中臣鎌足【なかとみのかまたり】(614 〜 669年) / Copyright (c) 2010 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.


日本古代史の皆さんのお名前は、現代人の私達の感覚では不思議です。
皆さんのお名前が一体どのようにして付けられたのか、探ってみましょう。

中臣鎌足考察番外編
  名前の由来は面白い


名前って大好きです。
名前の付け方や由来を見ると、その人が生きた時代の文化や流行、背景、
あるいは名前に篭められた願いなどが見えてきます。

古代史からは離れますが、徳川幕府第二代将軍である徳川秀忠の「秀」の字は
父親の家康が豊臣「秀」吉に恭順する証として、元服時に与えられました。
その秀吉は織田信長に仕えていた時代に、信長の重臣であった丹「羽」長秀と「柴」田勝家から
一字ずつ貰って「羽柴」秀吉と名乗っていたこともあります。
どうやら改名は“あやかる”、いや、秀吉の場合は“ごまをする”という意志の表れだったようです。
現代でも、スポーツ選手や俳優にあやかって名付けるケースがありますね。
フィギュアスケーターの浅田「真央」さんの名の由来は宝塚出身女優の大地「真央」さんだそうな。
私の友人で「じゅり」と発音する名前を持っている人がいるのですが、
彼女の両親はサウンド・オブ・ミュージックで有名な「ジュリー」・アンドリュースのファンだそうです。

家族で名前の一部をを継承するケースもあります。
織田「信」長の父は織田「信」秀で、10人〜11人いるとされる息子の元服名にもだいたい「信」が付いています。
源「義」「経」の場合は、源家に伝わる「義」の字と、源氏の初代とされる源「経」基を元服時に選んだようです。
元服という儀式は、自分がこの先どのように生きるかを表明するものだったのでしょうね。
家族で共有という観念は今でもあります。実は私の本名も、母の名前から二字をもらっています。
西洋人の友人が面白いことを教えてくれました。
彼の「名前・洗礼名・苗字」のイニシャルは妹さんのそれとまったく同じで、
二人は自分達のイニシャルを模したお揃いのアクセサリーをいつも身に着けているそうです。
なんだか強い家族の絆を感じますね。
そう言えば、親の名前をそのままもらっちゃうケースもあるんですって。
アメリカの例で、オルコット作の若草物語に登場する四姉妹の長女メグは本名マーガレット。
彼女の母親もマーガレットで、娘(長女)のディーズィも本名はマーガレットだそうな。つまり、三代で同名。
ディーズィという愛称は、同じキク科の植物であるマーガレットからの連想でしょう。
西洋では家族や先祖と同じ名前というケースが全然珍しくないのでしょう。
名前の由来はだいたいがキリスト教関係なわけで、レパートリーが少ない。
そうでなければ、ヘンリー8世だのカール5世だのルイ16世だのエカテリーナ2世だの、
受験生泣かせな名前が大量生産されるはずがないのです。

日本史上の話では、女性はまた事情が違ってきます。
そもそも女性は歴史に名前が残ること自体が少なく、残っている名も通り名や官職のケースが少なくありません
例えば、かの有名な源氏物語の作者である紫式部は、元々は藤式部と呼ばれていました。
「藤」原氏出身で、父親か同母兄弟が「式部」省の官僚だったことに由来するようです。
源氏物語が読まれるようになって、登場人物の「紫」の上に託けて、紫式部とあだ名を付けられたのだとか。
枕草紙を書いた清少納言も、「清」原氏出身で親族が「少納言」の地位にあった故の呼び名のようです。
要するに、厳密に言えばこれらは名前ではなく、あくまであだ名なのです。
勿論、本名が残っている人もいますよ。浅井三姉妹の茶々、初、江(ごう)とか。
でも、なんでそう名付けられたのかはわかりません。
平安時代の藤原道長の娘は子とか寛子とか嬉子とか、漢字の意味に願いを込めて付けられた名前のように思います。
現代の観念に通じるものがありますね。


そんなわけで、名前の付け方って色々な考え方や文化があるわけなんですが
日本古代史はどうだったのかと言いますと、現代の感覚から言うと、それ名前?と言いたくなります。

例えば、葛城皇子(かづらきのみこ、かずらきのみこ)葛木皇子と書かれる場合もあります。
一般的には天皇としての贈り名である天智天皇や、
皇太子候補としての敬称である中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が有名です。
この「葛城」という名称は、現在の奈良県御所市と大和高田市と北葛城郡にまたがっていた
葛城県(かづらきのあがた、別の標記を葛木県)という土地のことを指します。
葛城県というのは、大和に置かれた大王一家の領地である大和六県(やまとのむつのあがた)の一つで、
他には高市(たけち)、十市(とおち)、志貴(しき)、山辺(やまべ)、曾布(そふ)の五県があります。
そもそも何で「葛城」県という名称が付けられたのかを考えますと、
「葛城」氏という豪族が住んでいたか、あるいは元々治めていた土地だからです。
葛城氏というのは、飛鳥時代より前の大王時代に権力を誇っていたとされる豪族で、
朝鮮半島での軍事を担っていたとされています。
注目すべきは、一族の娘が大王との間に子を産んで、その子が大王になって……という仕組みを
結構長期に渡ってやっていたとされる一族ということです。
元々は孝元天皇(飛鳥の剣池に墓があるとされる)の子孫ということなのですが、
この孝元天皇の存在自体が怪しまれていますので、実際のところ皇孫なのかは微妙です。
それはともかく、葛城氏の初代とされる葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)なる人物から
こんな風に外戚計画が弄されております。

※ 赤字が葛城氏の娘、青字が母親が葛城氏である皇族です。

          ―― 男 ―――― 円大臣 ―――― 韓媛
         |                          ‖
         |  16仁徳天皇                ‖――22清寧天皇(子孫なし、以降断絶)
         |   ‖    ―― 18反正天皇      ‖
         |   ‖   |― 19允恭天皇 ―― 21雄略天皇 ―― 春日大娘皇女
         |   ‖   |             |               ‖
         |   ‖―――― 17履中天皇   ―― 20安康天皇    ‖
葛城襲津彦―― 磐之媛       ‖                        ‖――― 25 武烈天皇
         |             ‖――市辺押磐皇子             |
          ― 男 ―――― 黒媛   ‖                   ‖  ―― 手白香皇女 →→→ 現天皇家へ
                |           ‖―――――― 23顕宗天皇      (26継体皇后、30欽明母)
                 ― 蟻臣 ― ハエ媛     |            ‖
                       (ハエは「つばな」)  ――――――― 24仁賢天皇

こんな感じで欽明天皇に血筋が続いているとされていますので、
今の天皇家は葛城氏の血を引いていることになります。
後の蘇我氏や藤原氏のやり方に通じるものがありますね。
まあ、そんなわけでして、葛城氏は大王との関係が深かったのですが、
母親が葛城氏ではない雄略天皇は円大臣(妃の韓媛の父)が滅ぼし、
また従兄の市辺押磐皇子を殺した際には、蟻臣(市辺押磐皇子の舅)も滅ぼしたと思われます。
こうして葛城氏の有力者は滅び、彼らが治めていた土地は大王の所有となります。

時は過ぎ、飛鳥時代。この葛城県に対して、蘇我氏の蘇我馬子がいちゃもんを付けています。
彼の姪である額田部皇女(33代推古天皇)の御世に、
「葛城県は私の本拠地だから、支配権を与えてください」と申し出ているのです。
蘇我氏は葛城襲津彦の父とされる武内宿禰(たけうちのすくね)の子から派生したとされていて、
馬子がかつて大豪族であった葛城氏の後継者を名乗ろうとした様子がうかがわれます。
しかし、この目論見は「あなたは私の叔父だけど、公の土地を私人にあげるなんてことをしたら、
後の世の人に愚かな女のしたことだと言われて、あなたも非難されるわ」と額田部皇女に断られます。
なので、葛城県はそれ以後も大王の直轄地であったと思われます。

また時が過ぎ、葛城の土地は34代大王である田村王(たむらのおおきみ、田村皇子とも)に継承されました。
皇后である宝女王(たからのおおきみ、宝皇女あるいは財皇女とも)が産んだ嫡男は
自分の直轄地である「葛城」県で育てられることとなり、「葛城」皇子と呼ばれるようになったのです。
あるいは育ったのは他の場所かもしれませんが、生まれた地が葛城県だったという可能性もあります。
また、葛城皇子の養育に「葛城」氏の生き残りが関わっていた可能性もあります。
土地は大王に謙譲する羽目になりましたが、葛城氏が完全に滅んだのではないとすると、
葛城皇子の養育を任されたということも有り得ます。


他にも土地の名前がついている人は沢山います。
葛城皇子の子である志貴皇子と山辺皇女、大海人皇子の子である高市皇子と十市皇女は
葛城皇子と同様に大和六県から名前が付けられています。
(「高市」は現在でも、奈良県「高市」郡明日香村として飛鳥の地に名が残っています。)
また、大伯皇女と大津皇子の姉弟はそれぞれ生まれた場所が名前になっているようです。
(大伯皇女は現在の岡山県辺りの「大伯」の海で、大津皇子は九州の那「大津」で誕生。)
忍壁皇子は「押坂部」という土地が由来と思われます。
この名を持つ別の人物に、「押坂」彦人皇子(田村王の父)がいます。

そう、同名の人物が結構いるのが、古代史のややこしいところです。
宝女王は別名で財女王とも書きますが、山背王(厩戸皇子の長男)の同母弟に
財王(たからのおおきみ)という人物がいるようです。
宝女王の母親、吉備女王(吉備姫王)と同じ名を持つのが、草壁皇子の末娘である吉備皇女。
草壁皇子の妻である阿閇皇女(元明天皇)と、そのひ孫にあたる阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)も
多分由来は同じで、阿倍氏と関わりがあるのではないでしょうか。

別の時代であれば同じ名前でも全然ややこしくないのですが、まったく同じ時代に重なっている人もいます。
例えば、額田女王の父と言われる鏡王と鏡女王は読み方も同じ「かがみのおおきみ」です。
鏡女王の方は、鏡姫王(かがみのひめおおきみ)とも呼ばれていたようなので、そこで区別していた様子。
この二人の関係は、同母の兄妹と思われます。(参照:中臣鎌足考察G「さよなら、秋風 鏡女王」
親子で同じ名前と言うのは、母子では例があります。
田村王の息子に蚊屋皇子(かやのみこ)という人がいるようなのですが、
お母さんの名前、と言うか呼び名は蚊屋采女(かやのうねめ)だそうです。
大友皇子は伊賀采女(いがのうねめ)が産んだ子供なので、伊賀皇子とも呼ばれます。
(大友という名は、有力豪族「大伴」氏と無関係ではないでしょうね。)
そして、こんな例も。先に挙げた志貴皇子(しきのみこ)は葛城皇子の息子ですが、
大海人皇子の息子にも磯城皇子(しきのみこ)がいます。忍壁皇子の同母弟ですね。
ややこしいことに、磯城皇子の同母妹である託基皇女(たきのひめみこ)は志貴皇子の奥様です……
書き間違え、覚え間違えの巣窟のような気がしますねえ。


以上、名前の由来は面白いなあという雑記でした。

(中臣鎌足考察番外編「名前の由来は面白い」 2010.04.18)
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