中臣鎌足【なかとみのかまたり】(614 〜 669年) / Copyright (c) 2007 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.


日本史上、まあまあの有名人である中臣鎌足さん。しかしこの人、どういう人だったのでしょうか。
歴史上の人物なんて、想像する人によって性格は変わってくるでしょうけれど、
それでもわずかな手がかりから、かの人々の人柄を推し量ることは可能です。
とは言え、鎌足さんは足跡の残し方が厄介で、しかも信憑性の薄い資料があり過ぎなので困りました。
というわけで、いつも以上に独断と偏見に基づいて人物考察をしていきます。

@ 裏切られた父 中臣御食子

鎌足のパパは中臣御食子(なかとみのみけこ)といいます。ミケコって猫みたいな名前ですね。
中臣氏は日本古来の八百万の神を祀る神官一族で、古くから物部氏と仲良しです。
仏教受容派(蘇我馬子を中心とした蘇我氏)と大喧嘩して、惨敗しました。
一方の鎌足ママは名門一族大伴氏の出身。後に有名歌人の家持を輩出する一族ですが、元々は軍事一家らしい。
大伴氏も軍事関係で物部氏とは縁が深く、やはり負け方。
鎌足は廃仏派一族の二人の間に生まれた長子、とのことです。

鎌足の出生地については、いくつかの説があります。
『藤氏家伝』という本では「現在の奈良県橿原市で生まれた」となっています。飛鳥板蓋宮などの割と近くですね。
有り得なくはないですけれど、この『藤氏家伝』は実に信憑性の薄い藤原一族ベタ褒め本なのです。
何せこの本を書かせたのは、後の世で天皇制を私物化してやりたい放題した結果、逆賊として討伐された人物、
奈良時代の藤原仲麻呂(恵美押勝)ですからね。藤原直系万歳みたいな人です。記述もどうにも信用なりません。
(もっとも、仲麻呂は政治家としては有能だったようです。私は割と好きです)
他にも明日香村の伝承や『大鏡』によれば、常陸国鹿島(茨城県)の出身という説も有ります。
しかし、後々の活躍は当然奈良から始まるわけですし、「乙巳の変」の根回しのためには随分前から奈良にいなくちゃ。
全部の説を取り入れると、「茨城県で生まれて、奈良県に引っ越して来ました」ってことでしょうか。

一応は豪族の鎌足が、どうして都から遠く離れた茨城県で生まれたのか。
これは母親の出自が関係します。当時は通い婚が基本でしたから、鎌足は大伴氏で育てられたと考えられます。
大伴氏は軍事の家柄ですから、遠く常陸の国に派遣されることもあったでしょう。
「東北地方の蝦夷から都を守れ」ってことで。要は、一族郎党皆引き連れての左遷ですな。
鎌足ママはもしかすると一度も都を見たことのない人だったのかも。
そして鎌足パパは神官として常陸の神社に派遣され(左遷されたわけではないのかな?)、
宗教的意味で身内意識のある大伴氏の女性と結婚し、やがて奈良へ戻って行きます。
生まれた鎌足は常陸で育っていましたが、跡継ぎが欲しくなったパパに呼び寄せられ、奈良へ。

当然「日本古来の八百万の神を祀る神官」の職を継ぐことを期待されていた鎌足ですが、
何を血迷ったか、別の道に目覚めます。政治の世界にです。
今で言う、「親の意向で神学部に入ったけど、自分の意志で政治学部に転部しちゃった」なんてものじゃありません。
当時政治を握っているのは、物部氏や大伴氏の天敵であり、中臣氏の天敵でもある蘇我氏。
しかも天皇家を政略結婚によって血筋でがんじ絡めにしている蘇我氏の方が、圧倒的勢力を誇っています。
中臣氏はできることなら蘇我氏とは関わり合いになりたくない。
勢力がないとはいえ、既に十分に目を付けられている一族ですから。
それなのに親の思惑子知らず、鎌足は「今の政治を何とかせねば」と燃えてしまいます。
わざわざ常陸の国から呼び寄せた倅の不甲斐無さに、ミケコさんはガックリ来たことでしょう。

鎌足は奈良では養子になっていたという説がNHKドラマでやっていましたが、これはどうなんでしょう。
父ミケコさんは常陸の神官のままで、何らかの理由で奈良の中臣氏本家に引き取られたってことでしょうか。
息子を都に行かせたい親心だったのか、賢い鎌足を見込んだ本家の願いだったのか、
はたまた小さな鎌足さんが本家に忠誠を誓うと見せかけて、とにかく都に上って、あとは好き勝手したのか。
……何だか最後の予想が正しい気がしてきた。鎌足さんだからなぁ。

これらのことから鎌足さんの人柄を考察しますと、
 ☆ 親の期待は平気で裏切る。自分の道は自分で決める。何が何でも我が道を行く。
 ☆ 反対されてもめげない・媚びない・最終的には聞く耳を持たない。かなり頑固。
 ☆ 尻込みすることなく、困難なことほど燃える。越える山は高いほうが良い。
 ☆ 皇子でも上級豪族でもないのに自分がやらねばと思う辺り、かなり思い込みが激しい。

この自己顕示欲の強い性格がどのように形成されて行ったのか、実に興味深いです。資料がないのが残念です。
地理的なことから考えると、常陸国鹿島って今の茨城県のどこかなんですよね? 寒いのかな。
鎌足さんは寒さに耐えながら、「いつか都会に出てでっかいことをしてやる」と思っていたのでしょうか。
そう思いながらも、
「機を焦るな。時を待て」と自分に言い聞かせる堅実なタイプでしょうね、彼は。
堅実の証拠と言えるのが645年の「乙巳の変」。鎌足の生まれは614年ですから、当時32歳。
青年時代の若気の至りでザシュッとやっちゃったわけじゃなくて、昔から機を狙い続けたんですね。
あ、でもこれは堅実って言うよりもねちっこいなあ。

さてさて、都に辿り着いた鎌足さんは唐から戻って来た学問僧の旻(みん)や南淵請安(みなみぶちしょうあん)から
いち早く唐の情報やら仕組みやらを学びます。異国の最先端がお好きなミーハー青年だったのかしら?
もっとも、鎌足さんが「今の政治はおかしい」と思ったのはこの勉強期間の前のはずです。
再確認ですが、中臣氏は日本古来の神を祀る神官の家柄です。
蘇我氏(と言うよりも聖徳太子)による仏教強行布教のおかげで神道は日の目を見なくなり、昔の栄華はどこへやら。
左遷されたり、領地も狭められたりと生活も苦しくなっています。
多分ミケコさん辺りが、「昔は中臣氏は素晴らしかった云々かんぬん」と酔った拍子に愚痴っていたことでしょう。
それを聞いて、「僕が不幸なのは蘇我氏のせいだ。くすん」とイジイジしないところが、鎌足さんの偉いところ。
パパ(あるいは養父)に「要は蘇我氏を潰したらいいんでないの?」などと言ったかもしれませんね。
そして、「阿呆ぅ! 二度とそのようなことを口にするな」と怒られる。
いつの時代も大人は矛盾したことを言うものであります、ハイ。
やる気のないパパやら他の中臣氏は頼りにならないので、鎌足さんは自分で南淵先生の所へ行ったのでしょう。
異国の政治制度や法律、考え方を勉強し、蘇我氏に代わる政治体制を考えるところまで行き着きます。

 ☆ イジイジしない。周りのイジイジに付き合わない。感傷的にはならない男。
 ☆ やる時は徹底的。自分でやるべきことを決める。邪魔者は許さない。

そして、運命の出会いが訪れます。女人とちゃいまっせ。

(中臣鎌足考察@「裏切られた父 中臣御食子」 終わり)


(A 蘇我入鹿)

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