中臣鎌足【なかとみのかまたり】(614 〜 669年) / Copyright (c) 2009 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.



(F 倭女王)

G さよなら、秋風 鏡女王

【家系図】
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鏡王  ===========================車持与志古郎女
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 |   =======葛城皇子=安見児==       |
 |                  |           |      真人(定恵)
額田女王===大海人皇子  |           |_____________________
       |            |           |     |       |       |       |
     十市皇女====大友皇子====耳面刀自  氷上郎女  斗売郎女  五百重郎女  史(藤原不比等)
              |          U
            葛野王       壱志女王?

シリーズ考察8回目にして、初めて主役の鎌足さんが家系図に出て参りました。自分でビックリ!
鎌足さんの家族を書いたのって、1回目の御食子パパだけですものね。
しかーし、鎌足さんの素顔を知るには、公的な顔(裏だらけですが)だけでなく、プライベートも知らないと。
と言うわけで、今回のターゲットは鎌足さんの正妻である鏡女王(かがみのおおきみ・鏡姫王とも書きます)です。

"女王"とある以上、この方は王族なのですが、彼女が亡くなった時に「薨」の字が使われていることに注目。
皇族や王族には、その死についても尊敬語が使われます。神の子孫という建前なので。
身分が高い順に、崩御、薨去、卒去だそうな。
  崩御 : 天皇、皇后、皇太后(前の天皇の皇后)、太皇太后(今の天皇の祖母で、かつ皇族)
  薨去 : 皇族(大王の4世、つまり曾孫まで)
  卒去 : 王族(大王の5世以下)
ん? あれ、鏡女王って「卒去」と違いますの? 「薨去」ってことは王族じゃなくて、皇族らしいです。
「鏡女王は田村皇子(舒明天皇)の娘」と推測する説があるのですが、その根拠はおそらくこの「薨」の字です。
しかし、そんなことは有り得ないと夕陽さんは断言いたします。
だって、田村皇子の娘ならば葛城皇子にとっては異母姉妹ということになります。
後に詳しく説明しますが、鏡女王はまず葛城皇子の妃となり、その後に鎌足さんの正妻になっています。
葛城皇子の異母姉妹であるのなら、彼女は間違いなく正統な皇后候補です。
存在そのものが怪しい倭女王を后に立てる必要なんて、全くないことになります。
(参照:中臣鎌足考察F倭女王
そんな鏡女王を鎌足さんと結婚させている以上、舒明天皇の娘説は有り得ないのです。
じゃあ、両親は一体誰なの?と考えたいところですが、それを探っていたらきりが無い!
と言うわけで、今回は割愛します。(やりたい、ものすごくやりたい! しかし、ホントにきりがない!!)

鏡女王は額田女王(ぬかたのおおきみ)の父、鏡王(かがみのおおきみ)の妹とも言われています。
額田女王の姉という説は根拠がないようです。物語は作りやすいですけどね。
なぜ鏡王の妹の可能性があるかと申しますと、根拠は名前です。読み方も一緒ですね。
前回の考察(倭女王の回)でも述べましたが、この時代の名前は
出身地や育ての親(乳母含む)の氏から付けられた例が結構あります。
また、子供は基本的に母方の一族が責任を持って育てていたことを考えると、
実の兄弟姉妹に同じ名前がつく、つまり同じ場所で同じ育ての親に育てられた可能性があるわけです。
例えば、厩戸皇子の母である穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのひめみこ)には、
穴穂部皇子(あなほべのみこ)という実弟がいます。
親子二代に渡って同じ一族に育てられた可能性はゼロではありませんが、
そうすると(勢力的に)父方で育ったことになり、違和感が出て来ます。
また、親子二代で同じ名前というのは他に例がありましたかね? 情報熱烈的募集中!(他力本願)

  ちなみに知ってました?
  大海人皇子(天武天皇)の奥様の1人である新田部皇女(にいたべのひめみこ)と、
  大海人の息子の1人である新田部皇子(にいたべのみこ)は赤の他人です。母子じゃないですよ!

  新田部皇女は葛城皇子(天智天皇)と阿倍橘郎女(あべのたちばなのいらつめ)の間に生まれていて、
  彼女の実姉妹である明日香皇女は大海人皇子の次男、忍壁皇子(おさかべのみこ)の正妃です。
  彼女の子供は大海人皇子にとっては1番下の息子になる、舎人皇子(とねりのみこ)です。
 
  一方の新田部皇子のママは、中臣(藤原)鎌足の娘である五百重郎女(いおえのいらつめ)です。
  ややこしいことに、五百重郎女は大海人皇子の死後、異母兄の不比等の四男、藤原麻呂を産んでいます。
  そういう経緯もあって、新田部皇子は藤原氏の言いなりです。
  しかし、血筋的な関係は皆無なはずの舎人皇子も、藤原氏にべったりです。
  もしかしたら、新田部皇女と新田部皇子はどこかで繋がってるんじゃ……と疑いたくなります。


閑話休題。今回は鏡さん(女王の方ね)です。
この人例によって年齢などがまったく不明! しかし、生涯を追うためにはどうしても年表が必要なのです。
最大の鍵となるのは、「いつ鎌足さんと婚姻関係が結ばれたのか?」ということです。
鏡さんが最初は葛城皇子の妃であったという事実を考えると、
鏡さんと鎌足さんの結婚は、葛城皇子と鎌足さんの絆を世間に大々的に示した証拠と言えます。

【年表】
 642年 宝女王が即位(皇極天皇)
 643年 中臣真人が誕生(中臣鎌足×車持与志古郎女 鎌足の長男、後の定恵)
 645年 乙巳の変→宝女王が譲位 軽王が即位(孝徳天皇)、間人皇女が立后
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 648年 大友皇子が誕生(葛城皇子×伊賀宅子郎女)、十市皇女が誕生(大海人皇子×額田女王)
 651年 建皇子が誕生(葛城皇子×蘇我遠智郎女)、その後すぐに蘇我遠智郎女が死去か?
 654年 軽王が崩御
 655年 宝女王が重祚(斉明天皇)
 658年 有間皇子が処刑される
 659年 中臣史が誕生(中臣鎌足×??? 鎌足の次男、後の藤原不比等)
 661年 宝女王が崩御、阿閉皇女が誕生(葛城皇子×蘇我姪郎女)
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 662年 草壁皇子が誕生(大海人皇子×鵜野讃良皇女)
 663年 大津皇子が誕生(大海人皇子×太田皇女)、山辺皇女が誕生か?(葛城皇子×蘇我常陸郎女)
 665年 間人皇女が崩御、9月 嫡男の定恵が急死
 667年 近江に遷都
 668年 葛城皇子が即位(天智天皇)、倭女王が立后
 669年 夫・中臣鎌足の病気平癒を願って山階寺(後の興福寺)建立、11月14日 中臣鎌足が死去
 671年 大友皇子が太政大臣に→大海人皇子が吉野へ去る→葛城皇子が崩御
 672年 壬申の乱
 673年 大海人皇子が即位(天武天皇)、鵜野讃良皇女が立后
 679年 大王、皇后、六皇子による吉野の盟約
 681年 草壁皇子が立太子
 683年8月2日 大海人皇子の見舞いを受ける、8月3日薨去

万葉時代の歌人の一人と言われる鏡女王ですが、何をしていた人なのかは謎です。
額田女王のように、宮廷歌人として仕えていたというわけではないようです。それらしき歌が残っていませんので。
しかし、皇族として宮廷に出入りしていたことは確かです。あるいは葛城皇子(即位前)の妃として。
そんな鏡さんが鎌足さんとの結婚したのは、一体いつ頃なのでしょうか?
私は648年〜661年の間とにらんでいます。(年表の点線で仕切った部分です。)

理由@ 645年の乙巳の変以前では有り得ない
 …乙巳の変以前の鎌足さんは、政治の中心にいたわけでもなければ、偉くもありません。
  とてもじゃありませんが、皇族をお嫁さんに貰えるような立場じゃありません。
  (当時、皇族の女性は皇族か王族としか結婚していないと思われます。)

理由A 662年に大海人皇子の嫡男になり得る草壁皇子が生まれている
 …ちょうど朝鮮半島への出兵の時期でしたが、それに片がついた後、
  自分の嫡男不在に焦った葛城皇子は、草壁皇子を無理に引き取ります。(参照:草壁皇子 死の真相

という理由です。
もっと狭めると、655年以降は葛城皇子の即位が現実味を帯びていて、
皇后候補や後継者問題も視野に入れているはずです。
いくら鎌足さんとの絆を示すためとは言え、葛城皇子が鏡女王を手放すとは思えません。
また、「鏡女王は鎌足さんの次男である藤原不比等の母親である」説がありますが、私はガセネタだと思っています。
何故なら、本当に藤原氏が鏡さんの血を引いているのなら、それを政治権力に利用しないはずがないからです。
おそらく、藤原氏が家臣として最上位に上り詰めていく内にまことしやかに噂されるようになったか、
あるいは藤原氏自身が故意にそういう噂を流して、自分達に箔を付けようとしたか。そんなところでしょう。


さて、葛城皇子と鎌足さんとの間で勝手に決められた婚姻話について、鏡女王本人はどう思っていたかと言いますと、
大変、大変、た〜いへん不服でございました。皇族の誇りもへったくれもあったもんじゃない。
しかし、669年に鎌足さんが病に倒れてからは平癒を祈って寺を建てるというパフォーマンスを行っています。
これがやらせなのか、彼女の本心からの行動なのか、それを解明するには……
歌しかない。鏡さんの資料は歌しかない。歌の講釈なんぞ柄じゃないのですが、如何せん、歌しかない。

鏡さんのお歌で、鎌足さんが関連する歌は鎌足さんの「ピカチュウ☆ゲットだぜ!」?で紹介した他にもあるのでしょうか?
候補の一つ目は、鏡さんが詠んだと言われている、この歌です。
   風をだに 恋ふるは羨(とも)し 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ
「だに」は強調ですので、「風をだに」は「風のことさえ」。
「恋ふるは羨(とも)し」は「恋しく思うのが羨ましい」、「来むとし待たば」は「来るのを待つのならば」という感じで、
風をやって来る恋人に例えているようです。意訳すると、
   風の音にさえ、恋人がやって来たのかと思える人を私は羨ましく思います。
   そうして待ち焦がれることができるのならば、何を嘆くことがありましょうか?
   (私にはもう、恋焦がれて待つ相手もいないのです。)

これを詠んだ時の「恋焦がれて待つ相手」が一体誰なのか、ここに注目です。
鏡さんが恋しく思う相手が鎌足さんであるならば、この歌は鎌足さんの死後に詠まれたことになり、
愛する夫が自分を遺して逝ってしまい、言いようのない寂しさに浸っていることになります。
しかし、もしこの相手が葛城皇子だとしたら、詠まれた時期は鎌足さんとの結婚前後。
自分を捨てた葛城皇子を想い、泣き崩れている様子が目に浮かびます。
さて、一体どちらの男性への想いを詠ったものなのやら??

その答えのヒントは、もう一つのお歌にあります。
   神奈備(かむなび)の 石瀬(いはせ)の杜(もり)の 呼子鳥 いたくな鳴きそ 我が恋まさる
「神奈備」は神霊の溜まり場のことらしく、現在の龍田大社内にある神奈備神社の辺りのことのようです。
「石瀬の杜」はやはり龍田大社内の「磐瀬の杜」のことかと。「呼子鳥」は郭公(かっこう)かヒヨドリのようです。意訳すると、
   神霊が降臨する磐瀬の杜の呼子鳥よ、そんなにも鳴かないで。私の恋心がますます募ってしまうから。
こちらもだれに対する恋心なのかが気になりますね。
注目したいのは、この歌が自分の抑え切れない恋心を歌っているという点です。
「風をだに〜」が失恋あるいは死別を暗示しているのに対して、「神奈備の〜」が歌うのは夢を秘めた見込み有りの恋。
と言うことは、「神奈備の〜」で鏡さんが無邪気に恋焦がれている相手は皇太子時代の葛城皇子でしょう。
なかなか会えない恋人との逢瀬が待ち遠しい、若き日の鏡女王の素直な思いなのだと思います。
それにしても、「恋焦がれてます」という割りには静かな歌ですね。激しさがないのです。
決して技巧的でもないので、あっさりと大人しい感じ。何だか彼女の人柄が偲ばれます。

そうすると、「風をだに〜」の歌は葛城皇子に捨てられた恨み節というのは、違う気がするのです。
この歌から感じられるのは、激しい怒りや悲しみよりも一人ぼっちの寂しさであり、
もう決して取り戻せない愛に対して、何か後悔の念すら覚えるのです。
やはり、これは鎌足さんの死に際して詠まれた歌なのだと、私は思います。
鎌足さんが亡くなったのは現在の11月14日。冷たい秋風が吹く頃です。(私の誕生日の1日前でもある……吃驚です)
だからこそ、鏡さんは音を立てて吹く冷たい「風」を2つも、この歌に詠んだのではないでしょうか。

「玉櫛笥〜」の歌でお互いに静かに応酬し合った明け方から長い年月を経て、
やがて鏡女王は鎌足のことを夫として深く愛するようになっていたのかもしれません。
鎌足さんが倒れた時、「この人を失いたくない」と初めて強く感じたのかも。
しかし、それをちゃんと伝えられない内に鎌足さんは逝ってしまったのかもしれません。
そのことへの後悔が歌に表れている、なんて、ちょっと妄想しすぎでしょうか。

(中臣鎌足考察G「さよなら、秋風 鏡女王」終わり 2009.12.26)

(H 未定)
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