大津皇子【おおつのみこ】(663 〜 686) / Copyright (c) 2008 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.


大津皇子 許されざる皇位

大津皇子は663年、九州の「大津」で生まれたとされています。
当時の日本は唐と新羅(中国と朝鮮半島の一国)との交戦中で、戦いの拠点を九州に置いていました。
二年間に斉明女帝(宝女王)が筑紫で客死、嫡男の葛城皇子が称政を布いていました。
大津の父は葛城の実弟・大海人で、大津は大海人の三男に当たります。
母は葛城の長女・太田皇女です。実姉には二歳年上の大伯皇女がいます。
また、とても近い血筋の異母兄・草壁皇子が一年前に生まれていました。

   蘇我倉山田石川麻呂
    |______________________________
    |                                            |
   遠智郎女============葛城皇子《天智》========姪郎女
    _____|_____________              |
   |       |                   |             |_____
   建皇子  太田皇女====大海人皇子==鵜野讃良皇女《持統》 |       |      (大海人の長男)
   (夭折)      ___|   《天武》    |              |      御名部皇女=高市皇子
            |    |          草壁皇子=======阿閇皇女          |
   山辺皇女=大津皇子 大伯皇女       ________|                長屋王
(葛城の娘)  |                   |     |     |
       粟津王              氷高皇女  珂瑠皇子  吉備皇女(母親は別人説有)


草壁皇子 大津皇子  
661(斉明7)   実姉・大伯誕生 斉明天皇が遠征先の筑紫で薨去
662
(葛城称政1)
誕生     
663
(葛城称政2)
2歳 誕生 葛城率いる日本軍は白村江の戦いで大敗(大海人はこの戦いに反対)
665
(葛城称政4)
4歳 3歳 間人皇女(葛城同母妹)薨去
667
(葛城称政6)
6歳 5歳母・太田を葬送(死去年は不明) 斉明・間人・建を葬送
668
(天智7)
7歳 6歳 葛城が近江で即位→天智天皇
671(天智10) 10歳両親と共に吉野へ逃れる 9歳異母兄・高市と大伯と共に近江に留まる 天智発病→大海人は吉野へ逃れる
672(天武1) 11歳伊勢へ脱出 10歳伊勢へ脱出 天智薨去
 ⇒
壬申の乱に大海人側が勝利
673(天武2) 12歳 11歳 大海人が飛鳥で即位→天武天皇
鵜野讃良が立后
673(天武2) 13歳 12歳大伯が伊勢斎宮に  
676(天武5) 15歳 14歳 新羅親善のために、唐との国交を断絶
678(天武7) 17歳 16歳 十市皇女薨去
679(天武8) 18歳 17歳 吉野にて六皇子の盟約
680(天武9) 19歳長女・氷高誕生 18歳  
681(天武10) 20歳立太子
律令と歴史書の編纂を開始
19歳  
683(天武12) 22歳長男・珂瑠誕生 21歳朝政に参加  
685(天武14) 24歳浄広壱位 23歳浄広弐位 高市が浄広弐位、忍壁(異母弟)が浄大参位に
686(天武15) 25歳母と共に称政 24歳10月3日謀反の罪により賜死 天武薨去→鵜野讃良・草壁称政
大伯が伊勢より退下
688
(持統称政2)
27歳   天武を御陵に葬送(殯宮終了)
689
(持統称政3)
28歳4月13日薨去    
690(持統4)     鵜野讃良即位→持統天皇
高市が太政大臣に

大海人皇子には数多くの妻がいましたが、その中でも太田皇女は正妻的立場にありました。
大海人が皇位に就けば、太田は皇后になること間違いなし。
懐風藻』によれば、大津は文武両道の優秀な人材で、人望も厚かったと思われます。
大津が嫡男として皇太子の地位に上るという運命は、見えているように思えました。
しかし、皇位に就けなかったどころか、謀反の罪で自害させられました。

大津が皇位に就けなかった要因は彼が育った環境にあります。
そして、当時の政情と大王(大海人)の意志が、大津を皇位から遠ざけました
立場上、最終的に手を下さなければならなかったのは皇后である鵜野讃良皇女ですが、
暗殺とか処刑とか手段はいろいろあったのに、敢えて自害を命じています。
同族(大津にとっては母の実妹)の鵜野讃良の命令だからこそ、尊厳ある死=自害で済んだのでしょう。


では、大津の運命は、どのようにして変わっていったのでしょうか。

@ 母・太田皇女の死
彼の運命が最初に狂ったのは、母の死によってでした。
667年に太田を葬送したことが判っていますので、大津は物心ついた頃に実母を失ったことになります。
残されたのは自分と、姉の大伯。
当時の結婚は基本が妻問い婚なので、大津達は太田の実家に引き取られるはずでした。
つまり、太田皇女の母・遠智郎女の実家である蘇我氏です。
ところが、そうはいかない政治的事情がありました。下の家系図をご覧下さい。

【蘇我氏家系図】 下線は女性 △は故人

          △稲目
           |
          △馬子
     ____|_______________
    |      |    |                |
   △刀自古 △蝦夷 △法堤            △倉麻呂
(聖徳太子妻)  |  (舒明夫人)     ______|_______
    |    △入鹿            |        |    |    |
△山背大兄           △倉山田石川麻呂    赤兄   日向  連子(嫡男以降は石川氏)
         _______|____        |          |
        |             |   |      常陸(天智嬪)   娼子=藤原不比等
       (天智嬪)     △遠智 (孝徳妃)  |
        |          (天智嬪)         山辺
 御名部(高市妃)        _|___      (大津妃
 阿閇(草壁妃・元明天皇)  |      |
                △太田   鵜野讃良
               (天武妃) (天武后・持統天皇)
                  |      |
                 大津     草壁

太田皇女と鵜野讃良皇女は蘇我倉山田石川麻呂の孫娘に当たります。
この倉山田石川麻呂は、異母弟・蘇我日向の讒言によって謀反の罪を着せられて、
妻や嫡男の家族達と共に、氏寺の山田寺で自害しています。葛城皇子と中臣鎌足の策略です。
つまり、太田皇女の母方の一族(実家)が全滅したことになります。
更に、ほどなくして母である遠智郎女も心労からか亡くなってしまいました。
その数年後、実家のない皇女であった太田皇女は幼い大伯と大津を遺して亡くなります。
それでも、太田の実妹である鵜野讃良皇女がいます。
鵜野讃良にとって、無念の死に陥れられた倉山田石川麻呂の血を引く甥と姪は、一族復古の最大の切り札。
是が非でも自分の手元に置いて、育てたいはずです。
しかし、その願いは実父・葛城皇子によって阻まれました

飛鳥での葛城称政時代(662〜667)、大海人の正妻は姉である太田でした。
彼女は667年に「葬られた」との記事がありますので、この時までに亡くなっています。
それまでは大津と大伯は母と共に暮らしていたと考えられます。
一方の鵜野讃良と草壁は……実はこの母子、一緒には暮らしていないらしいのてす。
奈良県の明日香村の山手に、岡寺(龍蓋寺)というお寺が有ります。
義淵僧正という奈良時代のお坊さんが建てた寺なのですが、
なんとこの義淵さん、草壁と一緒にここ(今の岡寺辺り)で育てられたらしいのです。
誰によってかと言いますと、ビックリなことに葛城皇子によって
私も岡寺に行って来たのですが、かなり急な山の上にありました。印象は陸の孤島
その岡寺を少し下った所に岡本寺という寺があり、ここは葛城の館があったらしいです。
岡寺まで行くには、その敷地を通らなければなりません。
草壁が実の両親(大海人と鵜野讃良)に会おうにも、間には葛城の館が立ち塞がります。
何故、草壁は両親と引き離され、実質の大王である葛城によって育てられたのか。

葛城は母(宝女王)の寵臣・蘇我入鹿を母の目の前で殺害するなど、残虐な一面を持っています。
その分、自分に向けられるマイナス感情にも敏感で、その最大の矛先は自分と同じ血統を持つ実弟・大海人皇子でした。
自分の娘四人を妻とさせて懐柔しても尚、常に疑い続けていました。
疑い深い兄によって睨まれている大海人は、まだ幼い草壁を「人質」として兄に渡さざるを得ませんでした。
大海人の手元には正妻・太田との間に生まれた嫡男・大津がいます。
当時は家制度はありませんが、父から嫡男への継承(財産や地位)は行われていました。
だから、嫡男さえ手元に残しておけば、後の子ども達は二の次になるのです。
しかしながら、鵜野讃良にとっては唯一の子どもでした。
彼女は父・葛城の疑い深さをよく知るからこそ、息子を手放しましたが、その胸の内はいかがなものでしょうか。
太田と鵜野讃良は同じ屋敷に住んでいたはずなので、当然大津と大伯も一緒です。
姉が我が子と楽しそうにしている間、鵜野讃良は孤独に山手を眺めるしかありませんでした。

状況が一転したのは、太田の死によってです。
太田の死によって、正妻の地位は鵜野讃良に、嫡男の地位は草壁に移りました。
ほぼ同時に近江へ遷都となります。
ここで、葛城は再び大海人に持ちかけます。
曰く、「大津と大伯を引き取りたい」と。その代わり、「草壁は返す」と。

667年時点で、葛城には「皇位継承に敵う嫡子」が誕生していませんでした。
既に40歳代に突入していた葛城は、自分に高貴な息子が生まれず、
逆に実弟・大海人は自分の娘(葛城の皇女)との間に皇位継承が可能な男児を儲けています。
葛城の焦りは日に日に高まっていました。
万が一、自分に嫡男が生まれなかった場合、豪族達は実弟・大海人の即位を望むでしょう。
それだけは避けたい。何としてでも、自分から皇位を直系で繋げていきたい。
そうでなければ、数々の殺戮を経て手に入れた絶対大王の座は大海人の物になってしまう。
しかし、日嗣皇子の母親は皇女が好ましく、葛城の妻で皇太子候補が産めるのは皇后・倭女王(異母兄・古人大兄の遺児)だけです。
母が王族でも可能ですが、できれば宝女王(葛城の母)のように皇后であることが望ましい。
豪族の娘の場合、かつての蘇我氏総本家のようにかなりの権力でも持たない限り不可。
地方豪族の娘、つまり采女から生まれた皇子など、皇太子としては論外なのです。
欽明〜元正の大王とその母親を調べると、一目瞭然です。

次の表は色で敬称(皇子や王)を示しています。
皇女王族(皇室の血を引く)の女性有力豪族の娘に注目。
大王(本名) その父(その父×母) 皇后(その父×母)
 →間に生まれた主な子ども
その母(その父×母)
29 欽明 継体天皇 石姫皇女(宣化天皇×橘仲皇女※)
 →敏達天皇
手白香皇女(仁賢天皇×春日大娘皇女※)
30 敏達 欽明天皇 広姫(息長真手王×女)→押坂彦人皇子
石姫皇女(宣化天皇×橘仲皇女 額田部皇女(欽明天皇×蘇我堅塩媛
 →竹田皇子、田眼皇女
31 用明(豊日皇子) 欽明天皇 穴穂部間人皇女(欽明天皇×蘇我小姉君
 →厩戸皇子
蘇我堅塩媛(蘇我稲目×女)
32 祟峻(泊瀬部皇子) 欽明天皇  
蘇我小姉君(蘇我稲目×女)
33 推古(額田部皇女
敏達天皇の皇后
欽明天皇  女帝の為、皇后不在
蘇我堅塩媛(蘇我稲目×女)
34 舒明(田村王) 押坂彦人皇子(欽明天皇×広姫 宝女王(茅淳王×吉備姫王
 →葛城皇女、間人、大海人皇子
糠手姫皇女(敏達天皇×伊勢大鹿氏の娘)
35 皇極(宝女王
舒明天皇の皇后
茅淳王(押坂彦人皇子×大俣王女)  女帝の為、皇后不在
吉備姫王(桜井皇子※×女)
36 孝徳(軽王) 茅淳王 間人皇女
(舒明天皇×皇極・斉明天皇(宝女王))
吉備姫王
37 斉明(宝女王の重祚)  
38 天智(葛城皇子) 舒明天皇 倭女王(古人皇子×女)
皇極・斉明天皇(宝女王
39 弘文(大友皇子) 天智天皇 十市皇女(天武天皇×額田女王)
 →葛野王
宅子郎女(伊賀の豪族の娘)
40 天武(大海人皇子 舒明天皇 鵜野讃良皇女(天智天皇×蘇我遠智郎女
 →草壁皇子
皇極・斉明天皇宝女王
41 持統(鵜野讃良皇女
天武の皇后
天智天皇  
蘇我遠智郎女(蘇我倉山田石川麻呂の娘)
42 文武(珂瑠皇子 草壁皇子(天武天皇×持統天皇)  
阿閇皇女(天智天皇×蘇我姪郎女
43 元明(阿閇皇女 天智天皇  
蘇我姪郎女(蘇我倉山田石川麻呂の娘)
44 元正(氷高皇女 草壁皇子  
元明天皇(阿閇皇女)(天智天皇×蘇我姪郎女
※ 春日大娘皇女は雄略天皇の娘と伝えられています。
※ 橘仲皇女は手白香皇女の同母姉妹と伝えられています。
※ 桜井皇子は用明・推古帝の同母弟です

弘文天皇(大友皇子)の母親欄を他の大王の母親と比較していただくと、
彼の母親だけ、色が付いていないことがおわかりいただけるかと思います。
葛城皇子(天智天皇)には大友皇子を越す身分を持つ息子を持つことができなかったのです。
倭女王との間に嫡男が生まれない以上、葛城は次の手を打たなければなりません。
それは、「養子的な嫡男」を引き取ることです。
ただし、その「嫡男」への皇位継承を豪族達が認めるくらい、血筋が良い者でなければなりません。
草壁を引き取った時、葛城は草壁を養子にまでする意図はなかったと思います。まだ30歳代後半でしたし。
あくまで、草壁は「人質」であり、それ以上の意味はありませんでした。
しかし、大王となった葛城には、打てる手を打っておく必要がありました。
(打ちなさい、とせっついたのは、間違いなく中臣鎌足です。)
そんな時、大海人と結婚させた長女・太田が死に、大津達が遺されました。チャンスです!
葛城は「人質」と「養子」の二重の意味で、大伯と大津を引き取ったのです。
大海人も鵜野讃良も非常に悩んだことと思います。
我が子は返して欲しい。しかし、太田の遺児をむざむざと葛城に渡してしまうことも嫌だ。
できることなら、三人とも自分達の手元で育てたい。
特に、大津の利発さはこの時期には垣間見られていたことと思いますので、
自身も優秀な政治家である二人は、彼を葛城に渡してしまうことを躊躇ったと思います

しかし、当時の二人に葛城に逆らう力などあるはずが有りません。
泣く泣く大津と大伯を引き渡し、代わりに草壁を返してもらいました。
こうして、母方の祖父の元で育つようになった大津は祖父・葛城の傍にいることが多くなりました。
つまり、大津は「近江朝の人間」として育ち、大海人とは距離をおいて生活をしていたのです。
当然、近江朝の重臣達とも顔馴染みになり、その家族とは親しくなったことでしょう。
その証拠に、近江朝の重臣の一人である蘇我赤兄の孫娘・山辺皇女(葛城の娘)と
後に大津は結婚する
ことになるのですから。


A 壬申の乱
671年、葛城は病に倒れます。彼はまだ跡継ぎ問題に頭を悩ませていました。
葛城の意志としては、息子の大友皇子に皇位を継がせたい。
大友のは武芸や政治力に優れた優秀な若者であったと記録されています。
しかし、大友の母は地方豪族の娘に過ぎず、血統で明らかに大海人に劣ります。
もし大海人を抑えて大友に跡を継がせたら、豪族達から不満の声が上がり、
彼らは正統の血を持つ大海人の皇位継承を訴え、あるいは強行するに違いない。
それを防ぐためにどうするか。

簡単です。大海人がいなくなればいいのです。
病の見舞いに来た大海人に、葛城は皇位を継ぐように言います。勿論、罠。
察していた大海人は、皇位継承を断って、出家して吉野へと出立します。
この時に大海人に同行したのは、正妻の鵜野讃良とその息子・草壁
そして、理由はよくわかりませんが、四男の忍壁皇子も同行したようです。
既に草壁が大海人の嫡男であることは決まっていたのです。だから一緒に逃げました。
この時、大津は大伯や異母兄・高市皇子と共に、近江朝に残されました。
高市は「人質」でしたが、大津と大伯については「近江方のもの」という意識が近江朝全体にあったのだと思われます。
ですが、壬申の乱勃発の際には、大津達も近江を脱出して、伊勢に逃れた大海人達の所へ駆けつけています。


B 山辺皇女との結婚
大海人の即位後、嫡男として草壁が立太子します。
(草壁は長男ではなく次男ですが、年齢と血筋から見て嫡男となります。長男は高市皇子です。)
これ以前に草壁は阿閇皇女(鵜野讃良の異母妹)と結婚して、娘(氷高女王)をもうけています。

一方の大津は、鵜野讃良や阿閇と同じく、葛城の娘である山辺皇女と結婚しました。
この山辺について、@で使った蘇我氏の家系図を再度ご覧下さい。
確かに山辺は葛城の娘であり、蘇我氏の血を引きます。
しかし、祖父の赤兄は有間皇子を罠にはめて死に追いやるなど、葛城の汚い仕事を引き受けてきた人物です。
倉山田石川麻系の鵜野讃良や阿閇から見れば、油断ならない血筋です。
倒された近江朝の生き残りなんて、「敵」そのものです。
それでも大津が山辺を妃にしたのは、彼らの婚姻は随分前に決まっていたからだと思います。
その時期は壬申の乱の前、まだ葛城が生きていた頃です。
葛城自身が、娘である山辺と外孫である大津を娶わせることを決めたのでしょう。
正統な血筋の大津を娘婿とすることで、実子同然に扱い、自分の後継者にしようと考えていたのではないでしょうか。

もちろん、子供時代の婚約(と言っていいのかな?)など政治理由で簡単に破棄されます。
山辺は壬申の乱で滅びた近江朝の重臣、蘇我赤兄の孫娘です。
葛城と赤兄の蜜月があった時だからこそ、その婚姻は意味があったのであり、乱後は破棄すべき関係でした。
しかし、それでも大津は山辺を妃としました。恋愛感情だったのでしょうか?
どんな理由にせよ、近江朝での幼少期が、大津を縛っていました。
近江朝勢力の復興を願う者達を、大津は見捨てることができなかったのです。
いえ、むしろ彼は旧近江朝を自分の支持基盤にしようと考えていたのではないでしょうか。
徹底的に近江朝勢力を排除していた大海人とは、大津の考えは相容れないものでした。

もし大津を皇太子とすれば、山辺は将来皇后となります。
后となった山辺の親戚である旧近江朝勢力が、息を吹き返すことになりかねません
いえ、むしろそうなるのは明白でしょう。
鵜野讃良の例で見ると一目瞭然です。
彼女は皇后となった後、同系の蘇我氏であり、かつ皇族である御名部皇女や阿閇皇女を優遇し、
その勢力は皇室として花開いていきます。
女系だから目立ちませんが、その威力は相当なものです。
もし大津が大王になっていたら、花開いたのは御名部や阿閇の血筋ではなく、山辺皇女の勢力だったはずです。
旧近江朝勢力にしてみれば、起死回生の絶好のチャンス。逃すまいと必死です。
是が非でも「大津皇子を皇太子に」と望んでいたに違いありません。

大海人自身が大津と山辺の結婚を阻止しようとしたかどうかはわかりませんが、
「大津はやはり近江側か」と改めて実感することになったことでしょう。
だからこそ、自分の政策意図に反する大津を、大海人は嫡男と認めるわけにはいかなかったのです。


もう一つ、山辺との婚姻が大津の皇位を妨げたと考えられる証拠があります。
それは大津自害の際に、山辺が殉死していることが「明記」されている点です。
「まあ、なんて可哀想に。悲劇の皇女だわ」なんて思わないで下さい。
そんな形で殉死した家族は、日本古代史には山ほどいます。
時代を遡れば、蘇我倉山田石川麻呂一家や山背大兄王一家、蘇我総本家などなど。
後には、長屋王・吉備内親王一家や藤原仲麻呂一家などなど。その数、雨あられ。
この時代、一家の長が死に追いやられたら、家族が従うのは慣習なんです。
だから、山辺の後追い自殺は当時の人の概念から見て、当たり前の行動でした。
それがわざわざ「髪を振り乱して裸足で走り、殉死しました」と明記してあるのです。
随分と取り乱しているじゃありませんか。これは尋常じゃありません。

なぜ、取り乱した殉死の瞬間が描写されたのか。
裏を読めば、大津の自害には山辺が錯乱状態で死ぬだけ理由があったからです。
一つは、大津の死によって旧近江朝勢力の再興が絶望的になったこと。
もう一つは、自分との結婚により大津をそこまで追い詰めてしまったこと。
これらが山辺が不自然なくらい取り乱して死んだ理由だと、私は考えます。

山辺皇女の肩には旧近江朝の再興がかかっていました。
それを成し遂げられず、愛する夫を失うことになってしまった山辺は、自責の念に駆られていたと思います。
衝撃的な死は、もしかすると彼女の命を賭けた意思表示だったのかもしれません。
「もはや、これまでか」と一族の女長としての意地を見せて散った、その潔さ。
この点について、私は山辺に鵜野讃良に通じる強さを感じます。
山辺もまた、自らに流れる血のために戦い抜いた、蘇我の女だったのではないでしょうか。

以上の理由より、大津が皇位に就けなかったのは「近江朝との関わり」にあります
旧勢力と通じ、現政権を乗っ取ろうとする者に、皇位など望めるはずがなかったのです。

(大津皇子 許されざる皇位 2007.11.27 改訂)

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