中臣鎌足【なかとみのかまたり】(614 〜 669年 / Copyright (c) 2010 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.


中臣鎌足考察番外編
  偽りの正史、日本書紀 〜不比等が仕掛けた隠れ蓑〜


日本書紀とはなんでしょうか。大辞林 第二版によりますと、こんなものだそうな。

    漢書、後漢書などの中国正史にならって「日本書」を目指した日本最初の勅撰の歴史書。
    六国史の第一。三〇巻。舎人親王ら撰720年成立
    神代から持統天皇までの歴史を、帝紀、旧辞のほか諸氏の記録、寺院の縁起、朝鮮側資料などを利用して、
    漢文・編年体で記述したもの。別称、日本紀。

これを「ああ、日本最古の正史なのね」と早合点してはいけません。
だって720年ですよ。ちょうど時の権力者だった藤原不比等が亡くなった年です。
しかも、この日本書紀の編纂事業を任されたのは、藤原氏の腰巾着とも言うべき舎人親王(天武天皇の息子の一人。天皇になりそこなった)です。
これはつまり、、中国のやり方を真似して、今までの出来事を編年体でまとめて「正史とする」という事業であり、
すなわち「歴史を(自分達=藤原氏の都合の良いように)作る」事業だったわけですから、
そんなもの頭から信頼するのは危険です。やっちゃダメです。

しかし、完全に創作された嘘とも言い切れない部分も勿論有ります。
日本書紀のもとになった「帝紀」「旧辞」「国記」「天皇記」「上宮記」という書物からの写しだったり、
あるいは良く知られている出来事について、真っ赤な嘘を書くわけにもいきません。
例えば、いくら不比等が「私の父、鎌足は天照大神の息子だ」と嘘八百を主張しようとしても、そんなアホな話は誰も信じてくれないわけです。
(鎌足は中臣御食子の息子です。)
日本書紀の上手いところは、明白にわかっていることについては正直に書きつつ、
そこに誇大妄想を加えて、「ああ、もしかしたらそんなことがあったのかもね」と思わせたことです。
例えば、645年"乙巳の変"の前に蘇我氏が自分達の巨大な墓を造っただの、子供を皇子扱いしただの、
そういうゴシップをちょろちょろと付け加えて、あたかも"乙巳の変"の要因の一つのように書くことで、
「やっぱり蘇我氏って悪い奴だったんだ」と思わせようとしたわけです。

さて、そんな日本書紀にはもう一つの働きが。
それは「隠す」という効果です。何と隠すのかと言うと、「都合の悪いこと」です。
皇室スキャンダルが注目の的になるのは、今も昔も変わりません。
現代と違って新聞もテレビもインターネットもないわけですから、噂の広がり方は比べ物にならない程に小さいですが、
そんな娯楽の少ない社会だからこそ、「○○皇子さまが××して、△△になったらしい」という噂はお喋りの格好のネタだったわけです。
ありますよね、鎌足の後継者である不比等がどうしても隠したかった事が。
鎌足さん自身はゴシップのネタになるような人物ではありませんでしたが、
問題はその盟友であった葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)です。
不比等の時代の皇室は葛城皇子の実弟、大海人皇子(天武天皇)の系統であり、
葛城皇子がボロクソに評価されていても、不比等や藤原氏には一見何の損もないように見えますが、
不比等が実際に仕えた大王を見てみると、葛城皇子の血を色濃く引いていることがわかります。

※ 赤字が不比等が実際に仕えた大王です。(数字は皇位に就いた順)

   ―――――――――― 40 大海人皇子
  |                  ‖―――― 草壁皇子
   ―― 38 葛城皇子 ―― 41鵜野讃良皇女  ‖―――――― 44氷高皇女
                 |               ‖     |
                  ――――――― 43阿閇皇女   ―― 42珂瑠皇子
                                                ‖――― 45首皇子
                                   藤原不比等 ―― 宮子

鵜野讃良皇女(j持統天皇)と阿閇皇女(元明天皇)は葛城皇子の娘ですし、
珂瑠皇子(文武天皇)と氷高皇女(元正天皇)は葛城皇子にとっては孫であり、かつ曾孫に当たります。
これはむしろ、大海人皇子よりも葛城皇子の血の方が色濃いですね。
そして当然、藤原氏の切り札となる首皇子(後の聖武天皇)にも、その血は受け継がれているわけですから、
不比等としては皇室は絶対的に高貴な血筋であってもらわねば困るのです。

皇室のイメージアップを図るべく、不比等は戦略を練りました。
さて、どんな手を使いましょうか? 噂を打ち消しますか?
いやいや、お触れでも出して噂を否定したり禁じたりした日にゃ、「あー、やっぱり真実なんだぁ」と思われて、余計に人の口にのぼるのがオチです。
そこで不比等は、「噂はあくまで噂。嘘では無いが不確定な要素も多い」という点を利用しました。
そうして立てられた計略プロジェクトが、日本書紀の作成だったのであります。
日本書紀と言う正史を作り上げる際に、その噂を混ぜ込んだエピソードをもっともらしく練り込んだのです。
具体的に言うと、「葛城皇子っていうのは、○○な事をしちゃったらしいよ」というスキャンダルを、
「○○な事をしちゃったのは、××天皇なんですよ」と作り変えて、正史を捏造した
のです。
そう簡単に世間様を騙せるはずがないのですが、不比等のやり方は巧妙でした。


では、どんなスキャンダルがごまかされたのでしょうか?

ごまかされたスキャンダル その@
 「葛城皇子は実の妹である間人皇女と恋愛関係を持っていた!」説

葛城皇子最大のスキャンダルと言えば、これではないでしょうか。
「絶対に二人は愛し合っていたのよ!」派も「んなわけないでしょーが」派も喧々囂々。
私は肯定も否定もしていない「そういうことがあっても、いいんでないかい?」派です。
異母兄弟姉妹間で皇位やら地位やらを争った時代ですもの。妻だって超怖い他人です。
同母兄弟姉妹ぐらいしか信用できる者は居なかった、と考えても不思議はございません。

さて、突然ですが、衣通姫(そとおりひめ)伝説をご存知でしょうか?
日本書紀によると、允恭天皇(いんぎょうてんのう)の皇后が産んだ嫡男、木梨軽皇子(きなしかるのみこ)と
その同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)が近親相姦を犯し、皇太子である兄を処罰することはできないので、妹が追放されます。
しかし、父帝崩御後、兄は同母弟(後の安康天皇)と皇位を争い、敗退して自害したとなっています。
古事記でも同じ事件の記事がありますが、こちらは兄が先に追放され、妹も後を追いかけて、二人は流刑地で命を絶った、というものです。
細かいところは置いておきまして、ポイントは「同母兄妹の近親相姦」です。
しかも、葛城皇子は嫡男。更に二人の母親は皇后の位にありました。
葛城皇子自身は皇位に就きましたが、後に同母弟が武力で覇権を奪うところも同じです。

私は、葛城皇子や彼の家族をモデルにしてこの話が書かれたのではないかと考えています。
同母兄妹相姦の事実があったがゆえに信用を失い、同母弟に政権を取られたという歴史は
葛城皇子と大海人皇子の関係と重なっているように思うのです。
もし、この葛城皇子の近親相姦の事実を否定し切れなくても、大海人皇子が政権を奪取した正当性を訴えるという別の効果もあります。
この日本書紀や古事記が大海人皇子の血筋、所謂“天武朝”に書かれたことを考えると、
もしかしたら後者の意味合いの方が強かったのかもしれません。

そんなもの、一部のシチュエーションが一致しただけゃないの?と思われたかもしれません。
ですが、そうとも言えないのですよ。
実は木梨軽皇子の同母弟もまた、葛城皇子をモデルに書かれたのではないかと思われるのです。


ごまかされたスキャンダル そのA
 「葛城皇子は縁戚を次々と殺害して行った!」説

直接的にしろ間接的にしろ、葛城皇子に殺された人間は沢山居ます。
大臣であった蘇我鞍作入鹿、その父で前の大臣の蘇我蝦夷、異母兄で皇位継承のライバルだった古人皇子。
叔父の軽皇子の死も無関係ではないですし、従弟の有間皇子処刑に至っては言わずもがな。
更に、最初の妻(皇族・王族ではないので、妃ではない)である遠智郎女の父にして右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂を、
彼の妻やら長男やら共々、謀反の疑いで自害に追い込んでいます。
そして、それにショックを受けた遠智郎女も精神を病み死亡。葛城皇子が結果的に死に追いやったようなものです。
ちなみに殺された人は全員蘇我氏の血を引いています。
いや、実は葛城皇子自身も蘇我氏の遠縁ではありますし、縁戚でもあります。
殺された人を含めた家系図は次のようになります。

※ 赤字が蘇我氏の娘、青字が母親が蘇我氏である皇族です。(数字は皇位に就いた順)
  太字は政争やその恨みの類で殺されたり、間接的に死に追いやられた人です。

                     ―― 倉麻呂 ――――― 倉山田石川麻呂 ――――― 遠智郎女
                    |                                          ‖
蘇我稲目――― 馬子 ――――――― 蝦夷 ―――― 入鹿                      ‖
       |            |                                           ‖
       |― 小姉君      ――――――――――――――――― 法提郎女          ‖
       |   ‖                                      ‖―― 古人皇子
       | 29欽明 ― 30敏達 ― 押坂彦人皇子 ―――――――― 34田村王         ‖
       |   ‖                        |           ‖――――――― 38葛城皇子
       |   ‖                         ― 茅渟王     ‖        |
       |   ‖――――― 桜井皇子              ‖――― 35・37宝女王  |― 間人皇女
       |   ‖            ‖――――――― 吉備女王  |            |
       |   ‖        蘇我氏の娘?                |             ― 40大海人皇子
       |   ‖                                 |             
        ― 堅塩媛                               ― 36軽王 ― 有間皇子

※ 桜井皇子の妻の中に蘇我氏の娘がいたという確定的な証拠はありませんが、
   娘の吉備女王が蘇我馬子の館(嶋の宮)を馬子の遺産として受け取っていることから、
   その母親は法提郎女と同様に馬子の娘であったか、かなり近い親戚筋であったと思われます。
   断定はできませんが、吉備女王は蘇我氏の血を色濃く継いでいると私は考えています。
   今回の考察には関係が有りません。

さて、わざわざこんな家系図を見ていただいたのには、ちゃんと理由がございます。
またまた突然ですが、葛城氏(かづらきし)をご存知でしょうか?
葛城皇子と同じく、「葛城」の名を持つこの一族は、実に蘇我氏に似ています。
彼らは飛鳥時代より前の大王時代、つまり継体天皇が北陸地方からやって来る前の時代に権力を誇っていたとされる豪族で、
朝鮮半島での軍事を担っていたとされています。
注目すべきは、
一族の娘が大王との間に子を産んで、その子が大王になって……という仕組みを
結構長期に渡ってやっていた
とされる一族ということです。蘇我氏そっくりですね。
葛城氏は元々、孝元天皇(飛鳥の剣池に墓があるとされる)の子孫ということなのですが、
この孝元天皇の存在自体が怪しまれていますので、実際のところ皇孫なのかは微妙です。
それはともかく、葛城氏の初代とされる葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)なる人物から、こんな風に外戚計画が弄されております。

※ 赤字が葛城氏の娘、青字が母親が葛城氏である皇族です。(数字は皇位に就いた順)
   太字は政争やその恨みの類で殺されたり、間接的に死に追いやられた人です。

          ―― 男 ――― 円大臣 ―――― 韓媛
         |                          ‖
         |  16仁徳天皇                ‖――22清寧天皇(子孫なし、以降断絶)
         |   ‖    ―― 18反正天皇      ‖
         |   ‖   |― 19允恭天皇 ―― 21雄略天皇 ―― 春日大娘皇女
         |   ‖   |             |― 木梨軽皇子    ‖
         |   ‖   |             |― 境黒彦皇子    ‖
         |   ‖   |             |― 20安康天皇    ‖
         |   ‖   |             |― 軽大娘皇女    ‖――― 25 武烈天皇
         |   ‖   |              ― 八釣白彦皇子   ‖  |
         |   ‖   |                             ‖   ―― 手白香皇女 →→→ 現天皇家へ
         |   ‖―――― 17履中天皇 ― 男 ― 眉輪王     ‖     (26継体皇后、30欽明母)
葛城襲津彦―― 磐之媛       ‖                        ‖
         |             ‖―― 市辺押磐皇子          ‖
          ―― 男 ――― 黒媛    ‖―――――――――― 24仁賢天皇
                  |          ‖        |
                   ― 蟻臣 ― ハエ媛      ―――― 23顕宗天皇
                       (ハエは「つばな」) 

どこかしら似ていませんか、この二つの家系図。
「どこが?」と思われる方は、葛城皇子の名前を“雄略天皇”の所に当てはめてご覧下さい。
例えば、雄略天皇(大泊瀬幼武尊)も葛城皇子と同様に、舅である円大臣を謀反の疑いで殺しています。
倉山田石川麻呂もまた右“大臣”でしたね。
また、雄略天皇の実の兄弟達はほとんどが政争によって命を落としています。
先に挙げた木梨軽皇子と軽大娘皇女は同母相姦により政権から追われたわけですが、
その噂を触れ回ったのは誰でしょうか? 同母弟である後の雄略天皇ではないとは言い切れない……怖い。
大王となったものの、妻の連れ子である眉輪王に殺された安康天皇(穴穂皇子)。
安康天皇殺害を眉輪王に唆したとして、雄略天皇に殺された境黒彦皇子と八釣白彦皇子。
眉輪王もまた、境黒彦皇子や円大臣と共に雄略天皇によって攻め込まれ、焼き殺されています。
更に従弟の市辺押磐皇子を滅ぼして、自分が皇位に就いたところで雄略天皇の同族殺しは終わりました。
さすが、別名を“大悪天皇”なんて言われるだけのことはあります。
この雄略天皇というお人、「自分以外の血筋は皆殺し!」という強迫観念に囚われていたみたい。
うーん、ますます葛城皇子っぽいではありませんか。

ただし、雄略天皇は市辺押磐皇子の息子達を殺し損ね、逃してしまっています。
雄略天皇の死後、雄略天皇の息子二人(腹違い)の間で政争が起こり、その後血筋は断絶してしまいます。
そこで大王に迎えられたのは、市辺押磐皇子の遺児達(顕宗天皇、仁賢天皇)でした。
異母兄の古人皇子や従弟の有間皇子を殺しておきながら、諸々の理由で実弟の大海人皇子には手を出せず、
死後に弟の血統に皇位を奪われた葛城皇子と、ここも実態が重なります。

いやいや、それだけではありません。
そんな酷いことをしたとされている雄略天皇の血は、娘の春日大娘皇女を通じて、
現在(つまり大海人皇子以降)の皇室にも流れているとしているのです。
そして、その時点“天武朝”では葛城皇子の息子の血筋は皇位にはありませんでしたが、
葛城皇子の娘であり、蘇我氏の血を引く鵜野讃良皇女や阿閇皇女によって、葛城皇子の血は間違いなく今の政権に流れています。
同じですね、まったく。

では、不比等は葛城皇子がやったことを、あたかも他の大王の逸話のように見せかけるために、雄略天皇の所業の数々を作り上げたのでしょうか。
いえいえ、葛城皇子が異母兄や従弟、血の繋がった重臣など近しい人々を殺していったことは隠そうにも隠せない事実ですし、
それは日本書紀にも正当な“偉業”として書かれているのです。
不比等が雄略天皇の話を作ったのは、その正当性を証明するためでした。
雄略天皇は大王の一族を政略結婚で乗っ取っていた葛城氏の勢力を排除し、ライバルとなる皇族を殺して皇位に就きました。
一方で、政治家としては中央集権国家としての大和朝廷の地位を築いた人だとも書いてあります。
そして、朝鮮半島の領地争いに積極的に軍事的介入していた、としている点も、
国内の反対を押し切ってでも朝鮮政策を強化しようとした葛城皇子とそっくりです。
「葛城皇子のやっていること=昔の偉い大王もやっていたこと=素晴らしいこと」って書いてあるような気がしてなりません。


例を@Aと挙げましたが、いかがでしょうか?
「不比等の目論み、見破れり☆」と大声で勝利宣言してもよろしゅうございますか?
いや、不比等のことです。「フッ、たったそれだけのことで何を大げさな」と肩を竦めてくれそうですね。

(中臣鎌足考察番外編「偽りの正史、日本書紀 〜不比等が仕掛けた隠れ蓑〜」 2010.03.27)
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