2008年お年玉企画A 藤原宇合 / Copyright (c) 2008−2012 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.

リクエストして下さった方 : さくら様

心、自由自在 藤原宇合(ふじわらのうまかい)

お次のリクエストは藤原宇合氏です。(「馬養」とも書きます)
個人的に気になるのは「なぜ死んだのか?」ですが、
今回はまず宇合の性格をリクエストしていただいたので、こちらを中心に。
まずはいつも通りのお約束。家系図と年表です。

【家系図】この色は724年首皇子即位時に鬼籍に入っている人)
   ___________
  |         |     |    中臣(藤原)鎌足
倉山田石川麻呂 赤兄    連子   |____
                   |    |      | 
                蘇我娼子藤原不比等五百重===大海人皇子(天武天皇)
    石上麻呂   ______|   |   |      |    |_____
     |      |    |  |   |  麻呂  新田部皇子 |       |
     娘===宇合 武智麻呂 房前  |             草壁皇子  高市皇子
        |               ___|         ____|      |
      広嗣、良継           |    |        |     |      |
                        |   宮子===珂瑠皇子  吉備皇女=長屋王
                        |       |  (文武天皇)       |
                       安宿=首皇子(聖武天皇)        膳王ら四子
                      ___|
                     |    |
                   基親王  阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)

【年表】
684年 藤原不比等×蘇我娼子の三男として生まれる(694年説あり) 1歳
     (長兄武智麻呂5歳 次兄房前4歳
695年 藤原京遷都  異母弟・麻呂誕生 12歳
697年 鵜野讃良皇女(持統天皇)譲位、珂瑠皇子即位→文武天皇 14歳
700年頃 母・娼子死亡か? 17歳
701年 珂瑠皇子×藤原宮子(異母姉)に首皇子誕生 18歳
     父・不比等×県犬養美千代に安宿(後の光明子)誕生
704年 長屋王が無位から正四位上に 21歳
707年 珂瑠皇子崩御、阿閉皇女即位→元明天皇 24歳
715年 阿閉皇女譲位、氷高皇女即位→元正天皇 32歳
716年 左大臣・石上麻呂の娘との間に、次男・良継誕生 33歳
     第8次遣唐使の副使に→翌月従五位下に(朝堂に参加)
717年 唐へ出航 異母妹・安宿が首皇子の妃になる
718年 唐から帰国 首皇子×藤原安宿に阿倍内親王誕生 35歳
720年 父・不比等没 37歳
721年 阿閉皇女(太政天皇)崩御 正四位上で、長兄・武智麻呂に代わって式部卿に 38歳
724年 氷高皇女譲位、首皇子即位→聖武天皇 41歳
     持節大将軍として、陸奥を討伐
727年 首皇子×藤原安宿に基親王誕生→立太子 44歳
728年 基親王没 45歳
729年 長屋王の変で、長屋王の屋敷を六衛府(軍隊)の兵で囲む 安宿が立后 46歳
731年 参議になる 48歳
735年 天然痘流行→新田部皇子と舎人皇子(二人とも天武天皇の子)没 52歳
737年 藤原四子没(天然痘にて?) 死んだ順は4月に房前、7月半ばに麻呂、7月末に武智麻呂、8月に宇合 54歳

・ 一般のイメージ
宇合自身のイメージを持っているのは、よほど彼やその兄弟達にいれ込んでいる人ぐらい(笑)
だいたいは藤原四兄弟十把一絡げで憶えられている上に、
無実の罪で長屋王や吉備皇女を死に追いやり、無理やり政権を奪ったいう説から、
「超悪人」のレッテルを貼られることが多い気がします。
特に宇合は、当日軍隊を動員して長屋王の屋敷を囲むなど、直接的な関与があることからも、
良いイメージをもたれてはいないように思います。


・ 成人までの生い立ち
藤原宇合とは、ある意味でとても不可思議な人物です。
藤原不比等と蘇我娼子の間に、不比等の三男として生まれています。
藤原氏と蘇我氏。相反すると思われがちなこの二氏が、不比等と娼子によって初めて結びつきます。
その間に生まれたのが武智麻呂、房前、宇合の三兄弟でした。
この三人は、後に絶対的な権力を誇る藤原氏の祖となります。
実は藤原氏って元々は半分蘇我氏なのよ、という奇妙な事実……
(異母弟に麻呂がいますが、その子孫の活躍は華々しくはありません)
そんな風にして生まれた宇合ですが、不比等と蘇我氏の蜜月は続きませんでした。
母・娼子は700年頃までに死亡。
翌年701年までに、父・不比等は県犬養美千代と結婚します。
そして、その701年に美千代は不比等との間の娘・安宿を出産します。
同じ年に、不比等の長女で珂瑠皇子(文武天皇)の夫人である宮子が首皇子を出産。
宇合の長兄・武智麻呂が、父に皇子の養育係を命じられます。
この時、武智麻呂と次兄・房前は既に成人に達していたこともあり、
没落の一途にある蘇我氏を離れて、権力を確立しつつある父の所に移り住んだと考えられます。
当然、実弟である宇合も行動を共にしたことでしょう。
この時代、実きょうだいか異母きょうだいかは非常に大きな違いがありました。
基本的に子どもは母方で育てられるの習慣だったので、
自然に実きょうだいの結びつきは強くなり、異母きょうだい兄は赤の他人となります。
落ち目とは言え、当時はまだ名門の蘇我氏に生まれ育った宇合達三兄弟は、
その血筋に誇りを抱き、結束を強くして育ったことでしょう。


・ 固まらない人物像
彼は謎めいた、と言うより、実にイメージが掴みにくい人物です。
他の方の宇合イメージを窺っても、性格や人物像はは書き手によって実に様々です。
自由気まま、マイペース、神経質、ニヒル、一歩距離を置いている、兄の言いなり……等々。
なんで、想像する人によってこんなに違うのでしょうか?
上の年表を見ていただくとわかるように、宇合の行動はかなり詳しく伝えられています。
しかし、政治的なことがあまりにはっきりしているせいでしょうか。どうも人柄が掴みにくいのです。
息子の広嗣が乱を起こしたり、子孫も藤原薬子など反政権側の人間ばかりが有名だったりで、
良いイメージが持たれていない可能性は有り得るな、と思っていたのですが、
そういう気配すらない。あれ〜???
何故なのかを考えた結果、一つの結論に至りました。
すなわち、「藤原四兄弟十把一絡げのイメージが先行している」上に、
「他の兄弟のインパクトが強すぎて、宇合は影が薄い」ということだと思います。(怒らないで〜)
おさらいしておきましょう。藤原四兄弟は上から順番に武智麻呂、房前、宇合、麻呂です。
鎌足や不比等よりは知名度が低いですが、学校の歴史の資料集にも載っていますので、
お持ちの方は暇な時に探して下さい。いるはずですから。

まずは、長兄・武智麻呂。681年の生まれで、宇合より四歳年上。
息子の証言によると、とても穏やかな人柄ですばらしい文化人であったらしいです。
でも、この息子というのが藤原仲麻呂、後の恵美押勝です。
父のことを書いた書物に、武智麻呂がめちゃめちゃ関与した長屋王の変をまったく書かないなど、
不審な点が有り過ぎ。よって、パパのことを美化し過ぎの可能性有りです。
ですが、武智麻呂に温厚な側面があったのは確かだと思います。
彼は父・不比等に見込まれて、首皇子(後の聖武天皇)の教育係、次いで補佐役を務めます。
子供というのは我侭なもの。しかも相手は皇子ですので、教育係には忍耐も必要とされます。
それに耐えうる器の持ち主であり、かつ首皇子が勝手なことをしないように操作することもできる、
一種の教育者的性質の持ち主であったと思われます。
また本が大好きみたいです。病気がちという説もあり。
単に病弱だったというより、寒い書庫で立ったまま本を読みふけってしまって風邪を引く、
というパターンじゃないかと、私は勝手に思っています(笑)

続いて、おそらく四人の中で一番有名であろう次兄・房前。682年生まれです。
一時期は実兄より出世が早かったり、内臣という陰の参謀のような役割を与えられたり、
そして父・不比等によって孤立無援の官吏集団にポ〜イと放り込まれたり、という経歴から、
沈着冷静で決して人に本心を見せない、父親譲りの曲者のイメージがあります。
そういう気質を父に見込まれたからなのでしょうが、若い頃は父に対して多少不満もあったことでしょう。
房前が朝堂で困っていても、不比等は絶対フォローしてくれなかったでしょうからね。
でも、辛い様子を絶対他人には見せない。どんなに頭に来る時でも終始冷静です。
時々、兄・武智麻呂と酒盛りなんぞして「あのクソ親父っ!」と悪態を吐いてはいたかもしれませんが。
ちなみに、長屋王の変を裏で操作した張本人として描かれることも多いです。要するに、悪者の筆頭。
もっと長く生きて功績を残せば、悪人イメージも払拭できたかもしれないのにね。(私は房前Fanです)

そして、四男の麻呂。麻呂だけは母親が違います。生まれも695年と随分遅い。
彼は本当に文化的趣向を愛する男だったようです。
政治よりも歌と酒を愛し、でも藤原氏なのでお仕事も一応やります。
父・不比等が完全に権力を握るより前から朝政関わっていた武智麻呂や房前とは違い、
麻呂はかなり若い段階で、かなり高い官位をホイホイッと貰っています。
なんとも苦労知らずの温室育ちではありませんか!(純粋培養の藤原っ子ですからね、彼は)
異母兄達の後ろ姿もずっと見てきたわけですが、いまいち自分の立場に実感が湧いていない。
父亡き後、兄達がやることに「はいはい」と適当に着いて行きますが、あまり積極的じゃない気がします。
私は、麻呂が長屋王の変にあまり関わっていないような気がするんです。
事前事後に真相知ってはいたはずですけれどね。
そして、死因も彼だけは天然痘で合っているような気もするのです。
暗くおぞましい政略の渦が似合わないお人、というイメージが強いです。

さて、こんな癖のある(?)兄弟に囲まれた宇合氏とはどんな人だったのでしょうか?
若くして母に死に別れてはいますが、頼りになる兄二人が傍にいました。
そして母の実家(蘇我氏)を離れて、兄達と共に父の家・藤原氏へと移り住みます。
初めて朝堂に姿を見せるのは、716年。従五位下を与えられています。
既に、二人の兄はそれぞれ正四位上(武智麻呂)と正四位下(房前)にありました。
そして、父の不比等は右大臣(左大臣は爺さんだったので、ほぼトップ)でした。
兄達に倣って宇合も朝堂で頭角を現していくのかと思いきや、なんと宇合さんに出張命令!
しかも海外出張ですよ。行き先は唐、つまり遣唐使でした。
ご存知の通り、この時代は唐に行くのは命がけ。生きて帰って来れない可能性もありました。
そんな危険な旅に、どうして宇合さんは行くことになったのでしょうか?

 @ 唐の文化や政治に興味があったので、宇合自身が是非に行きたいと望んだ
 A 唐の先端政治を学ばせるために、不比等が敢えて息子を指名した
 B あまりにも中央政治に向いてなかったので、「お前は修行に出ろ」と父と兄に放り出された


Bはおまけです(笑) 私の脳内の不比等&房前はこういうことを平気でやりそうです。
真相は、@とAの両方だと思います。
宇合は後に軍事面で活躍することから、武人的要素もあったと思われますが、
その反面、詩作を得意とするなど文化的にも優れた才能の持ち主でした。
おそらく兄弟の中で唯一、文武両道のお人。
ですが、朝堂での駆け引き、豪族同士の足の引っ張り合いには向いていなかったのでしょう。
そういうのは次兄・房前の方が向いている、と見なされました(笑)
宇合はどちらかと言えば、新しいものに触発されたり、行動の先端で働いたりしたい人。
一箇所でじっとしていることなんてできない、四兄弟一の行動派だったのです。
不比等はそんな宇合の性質を見抜き、見聞を深めれば成長すると睨みました。
そして、朝堂(内政)よりも海外(外政)を見て来い、と遣わされたわけです。(あ、Bも入っちゃった)
不比等の人の才能を見抜く力は、かなり的確なものだった気がします。
宇合も父の意を汲んで、短い期間ではありますが、唐で色々と学んで来たことでしょう。

しかし、なぜこの時の遣唐使だったのでしょうか?
この時機に宇合が唐に行って最先端政治を学んで来る理由は、内政にありました。
それは皇族出身の長屋王がかなり早いスピードで出世していたからです。(716年で正三位)
また、氷高皇女が大王となったことで、その妹である吉備皇女にも皇位継承の可能性が出て来ました。
吉備皇女は長屋王の正妃でもあり、二人の間に生まれた息子達は皇孫(皇子の子)扱いになりました。
長屋王には皇族臣下という立場を超えて、大王の家族となる可能性が与えられたのです。
それまでは、息子達にゆっくり力を付けさせて、数で長屋王を押さえようとしていた不比等ですが、
そんな悠長なことも言っていられなくなりました。
できるだけスピーディーに結果が出る方法で、朝堂を制覇しなければなりません
しかし、宇合は兄達ほど中央の揚げ足取り政治には向いていないし、麻呂はまだ若過ぎる。
そこで考え出された方法こそ、宇合の唐行きだったのです。
宇合は唐の政治を学ぶことで、帰国後に朝堂の中心で活躍することができるでしょう。
いくら皇女達の後押しがあるからと言っても、実際に唐入りしていない長屋王には成す術もありません。
そんな不比等の思惑を、宇合は理解した上で唐へ向かいました。
その事実を考えると、内政には不向きなものの、外交官や調査官の役割に向いていたのかもしれません。
帰国後はしばらく朝堂にいて、兄達と共に奈良で政治を司り、
末弟の麻呂が力をつけて来たところで中央から離れ、式部卿(文部科学省ですね)や将軍職(軍部)を歴任。
長屋王の変の辺りからは、また中央に戻って来たようです。
中央にも地方にも海外にも対応できる、非常に広い度量の持ち主だったようです。
言わば、外務大臣も文部大臣も防衛大臣もそつなくこなし、地方での視察や交渉にも力を発揮し、
しかも藤原氏の一員として藤原党執行部の役員も担っていたわけ。
確かに兄達のように中央政治のエキスパートにはなれませんでしたが、
その分、広い視野を持ち、柔軟な思考で物事に対処できる逸材だったのでしょう。

父や他の兄弟の陰に隠れてしまい、あまりクローズアップされない宇合ですが、
実はかなり優れた人材でありながら、自分から前に出ようとしなかっただけのようです。
それを惜しげもなく藤原政治のために使った、ある意味で自分の利益に無欲なお人だったと。
詩作を得意としたことから政敵・長屋王との交流も深かったり、
唯一不比等より上の地位にあった石上麻呂の娘を正妻に貰ったりした点を鑑みても、
藤原氏の垣根を越えて、社交的な人物であったことが窺われます。
政治的なこととプライベートが切り替えられる、現代で言う「オン・オフの達人」というやつです。
色々な意味で器の大きい人物だったのですねえ。
今回書いてみて思いました。彼はもっと高く評価されるべきですよ!

(藤原宇合 おわり 2008.1.20 改訂 2012.2.24) 
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