淡雪の誓


 厚い雲に覆われた初春の空を宝女王は見上げていた。
 脇息に凭れながら、ぼんやり天を見つめるその瞳も沈鬱な色を浮かべている。
 宝女王が形の良い唇から吐息を零しかけた瞬間、
「母上」
 廊下から元気の良い足音が響いてきた。
「漢」
「ただいま戻りました、母上」
 漢と呼ばれた童子は母である宝女王の元に駆け寄ると、ぎゅっとその身体に抱き付いた。 宝は口もとに小さな笑みを刻むと、漢王の柔らかな髪を撫でた。

 漢王は宝女王と一年前に他界した高向王との間に生まれた、ただ一人の子息だった。
 若かった夫の突然の死に宝は打ちひしがれていたが、やがて女王の元に新たな縁談話が持ち込まれた。
 相手は押坂彦人大兄皇子の子息で、次期大王候補でもある田村王。そして、縁談を勧めたのは母方の縁に繋がる蘇我家の長・蘇我蝦夷であった。
 夫の死から一年近く経っても、宝女王は未だ心の整理がついていない状態であった。宝は他界した夫のことを愛し続けていた。
 だが、蝦夷は政界きっての実力者。
 したたかな権力者に抗う術なぞ、宝は持ち合わせていなかった。
 鬱々とした気持ちのまま、田村王との婚姻を承諾したのはつい一月前のことである。

 漢王は母の膝の上に乗り、にっこり微笑んだ。
「母上の身体、とても温かい」
「ずっと部屋にいましたからね。漢、そなたの身体は冷たいわね。庭で遊んでいたの?」
「はい。だけど、あまりに寒いので戻ってきてしまいました。雨も降り出しそうだったし」
 漢王は、はきはきと快活に答えた。
 幼い頃から漢王は明るく悧発であった。
 父である高向王も明朗闊達な性格だった。この子はきっと、父親に似たのだ……。
 亡き夫・高向王の愛しい面影を思い浮かべながら、宝女王は漢王の髪を撫でた。

「母上、元気がありませんね」
 膝の上で髪を撫ぜられていた漢王が宝女王を見上げて言った。
 無垢な瞳に見つめられ、宝は思わずどきりとした。
「そのようなことはありませんよ。母は元気です」
「本当ですか?先程、空を見上げて、ひどく哀しげな表情を浮かべておられたので、気になって……」
 漢王はそう言うと、しゅんと俯いた。
「また父上のことを思い出して、一人で哀しんでおられるのかと思って」
「まあ……漢」
 幼いながら自分を思いやる漢王のいじらしさに感動し、宝女王はその小さな身体をひしと抱き締めた。
「母上、どうかそのように哀しまないで。父上はお亡くなりになったけど、母上には漢がおります」
「ええ……ええ、そうね。漢」
「ずっと母上の傍におります」
 明るくて大らかで、優しくて。
 やはりこの子は父親によく似ている……。
『宝』
 宝女王は漢王の身体を抱き締めながら、亡き夫の声を思い出していた。
『宝、吾はずっとそなたの傍にいるよ』
 甘い誓いの言葉を何度も耳に囁いてくれた、あの人。温かな愛で私を包み込んでくれた人。

 あの誓いは、あの言葉は、一体何だったの?
 どうして……私を残して、こんなにも早く先立ってしまったの、あなた。
 あなた……。

「母上?」
 ふと漢王が顔を上げると、宝女王は項垂れていた。
 ほっそりとした肩が小刻みに震えている。
 漢王は眉を曇らせると、母の手を取った。
「母上、泣かないで」
「ごめんなさい……漢」
「母上に哀しい顔は似合わないよ」
 元気を出して、と漢王は宝女王の手を握り締めた。
 漢王の父親譲りの包容力と優しさに、宝は声もなく、ただ涙を滲ませた。

 夕刻になり、小雨が降り始めた頃、田村王の来訪があった。
 田村王は律儀な性格で婚姻後も三日と空けず、宝の元を訪ねていた。
 夕餉はいつも漢王と三人で摂る。
 初めのうちは二人きりで過ごしていたのだが、そのうち気を遣ってか、田村王が「漢王も共に」と申し出てくれたのだった。
 それは正直、宝にとって嬉しい申し出だった。
 再婚したことで、まだ幼い漢王に寂しい思いはなるべくさせたくなかった。
 田村王は子供好きなようで、漢王にもよく話し掛けてくれる。漢王も多少戸惑いは見せているものの、優しげな雰囲気の王のことを嫌ってはいないようだった。
 田村王は決して悪い方ではない。穏やかで優しい、良い方なのだろうと思う。
 だが……。
 宝は未だに田村王の顔をまっすぐ見つめたことがなかった。

 口づけをしても、肌を合わせても、その瞳を見つめられない。
 こんなにも、まだ……高向王のことを愛しているというのに。
 どうして他の男子を受け容れられるだろう。
 まっすぐ向き合うことができるというのだろうか……。

 夕餉の一時は過ぎ、やがて私室で田村王と二人きりになった。
 侍女達は酒の用意を済ませると、心得たように下がっていった。
 しん、と静寂が部屋中に拡がる。
「召し上がられますか?」
「はい」
 田村王が杯を取ったので、宝女王は酒壷を傾けた。
 酒を注ぐ宝の横顔を田村はじっと見つめた。
「漢王はもう眠りについたかな」
「さあ……どうでしょう。寝付きは良いのでもう休んでいると思いますが」
 田村王は酒を口に含んだ。
「漢王は良い子ですね。素直で明るくて……癖のない、やりやすい子だ」
「ありがとう存じます」
「あなたのことが大好きなのでしょうね」
 田村王が小さく笑う。
 一瞬、言葉の意味が分からなくて、宝は目を瞬いた。
「何故、そのように思われるのですか?」
「それは……見ていれば分かりますよ。食事中、吾と話をしている最中でも、漢王の意識は常にあなたの方に向いている。時折、心配そうな表情をしてあなたに視線を送っています。いじらしいことだ。あなたの様子が気になって仕方がないのでしょう」
 田村王はかたり、と杯を床に置いた。

「気に掛かる気持ちは分からなくもありません」
 田村王は静かな声で言った。
「このところ……いえ、結ばれてからずっと、あなたは沈み込んだ暗い表情をなさっている。漢王でなくとも心配になるというものです」
 田村王の言葉に、胸がどくんと鳴った。
 まっすぐなまなざしが自身に向けられているのを感じて、宝女王は思わず身を硬くした。
 ……返す言葉がなかった。
 やはり、田村王も自分の態度に不信感を抱いていたのだ。
 当然だ……。新婚だというのに浮かない顔をして、夫たる人とろくに目も合わさず、曖昧にやり過ごしてきたのだから。
 罪悪感が胸に募り、宝はきつく唇を結んだ。
「あなたは」
 俯いたままの宝女王を見つめ、田村王は切り出した。
「まだ心の整理がついておられないのですね。亡くなられた高向王のことを今もまだ深く愛しておられる。そうではありませんか?」
「……」
「宝殿、どうか顔を上げて、吾を見て下さい」
 田村王は穏やかな声で言った。
 宝はひどく複雑な気持ちで、おずおずと顔を上げた。

 見上げると、そこには穏やかな瞳があった。
 田村王は全体的に大人しく、目立つ風貌ではなかったが、その目は晴れ渡った春の空の如く、優しげに澄んでいた。
 怒りも哀しみもその瞳の中には浮かんではいなかった。
 宝は不思議な気持ちで、暫しの間、王の双眸を見つめていた。

 田村王は宝女王をじっと見つめた。
「高向王が他界されて、一年。仲睦まじく過ごしておられたのですから、気持ちの整理がつかないのは当然です。ですから、どうぞ無理に気持ちを切り替えようとなさらず、ゆっくり傷を癒して下さい。あなたの心の傷が癒えるまで……吾は待ちます」
 田村王のきっぱりとした口調に、宝女王は目を見開いた。
 待つ……?私の心の傷が癒えるまで?
 この方は……一体、何を仰られているのだろう。
 宝は呆然と言葉を失った。
「あなたと在りし日の高向王がお二人でおられるところを何度か目にしました。あなたは高向王の隣であどけない笑みを零しておられた。天真爛漫なあなたの様子を見て、高向王もまた幸せそうな表情をなさっておいでだった……。お二人はとても幸福そうに見えました。そして、同時に高向王を羨ましくも思いました」
 田村王はあたかも情景を思い出すように、遠い目をして言った。
「あなたの笑顔は無邪気な少女のそれのようだった。純真で、朗らかな笑み。きっと本来のあなたはあのような笑みを零される方なのでしょう。今は無理でも……いつか、あのように笑ってほしい。願わくば吾の傍でと、そう思っています」
「え……?」
 田村王の言葉に、宝は驚きの声を上げた。
 王が静かに面を伏せる。
 灯火の明かりの中、田村王の頬に朱が差している様が映し出された。

『ずっと、憧れておりました』
 何も言わずとも、その表情は田村王の心をありありと伝えていた。
 宝は驚きを隠せなかった。
 田村王とは父方の縁で繋がっている。昔から王のことは知っていた。
 だが……今まで特別な目で田村王のことを見たことはなかったし、それは王とて同じだろうと思っていた。
 夫婦となるまで、田村王を一人の男として意識したことはなかった。
 けれど、王は……私のことを見ていてくれたのだ。
 遠くから……。心密かに、ずっと。

 宝女王は再び不思議な心持ちになり、田村王を見つめた。
 まなざしを伏せた田村王の表情には微かな羞恥が滲んでいた。
 その表情は宝の胸に温かな感情をもたらした。
「優しい方……」
 ふと、宝女王は呟いた。
 その声に、田村王が顔を上げる。
「優しい方ね、あなたは」
「宝殿?」
「こんな私のことを待って下さるなんて……」
 宝女王は田村王を見つめると、ふっと口もとを緩めた。
「お人好しね、本当に」

 微笑んだ宝女王を田村王は呆然とした面持ちで見つめていた。
 が、ふいに宝の腕を引き、その身体を抱き締めた。
「吾は」
 田村王の声は微かに震えていた。
「凡庸な男子です。人に誇れるようなものなぞ、何もない。ですが、あなたを想う気持ちだけは、誰にも負けはしません」
 宝女王は王の胸に凭れ、その声を聞いていた。
「あなたが吾を受け容れてくれるなら……生涯、あなたのことを大切にしたい。心からそう思っています」
 田村王は抱擁の腕を解くと、宝を見つめた。
 どこか必死なその表情に、宝は小さく微笑んだ。

 胸の奥で何かが蠢くのを感じた。ほんの微かな、けれど確かに感じる兆し。
 宝は顔を上げ、王に真摯な瞳を向けた。
「お気持ち、嬉しく感じました」
 宝の言葉に田村王が目を見開く。
「ですが、やはり心の整理をつけるには、今しばらく時が掛かりそうです」
「ええ、それは承知しています」
「心の傷が癒えるまで……本当にお待ち下さいますか」
 田村王が宝の言に、僅かに目を見開く。宝はまっすぐに王を見つめた。
 灯火の明かりが静かに揺らめく。
 やがて……。
 仄かな明かりの中、田村王は静かに頷いた。
 宝女王も応じるように一つ頷くと、
「ありがとう存じます」
 ゆったりとその胸に身体を預けた。

 穏やかな静寂が二人を包み込む。
 田村王が宝女王の身体を柔らかく抱き締めた。
 宝は様々な思いを巡らしながら、そっと瞼を伏せた。
 この人を、愛することになりそうな気がする。
 そんな甘やかな予感が胸中に生じていた。
 甘くて……けれど、どこか切ない予感。
 少しずつ、何かが薄らいでいくような……。

 あなた、と宝は瞼の裏に焼きついた愛しい面影に呼びかけた。
 あなたとの日々を、決して忘れません。
 愛しいまなざし、温かな腕、与えてくれた愛の言葉は、ずっとこの胸に。
 けれど。
 どうか、許して……。

 ふと目の奥に熱いものが込み上げる。
 宝女王は溢れた涙をそっと指で拭った。
 温かな胸に凭れ、目を閉じる。
 様々な感情が揺らめいていたが、宝は決意した。
 私を受け容れてくれたこの心優しき人と、向き合って生きていこう。この穏やかな瞳を愛そう……と。
 田村王をまっすぐに見つめ、胸に誓った。

 眦にまた一つ、光の露が浮かぶ。
 美しく透き通ったそれは淡雪のように、温かな胸に解けていた。


<終>



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