飛鳥紀行(2007.11.14)A 飛鳥寺 ツワモノ共が 夢の跡


甘樫丘(あまかしのおか)を下り、「高市ライオン」のおかげでご機嫌(笑)な夕陽さんが
続いて向かったのは蘇我氏総本家の氏寺(うじでら メインテンプルのこと)の飛鳥寺。
稲刈りも終わった田んぼの傍にたたずむ、ちょっと寂しげな飛鳥寺。
葛城皇子が境内で蹴鞠をやったと言う割には、メッチャ敷地が狭い飛鳥寺。
「ほんまにあの蘇我氏の氏寺かい?」と突っ込みたくなるほど小さな飛鳥寺。
別に蘇我氏に喧嘩を売っているわけではございませんよ。素朴な感想です。悪しからず。

さて、飛鳥寺に行く前に、寺の敷地外にぽつりと建つ「蘇我入鹿首塚」なるものに詣でましょう。

可愛らしい野の花が供えてありました。
後で聞きかじったところによると、花のある季節には必ず誰かが花を供えて行くそうです。
入鹿ってば、愛されてますねー☆
この首塚なる物はなんぞや、というご説明を。こんな逸話がございます。
 When :  645年に
 Where :  飛鳥板蓋宮(宝女王様の宮殿)で
 Who :    葛城皇子&中臣鎌足が
 Whom :  蘇我入鹿を
 Why :    何でなのか、よくわからないけれど(いろんな要因があるんでしょうよ)
 How :   殺した

という事件(乙巳の変)が起こりました。
「次は蝦夷をやっつけろー」と葛城や鎌足が向かった先がこの飛鳥寺です。
その鎌足さんを刎ねられた入鹿の首が追い駆けて来て、力尽きたのがこの首塚の場所だとか。
「あら、入鹿ってば。死して尚、鎌足さんのことが気になるのね」という素朴な感想は置いておきまして、
実に常識的なツッコミを致しましょう。
刎ねられた首が誰かを追い駆けることは絶対に有り得ません!
「何を当たり前なことを…」と呆れないで下さい。大事なことです。

刎ねられた入鹿の首は当然のことながら飛鳥板蓋宮にゴロンと転がります。
その首が飛鳥寺の近くまで移動させられたということには、どういう意味があるのでしょうか。
ここで、飛鳥寺・首塚・甘樫丘の位置関係を把握しておきましょう。
   

右の写真は「@いざ、甘樫丘へ!」でも掲載した写真と同じ物です。(甘樫丘から飛鳥寺の方を臨んでいます)
御覧のように、甘樫丘から飛鳥寺の方を見下ろした時、現在の首塚の位置はよく見えました。
ということは次のようなシチュエーションが考えられるのではないでしょうか。

 息子の暗殺を知らされ、呆然とする蝦夷。「鞍作の敵討ちを!」と叫びます。
 と、飛鳥寺の方から何やら雄叫びが聞こえるではありませんか。
 続いて、館の女達が飛鳥寺を見下ろして悲鳴を上げます。
 「何事だ!?」と怒鳴る蝦夷に、長く蘇我氏に使える老婆が「鞍作さまがぁ!」と泣き叫びます。
 眼下の飛鳥寺付近に一際明るく焚かれた火。その傍に小さな何かが掲げられています。
 「あれは何だ?」と蝦夷は震える声で尋ねます。しかし、誰も答える者はありません。
 代わりに下からは、「入鹿の首を獲ったぞ。次は蝦夷だ」と雄叫びが上がります。
 その声は次第に広がり、甘樫丘を囲むように歌われるようになりました。


以上、妄想に基づくフィクションでした。
ずっと気になっていたのです。どうして蝦夷が戦わずして死を選んでしまったのか。
何らかの方法で精神的に追い詰められたのではないか、と考えていたのですが、
首塚の傍に来て位置関係を確認してみて、「もしかして、こんなことがあったのでは?」と思いました。

蝦夷を含めた蘇我氏総本家が倒れた後、その首はどうなったのか。
首塚の位置に放置されたのでしょうか。それとも、あまりにも哀れだと思った誰かが供養したのでしょうか。
できれば……本当にできればでいいんですが(←めいいっぱい言い訳)、
鎌足さんが供養したんだといいな、と私は思います。唯一無二のライバルを讃えて、という名目で。

首塚でしんみりし過ぎて、随分時間をとりました。今度こそ、飛鳥寺へ参りましょう。

ご本尊の飛鳥大仏さんです。正面から。
いやー、すっきりとしたお顔立ちで美人ですねー。素敵ですねー。ワンダフルですねー。
(何故こんなに褒めるのか。もちろん、これにはウラがある)
受付で貰ったパンフレットによると
「飛鳥寺は蘇我馬子が588年に発願し、推古天皇時代に創建された日本最古の寺。」
「飛鳥大仏は推古天皇が鞍作鳥(くらつくりのとり)という仏師に造らせた、日本最古の仏像。」
と、何やらものすごく古い物だとのこと。
(鞍作鳥と言えば、法隆寺のご本尊を彫ったのも彼です。この二体の仏さんは似ているそうです。)
ですが住職さんによると、大仏さんのほとんどは後世に作り直していて、三ヶ所だけが飛鳥時代のままだとか。
しかも、寺自体は落雷やら火災やらに遭って、一時はこの大仏がいる建物すらなかったこともあるそうです。
田んぼの中にむき出しの大仏さんがいらっしゃったわけです。
それはあんまりだろうということで、付近の皆さんが大仏に草をかけて、何とか雨風を凌いでいたとか。
なんとまあ苦労していたのだなあ。うっうっ(号泣)

ところで、寺に参拝すると「ご本尊の写真は撮らないで」と言われることが多いです。有名な観光地ほどそうですね。
この飛鳥寺では「どうぞ、どうぞ。たくさん撮って下さい」とありがたいお言葉。
上の写真は正面から撮っているのですが、大仏さん自身が斜めに向いているのがおわかりになりますでしょうか?
 (←左からの写真) と (右からの写真→) 
右から見ると柔和な感じがするのですが、左から見るとちょっと暗くて陰のある感じ。
見る角度でこんなに印象が変わる仏像も珍しい。
ちなみに、正面あるいは右から撮った写真に、白菜が写っているのです。地元産なのでしょうね。
蓮や菊だけでなくこういう物が供えてあるところに、グッと来ました。

で、なんで大仏さんの容姿を褒めたのかと申しますと……似てるらしいです、私の顔が。
飛鳥寺を参拝していた見ず知らずの方が、突然私と大仏とを代わる代わる凝視して、「あれ、似てますね」と。
似てるかなぁ? 「東大寺の大仏に似てる」だとかなりショックですが、飛鳥大仏なら許容範囲です!(←えらそうだ)
入鹿や古人大兄皇子も拝んでいたであろうお顔と似ているとなると、お得な気がするのは何故だろう(笑)
生憎、彼らに拝まれるようなことは一切しておりません。逆に怨まれるような考察をした覚えはたくさんあります!

さて、冒頭で「葛城が境内で蹴鞠をしたはずなのに、なんでこんなに狭いの?」という疑問を出しましたが、
これは解決しました。昔の想像図が飾ってありました。

どうやら昔は敷地がもっと広かったようです。建物もたくさんあったし、境内で蹴鞠も可能だったわけ。
多分、首塚の辺りも飛鳥寺の一部だったのでしょうね。

この後は岡寺を目指して南へ歩いて行くつもりだったのですが、ちょっと北に寄り道。
さっき甘樫丘で教えてもらった「飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)」に行ってみました。

森というか小さな山(鳥形山というらしい)に突き当たった所に、唐突に鳥居がありました。
神社自体はこの急勾配(←甘樫丘に続いて、また!?)な階段を登った先にありました。
「飛鳥に居ます神社」なんていう名前から、古そうな気がしますが、
元々は別の場所にあって、平安時代にここに引っ越して来たらしいです。
とは言え、元々古くからの民間信仰があったようです。
境内には、自然崇拝の対象だったと思われる人間の子どもくらいの大きさの石だらけでした。
こういう小さな森って、小学生くらいまでの子どもが大好きですよね。秘密基地っぽくて。
自分と同じくらいの大きさの石の後ろで、隠れん坊とかしたり
葛城が間人皇女と大海人皇子を連れて来て、三人で隠れん坊とかしていたりして!
時々古人もやって来て、葛城達に強請られて、一緒に遊んでいたりして!
もしかして、鎌足さんと入鹿クンも……というオソロシイ妄想には、幸いなことに至りませんでした。
鎌足さんは幼少期は飛鳥にいなかったと思われますし、二人は一緒に遊ぶような仲じゃなかったものね。
それより何より、鎌足さんと入鹿が隠れん坊なんてしていたらドン引きします(笑)

この神社で面白かったことがもう一つ。
この日は遠足や修学旅行中の生徒さんがたくさん居ました。
多分、飛鳥寺はどの学校でもチェックポイントになっているのでしょう。
しかし、この日は夏かと思うくらい暑かったので、皆さんフラフラ。地図もちゃんと見てないみたい。
飛鳥坐神社を見るなり「あったぞー、飛鳥寺!」「やった、休憩だぁ!」と叫ぶ声、多数。何組も……
「残念でした。寺に鳥居は有りませんっ!」と木の陰で爆笑する夕陽さんがいたことを、彼らは知らない。

(まだまだ続きます)
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