本当につまらないことで熱くなってしまったと、大津は小さく息を吐いた。
 
           「草壁様と何かあった?」
            ふいに山辺が言った。
            どきりとして大津が顔を上げると、耳もとで山辺の声が響いた。
           「喧嘩でもしたの?」
            見ると、山辺は柔らかな笑みをその頬に湛えていた。
            山辺の美しい瞳を見つめながら、大津はふ、と息を吐いた。
           「まったく……」
            艶やかな黒髪を梳きつつ、苦い笑みを零す。
           「黙っておこうと思っていたのに。何でもお見通しなんだな、山辺は」
           「あら。大津がわかりやすすぎるのよ。珍しく溜息なんか吐いたりして……。これは何かあ
           ったなって、誰だってそう思うわ」
           「はいはい……。もうお前には敵わないよ」
            降参だ、と言いながら、また肩口に顔を埋める。
            そんな大津の背を優しく撫でつつ、山辺はくすくすと笑っていた。
 
            大津はしばらくそうして山辺の肩に凭れていたが、やがて静かに切り出した。
           「最近、草壁の側近になった奴がいるんだけどさ」
            ゆるゆると話し始める夫の言葉を、山辺は黙って聞いていた。
           「確かに怜悧で有能で凄い奴みたいなんだけど……ちょっと隙がなさすぎるというか、不気
           味に感じる時があるんだ。でも、草壁はそいつに信を置いてるみたいで……」
            大津は山辺に喧嘩の全容を話して聞かせた。
            つまらない喧嘩の話を愛する女に聞かせるなぞ、みっともないことこの上ないなと感じた
           が、山辺の柔らかな匂いに包まれていると、つい話さずにいられなかった。
            山辺は大津にとってこの上なく愛しい女人であると共に、どこか母を感じさせる存在でも
           あった。
            幼い頃に母と死に別れ、少年期に姉とも引き離された大津にとって、山辺の持つ母性は限
           りなく優しく、温かく、そして慈しみ深いものに感じられた。
            自分の全てを受け入れ、包み込んでくれる女人。山辺は大津にとって本当にかけがえのな
           い存在だった。
 
            山辺は黙って大津の話に耳を傾けていた。
            だが、大津の声が途切れると、ふいに背を撫でる手を止め、口を開いた。
           「その方って……中臣史殿のこと?」
           「知っているのか?」
            大津は驚いて妻の顔を見つめた。
           「先日、宮中の伯母上の元から使いが来て……その時の侍女とうちの侍女が噂話をしていた
           の」
            なるほど、宮中に仕える侍女なら、史のことも知っていよう。
            何しろ、あの美貌だ。女人達の噂にならぬはずがないと、大津は納得したように頷いた。
           「史は男から見ても惚れ惚れするほどの美丈夫だよ。地味な感じだった父親とは似ても似つ
           かない。女人達が噂するはずだな」
           「でも、才智の方は父親譲りで、大変な秀才だとか。しかも、年の割りには随分と落ち着い
           た、冷静沈着な方という噂ね」
            山辺が落ち着いた声で応える。
           「聞くところによると、史殿は幼少期より山科の田辺家に預けられ、親族とも離されて育っ
           たとか。英知を養うためとはいえ、幼い頃から他家に預けられ、苦労されたことでしょうね」
           「え……」
            山辺の言葉に、大津は声を失った。
            そんな話はついぞ知らなかった……。
            没落したとはいえ、中臣家は中央豪族。史はその嫡男だ。
            それなり境遇で、何不自由なく生い育ったものとばかり思っていた。
           「幼少期より田辺家に……」
            田辺家と言えば学識豊かな家柄。特に一族の長である田辺史大隅の博識さは有名だ。
            故内大臣は嫡男である史の英知を養うために、幼少期より他家に預け、英才教育を施した
           のか……。
            だが、史にとってはさぞや辛い幼少期だったことだろう。
 
           『大津は史のこと、何にも知らないだろ』
 
            ふいに耳に甦ってきた草壁の声に、大津は軽く唇を噛んだ。
            なるほど……草壁は史の育ってきた辛い環境を知っていたのだ。だから余計に自分の言葉
           に反応し、あんなにも烈しく怒りをぶつけてきたのだろう。
           「幼少期より他家に預けられていては、落ち着きや如才のなさなども、自然と身につくかも
           しれないな」
           「ええ、誰に甘えることもできず、隙のないような人間に育ってしまうのかも……。私はそ
           の史殿という方に会ったことがないので、はっきりとしたことはわかりませんが」
            山辺は淡い笑みを零した。
 
           「ああ、もう!」
            大津は大きく息を吐くと、後髪を掻いた。
           「何も知らなかったとはいえ、つい熱くなって、余計なことを言ってしまったものだ」
           「そうね。今回の件は大津が悪いわね。真っ直ぐなのはいいところだけど、すぐ感情的にな
           るのは、大津の悪い癖よ」
           「わかってる……ほんとにもう子供っぽくて、自分で自分が嫌になるよ」
            そう言うと、大津はまた溜息を吐いた。
            そんな夫の顔を、山辺はじっと見つめていた。
 
           「でも……本当に、それだけ?」
            ふいに山辺が口を開いた。
            大津が顔を上げると、山辺は静かに瞳を揺らめかせた。
           「史殿の如才のなさや隙のなさに、何となく疑念を抱いた。それはわかるけど、ただ、それ
           だけのことで人のことを悪しざまに言うなんて……何だか、大津らしくないわ。本当は他に
           も何か、気に入らない理由があるんじゃないの?」
            山辺は穏やかな声で尋ねた。
            大津は驚いたように妻の顔を見つめていたが、やがて、小さく息を吐いた。
           「本当に……参るな。お前には敵わない」
           「やっぱり。他にも理由があるのね」
           「ああ」
            大津はばつが悪そうに、かりかりと頬を掻いた。
 
            ほんの少し唇を曲げ、大津は言った。
           「つまらないやきもちだよ」
           「やきもち?」
           「だってさ……吾だって草壁には随分、武芸を教えてきたんだぞ?剣も弓も馬も、何だって
           教えてやったのに……。吾が教えてやった時はちっとも上達しなかったんだ。それなのに史
           が教えたらみるみるうちに上達するなんて……そんなの、何だか悔しいじゃないか」
            大津は頬を赤らめ、ちっと舌打ちした。
            山辺は驚いたように目を瞠っていたが、ふと、口の端を緩ませた。
           「それで、やきもちを、ね」
           「ああ、そうだよ。あんまり子供っぽくて、自分でも呆れてる……。山辺も呆れただろ?」
            大津はちらりと山辺に視線を送った。
            すると、山辺は大津を見つめ、
           「ええ、確かに。子供っぽくて呆れてしまうわね」
            くすっと悪戯っぽい笑みを零した。
           「だけど、何だか大津らしい」
            手を伸ばし、ふわりと柔らかな腕で、大津を抱き締める。
            仄かな香りで大津を包み込みながら、山辺はそっと囁いた。
           「大津……。そんな呆れるほど子供っぽいところも、すぐ感情でものを言ってしまうところ
           も、やきもち焼きなところも、何もかも……全部含めて、私はあなたのことが好き。あなた
           のことがいとおしいわ」
            山辺の甘い声は大津の胸にじわりと沁み込んでいった。
            優しい抱擁に心が解けていく。
            自己嫌悪で沈んでいた気持ちも、山辺の言葉で驚くほど安らかになった。
            大津は静かに目を伏せ、山辺の身体を抱き締めた。
 
           「吾の欠点も含めて、愛してくれるのか?」
           「ええ、勿論。それに欠点のない人間なんて、つまらないわ。誰にだって欠点はあるもの」
           「でも、山辺に欠点があるようには、吾には思えないよ」
            大津は山辺の黒髪を指で梳いた。
           「明るく、優しく、素直で……その上、美しい。お前は本当に完璧な女人だ」
            吾にとっては、と大津は胸の内で付け加えた。
            すると、山辺は耳まで真っ赤になり、声を詰まらせた。
           「ま、まあ……そんな。恥しいことを言わないで」
           「何が恥しいんだ。山辺は明日香一の美人だ。それに気立ても良くて、思慮深くて……」
           「やめて、大津。もうそれ以上、言わないで頂戴。いくらなんでも、気恥ずかしいわ」
            山辺は赤い顔のまま、ふるふると首を振った。
           「私なんて、欠点だらけの人間ですのに……」
           「例えば?どんなところが自分の欠点だって、そう思うんだ」
            山辺の頬に手を当て、大津はその目を覗き込んだ。
            灯火の明かりの中、山辺は少し逡巡するように黙していたが、やがて視線を上げ、大津を
           見つめた。
           「例えば……あなたのことを好きすぎて、つい甘やかしずぎるところ、とか」
            真っ赤になって答えた妻のあどけない表情に、大津はぷっと吹き出した。
            いとおしい気持ちが胸に溢れ、思わずその身体をぎゅっと抱き締める。
           「確かに、それは言えてるな」
            大津がそう言うと、山辺が小さく笑う気配がした。
            その気配に、大津もまた微笑を零した。
 
            ふと、山辺の肩越しに、今日、野辺で摘んできた秋の花の姿が映った。
            部屋の片隅に飾られた野の花を見つめ、大津は明日、草壁の元を訪ねようと心に決めた。
            きちんと謝って、仲直りしたい……。
            歯がゆく感じる時もあるが、草壁もまた自分にとって、かけがえのない大切な存在なのだ
           から。
            山辺の柔らかな髪を撫でながら、大津は胸に誓いを立てた。
            強く、烈しい風の音が遠くで響いていたが、二人を包む空気は温かく、優しい気配で満ち
           ていた。
 
 
           <終>


           2008年の誕生日プレゼントにいただきました。
           晶様、有り難うございました!

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