飛鳥紀行(2007.11.14)B 陸の孤島 岡寺


飛鳥坐神社を辞し、今度こそ岡寺を目指して南下します。
それにしても、11月半ばが嘘のように暑い! 前方を歩く中学生のジャージ姿が羨ましくなりました。
彼らの後をてくてく着いて行くと、途中で「酒船石」への曲がり道。
中学生は遠足のチェックポイントになっているらしく、そこを曲がって行く。私も何となく着いて行く。
で、随分と上まで登って、確かに「酒船石」と呼ばれる岩はありました。
ですが、だから何だよ、と言いたくなりました。写真で見れば十分です。
「これだけ!? これのために、あたしら登って来たん?」という女子中学生の怒りの叫びが心に響きました。

次いで、伝・飛鳥板蓋宮跡にも寄って行く。伝・飛鳥浄御ヶ原でもあるらしい。
645年に乙巳の変の現場になったと言われている場所です。
さっき訪れた飛鳥寺は遥か彼方、というほど遠くはないのですが、
それでも入鹿の首が飛んで行くには、どう考えても距離がある。無理無理。
ところで、明日香村に限らず関西には古代の遺跡が多いです。どこか掘ったら何かが出て来る。
それを保存しようという心意気に依存は無いですが、神話時代の「〜天皇陵」まで残す意味があるのでしょうか?
保存するなら、ちゃんと調査した上で後世に遺す価値があるのか決めるべきではないでしょうか。
変に「国の文化的財産」とかにしてしまうから、まともな保存もできない。
どこぞの古墳が、現在進行形でピンチに陥ってますよね。(忍壁皇子よ、あなたのお墓かもしれないのに……)


さてさて、いよいよ岡寺に参ります。超楽しみ♪
え、何でかって。だって、草壁皇子が幼き頃に過ごされた、との逸話がある場所ですよ!
草壁Fanなら、ここをスルーしてはいけません☆
てってけてってけ、心ウキウキ★ワクワクしながら登っていられたのは、最初のみ。
またもや急勾配を登る! しかも、かなり長い!!(泣) 甘樫丘の勾配が可愛く思えて来た……
まったくもって、ここは自転車じゃなくて良かったですよ。(他の所は自転車の方がいいと思います)
岡寺までの坂道の途中に「岡本寺」というよく似た名称の小さな寺を発見。

何やら「天智天皇の岡本宮の跡」らしきことが書いてありました。彼の館があったのね。
この時は、ああそうなんだ、という程度の感想でした。そして、また坂道をえっちらおっちら。
数十分後、この急な坂道が重大な意味を持つことに気がつきます。

登って登って、とにかく登り続けて……教訓:岡寺に行くなら、ウォーキングシューズ着用。
やっと辿り着きましたよ、念願の岡寺に!
西国寺巡りの一つになっているらしいですが、そんなことは私にはどうでもいい(笑)
草壁様がここにいたかもしれない。その逸話だけを頼りに汗だくで登って来たのです。
疲れも忘れて、ウキウキと受付へ。
住職さんに「ここって、古いんですよね?」と尋ねたことから、会話は始まりました。

 住職さん「建物は建て替えてますけどね。創建はかなり古いですよ」
 夕陽さん「ああやっぱり。草壁皇子がこの辺りで育ったって聞きました(←別に探りを入れたわけではない)」
 住職さん「ええ、
子供がいなかった天智天皇が、娘が産んだ子をお引取りになったそうですよ。彼女が後の持統天皇です。
        この意味、わかります?」(この時、住職さんの目がキランと光った気がした…)
 夕陽さん「えっ……ああ、はい。持統天皇の子を……って、えっ?
       
引き取ったってことは、天智天皇が草壁皇子を育てたってことですか!?
 住職さん「そう伝えられています(ニッコリ)」


と、ここで別の拝観者が受付に来られたので、会話は終了。
住職さんに深くお礼を申し上げて、岡寺内に入ります。
ご本尊も見たし、鐘を撞いて「草壁様、来ましたよ〜」と意味不明な報告(笑)もしたし、
創建者の義淵僧正が悪い龍を閉じ込めたという伝説がある龍蓋池も見ました。
正面の仁王門も本堂も立派で、拝観する価値はものすごくあったのですが、
如何せん、私の頭の中は先程の会話の内容を整理整頓することに忙しかったのであります。
自然と足は人のいない方へと向き、岡寺の奥を登った所まで辿り着きます。
かなり奥の方まで山道は続いていました。晴れた日なのにジットリとしていて、とても寂し気。
見下ろすと、岡寺は陸の孤島であることを思い知らされます。

多分、写真の左上が甘樫丘だと思いますが、岡寺はあれよりもずっと高度が高いようです。

(ここからの考察は古代史ページの「大津皇子 許されざる皇位」と一部重なります)
さて、事前情報などと合わせて整理すると、次のような経過があったことになります。
草壁皇子 出来事
661年
(斉明7年)
  異母姉・大伯皇女誕生
7月 宝女王(斉明天皇)が遠征先の九州で崩御
10月 宝女王の遺骸と共に、葛城らは飛鳥へ帰京
11月7日〜 飛鳥川原宮において殯が執り行われる
662年
(葛城称制1年)
誕生 1歳
すぐに葛城の所へ?
 
663年
(葛城称制2年)
2歳 異母弟・大津皇子誕生
白村江の戦いで負ける
義淵僧正が「草壁皇子が住んでいた」岡本宮を賜り、寺とする
665年
(葛城称制4年)
4歳 間人皇女(前皇后)崩御
666年
(葛城称制5年)
5歳 宝女王、間人皇女、太田皇女、建皇子(太田の実弟)を葬送
667年
(葛城称制6年)
6歳
母の元へ返される?
近江の大津に遷都(即位は翌年)
大伯と大津が葛城に引き取られる?

まず、パンフレットに載っていた663年の出来事について、訂正します。
岡寺の創建者とされる義淵は「草壁皇子と共に育てられた」とされています。
しかし、岡本宮を寺にする時には成人していなくてはいけないので、草壁と共に養育されることは不可能です。
よって、本当の岡寺創建はもっと後のことと考えられます。
奈良時代に入ってからの創建説もあるので、こちらの方が正解でしょう。

662年には草壁が生まれています。場所は確定されていません。
前年661年に宝女王がついに力尽きて、飛鳥でお葬式開始、との記事が有ります。
この時に皇族ご一行が全員飛鳥に戻ってきたかどうかは定かではありません。
葛城は次代の大王として殯に参加する必要がありましたが、その実弟・大海人は微妙な立場です。
しかも妻の一人である鵜野讃良皇女は身重で、太田皇女は幼子(大伯)を抱えていました。
大海人が彼女達を連れて飛鳥まで戻ることができたのかはちょっと微妙な所ですね。
しかも、草壁と大津は福岡の大津で生まれたという説が有力なので、
太田&鵜野讃良姉妹は飛鳥へ戻らずにしばらく九州にいたということなのでしょうか。

では、草壁が葛城に引き取られたという岡寺の主張を考えてみましょう。
 
When(いつ):    わかりません。662年に生まれてから、667年までとしか言えません。
 Where(どこで):  岡本宮で(現在の岡寺の場所そのものではないらしく、さっき通った岡本寺の辺りが含まれるか?)
 Who(誰が):    葛城皇子(当時、称制中)が
 Whom(誰を):   草壁皇子(娘の子であり、弟の子)を
 How(どうしたか): 引き取って養育した

さて、ここで気になるのは
Why(どうして?)です。
「子供(息子)がいなかった天智天皇が、娘の産んだ男の子を引き取って養育した」というのが岡寺の主張ですが、
なぜ
「葛城皇子に息子がいない」と「草壁が引き取られる」という結果に繋がったのでしょうか。
だって、本当は葛城に息子がいなかったわけじゃないんですよ。
草壁よりずっと年上の大友皇子は既に生まれていましたからね。(ただし、采女の子)
それに、
草壁とまったく同じ条件の男の子(娘の産んだ子で、弟の子)である大津だっているではありませんか。
なぜ、葛城に引き取られたのは草壁だったのでしょうか?

ここで再び年表を御覧下さい。667年にご注目。
葛城は667年に近江へと都を移します。
この時、
大伯&大津姉弟を葛城はなぜか引き取っています
なんでも「長女・太田のことを可愛がっていたので、その遺児を引き取った」らしいです。
では、それまで葛城のもとにいた草壁はどうなったか。これは資料がありません。
ですが、671年(天智10年)に大海人が吉野へと逃亡する際には、
草壁は母・鵜野讃良と共に父に付き従っています。(大津は近江に留め置かれる)
よって、
近江に移ってからは草壁は鵜野讃良のもとで育てられたと考えられます。
つまり、
草壁は大伯&大津とトレードされる形で、ようやく両親のもとに返されたということになります。

以上のことから、Why(どうして?)は次のように考えられます。

 葛城皇子には後継者となる身分の高い息子がいなかった。
 一方、実弟の大海人皇子には皇位継承可能な息子が二人も生まれていた。
 正妻の太田皇女からは嫡男・大津皇子が。その実妹・鵜野讃良皇女からは草壁皇子が。
 この頃の大海人は朝鮮半島出兵に反対するなど、政策上で葛城と行き違いがあった。
 葛城はもともと疑い深い性格で、多くの政敵を闇に葬って来たが、その矛先は実弟に向きつつあった。
 実弟を従わせ、自分の権力を確立するためには、人質をとる必要があった。
 そこで自分の次女である鵜野讃良が産んだ草壁を引き取ることにした。

 しかし666年までに太田が死去し、状況は一変する。
 亡き姉・太田に代わって鵜野讃良が大海人の正妃となり、嫡男の地位も大津から草壁に移る。
 よって近江遷都を機会に、草壁は両親のもとへと返され、逆に大津は葛城に引き取られた。


ということではないでしょうか。血も涙も無い話だ……
こういうことを考えたのは葛城本人なのかどうかについて、私は違うと思います。
おそらくは
中臣鎌足の知略知慮でしょう。
何故そう言えるのか。
それは、鎌足が葛城&大海人兄弟の仲険悪化の歯止め役になっていたからです。
(近江にて鎌足亡き後、二人の仲は超険悪になります。)
葛城の疑い深い性格に任せてしまっては、大海人を何かの罠にかけて追い落とすくらいはやりかねません。
しかし、
大海人は葛城の実弟。葛城とまったく同じ血筋の皇位継承者です。
異母兄・古人大兄皇子や甥・有間皇子の命を奪った事例とは、話が全然違います。
大海人を追い落としてしまえば、ようやく従い始めた豪族達へ及ぼす影響力は絶大なものとなるでしょう。
かと言って、
大海人が力をつけて「豪族達の人気をとるようなことがあってはなりません
だから、
鎌足は葛城に進言したのです。
「弟君を殺してはならない。しかし、生かすこともいけない」、と。

そして、
大海人の行動を抑制するために息子を人質とすることを提案しました。
嫡男を手元に残しているのだから、他の者を人質に出すことに問題はないはずです。
この当時に家制度はありませんが、父から嫡男への継承(財産や地位)は存在していたようです。
だから、嫡男以外の子ども達は二の次になるのです。

大海人にとって当時の草壁は嫡男ではありませんでしたので、葛城の命令を拒むことは不可能でした。
ですが、鵜野讃良皇女にとってはどうでしょうか?
彼女にとって、草壁は唯一の子供です。
同居していた実姉・太田の手元には二人の子供がいるのに、自分の息子は奪われてしまった
仕方がないとは言え、正妻でない自分の立場をこの時ほど怨んだことはないのではないでしょうか。
一方の太田皇女も、自分だけが子供達と幸せな時を過ごしていることに非常に苦しんだと思います。
鵜野讃良の寂しさが手に取るようにわかっていたでしょうが、彼女にはどうすることもできませんでした。
自分に気を使い続ける姉に対し、鵜野讃良は「全然寂しくないわ。子供なんて、居たらうるさいだけよ」と、
強がりを言っていたのではないでしょうか。
わざと乱暴な態度をとって、さも子供嫌いであるかのように振舞ったりして。
しかし、時には隠れて一人涙することもあったと思います。

そして草壁本人にとっても、決して良い養育環境では有りませんでした。
どんなに大切にされていても、所詮は人質です。
岡本宮の采女や舎人達の目は決して温かなものではありませんでした
四、五歳にもなれば、周囲の言動から自分の立場を察した(気づかされた)はずです。
ですが確かな情報が与えられるはずもなく、子供心ながら疑心暗鬼に陥るばかり。
共に育つ義淵は、観音様が子供のできない夫婦に預け子供であるという伝説が有りますが、 要するに捨て子です。
草壁が「私も捨てられたのかな……」と義淵につぶやくこともあったのではないでしょうか。
草壁よりは多少事情を知っている義淵も、言ったってまだ子供。
身を寄せ合うようにして山手から遠くを見下ろし、記憶に無い両親の顔に思いを馳せることしかできません。
もしかすると、岡本宮の警備の目を盗んで下界(?)に降りたこともあったかもしれませんね。
尤も、一目だけでも母の姿を見ようと太田&鵜野讃良の館に近付いたとしても、
警備の舎人に阻まれ、正体を名乗ることもできず、すごすごと帰るしかない。
幼少期に孤独を強いられたからこそ、草壁の両親に対する想いは特別なものだったのではないでしょうか。
だからこそ、後に日嗣皇子となることを自分に似合わないのを承知で承諾し、
両親の目指す安定国家の礎になろうと、懸命に努力したのだと思います。

寂しい山道を歩く内に母子の孤独な時期が思いやられ、どうにも辛くなりました。
ゆっくりと山手を歩いて、岡寺を辞す前に義淵僧正のお墓に詣でて来ました。
彼が亡くなったのは728年。草壁の死から40年近い歳月が流れていました。
孤独を分かち合った幼馴染の早世を、彼はどのように感じていたのでしょうか。

(まだまだ続きます)
Copyright (c) 2007 夕陽 All rights reserved.