汝、結婚せよ。古代皇后の系譜 / Copyright (c) 2008 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.



※ 一部「中臣鎌足考察D 間人皇女」とかぶる記述がありますが、
※ 元々こちらを書いていて、それを転用しておりますので、ご了承下さいませ。


皇后とは何者でしょうか。
為政者、特に皇帝の妻であり、一夫多妻制の場合は正妻を指すことがほとんどです。
しかし、国や時代によって、その権限や立場は大きく異なります。
一般的には、"正妻"という立場がイメージされるのではないでしょうか。
父親の地位・身分が高く、自身は幼い頃からありとあらゆる教養を身につけている
文化的レディという"皇后"が平安〜現在までの日本の皇后です。

しかし、それ以前は違いました。
奈良時代以前の"皇后"に必要とされたのは、"教養"よりも"政治力"です。
だって、夫と早く死に別れるケースが圧倒的に多く(伯父と姪の結婚が多いから)、息子もまだ若かったりして、
万が一の時は
自分が大王にならなければいけないのですから。
と言うことは、皇后自身も大王になりうる血筋を持っていなければいけません。

中臣鎌足考察D「ロイヤルファミリーのプライド 間人皇女」番外編
 汝、結婚せよ。古代皇后の系譜

突然ですが、私は「日本書紀」をあまり信用していません。
「懐風藻」や「藤原家伝」など他の書物と比較すると、食い違いが多い上、
いろいろと記事が胡散臭いような気がするのです。
「5W1H(いつ、誰が、どこで、何を、なぜ、どうした)」が明記されていない点も、腑に落ちません。
藤原不比等さん(日本書紀の陰の編纂者。表向きは舎人親王)に意図を是非とも訊いてみたいところです(笑)
と言いましても、日本書紀に頼らなければわからないことも多いのも事実です。
下の系図や表も、情報提供元は日本書紀にかなり偏っています。
ですので、史実かどうかは、微妙にわからないという点をご了解下さい。

ああ、それから大事なことを。
私は継体より前の大王は神話だと思っているので、系図などには載せません。
継体以降、"大王"として面白い家系図が書けるのは、欽明からだと思いますので、すべてはそこから。
ただし、第○代というのは神武天皇からの数字を使います。(ややこしいから)

次の表は色で敬称(皇子や王)を示しています。
皇女
王族(皇室の血を引く)の女性が大事な要素。あとは大王、皇子、王族(皇室の血を引く)の男性です。
皇后の名前 その父(出自) 大王、つまり夫(名前) その父(出自) 大王×皇后の
主な子供
皇太子 大王から見た関係
その母(出自) その母(出自)
石姫皇女 宣化(28大王 欽明の異母兄) 29 欽明 継体 他田(敏達)  
[神話では橘仲皇女] [神話では手白香皇女]
広姫 息長真手王 30 敏達(他田皇子) 欽明 押坂彦人皇子 押坂彦人皇子 嫡男
額田部皇女 欽明 石姫(宣化×[橘仲皇女]) 竹田皇子
田眼皇女(舒明妃)
 
蘇我堅塩媛(蘇我稲目の娘)
穴穂部間人皇女 欽明 31 用明(豊日皇子) 欽明 厩戸皇子  
蘇我小姉君(蘇我稲目の娘) 蘇我堅塩(蘇我稲目の娘)
皇后不明 32 祟峻
(泊瀬部皇子)
欽明     
蘇我小姉(蘇我稲目の娘)
女帝のため、皇后不在  33 推古
(額田部皇后)
欽明   厩戸皇子
蘇我堅塩(蘇我稲目の娘)
予定では
田眼皇女
敏達 34 舒明(田村王) 押坂彦人大兄皇子
(欽明×広姫)
葛城(天智)
間人(孝徳皇后)
大海人(天武)
山背大兄王?
額田部皇女
宝女王 茅淳王
(
押坂彦人大兄皇子の子)
糠手姫皇女
(敏達×伊勢大鹿氏の娘)
吉備(桜井皇子※の娘)
女帝のため、皇后不在 35 皇極
(宝皇后)
茅淳王   山背大兄王
吉備女王 古人大兄皇子 夫の長男
間人皇女 舒明 36 孝徳(軽王) 茅淳王   葛城皇子
宝女王 吉備女王
女帝のため、皇后不在 37 斉明(宝女王の重祚)   葛城皇子 嫡男
倭女王 古人大兄皇子
(舒明×蘇我法提)
38 天智(葛城皇子) 舒明   大海人皇子 同母弟
皇極・斉明 大友皇子 長男
十市皇女 天武 39 弘文(大友皇子) 天智 葛野王  
額田王 宅子娘(伊賀豪族の娘)
鵜野讃良
皇女
天智 40 天武
(大海人皇子)
舒明 草壁皇子 草壁皇子 嫡男
蘇我遠智郎女
(蘇我倉山田石川麻呂の娘)
皇極・斉明
女帝のため、皇后不在 41 持統
(鵜野讃良皇女)
天武の皇后
天智   珂瑠王(皇子)
遠智郎女
正妃無し 42 文武(珂瑠皇子) 草壁皇子(天武×持統)    
阿閉皇女(天智×蘇我姪)
女帝のため、皇后不在  43 元明(阿閉皇女) 天智    
姪郎女
(蘇我倉山田石川麻呂の娘)
女帝のため、皇后不在 44 元正(氷高皇女) 草壁皇子   首皇子
元明
※ 桜井皇子は用明・推古帝の同母弟です

これを家系図にすると…

     広姫
      |―――押坂彦人皇子――茅淳王☆
石姫皇女|      |―――――[舒明]―古人皇子―倭女王
 |―――[敏達]―糠手姫皇女   | |          |      
 |    |―――――――田眼皇女 |――――――[天智]――[弘文]
[欽明]――額田部皇女[推古]        |                 |
     | (母は蘇我堅塩)        |――――――[天武]―十市皇女
     |                   |―――――間人皇女
     |―桜井皇子―吉備女王  _宝女王[皇極・斉明]  |
     |               |_|__________[孝徳]
     |               |
     |             茅淳王☆
     |――[用明](母は蘇我堅塩)
     |    | 
      ――穴穂部間人
        (母は蘇我小姉)

(天武以降)
      ______阿閉皇女[元明]
     |           |――[元正]
[天智]―|_[持統]      |――[文武] → (以下、二代)
        鵜野讃良皇女 |
        |―――――草壁皇子
       [天武]

どこまでも血族結婚(笑) いかに血筋が大事にされていたかがわかります。
そもそも皇后というのは、"皇女"であることがとても大切でした。
「皇后」欄を御覧いただきますと、見事なまでに皆さんに色がついているのが、おわかり頂けますか?
「皇后=皇女」が望ましく、「止む終えぬ場合は王族でも可」でした。
王族出身の皇后として、広姫(敏達后)、宝女王(舒明后)、倭女王(天智后)がいます。

最初の王族出身皇后の広姫は敏達天皇の嫡男・押坂彦人大兄皇子を産んでいます。
しかし、おそらく広姫は早くに亡くなったのでしょう。
母后の死によって、押坂彦人は大兄(皇太子)と呼ばれていながら、次期の大王の座から追われたと考えられます。
何故、そんなことになったのか。
それは母・広姫に代わって皇后となった額田部が皇女、つまり広姫より高い身分あったからです。
額田部は何人もの男の子を産んでいます。(いずれも、母より先に亡くなったようですが)
結果、母親が王族出身の皇后でしかない押坂彦人は皇位から遠ざけられてしまったのです。

そんな押坂彦人大兄皇子は、異母姉妹の糠手姫皇女を妻としていました。
押坂彦人が大王になれば、当然糠手姫が皇后となっていたことでしょう。
一方、その二人の間に生まれた田村王には、外部の意図によって皇位が回ってきました。
先代の大王は推古天皇、つまり額田部皇女です。
彼女は息子達には先に死なれ、頼りとした甥・厩戸皇子(同母兄の息子)にも先立たれます。
そこで、かつて自分の立后によって大兄の地位を追われた押坂彦人皇子の遺児・田村王に白羽の矢を立てます。
ただし、
自分の娘・田眼皇女を皇后にすることを条件に。
額田部皇女は「皇后」という地位が如何に重要なものか、よくわかっていました。

彼女が大王・推古となったのは、皇后だったからなのですから。
田眼皇女が皇后となり、男の子を産めば、その子はきっと将来の大王に。
女の子しか生まれなくても、その娘は皇后候補となるでしょう。
更に、
もし田村王に万が一のことがあれば、愛娘の田眼皇女が大王になる事だってできる。
そんな、額田部の計算が目に見えるようではありませんか。

ところが、額田部の策略は上手く行きませんでした。
田村王の即位を待たずに、田眼皇女が亡くなってしまったのです。子供もいなかったらしい。
困ってしまったた額田部さんですが、ここでめげずに次の皇后候補を擁立します。
それが次の王族出身の皇后・宝女王です。
宝女王は額田部の同母弟・桜井皇子の孫娘に当たります。(家系図参照)
しかも、母の吉備女王は時の大臣・蘇我馬子が可愛がっていた王族。蘇我氏との利益も一致します。
どうやら、「額田部皇女の養女格」として「皇女ではないけれど、皇后になった」ということのようです。
歴史は繰り返す、と申しましょうか。
額田部が皇后から大王になったのと同じ道を、宝女王は辿りました。


さて、ここでもう一度家系図を御覧下さい。
例えば額田部皇女の場合、結婚相手の敏達天皇は父方の異母兄に当たります。
穴穂部間人皇女の場合も、旦那である用明天皇は父方の異母兄です。(母方では従兄妹)
この時代、母親が違えば育つ場所が違いますので他人同然。"異母きょうだいの結婚"は当たり前の習慣でした。
次に、宝女王にとっての田村王は父方の伯父です。間人皇女にとって軽王(孝徳天皇)は母方の叔父。
葛城皇子と倭女王、大海人皇子と鵜野讃良皇女も"父方の叔父と兄の娘(姪)"の関係です。
そして、天皇ではありませんが草壁皇子と阿閉皇女の場合は甥と母方の伯母。
また十市皇女と大友皇子は父方の従兄妹同士でした。

これらの婚姻形態には共通していることがあります。
それは
「皇后は前天皇の娘である」ということです。
第30代の敏達天皇の前は欽明天皇ですが、敏達天皇の異母妹である額田部皇女は当然欽明天皇の娘です。
同様のことが、穴穂部間人皇女にも言えます。
宝女王は前天皇・額田部皇女の娘ではありませんでしたが、同じ血筋の養女格ではありました。
間人皇女の場合も、前天皇がママ(宝女王)なので、前天皇の娘ということになります。
大海人皇子にとっての鵜野讃良皇女、草壁皇子にとっての阿閉皇女という組み合わせも
皇太子(皇太弟)と前天皇の娘というものです。
ただし、イレギュラーなのが葛城皇子と倭女王の組み合わせです。
倭女王は葛城の異母兄・古人大兄皇子の忘れ形見なので、「天皇の娘」ではありません。
ですが、葛城が即位した時には彼の皇后となる資格がある"天皇の娘"はいませんでした。
葛城がなかなか即位しなかった上、彼と同年代の皇女は同母妹の間人しかいなかったのですから。
だから、女王でしかない倭に白羽の矢が立てられました。
もう一つのイレギュラーは、大友皇子と十市皇女の組み合わせです。
十市は当時、"皇女"ではなく"女王"でした。大海人皇子の娘ですからね。
この時も次期天皇となる可能性のある大友に相応しい皇女がいなかったと考えられます。
だから、天皇の実弟である大海人の長女に白羽の矢が立てられました。

どうして天皇の娘と結婚することが大切なのか。
それには二つの意味があると思います。
一つは、ある人が皇位を継承する時、必ずしも前天皇の息子ではない場合があります。
田村王(舒明天皇)がいい例です。
父親は"大兄"でしかなかったけれど、他に相応しい継承者がいなかったため、
額田部皇女や蘇我氏の意思で天皇へと担ぎ上げられました。
その際、額田部皇女は自分の娘(田眼)と田村王を結婚させて、田村王を婿養子のような立場にしています。
同様に、宝女王にとっての軽王は実弟ではありますが、同時に娘婿でもあります。
後々、江戸時代の幕藩体制の中でも「養子をとってでも息子が継ぐ」というのが大事なお約束事でしたが、
既にこの時代からそういう風潮があったようです。

もう一つは、血統を守るという意味です。
次の天皇となるべき皇子が皇后が産んだのならば、申し分ない血統です。
豪族達は跡目争いに口を挟むこともできず、平和な皇位継承が行われます。
逆に大友皇子のように母親の身分が問題になる場合は、壬申の乱のような結末を招きました。
ある意味、首皇子もそうですよね。母は藤原氏の出身でしたから。
その結果がずっと後に起こった長屋王の変である、とも言えます。
もっとも権力の強い王族・長屋王の正妻であり、正統な皇位継承者である吉備皇女が犠牲になりました。

とにかく血筋の正しさを第一に考え、結婚を繰り返してきた古代天皇家。
争いのない皇位継承を目指すあまり、戦争や処刑が存在したわけですから、何とも皮肉なことです。
西洋史や中国史のように、ライバルや敵との関係を考えて政略結婚が行われるのは、
日本では戦国時代に入ってからです。
それと比べれば、日本古代史の政略結婚ってのんびりしていたんだな、と考えるか、
「敵は身内に有り!」と常に気を張り詰めていなければならなかったのか、興味深いところです。

(中臣鎌足考察 番外編「汝、結婚せよ。古代皇后の系譜」 2009.4.12)
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