飛鳥紀行(2007.11.14)@ いざ、甘樫丘へ!
橿原神宮駅到着は10時過ぎでした。
電車内でレンタサイクルを借りるべきかどうか、地図と相談。
どうにも坂が多そうなので、歩いて回ることにします。いざとなったらバスに乗ればよろし。
後から気づきましたが、バスはあまり本数がありません。運良くバス停で巡りあったら乗るとよろし。
@ 剣池(孝元天皇陵)
てくてく歩いて、まずは第一の目的地「甘樫丘」を目指します。
何せ入鹿の居住地ですもの。鎌足考察に苦戦しているワタクシとしましては、
あの曲者鎌足に勇敢に立ち向かった(違)入鹿殿の気力と根性にあやかりたいところです。
その途中で「剣池(石川池)」の横を通りました。池内の古墳は孝元天皇のものらしいです。
で、孝元天皇って誰よ? 欽明以前はあまり知らないのです。
ただ、「剣池」という名は面白いなと思いました。
写真を御覧になって下さい。池に陵がはっきりと映っています。まるで鏡みたい。
漫画やアニメで、剣を構えると剣がピカーンと光って持ってる人の顔が映ったりするシーンがありますよね。
それを思い出しました。(無駄に思考回路がドラマチック。既にテンションがおかしい)
水はものすごく綺麗ではありませんでしたが、鴨がのんびりと泳いでいてのどかな雰囲気でした。
そして、池の横には紀皇女(天武天皇の娘)の歌碑がありました。
「軽の池の 浦廻(うらみ)行き廻(み)る 鴨すらに 玉藻の上に 独り寝なくに」(漢字変換等しています)
歌自体は「池の鴨ですら独りじゃ寝ないのに」という意味です。
要するに「鴨ですらラブラブなのに、あたしは独りなのよ。寂しいわぁ〜」という嘆きですかね。
彼女が嫉妬した(?)鴨が私の見た鴨のご先祖だったら面白い(笑)
A和田池
てくてく歩くと住宅街に迷い込む!?
方向は間違っていない、と突き進むも行き止まりに辿り着く。甘樫丘らしきものも見えない。ギャー!!
通りがかったおじさんが「とりあえず和田池に出なさい」と教えてくれた細い道を進む。
すると、ありましたよ、和田池。
雰囲気的に「剣池」とよく似ていて、しかも古墳っぽい島(池内の盛り土)があって、
「誰の古墳だろう?」と説明書きをかなり一生懸命探し回ったのですが、ありませんでした。
なくて当たり前。これは用水池でした(爆笑) 工事の記念碑が建っていました。
(左写真) 赤い丸をつけた所が甘樫丘です。手前が和田池。ちょっと距離がありそう……
(右写真) 和田池内の盛り土、と言うか森。古墳っぽいと思ったんだけどなあ。
B甘樫丘
和田池から豊浦寺跡(推古女帝の宮の一つを、寺に改めたもの)の前を通り、いざ甘樫丘へ。
畑仕事をしていたおっちゃんにショートカットコースを教えてもらう。
おっちゃん曰く、「天皇陛下が登らはった」らしい。どの天皇なのかは聞きそびれました。昭和?
正面の有名な道は帰りに下りることにして、田んぼ道に通じている側道を登ります。
ですが、どうにもこうにも頂上から離れていく気配!?
随分進んでから標識を見つけまして、自分が目的地から遠ざかっていることが判明……
うわ〜、これも蘇我氏を嫌う鎌足さんの呪いなのか! それとも単に私が天性の方向音痴なのか!!
半泣きになりながら、ようやく見つけた曲がり道を進みます。しかしこれがやたらとアップ・ダウンがキツイのです。

意地になって早足で進む内に、いつの間にか行進曲もどきを歌っていました。
「鎌足なんて怖くないー 怖くないったら怖くないー♪」(三匹の子豚のメロディーで)
歌っている自分に気がついて、かなり末期症状だなぁと自己嫌悪(汗)
そして、ようやく甘樫丘展望台へ。時刻は午前11時を回る。
たくさんの先客(遠足の中学生と観光客のおじさま・おばさま)がいまして、かなり混雑。
ここで、西大寺で仕入れておいた柿の葉寿司を食べました。
事前情報で「明日香村には食べる所がほとんどない。弁当を持参すべし」とあったのですが、
まったくもってその通りでした。持って行って良かった〜。
で、食べている間に周囲の会話を盗み聞き。
遠足の引率の先生「ここから大和三山が見えるのよ。さあ、どれだ。探せー」
遠足の中学生「簡単や。左が畝傍山で、真ん中が耳成山、右の方が香具山〜」
夕陽さんの内心「ほぅほぅ、ここから見えるのかい(←知らなかった)。とりあえず、パシャッ(←写真を撮る)」

(写真左) 甘樫丘から畝傍山。後で、ひそかに写っていた二上山の存在に気づく……(赤矢印) 大津皇子、ゴメン。
(写真右) 甘樫丘から耳成山。手前が藤原京…のはず。
香具山がどれかわからなかった……中学生に訊くのは、さすがに恥ずかしい。
観光のおじさま「(仲間に説明中)あれがさっき行って来た飛鳥寺やで。で、森が坐神社や」
割り込みの夕陽さん「すいませーん。どれが飛鳥寺ですか?(←ずうずうしい)」
観光のおじさま「わしら、さっき行ってきたんや。あのちっちゃいのが蘇我入鹿の首塚や」
ずうずうしい夕陽さん「ほぉ、あれですかぁ。パシャッ」
観光のおじさま「あっちのこんもりした所がな、飛鳥坐神社や。屋根だけ見えとるやろ」
ずうずうしい夕陽さん「おぉっ、あの木の中やつですか。パシャッ」

(写真左) 赤矢印が飛鳥寺で、青矢印が首塚。って、これじゃわからないって……
(写真右) この辺が坐神社のはず。見えなーい(泣)
いやいや、親切に教えていただきました。(ずうずうしいにもほどがある)
それにしても、すごい絶景ですね。360度近く周辺を見渡せます。
飛鳥全体を見渡せるこの地に館を築いた蘇我氏の財力と権力に驚きます。
ここから見れば、すべてのものは下に見えます。
しかし、これが「入鹿が大王になろうとした証拠だ」という説は成り立たないと思います。
蘇我氏の力によって当時の大王一家が成り立っていて、お互いに利用していたはずです。
かつては大伴氏などが持っていた力を蘇我氏が奪ったというだけであって、それ以上の意味はない。
思うに、入鹿達を滅ぼしたのは他の豪族の嫉妬だったのではないでしょうか。
古くからの豪族に比べれば新興勢力に過ぎない蘇我氏を倒し、古き良き時代に立ち返ろうとしたのでしょう。
そんな雰囲気を煽ったのは言わずと知れた中臣鎌足なわけでして……悪くて賢いです、彼は。
大王に権力が集中するシステムを追求した鎌足は、まずは蘇我氏を倒し、
その後は内輪揉めを起こさせたり謀反をでっち上げたりして、豪族の弱体化を図っていきます。
そんな鎌足が後に最大最強の豪族(貴族)グループ「藤原氏」の祖になるのですから、何とも皮肉ですね。
って、考察してどうするよ。これは紀行文なのに……
甘樫丘(正確には、そこから見える風景)を堪能し、てくてくと下りる。
ここで気づく。さっき来た道の勾配の緩さが懐かしくなるくらいの急勾配を下りなければならない。
う〜、足に響く。これからいっぱい歩かなきゃならんのにぃ。
(写真) 誇張でなく急勾配です。杖をついている方は大変そうでした。
下りる途中に、今度は志貴皇子(天智天皇の息子)の歌碑を発見。
「采女の 袖吹き反す 明日香風 都を遠見 いたづらに吹く」(万葉仮名から変換しています)
持統天皇の時代に、都は飛鳥から藤原(すぐ北の地域)に移ります。
その後、更に北の平城京へと移り、その後にずっと北の平安京へ。
こうして飛鳥は忘れられた都となってしまったのですね。だからこそ遺跡がたくさん残っているわけでもありますが。
さぁ、甘樫丘に別れを告げて、蘇我氏の寺とも言える飛鳥寺へ行きましょう。
と、ここで私はアホなことをしました。
飛鳥川を渡ればすぐに水落遺跡やら伝飛鳥浄御ヶ原跡があったのに、何故か川に沿って南下。
仁和寺の法師の話ではないですが、私のような人間には案内してくれる人が必要です……
でも、そんな道中で見つけたある物に心惹かれて、妄想大爆発! 何だと思いますか。
これです。

明日香村は正確には奈良県高市郡明日香村といいます。
「ゴミは持って帰って!」という「高市ライ○ンズクラブ」の立て看板だったのですが、
そうとわかっていても反応してしまう私の脳みそ。
「高市がライオン……うん、ライオンっぽいぞ。お兄ちゃんだもんね(←意味不明)
草壁は猫だろうな。ツンとおすましして、なかなか人に懐かないのですvv ペルシャ猫っぽいぞ。
大津は間違いなく犬でしょう! 中型犬以上だな。うん、ぴったりだ☆
十市姉ちゃんは美人なので狐(←はっ?)で、大伯さんは犬だけど小型犬がよろし」
誰か、私を止めて下さい(汗)
(まだまだ続きます)
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