>天地創造



 彼が反旗を翻す日は近い。

 どちらに付こうか。≪全能なる神≫か、その反逆者か。
 反乱が成功する保証はどこにもない。無謀だ。
 だが、このままよりはマシかもしれない。
 どうしよう……

 皆が悩む中、ただ一人心を決めた者がいた。




 ぼんやりと漂う下界を見下ろしていた青年の背後に誰かが現れた。

「ここにいたの。捜したよ」

 青年は振り向かない。話し掛けた少年も気にせずに青年の隣に並ぶ。
 唐突に青年が呟いた。

「今宵……」
「――そう」

 少年も何が、とは訊かない。
 暫し、無言で下界を眺める。そこには秩序の欠片すらない。
 沈黙に耐え切れず、先に口を開いたのは少年の方だった。

「前から君に訊きたかった。何故、乱を起こすの?」

 青年は答えない。代わりに形の良い唇をわずかに吊り上げた。
 少年は食い下がる。

「僕にも言いたくない?」
「――自由の翼を手に入れたい」

 台本のセリフを棒読みするように青年の声が漏れた。

「自由の翼……か」

 ブロンドを風になびかせ、少年は羽ばたいてみせた。
 純白の翼は何の苦もなく、少年を宙に浮かび上がらせる。同じものは青年の背にも存在した。

「これがある限り、僕達は永遠に飛び続けなければならないんだ」

 自嘲する少年の表情は暗い。

「おかげで僕達は傷だらけさ」
「翼があるからじゃない。降りて休める場所がないからだ」

 大きく翼を広げ、青年は真っ直ぐ下界を見下ろした。

「俺はあそこに地上を創る」

 指した先は灰色の渦。規則も自由も何もない永久の混沌。

「じゃあ、君はそこの王に?」

 そんなはずがない。そうわかっているが、少年は訊いてみた。そうなることを少年自身が望んでいるのかもしれない。
 案の定、青年は首を横に振った。

「それじゃあ、誰が王になるの?」
「……神が創って下さる」

 戸惑いがちなその答えに、少年は声を上げて笑い出した。

「おかしいか?」
「おかしいよ。だって、君が一番わかっているはずなのにさ」

 笑い声を止めて、少年は前方を睨む。
 そこには巨大な光の柱が、他の存在全てを抑圧するかのようにそびえ立っていた。

「≪全能なる神≫は、実は≪他の何よりも無能な存在≫なんだ」

 とげとげしい言葉に、青年はわずかに首を振る。
 否定しているのではない。否定したいのだ。

「君がいなくなると、天はどうなるかな」

 どこか楽しむように、しかし、その声は徐々に投げやりになっていく。

「まず、神の無能が全ての者に暴露される。今まで悟らせないようにしていた君がいなくなるからね。そして天の秩序は崩壊し、下界同然と成り果てる」

 そこまで言って、少年は初めて青年の顔を見る。

「それが君の望みなの?」

 責めるような口調に、青年は少し笑った。

「そう思うか?」
「思わないから、訊いてるんだよ」

 また青年は笑った。それが少年には気に障った。

「君は僕にすら教えてくれないんだね」

 大いにむくれられて、青年の表情は少し困惑したものになった。

「お前はあの方が無能でいらっしゃると言ったな。もし真実ならば、それに気づいている者が天にどれほどいると思う?」
「わからない。今はまだ少ないと思う。いずれ時が経てば、自ずと誰もに知られるだろうけど」
「そうだ。気づくだけなら、まだいい。だが知られてはならない」

 青年は光の柱を迂回しながら、ゆっくりと天翔ける。少年も後に続いた。

「そうか。君は皆の目から真実を隠したいんだね」

 青年は答えない。

「真実に気づいている者は少なくない。彼らが確信を持つ前に、君は神から彼らを遠ざけたいんだ」
「どうかな。本当のところは俺にもわからない」

 光の柱から離れ、混沌の上、光でもなく闇でもない哀しき風の中を進み行く。

「そうだとしたら、何故地上を創るの? 降りる宿り木にするためだけじゃ、ちょっと大げさ過ぎない?」
「必要なのは地上じゃない。その下だ」
「地下? 彼らを閉じ込める気? それは、いくら何でも酷過ぎるよ」

 青年は否定しない。少年の顔が歪んだ。

「非情だね。君は君の大事な神様以外の存在はどうでもいいのかな? 神は自分じゃ何もできないくせに、全能であろうとし続けているのに。君を含む、僕達を使ってね」
「悪く申し上げるのは止せ。真実は何であろうとも、あの方は俺達を愛しておられるし、俺は神をお慕いしている」

 その言葉を笑い飛ばし、少年は光の柱を忌ま忌ましそうに仰いだ。

「君に神を語らせると、あばたもえくぼ、だね。僕達はつまらないものに自らを捧げ、傷ついているのに。でも君は明日より天を去り、地下帝国の神となる。うらやましい限りだよ」
「……一緒に……来るか?」

 はっきり言って期待していない、と言わんばかりの口調。
 少年は、ためらうことなく、首を横に振った。

「もう決めた。君がいなくなったら、それこそ天はボロボロになってしまう。僕が守るよ。ただ、君ほど辛抱強くないから上手くいかないと思うけど」
「心配はない。俺が堕天すれば、あの方が信頼を失うことはない」
「君は、一体何を考えているんだ……」

 青年の本意に気づいて、少年は青褪めた。

「そこまで自分を犠牲にする価値が、神にあるの? それに、この反乱は君自身のアイデアじゃないような気がするよ。本当は、神が自分の権威を守ろうと君に命令したのかもね」
「……」
「馬鹿げてる。自ら闇となることで神を揺るぎない光にしようとするなんて……本当に君は愚かだよ、ルシフェル」
「今頃気づいたのか」

 青年の口調が変わった。さっきまでの張り詰めたものではなく、柔らかくて穏やかな、彼本来の声。

「俺は馬鹿なんだよ、ミカエル」
「そうだね。それに、君の後を継ごうとしている僕はもっと馬鹿だ」

 二人は同時に微笑む。
 それで、終わりだった。

「……今宵、また……」
「……今宵……」

 二人は、そこで別れた。




「我らが新たな秩序を創る。能無しの独裁者など、もはや必要ないのだ」
「それが≪全能なる神≫への言い草か。お前達など天の裏切り者だ。即刻無に還るがよい」
「いつまでも飛ぶことに何の意義があるのだ。共に行こう、新たな世界へ!」
「惑わされるな。何故反逆者に味方するのだ。戻れ! 今ならまだ間に合う。神は全てをお許しになるのだから」

 様々な声が飛び交う黄昏時。多くの白き者達が集まり、口々に叫ぶ。神への批判や嘲り、尊敬や賛美。
 しかし、一つの意見を主張し続けるものは少ない。
 まだ迷っているのだ。
 神か反逆者か、どちらに付くべきなのか。

 やがて、夜の帳が降りて、双方の大将が姿を現す。
 二人とも、白い衣に純白の翼。
 少年は杖を、青年は大鎌を。それぞれの手に持っている。

「全ては、新たな秩序のために」

 青年が大鎌を振り上げた。
 それが闘いの合図。翼という翼が羽ばたき、それぞれ武器を手に繰り出して行く。

「神を蔑ろにする異端者共を混沌へ突き落とせ!」
「自我を持て! 我々は束縛から逃れなければならないのだ!」

 衝突が繰り返される。その間にも敵と味方が入れ替わり、戦場の混沌は下界の混沌にも負けない灰色の嵐となる。その遥か下に、暗黒が口を開けている。

 嵐は竜巻を呼んだ。
 その螺旋状の風柱の中で、少年と青年は対峙していた。そこだけは周囲の喧騒とは無縁であるかのように、耳の痛くなるような沈黙が続いている。
 先に動いたのは青年だった。
 振り上げられた大鎌を、少年は杖で受ける。

「この戦いに何の意味があるのかな?」

 少年が呟く。

「やがて君は負けて堕天し、神は自分が正義であることを確信して、図に乗るだろうね。表向きは正義と悪の闘いになるわけだから」
「それでいい。俺は神のために悪となる」

 一度離れ、再び杖と鎌がぶつかる。

「どうかな? 神は正義を守る闘いを肯定し、それを、いずれ創る地上の王に教えるだろう。僕達を使ってね」
「そこまで考えていなかった」

 青年は少し笑った。

「笑い事じゃないよ。神が殺戮の大義名分を与える世界なんて、秩序も何もあったものじゃない」
「構わない。固定した秩序など有りはしない。混沌から秩序が生まれ、やがて全てが滅びて混沌へと還る。唯一の永久機関だ」

 夜は更けていく。羽が激しく舞い上がり、混沌を天へと吹き上げる。

「神は地上の王の争いを≪真に全能な地底の神≫のせいにする」
「それでいい」
「……理解に苦しむよ」

 二つの力が拮抗する。その場に留まりきることができなかった力は上へ下へと放出され、既存のものを超越する竜巻となって吹き荒れる。

「いわゆる、出来の悪い子ほど可愛いってやつかな。馬鹿だよ、君は」

 少年の杖が光を帯びて行く。

「お前もな」

 青年が大鎌を退いた。

 その懐へ少年が飛び込む。白い光が青年を貫いた。

「さよなら」

 どちらが言った言葉だったのか。或いは、両方だったのかもしれない。
 青年の体が水平に傾き、そのまま混沌の奥、暗黒の闇へと落下していく。白き衣も翼も闇色に染まり、永遠の闇へと堕ちて、やがて見えなくなった。

「我らも続け!」

 既に心の中では神を見限っていた者達もまた、次々に堕ちていく。

 黒き者達が去った時、天は光に満たされ、歓喜に沸き立っていた。
 その中で少年は独り、天の彼方を仰いで泣いていた。誰にも涙を見られぬように……




 今日もまた地上で声がする。

「何故、生きることはこんなに苦しいのですか」
「我らは生来罪深い存在なのです。神が我々をそのようにお創りになったのですから」

 しかし、地上の王達は知っているのだろうか。神自身も罪深い。真実を知らぬが故に、彼らもまた罪深いのだ。
 その罪は地底の神によって隠された。

 彼は今宵もまた、冷たい地底にて神への嘲りを口走る者達の拝礼を受ける。悪の象徴として、天や地上から忌み嫌われ続ける。
 神は、彼から地上を守る者として、信頼を失うことはない……



                    終

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