宝女王【たからのおおきみ】(594 〜 661年) / Copyright (c) 2007 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.


宝女王 この世はわらわのためにある

日本初の女帝と言えば、ご存知推古天皇です。
以降、皇極、斉明、持統、元明、元正、孝謙、称徳と古代の女帝時代が続くわけですが、
実は皇極=斉明天皇だけ、カテゴリー的には仲間外れなんです。
天皇としての贈り名以外の名前、つまり生前の呼び名と、それぞれの両親の名を並べると一目瞭然です。

 推古天皇…額田部皇女(欽明天皇×蘇我堅塩媛)
 皇極天皇=斉明天皇…宝女王(茅淳王×吉備姫王)
 持統天皇…鵜野讃良皇女(天智天皇×蘇我遠智郎女)
 元明天皇…阿閉皇女(天智天皇×蘇我姪郎女)
 元正天皇…氷高皇女/氷高内親王(草壁皇太子×元明天皇)
 孝謙天応=称徳天皇…阿倍内親王(聖武天皇×藤原光明子)

なんと宝さんだけが皇女(天皇の娘)ではないのですよ! 両親すら天皇の子供じゃない。
でも、あれっ?って思われますよね。だって普通は「宝皇女」と表記します。
しかし、実際には「宝皇女」というのは彼女が天皇になったことによって後付けされた称号なのです。

蘇我堅塩媛====(欽明天皇)
  _____|      |
 |       |      |
 |  額田部皇女==訳語田皇子(敏達皇子)
 |    (推古天皇)    ____ |
桜井皇子           |      |
 |      押坂彦人皇子==糠手姫皇女
 |           |   |          蘇我馬子(蘇我堅塩媛の実弟か?)
吉備女王====茅淳王   |          |____
         |        |          |     |
     宝女王====田村王=====法提郎女  蝦夷
   ____|____          |        |
  |     |      |        古人皇子     入鹿
葛城皇子  間人皇女  大海人皇子

この家系図の通り、宝女王の両親は大王ではありませんし、皇子や皇女ですらありません。
父・茅淳王は敏達天皇の皇孫、母・吉備姫王は欽明天皇の皇孫です。
だから、宝女王は皇族四世という、王族としてもそれほど良い血統ではありませんでした。

また、宝女王の夫、田村王(舒明天皇)の血筋にご注目下さい。
彼も王であって皇子でないことは、おわかりいただけますね。
父は押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとのおおえのみこ)、母は糠手姫皇女(ぬかてひめのひめみこ)。
敏達天皇を父とする異母兄妹同士の結婚でした。
この敏達さん、蘇我氏の血を引いていないのです!
それがどうしたって? いえいえ、これが大事なのですよ。下の図をご覧下さい。
数字は何代目か、青字は蘇我系つまり母親が蘇我氏(=自身も蘇我氏で育てられた)の人です。

26継体→27安閑→28宣化→29欽明→30敏達→31用明(推古の実兄)→ 32崇俊(敏達らの異母弟・母は蘇我小姉で稲目の娘)
→33推古→34舒明→35皇極→36孝徳→ 37斉明→38天智→39弘文→40天武
(天智と天武は蘇我系の血筋ですが、天武は蘇我系の家では育っていないらしいです)

蘇我系の天皇は用明天皇から続きましたが、田村王(舒明天皇)は久々に蘇我氏の血を引かない天皇となりました。
パパもママも蘇我氏の血を引かないのですから、当然ですね。
そんな田村王を皇位に押し上げたのは、当時の蘇我氏本家の頭領・蝦夷でした。
厩戸皇子や山背大兄王のように蘇我氏の血を引き、その経済的恩恵を受けていながら
蘇我氏の意向に沿わない一族が出てきていたので、いっそのこと蘇我氏が離れて、
陰の暮らしをしている人を引っ張り出したのです。もちろん、言うがままに操るために。
そして、また蘇我氏の血を皇室に入れるべく、政略結婚開始でございます。
まずは蝦夷の姉妹・法提郎娘が妃になり、ここに田村王の長男・古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)が生まれます。
山背大兄に対抗できる皇太子候補が欲しかった蝦夷にとって、古人は手中の宝です。
当然、古人は母の実家である蘇我氏で育てられたことでしょう。

しかし、問題は「誰を田村王の皇后にするか」ということです。
かつて田眼皇女(額田部皇女の娘なので蘇我系)が田村の后となっていましたが、すぐ亡くなりました。
蝦夷の目論見としては、古人大兄に似合いの皇女が田眼皇后から生まれていれば、
未来の天皇・皇后を手中で育てられることになり、万々歳だったのでしょうが、田眼には子供がいませんでした。
また法提郎女は皇族じゃないので、皇后にはなれません
そこで、皇后の候補として宝女王に白羽の矢が立ったわけです。条件は以下の三つ。

@ 母親が蘇我系である=生まれた皇子・皇女は蘇我氏で養育できる
A 皇族である=皇后になる資格がある
B 子供が確実に産める若い女性である=未来の皇后候補を産める


@について見ると、お母様の吉備姫王は父方を見れば蘇我系です。
馬子の姉妹の孫娘にあたり、どうも馬子に可愛がられていたらしい。遺産に馬子の邸宅を貰ったりしています。
(ちなみに彼女のお墓は周囲に奇妙な人面石がたくさんあること有名です)
Aについては、両親が共に「皇子の子供」なので間違いないです。
Bについて、宝は田村王と結婚する前に高向王(用明天皇の孫らしいです)と結婚し、漢王という息子を産んでいます。

蝦夷の目論見としては、法提が産んだ古人大兄(大兄は皇太子の意味)を次の大王と考え、
その皇后を産む者としての役割を宝に期待しました。
宝の娘は蘇我系の母を持つ皇女ということになりますからね。
「あら、そうなのわかったわ。私も蘇我氏の一員だもの。蘇我氏のために頑張るわね」と宝さんが言えば、
歴史は大きく変わっていたことでしょう。内心は「アホか、このボケ」と思っていたに違いありません。
それでも大臣として蝦夷を立てていたのは、彼女なりの野望があってのことではないでしょうか。

宝女王の野望。それは利用されるだけの自分から脱却し、自ら力を行使する側になることだったと思います。
適当な王族と結婚してそれで良しとされかけたところに、「皇后になれる」とのお達し。
当時の宝には高向王を愛していたかどうか、漢王が大事だったかどうか、そんなことは問題ではなかったと思います。
田村王との結婚は彼女の人生を懸けた賭けだったのです。
すべてを捨ててでも、とりあえず地位を手にすることが大事。
蝦夷の思惑に乗ったフリをして、田村王との間に三人の子供を設けます。
ご存知、葛城皇子(天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人皇子(天武天皇)です。

宝女王に関して、年表を作ってみました。
594年 生まれる [ 1歳 ]
596年 同母弟・軽王が生まれる [ 3歳 ]
625年までに、高向王と結婚して第一子・漢王を出産 [ 32歳 ]
626年 田村王との子で第二子・葛城を出産 [ 33歳 ]
629年 田村王が大王に即位する→舒明天皇 [ 36歳 ]
630年 田村王の皇后に立てられる [ 37歳 ]
641年 田村王薨去 [ 48歳 ]
642年 即位→皇極天皇 [ 49歳 ]
643年 蘇我入鹿が山背大兄王を攻め滅ぼす [ 50歳 ]
645年 葛城皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を殺す。蝦夷が自害。軽王に譲位→孝徳天皇 [ 52歳 ]
654年 軽王薨去 [ 61歳 ]
655年 再び即位→斉明天皇 [ 62歳 ]
658年 軽王の息子・有間皇子が謀反の罪で絞首刑に [ 65歳 ]
661年 百済を助けるための遠征途中に、九州で客死 [ 68歳 ]

出産適齢期を考えて、633年くらいまでには間人皇女と大海人皇子も生まれているはずです。
蝦夷にとって、間人皇女は古人大兄皇子の皇后として打って付けの存在ですから、
宝は間人を取り上げられていてもおかしくありませんでした。実際、取り上げられていたのかも。
が、宝さんはこれで大人しくしておかない。
皇后となった宝さんの猛反撃が始まったのであります。それは…ある人物の登場から始まります。
天皇の末裔でしかなく、しかも蘇我総本家と縁の薄い彼女がこれ以上の権力を得るためにはどうしましょう?

とりあえず、敵は倒そう☆大作戦
敵とは誰か。まずは宝さんを「一応は蘇我氏の血を引く王族で、皇后候補を産む女」としか見ていない蝦夷。
そして、宝さんの現在の社会的地と皇后の座を脅かす山背大兄王。(夫・田村王のライバルだからね)
皇后と言ってもそんなに権力があるわけではないので、誰かを使わなければなりません。
その「誰か」とはズバリ蘇我鞍作大郎入鹿クンであります。
「宝と入鹿との愛人関係」は公認説でしょうか。田村王の死後、大王となった宝女王が愛人・入鹿を取り立てたのだと。
そんなことが本当に有り得るのか? まずは検証を致しましょうか。例の如く年表の出番です。
と思ったら、蘇我氏の人々は年齢不明!? 仕方ないので類推です。

宝女王が即位したのは642年。
この時に亡き田村王の長男であり、蘇我蝦夷の甥・古人大兄皇子の即位とならなかったのは、
最大のライバル山背大兄王の存在があります。
山背を追い落とせるほど、古人には貫禄がなかったわけですね。
642年時点での古人はまだ10〜20歳代で、ただし既に娘・倭姫が645年には生まれているので10歳代後半以上です。
ただ山背亡き後の「乙巳の変」の後に皇位継承を打診されたことから、葛城より年上というのは確定。25歳くらいと仮定します。
その母・法提郎女は10歳代後半〜20歳前半で古人を産んだと考えて40歳〜50歳くらい。間をとって45歳と仮定。

蝦夷・入鹿の古人贔屓を考えると、蝦夷と法提郎女は同母兄妹なので歳差は10歳程度。
蝦夷は一応586年生まれとなっています。これを基にすれば、645年時点で61歳。
姉妹の法提が645年時点で40〜50歳なのでギリギリ歳の差10歳程度に入りますが、ちょっとキツイかな。
おそらく蝦夷の生まれはもう少し後、590年より後ではないかと私は考えていますが、
その父・馬子が551年に生まれたとされていますので、蝦夷・586年誕生説を採用しておきます。

入鹿には644年の時点で男女の子ども(要するに二人以上の子)がいたことになっています。
(非常に嘘吐きな日本書紀によるものなので実に怪しいのですが、「自分の子を皇子・皇女と呼ばせた」とあります)
ただ入鹿の子孫が伝えられていない(女系すら!)ので、その子達は歴史に名が残る前に死んでしまったか、
史実の中に埋もれてしまったと考えられます。(祖父・蝦夷と共に自害したのかも)
ゆえにまだ幼児〜児童期(〜10歳前後)と考えられ、入鹿が20歳前後に長子が生まれたと考えると、
645年死亡時点で入鹿は年上に見積もっても30歳代前半ということになります。30歳と仮定します。

この辺りから皆々様の年齢を推察します。(は書物に載っている年齢。は夕陽作成の年齢)
宝女王
(594年誕生)
葛城皇子
(626年)
蘇我入鹿
(616年)
蘇我蝦夷
(586年)
古人大兄皇子(621年)
蘇我法提郎女(601年)
その他
626 第二子・葛城出産 33歳 誕生 1歳 11歳 42歳 6歳
26歳
 
628 35歳 3歳 13歳 44歳 8歳
28歳
推古女帝崩御(75歳)
630 皇后に 37歳 5歳 15歳 46歳 10歳
30歳
 
642 大王に→皇極天皇 49歳 17歳 27歳 58歳 22歳
42歳
 
643 50歳 18歳 父から大臣位を譲渡 28歳 病気で引退 59歳 23歳
43歳
山背大兄王一家が滅びる
645 同母弟・軽王に譲位 52歳 入鹿を殺す 20歳 殺される 30歳 自害 61歳 古人・殺される 25歳
法提も自害か? 45歳
乙巳の変

宝と入鹿は親子ほど歳が離れていますね。宝は皇后となった630年時点で37歳。一方の入鹿は15歳。
円熟マダムと若い燕に見えないこともない(笑)ので、「大王・宝女王が若い愛人・入鹿を取り立てた」説は可能です。
年齢的には宝と蝦夷の方が近いのですが、宝が大王になった翌年に蝦夷が宮廷を辞しているので、
やはり宝と入鹿に特別な繋がりがあったと考える方が自然でしょう。

もし本当に二人が愛人関係にあったとしたら、蝦夷はどう思ったでしょうか?
どう思うも何も、宝と入鹿の関係は蝦夷が仕組んだものであったと私は考えています。
宝女王が自分に対して腹に一物抱えていることは、蝦夷も感付いていたはずです。
機転が利く入鹿を宝の傍に置き、宝を懐柔しようとしたのではないでしょうか。

ところが懐柔されたのは宝さんではなく、入鹿の方でした。
結婚と出産を重ねて権力に近付こうとする強かな女王に、豪族のボンボンが敵うわけがないのです。
まあ、利害の一致もあったでしょう。入鹿は入鹿で、父・蝦夷のやり方が甘いと思っていたのだと思います。
蝦夷って母親が物部守屋の妹なので、ちょっと蘇我氏ズレしています。ここぞという押しが弱いのですね。
同族の山背大兄王に対しても強い態度がとれないのが、入鹿を殊更イライラさせたことでしょう。
宝の野望、引いては自分の野望を実現させるために、入鹿は尽力します。
田村王が死んで、今度こそと私が大王だ!意気込む山背大兄王を無視して、入鹿は皇后・宝の即位を実現させます。
「何故、古人大兄を立てない!?」と怒る蝦夷を、「古人は次の大王に」と言いくるめたのも入鹿です。
確かに古人大兄皇子は蘇我氏の言いなりになるでしょうが、山背の勢力にはとても対抗できなかったと考えられます。
山背を抑えることができ、かつ古人に皇位を継承するためには、皇后の協力が必要だったのです。

入鹿は自分が成し遂げたシナリオに満足していたことでしょう。しかし、その真の利益受容者は宝女王でした。
翌年643年、宝は入鹿の功績を称え、彼を表向きにも側近としました。入鹿は大臣となったのです。
その前の大臣は蝦夷…表向きは父子間の位の譲渡としながらも、宝は蝦夷を宮中から追い払ったのです。
宝様「最近お疲れ気味ぃ? つらいでしょー。今まで十分に働いたんだから、ゆっくり休んでねん
蝦夷「えっ!? ワシ、まだ元気……」
入鹿「ダメだぞ、親父。大王の温情は温かく受けるべきだ。さあ、さあさあさあっ!」

こうして病気を理由に、蝦夷さんは追放されてしまいました。

次なるターゲットは山背大兄王。常に宝女王の地位を脅かす、危険な存在です。
「わらわの敵をやっつけてん」の一言で、入鹿は行く。
男入鹿、女の為なら殺しも厭わぬ!(何のキャッチフレーズだよ)

愛人・入鹿との二人三脚で宝女王の権力は安定しました。
宝は皇室を、入鹿は蘇我氏&豪族の両方を傘下に置き、二人に逆らう者はない状態です。
ですが、安定したのでもうオシマイ。
邪魔者を排除するという共通目的があって初めて、二人の仲は永遠だったのです。
しかし邪魔者はもういない。強いて言えば、宝さんの邪魔者は自分の息子ではない古人大兄皇子。
でも入鹿が大事な操り人形を殺すわけがなく、共通の敵とはなり得ません。
何となくお互いにしっくり来ない。愛情は冷めていき段々憎悪へと変わって行く……オンドロドロドロ♪(BGM)
そんな時、宝さんはちょいと小耳に挟みました。息子の葛城が打倒☆蘇我氏大作戦を練っているらしいのです。

宝さん、ひらめきました。「次は蘇我氏をいただいちゃうわん
ふふふ、女の欲望は限りないのです。シャネルの次は、プラダを制覇って感じかな?(←激しく違います)
こうして645年に乙巳の変を迎えますが、ここで宝さんもちょっと痛い目に遭いました。
目の前で入鹿暗殺を成されてしまい、入鹿に「私が何をしたと言うのですか!」と恨みがましく叫ばれてしまいました。
「わらわ、関係ないも〜ん」とはちょっと言い出しにくい状態です。
宝を無理やり巻き込んだ葛城ご一行様(鎌足、倉山田石川麻呂、他)は「打倒☆蝦夷!」のために甘樫の丘へ。
(この時、宝さんが「それいけ、蝦夷をやっつけろ〜」と叫んだかは定かではありません)
蝦夷は成す術もなく(ここら辺が甘いっ!)、一族郎党(?)を引き連れて自害してしまいます。
その後に蘇我氏本家の権限は倉山田石川麻呂に移りますが、彼も葛城&鎌足に追い込まれて自害。

残されたのは女系ばかり。この女系を牛耳ったのが宝女王だったのではないでしょうか。
宝さんは乙巳の変の後、「母上、わかってますよね」と葛城に迫られて、「しょーがないわ〜ん」と譲位したか、
あるいは大王という権力そのものに飽きてしまったか。(後に、その楽しさに気づいて重祚しますが)
とにかく政治の表舞台からは一時姿を消し、倉山田石川麻呂系の女性陣をまとめて行ったと思われます。
例えば、葛城の妻である遠智郎女とその娘達(大田皇女、鵜野讃良皇女)、同じく姪郎女などの後見となって、
蘇我の女長の地位を楽しんでいたのではないでしょうか。
やがてそれにも飽きて、公共工事に目覚めるわけですが。
(奈良に現存する奇妙な建築物の数々は、彼女の退屈しのぎの賜物です)

余談:
宝女王の生き様を考える時、私は後に世に活躍するある女性を思い出します。
それは宝から遅れること100年ほどの世を闊歩する「天平のキャリアウーマン」こと橘美千代さんです。
元々の出身は県犬養氏という大したお家柄ではなく、何とか宮廷女官に滑り込むのが精一杯。
そこで掴んだ玉の輿が最初の夫・美努王(みのおう)。敏達天皇の五世ですが、王族とは名ばかりで、うだつの上がらない人。
それでも、美努王との間に、三人の子(橘諸兄・橘佐為・牟漏女王)をなします。三人とも後に活躍。
美努王の後押しを足がかりにして、時の大王の直孫・珂瑠皇子の乳母となります。
鵜野讃良皇女に気に入られたというか、「この女はできる」と思わせたのでしょう。
更に、鵜野讃良皇女の政権下で力を得ようと近付いて来た不比等と意気投合し、
珂瑠皇子の妻として藤原宮子を送り込むことに成功。そして、宮子の首皇子出産と合わせて、何と自分が出産!
もちろん、産んだのは不比等の娘・藤原安宿(後の光明皇后)です。首皇子の正妻です。
この時、美努王は捨てられたと言うか、完全無視と言いますか。
利用できるものは結婚でも信頼でも何でも利用して、自分でとっとと切り開いてしまう辺り、
立場は違えども、宝と美千代に共通点を感じます。

(中臣鎌足考察 派生物 「宝女王 この世はわらわのためにある」終わり)
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