兄 弟

 すべては仕組んだままに、予定通りに事は進む。
 いささか手応えの無さを覚えることもあるが、仲麻呂は自分の手際の良さに陶酔しきっていた。
 御簾の向こうには、大王である阿倍内親王が退屈を隠し切れずに欠伸をかみ殺しているし、その奥では頷きながら微笑む光明皇后。
 議題は次々に上がる。仲麻呂はそのすべてを事前に把握し、答えを用意し、しかし自分では答えない。配下の者に己の意見を言わせ、それをあたかも初めて聞いたかのように賞賛し、決定する。誰も彼の進行に逆らえはしない。
 完璧だ。一点の曇りも、わずかなほころびも有りはしない。
 そうして今日も御前での話し合いが終わり、仲麻呂は満足気に立ち上がると、ゆっくりと御前を後にした。途中、悔しげに睨む橘奈良麻呂や恨めしげな大伴氏の連中の顔が見えたが、それすら小気味良い。
 今日の成果について配下の者が話しかけてくるのに相槌を打ちながら、仲麻呂は、はて、と足を止めた。誰かが自分を追って来ているような気がしたのだ。
 奈良麻呂らであれば、鼻息も荒々しく粗忽な足音を立てているだろう。だが、追いかけて来ている気配は早足なのに落ち着いた感じがした。
「それで、この後の手筈ですが――」
 配下の者の言葉を途中で遮り、仲麻呂は背後を振り向いた。
 相手はちょうど廊下を曲がって来たところだった。
「おや、これは珍しい……」
 追って来ていたのは仲麻呂の実の兄、豊成だった。右大臣ともあろう者が供の者を一人も連れる余裕もなく、仲麻呂を追いかけて来たらしい。
「これはこれは右大臣殿、私に何かお急ぎの御用ですか?」
「紫微内相殿、少しお話ししたい議があるのですが」
 相変わらず真面目腐った言葉で、豊成は仲麻呂に相対した。
 仲麻呂はわざとらしく、考えを巡らせるふりをして見せた。
「いやー、これから紫微中台で視察がありましてね。どうです? 今宵にでも我が家へいらして、酒でも飲みながらお聞きしましょう」
「仲麻呂、長くは取らせん」
 仲麻呂は思わず目を細めた。
 実に珍しいことに、豊成は仲麻呂の名を呼んだ。宮中では実の兄弟であっても役職で呼び合うことが多く、特にこの兄はそう言った世間体的なことには煩い人なのに。
「先に行け」
 配下や供の者達を促して去らせると、仲麻呂は改めて兄に向き合った。
「何だよ。俺は忙しいんだぜ」
「ああ、さぞかし忙しいだろうな。他の家の者達を潰して、地位も仕事も取り上げていれば当たり前だ」
 豊成の口調は少し辛辣だった。皆には温厚だと思われて、何だかんだで結構慕われている兄から棘のある言葉を受けるのは、まあ悪くない。
「あのなあ、家柄だけで宮中に居残ってる野郎共なんか、潰れて当然なんだよ。大昔のエライ人やら大王やらの血を引いてるってだけでデカい面してる奴は追い出す。それが藤原氏の悲願だ。俺はやるぜ。無能な奴は大っ嫌いだ」
 藤原氏の初代、中臣鎌足が目指した大王中心の国家作りは、息子の不比等の手によって着実な成果を見せた。古くからの豪族達やあまたの数となった王族達の力は削がれ、唯一藤原氏だけが繁栄を極めている。
 もちろん、古い豪族の勢力も上手く取り込んできた。仲麻呂達の祖父に当たる不比等は滅びつつあった蘇我氏から最初の正妻を娶り、三人の息子をもうけた。その長男の武智麻呂は名門の阿部氏から妻をもらい、それが仲麻呂や豊成の生母である。
 王族とも無縁ではない。仲麻呂は妻の一人は藤原氏の血を引くものの大王の孫娘だし、正妻の母親も王族の末だ。と言っても、仲麻呂達の叔父である房前の娘なので、こちらも身内なのだが。
 それでも、仲麻呂は容赦しなかった。それどころか、武智麻呂の世代で四つに分かれた藤原氏の他家にすら攻撃を仕掛けた。そして、実兄であるこの豊成のことですら、味方だとは思っていない。
 豊成もそのことは重々承知しているはずだ。いつ敵に回ってもおかしくない。
 だが、豊成は仲麻呂の顔を見て、深いため息を吐いた。
「追い出すにしても、もう少し穏便にやれ。今に寝首を掻かれるぞ」
「ケッ、ご忠告どうも」
 心底心配していますという顔に、仲麻呂はうんざりして視線を外した。
 母親譲りの細面の顔に、父親譲りの学者じみた生真面目な性格。アンタに政治なんか不向きだ、やめちまえ、と何度も言ってやった。それなのに、実の弟である仲麻呂に役職を抜かれて、実質的に藤原氏の氏上の地位も奪われたのに、何をするでもなく不器用にも宮中に残り続けている。
 このままでは兄を攻撃してしまう。
 仲麻呂は恐怖を覚えている自分に、いつしか気が付いていた。
 他の者のように完膚なきまでに潰してしまうことだって可能だ。そうしなければ、それこそいつ寝首を掻かれるのかと怯えなければならない。そんな感情、この兄に持っていたくない。
「いいかげん、引っ込んでくれよ」
 口にしてから、しまった、と思った。つい、思っていることが声になってしまった。
「あ、大伴氏のじじい共のことな。あと、バカのくせに親父の七光でバカ晒し続ける奈良麻呂とか、あのへんのこと。あと、うざいのは――」
 慌てて誤魔化す仲麻呂に、豊成は寂しそうに笑った。そして何も言わずに背を向けて、廊下を引き返して行った。
 何も言えずに見送って、仲麻呂は独り取り残された。
「……畜生」
 どこもかしこも殴りつけたくなる衝動を、仲麻呂は必死に押さえ込んだ。
 追い出さなければ、この宮中から。そうすればきっと、静かな生活が得られる。その方が兄には似合っている。
 鬱屈した思いをふつふつと湧き起こらせながら、仲麻呂は紫微中台への道を急いだ。

(C) 2010 Yuuhi

-------------------------------------------
(後書き)
757年橘奈良麻呂の変の直前を舞台にしたお話です。
この事件で橘奈良麻呂や王族数名、大伴古麻呂などが獄中死させられました。
また、豊成は事件に関与したとして大宰府へ左遷されますが、豊成は病気を自称。
仲麻呂が乱を起こして誅されるまでの8年間もの間、隠遁生活を送り続けます。
そうして仲麻呂の死後に、豊成は政界に復帰しました。

仲麻呂は豊成のことをそれなりに好きだったのだと思います。
だから、難癖を付けて宮中から追い出してしまったのではないかと。
豊成も他の藤原氏一門とは違い、仲麻呂を攻撃することはありませんでした。

二人のタメ口をわざと現代風の口調にしました。
この時、既にいい歳なので、もっと大人びた現代風でも良かったのですが、あえて!

 (C) 2010.05.16 Yuuhi