汝、結婚せよ(日本戦国時代編) / Copyright 2007 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.


歴史好きならば絶対知っている「政略結婚」という言葉。
別に歴史好きじゃなくても知っているでしょうけれど、とにかく歴史上にはコレが多い。
特に日本は民族的に政略結婚マニアじゃないかと思うくらい、古代から戦前に至るまで政略結婚三昧でございます。
古代では、大王の血筋に自分の一族の血を混ぜ、政権を握ることが大事でした。
その風習は皇室から貴族(豪族)へ、そして武士へと受け継がれていきます。
おかげさまで、私のような家系図マニアには嬉しい限りです(笑)
ちなみに「汝、結婚せよ」は政略結婚で有名なハプスブルク家の名言です。
この言葉の前に「戦争は他の家に任せておけ」とあります。すごい根性だのぅ……

さて、武士の始まりは鎌倉時代…と間違えないで下さいね。平安時代末期ですよ。(え、常識? 間違えていたのは私だけ?)
武士政権は鎌倉時代からで、貴族的社会からの脱却が図られたのもこの頃です。
しかし、政略結婚は続きます。勢力構図が目まぐるしく変わる戦国時代でも同じことです。
これを書いている頃に、大河ドラマ「風林火山」で武田家と今川家は政略結婚によって結びつきました。
武田信玄のお姉ちゃんが今川義元に嫁ぎ、彼女が亡くなった後、義元の娘が信玄の嫡男に嫁ぎます。
ここはあまり詳しく知らないので、この辺で……(勉強しろよ!)

さてさて、「嫁ぐ」という言葉からわかるように、
戦国時代になると完全に「お輿入れ」になります。
昔は基本が婿取り婚だったので、男女共に生まれ育った家を離れるってことはそんなにない。
でも、
戦国時代では結婚が「人質を差し出す」という意味を持って来ます。
何せ「乱暴者の勝ち」みたいな時代。人質を捕っておかないといつ攻めこまれるか、わかったもんじゃないの。
ってなわけで、鎌倉・室町前半までの政略結婚と、戦国〜江戸時代の政略結婚は別物なんですね。


さてさてさて、今回のメインは暴れん坊だらけの戦国時代です。
女性が「嫁ぐ」際には、結構な覚悟が必要でした。
相手方と実家との同盟が崩れたら自分は死ぬかもしれない、という覚悟と共にお輿入れ。
夫に「末永くよろしく」と言いつつ、嫁ぎ先の様子をスパイする、なーんてことが日常茶飯事。
スパイする方もスパイされる方も気が休まることはなかったでは?
一番有名なのは織田市、通称「お市の方」ではないでしょうか。
近江の浅井長政に嫁ぎますが、兄の織田信長が浅井氏を攻めると、娘3人だけを連れて脱出。
夫の長政と舅は討ち死にし、お市が産んだ息子は処刑されました。

お市の方の最期は有名ですね。
再婚相手の柴田勝家が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に攻め込まれ、娘達を逃して、自分は勝家と共に自害。
夫に殉じる賢妻、という美談を生み出しました。
でーすーが、実はコレは戦国時代にはとっても異常です。
「夫に殉じる賢妻」がこの時代の常識なら、なんで浅井長政と共に逝かなかったのか?
別に「愛してた」「愛してなかった」とか、そんな問題じゃありません。
浅井氏から脱出した時、お市には「帰る場所」があったからです。
もちろん、帰る場所は浅井氏の仇敵となった織田氏です。自分の実家だもの。
しかし信長が明智光秀に討たれ、状況は変わりました。信長の嫡男も亡くなり、織田家は跡継ぎ争いに突入します。
まずは織田家重臣の一人、柴田勝家が信長の三男・信勝を推挙します。
この裏にはお市の姿がありました。
実家を守る方法として、彼女は甥に当たる信勝を応援することにしたのです。
更に自分が勝家と再婚することで、信勝と勝家の繋がりを強固にし、他の重臣達に圧力をかけました。

わざわざ市が大きく動いた理由はサルにありました。ご存知、羽柴秀吉です。
秀吉は信長の嫡男の息子・三法師(まだ幼児)を跡継ぎに推薦し、自分が後ろ盾になると宣言したのです。
重臣として織田家を守る意志があった勝家とは異なり、秀吉は天下を横取りしたいという魂胆が見え見えです。
秀吉は農民出身であり、義理を無視して権力を取ることを躊躇しなかったわけです。
そんなことはさせてたまるか!と、お市は勝家に近付き、彼を信勝の、引いては織田家の後ろ盾としました。
お市は自ら織田家を背負って立ち、同時に帰る場所を失くしたのです。背水の陣を引いたようなものです。
ですが、結果は秀吉の勝利。
前田利家など他の重臣を味方に付けられなかった勝家は、信勝と共に越前の領地に追い詰められます。
お市も「家」としての織田家はこれまで、と覚悟し、
織田家の実質的頭領として自害の道を選びます
なんとなく、飛鳥時代の山辺皇女と状況が似ている気がします。

ところが、彼女の娘達は逃されました。父の長政はとうの昔に死に、母の実家もない。
帰る所がないのにも関わらず、なぜ三姉妹は放り出されたのでしょうか。
多分答えは、お市と違ってまだ若かったから。
ある意味、
戦国時代の女にとって、家とは自分自身に流れる血そのものです。
権力者の子を産むことで、その権力を奪い取ることは可能。コレばっかりは男にはできない芸当ですね。
長女の茶々(淀殿)は秀吉を虜にし、二人の息子を産みます。
一人目は早世し、二人目が後の豊臣秀頼。権力が徳川に移らなければ、天下人になっていたでしょう。
次女の初は浅井家の親戚筋である京極氏に嫁ぎました。
京極氏の領地も滋賀県。豊臣vs徳川の戦いで、彼女は仲介役として大活躍します。
三女は江(ごう)。秀吉の命令であちこちに嫁がされますが、最後は徳川秀忠の正妻に。
徳川三代将軍の家光をはじめ、たくさんの子を産みます。末娘は天皇の母になりました。

茶々は秀吉の死後、大阪夏の陣で敗戦。息子の秀頼と共に自害します。
この時、秀頼が娶っていた千姫(江と秀忠の娘なので、茶々にとっては姪)を、茶々はちゃんと徳川方に返しています。
娶った嫁に実家がある内は帰してやる。コレはお約束だったんですね。
江戸時代が進むと、人質としての政略結婚はあまり意味がなくなっていきますが
形態としては婿取り婚が復活することはなく、「嫁ぐ」というシステムが一般的でした。


戦国時代以降の政略結婚はその前と違うのよ、というわけなんですが、共通項もございます。
古代史における最大の戦争と言えば、壬申の乱。
飛鳥時代末期、葛城皇子(天智天皇)の後継をめぐって、
大友皇子(葛城の息子)と大海人皇子(葛城の実弟)が戦いを繰り広げました。
これもまた現在の滋賀県で戦いがありまして……近江ってある意味呪われた地だな。
結果、勝ったのは大海人。大友は昔の古墳の上に隠れましたが、そこで自害しています。
で、大友の家族はどうなったかと言うと、どうにもなっていません。
正妻の十市皇女(とおちのひめみこ)と息子・葛野王(かどのおおきみ)は新政権が移った飛鳥で暮らしたようです。
十市さんは大海人の長女なので、実家に帰ったと見ても間違いではないでしょう。

もっとも、戦争ではなく一方的に駆逐される場合は、一家丸ごと滅ぼされました。
山背大兄王(厩戸皇子の嫡男)一家、蘇我倉山田石川麻呂一家、藤原仲麻呂一家等々。
頭領が謀反の罪をかけられれば、その家族も罪を免れないという理不尽な考え方ですが、
妻子を残してしまうと、敵討ちや逆恨みを恐れなければならず、それが嫌だったのでしょう。
蘇我倉山田石川麻呂の場合、完全に「無罪」でしたしね。後に生き残った娘陣による逆襲がございます。
また、「血筋」そのものを消してしまう目的で、一家を殲滅した例もあります。
奈良時代、左大臣の長屋王が謀反の罪をかけられた際、
正妃の吉備内親王と成人した息子も、共に殺されています。でも、他の妻達は無傷です。
この場合、
残しておくとマズイのは皇位継承権がある吉備であり、その血を引いた息子達の存在でした。

時代変われば、結婚も変わる。今の常識、昔の非常識ってことですね。
政略結婚はなかなか奥が深いようです。
(※ 古代史について色々書いていますが、詳しくは古代史ページを御覧下さい。)

参考:杉本苑子,1988,『月宮の人』朝日新聞社

(汝、結婚せよ 日本戦国時代編 終わり) 2007.9.28
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