始まりは何度でもある

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  12 at Scorpius  

 ヘラクレスとの戦いはいつも泥沼化する。
 黄道十二都市の内、ヘルクレスを宿敵とする国はこの獅子都市レオの他に、隣国の巨蟹都市カンケルと遠く離れた人馬都市サギタリウスがある。他の九都市もヘルクレスとの友好関係を持とうとはしない。戦争か外交遮断、あるいは存在そのものを徹底的に無視する。黄道十二都市以外の国からも孤児を受け入れる白羊都市カンケルでさえ、ヘルクレスの国籍を持つ子供は拒否するか、ほんの小さな子供であっても一旦別の国に籍を移させてから引き取り手続きを行う。全世界の国々と貿易を営む処女都市ヴィルゴも、ヘルクレスとの直接貿易は表向きには行わない。実際には民間レベルで商業的なやり取りは行われていて、現ペルセポネ卿は取り締まりは怠らないながらも、ある程度黙認する立場をとっていた。そのことで彼を非難する者も少なくはなかったが、最長老となって久しい彼の戦略を評価する声の方が大きかった。
 レオの騎士はそんな悠長なことはしていられなかった。勇者の国レオを攻撃にするのに、ヘルクレスは手加減など一切しない。それどころか、どんな姑息な手でも使ってくる。カンケルやサギタリウスが自国の民による戦闘行為を拒否している今の時代、レオを陥落させれば、黄道十二都市で大きな戦力を持つのは用兵集団を持つ双児都市ゲミニだけ。そして、その用兵集団は黄道十二都市の各国を守るために散らばっている。レオさえ倒せば、あとは何とかなる。ヘルクレスの思惑は単純で、そしてある意味で真実でもあった。
 レオの勇者達を統べる現セレネ卿は、歴代の騎士に引けをとらない猛者だった。その騎士名をごうと付けられた時、レオの民は「このセレネ卿こそ、我らに勝利を導く者だ」と雄叫びを上げたと言う。
 その期待に背かず、豪は常に前線に立ってヘルクレスと戦い続けてきた。日に焼けた逞しい筋肉には無数の傷跡が刻み込まれている。
 敵国ヘルクレスにもその名は伝わり、宿敵の長を討ち取って手柄にせんと、格好の標的にしてくる有様だった。豪は正々堂々と対峙して、全て返り討ちにしてきた。
 そんな戦い方をしているから、豪の身体からは傷が絶えることがなかった。隣国カンケルのヘラ卿にはいつも心配を掛けている。彼女が豪の怪我を気にするのは、騎士として同僚を気遣う優しい気持ちからなのだろうが、自国カンケルが自ら戦わないことを決めている分、レオに負担を掛けてしまっていることへの罪悪感もあるのだろう。豪はそのことでじんを責めようとは思わない。仁の先代のヘラ卿が戦争放棄を唱えた時、豪はセレネ卿という立場上、表立っては賛同はできなかったが、カンケルの民の選択を最大限に尊重すると約束した。時代は流れる。歴史に縛られることなく、変化するというのも一つの選択だ。いつかレオにも平和な時代が来て、勇者の国などと言われた日々は過去として語られるのかもしれない。想像もつかない話だが。
 その日は隣の都市国家レオ・ミノルの周辺が戦場となっていた。「小さな獅子」という名を持つこの小国はレオの属国という扱いではあったが、二国間の関係はすこぶる良好であり、レオにとっては見捨てることができない最大の友好国でもあった。
 それがわかっていて、ヘルクレスは事あるごとにこの小さな国にちょっかいを掛けて来る。レオの民は腹立たしく思いながらも、小さな友人を守るためには決して手抜きをしない。
 レオ・ミノルの岸壁を勇者達がぐるりと囲み、更に海では船が砲撃の構えを続ける。対峙したヘルクレスの船団は、砲弾の届かないギリギリの位置で一進一退を繰り返している。それにしても、いつもは個人プレイで馬鹿のように攻め込んで来ることが多いヘルクレスが、今回はなかなか攻めてこない。
 何か策があるのではないかとレオの勇者達が相談し出した頃、風向きが唐突に変わった。レオ・ミノルの陸地から海側へと緩く吹いていた風が、逆方向に強く靡き始めた。敵はこれを待っていたのだ、風に乗って一気に攻めてくるぞ、とレオの民はいきり立ったが、豪は薄ら寒さを覚えていた。風に乗って猛突進して来るとしても、レオの船からの砲撃の餌食になるだけだ。ここまで奴らが慎重に何かを待ったのは、別の策略のためではないのか。
 豪の予測は的中した。強風に乗って運ばれてきたのは、ヘルクレスの船からばら撒かれた、大量の毒物の粉末だった。無味無臭のそれは前線に立っていたレオの船を、次から次へと襲った。勇者達は突然咳き込み出し、眩暈や吐き気、悪寒を訴えた。
 豪もその被害からは逃れられなかった。所詮は距離の離れた海上から運ばれた粒子、命を奪うほどのものではない。しかし視界は僅かに霞み、彼の機動力を削ぐくらいにはなっていた。
「怯むな! 砲撃に備えろっ」
 それでも豪は怒号を上げて、民の士気を高めた。百戦錬磨の勇者達はすぐに気を取り直し、毒素をこれ以上吸わないように布を口にあて、卑怯な敵を睨み付けた。
 その時だった。
「豪様、避けて!」
 誰かの叫びに、豪は反射的に身を竦ませた。大きなナイフを振り下ろす影が、豪を捕らえ損ねて宙を凪ぐ。敵の暗殺者が船に紛れ込んでいたらしい。
「ちっ、姑息な真似をしやがる」
 殴りつけて船外に放り出しそうとした矢先、もう一人が立ちはだかり、豪に向かって液体を振りかけた。悪臭が鼻を突く。次いで呼吸が苦しくなり、足元はたたらを踏んだ。その隙に右腕に切り付けられた。咄嗟に避けたので掠っただけだったのに、激痛が走った。
 怒り狂った勇者達が敵の暗殺者に殴りかかる。豪は味方の手で集団から引き離され、安全な場所へと運び出された。
 その後の記憶は曖昧だった。豪を慕う勇者達は雄叫びを挙げた。危険も顧みずに敵へを突進して、舐めた真似をした敵の船を一隻残らず駆逐した。誰一人、生きて返さなかった。
 豪は船上で緊急の治療を受けたものの、意識は朦朧としたまま回復の兆しが見られなかった。右腕には全く感覚がなかった。レオ・ミノルの政府は自国を守ろうとしてくれた同盟国のリーダーに敬意を評し、最上の治療をして見せると意気込んだ。レオの勇者達はそれを丁重に断って、守備の兵力を残して急ぎ自国へと帰還した。
 レオの岸辺では既に連絡を受けていた医師達が、傷付いたセレネ卿の帰りを今か今かと待ちわびていた。しかし、数人の勇者達の手で豪が船から運び出された時、集まっていた民の間で驚きの悲鳴が上がった。
 彼らは皆、陸の奥に広がる森の入り口を見ていた。視線の先に居るのは巨大な獅子だった。白銀の鬣を靡かせた一際大きな雄を先頭に、雌が数十頭、その後ろに子供の獅子と若い雄が付き従う。ゆっくりとこちらへ近付いてくる。甲高い悲鳴が上がり、遠巻きに見ていた民が一目散に逃げていった。
 白き獅子はこの国の神獣だった。伝説によると、百獣の王は月神セレネから国土のほとんどの占める「ネメアの森」を賜った。だから、月の女神の使いとして獅子は民に敬われる存在であると同時に、酷く恐れられていた。
 ネメアの森の獅子は人を喰らう。遠い昔には祭りの生贄として、獅子に青年を生きたまま奉げる習慣まであった。今はそんな野蛮な習慣はなくなったが、みだりに森の敷地へ足を踏み入れば、生きて帰って来られないことも珍しくない。
 ただし、騎士を除いては。
 獅子の群れは砂浜に到達した。普段、森から出ることが無い神獣がここまでやって来た理由は一つしか考えられなかった。
 意識の無いセレネ卿の身体を、勇者達は恭しく差し出した。先頭の大獅子は迷うことなく豪の身体を咥え、のっそりと踵を返した。その後ろを群れの獅子達が付いて歩く。
 群れは元来た道を辿り、ネメアの森へと入っていった。このネメアの森の奥深くに、月の女神セレネの神殿がある。
 レオの神殿は2箇所にある。この森に建つ内宮と、森から離れた場所に建つ外宮に分かれている。森には騎士以外の人間を喰い殺してしまう獅子がいるせいで、内宮には仕える巫子もいない。だから、豪も普段は森の外の外宮で暮らしている。
 しかし、内宮に来なければならない用事が一つだけあった。黄道十二都市の他の国に通じる聖なる水鏡は内宮にあるのだ。神殿とは名ばかりの建物で、石造りの素朴な東屋である。しかも水鏡自体は神殿外に設置されていて、鬱蒼と茂る森に囲まれたそれは獅子達の飲み水や水浴びの場となっている。
 騎士になる前はネメアの森に入るなんて考えただけでも恐ろしかったが、ここ数年、豪はこの内宮で頻繁に時を過ごすようになっていた。豪がセレネ卿である以上、人喰い獅子達が豪に危害を及ぼすことは決してない。子供の獅子達は珍しい人間に興味津々で、豪を見つけてはじゃれ付いてくるのが何とも可愛い。そして、ここには自分を特別扱いする人間は居ない。
 騎士になって十年を過ぎた頃、外宮での生活が窮屈に感じるようになった。特別扱いされ、崇められることもある。昔は戦勝祝いの宴ともなれば、大酒を喰らっては勇者達と肩を叩き合い、お互いよく戦ったと讃え合った。それが今は、豪が相手を讃えれば、勇者達は「恐れ多いお言葉」と平伏してしまう。自分は人間なのに、人間の間に居るのが無性に息苦しくなった
 それでもまだ自分はマシな方だとも思う。戦争という機会は民と為政者を一つにする。今日のように豪が倒れれば、民はこぞって豪のために怒り、力の限りを尽くして戦おうとする。それができない国の騎士は、どんな思いで長い時を過ごしているのだろうか。
 白銀の獅子は迷うことなく、豪を内宮の水鏡へとを運んだ。
 神獣という存在は他の黄道十二都市には存在せず、他国ではこの水鏡を操作できるのは騎士本人だけである。しかし、レオだけは違った。神獣である獅子の王が水鏡に呼びかけて、他国の騎士にコンタクトを取ることができた。
 獅子の王自身がこの池を通ることは決してない。セレネ卿の不在時に他国の騎士からの呼びかけに応じることもなかった。獅子の王が呼びかける理由はたった一つ。勇者であり命の危険に晒されることの多いセレネ卿に変わって、他国に助けを求めることだった。
「や、やめろ……ひつよう、ない」
 寸前で意識を取り戻した豪は、すぐに自分の状況を把握した。最も忌むべきシチュエーションだった。まともに開かない瞼を必死に上げて、獅子の王に懇願した。
 獅子の王は青緑に光る目で、じっと豪を見つめていた。そして、豪の願いを拒否すると言うように白い瞼を伏せた。豪を池の水面に滑らせると、月空に向かって一声雄叫びを上げた。付き従う若い雄達も次々に咆哮する。
 間もなく水鏡が黒く不吉な光を放ち、豪の身体を包んだ。
 光によって水中に沈められながら、豪は自分の非力を呪い、また意識を失った。




 次に目が覚めた時、豪は暗闇の中に居た。物音一つしない。誰の気配も感じない。寝かされた台には一応敷物は敷かれていたが、硬い岩が背骨に当たる。
 起き上がろうとして、右腕に痺れが走った。船上で切り付けられた刃物に毒が仕込んであったのだろう。切られた後は全く感覚がなかったので、これはもう駄目かと内心諦めていたのだが、切り落とさずに済んだらしい。
 この国の医者には感謝するしかない。何度も重症から回復させてもらい、命も救われた。そうでなければ豪は十三年という長い期間、セレネ卿を務めることはできなかっただろう。
 しかし、その医術を編み出した現在の騎士を、豪は生理的に許すことができなかった。
 ひたり、と足音が聞こえる。その独特なリズムを気がついて、豪は眉をひそめて闇を睨んだ。
 足を悪くしている者でなければ、人間の歩行は左、右、左、右と一定のリズムを刻む。速さや音の強弱には個人差があり、聞き分ければ誰が歩いているのかがわかる。今聞こえている足音は奇妙なリズムを刻んでいた。ひたり、と幽かな音をさせたかと思ったら、次は踏み鳴らすような大きな音、跳ねているようなスタッカート、突然音は止まって、思い出したように足を引きずる。歩き方が一足ごとに安定していない。こんな不気味な歩き方をする人物を、豪は一人しか知らない。
 最後の一足をトンッと置くと、足音の主は暗闇に立ち止まった。闇に慣れた豪の目でも、そのシルエットをぼんやりとしか捕らえられなかった。細い身体の持ち主は、豪を無言で見つめていた。
「……何人だ」
 先に沈黙を破ったのは豪だった。
「俺を生かすために、今度は何人が死んだ?」
 豪の声は怒りを押し殺していた。
 相手は答えなかった。懐から何かを取り出し、カチカチと摺り合わせる。火打石の音だっだ。火花が散って、燭台に小さな火が灯る。壁のくぼみに火が移されて、黒衣の女を照らし出した。
 痩せぎすの身体、背中でぞんざいに括られた長い黒髪、生気の感じられない真っ黒な双眸、思惑の読めない無表情。首から足先、手指の先まで黒の布で覆った女。
「答えろ、ガイア卿!」
 豪の怒号が暗い洞窟に反響したが、女は何の表情も浮かべることはなかった。
 彼女がこの国、天蠍都市スコルピウスを統べるガイア卿だった。在位は五十八年。現在第二位の長い期間、騎士の座にある。騎士としての名はじょうと付けられているが、その名を口にする者は少なかった。ほとんどの者は名を口にするのを憚って、あるいは恐れて、あるいは嫌って、本人の前でも「ガイア卿」と呼んでいる。豪の知る限り、彼女を役職ではなく名前で呼ぶことがあるのは、彼女より唯一先輩格であるヴィルゴのペルセポネ卿、彼女に次ぐ第三長老であるアクアリウスのガニュメディス卿、彼女を恩人と慕うカンケルのヘラ卿、そして今回の選定によって罷免となるカプリコルヌスのパン卿だけだった。
「三人半」
 ぽつりと呟かれた言葉に、豪は顔をしかめた。
「半、て何だよ。つまり、四人ってことだろうが」
「半分は別の手術に使った」
 答える低い声は素っ気無く、淀みも無かった。
 豪は何か言い返そうとしたものの、握り締めた右手に痛みを感じて、口を閉ざした。この女にまた命を救われた自分には、彼女を責める資格が無い。
 天蠍都市スコルピウスは医術の国として知られていた。他国では入手できない特殊な薬草や鉱物を調合した薬は高値で取引されるし、他国の医者なら匙を投げるような怪我や病気でも、スコルピウスの医者ならば高度な医療技術によって治療してもらえると噂されている。治療は高額だが、大枚をはたいてでも助かりたいと願う者達にとっては、医師の国外派遣や薬品輸出を始めた現ガイア卿は神様のような存在だった。
 しかし豪は、この女は神ではなく悪魔の類だと内心で罵っていた。
 助かる見込みが無い患者を前にした時、この女はあっさりと判断を下す。「助からない部分を交換すれば良い」、と。
 交換のパーツがどこから来るのか、何度も怪我をしてはスコルピウスに放り込まれていた豪は、すぐに真相を知った。
 壊死した指が再生するはずが無かった。腎臓付近を刺されたと思ったのに、その後の生活に何も支障が無いのはおかしかった。大量の毒物を吸い込んで血液が汚染されたはずなのに、数日で意識が戻るなんて、普通なら考えられなかった。粉々に複雑骨折したはずの骨が元通りになっていた時には、自分の記憶の方が妄想だったのかと本気で頭を捻った。
 からくりはごく単純で、彼女曰く効率的なものだった。
 患者を助けるための人体パーツは、黄道十二都市の死刑囚の身体から取り出された物だった。
 裁判を司る天秤都市リブラで死刑判決が出た者は、冥界の女王の名を頂くペルセポネ卿の下で罰を受けるために、隣国ヴィルゴへと送られる。そして罪の内容に応じて苦痛を与えられてから、死に至らしめられる。現在でこそ商業都市と言われるヴィルゴだが、黄道十二都市の中での本来の役割は死刑の執行だった。
 そこに目を付けたのが現ガイア卿である錠だった。彼女は死刑囚の量刑変更をペルセポネ卿に持ちかけた。死罪になることは変わりは無いが、与えられる苦痛を免除する代わりに、その肉体を他者に提供する。死刑囚達は「最期に善行を積み、次に生まれ変わる時には神の恩寵を受けられるだろう」と説き伏せられる。了承した者は「新鮮な素材」として、重症患者が現れるまでは丁重に飼われることになる。そして、必要とされれば臓器、血液、骨、肌、筋、血管、眼球、鼓膜、指に爪に髪の毛に、何から何まで全てのパーツが利用される。
 真相を知った豪は治療を拒否した。だが、彼女は聞き入れなかった。彼女が豪を治療するのは、第一長老であるペルセポネ卿の意思であり、豪の意思など知ったことではないとのことだった。「こんなやり方をガイアが許すと思ってるのか」と何度も錠を罵ったが、彼女は薄く笑っただけだった。何度目かの一方的な罵倒の末に、彼女の口から「神など存在しない」という呟きを聞かされて、豪はガイアの名を出すのを止めた。
 豪がどうしても理解できないのが、このおぞましい提案を現ペルセポネ卿であるりょうが受け入れたということだった。隣国ヴィルゴの先輩騎士を、豪は深く信頼していたし、頼りにしてきた。その陵が何故こんなやり方を承諾したのか、豪はいまだに訊けずにいた。
 下を向いて唇と噛む豪に、錠は相変わらずの無表情で問い掛けた。
「治した箇所を知りたいなら、医者を呼ぶが」
「……いらねえよ」
 今更手術の内容を聞いたところで、生理的な嫌悪感が深まるだけだ。それに、この国の医者はガイア卿の命令で動いているだけ。何の罪も無い。感情が抑えられず八つ当たりをするのは避けたかった。
 錠本人は医者ではない。あくまでガイア卿として民に命令を下しているだけだ。ただ薬の調合は自分でも行うらしく、現に今日も彼女の手に薬が入っているらしい布袋があった。錠はそれを豪の傍の台に置くと、元からそこに置いてあったグラスに水を汲む。
「右腕の痺れは暫く続くそうだ。朝晩食前に黒い包みを一包みずつ。痺れが酷い時は白い紙の方を一日三回まで。食後に」
 右腕を無意識に抑える豪に、錠は台上の白い紙包みとグラスを指差した。
 グラスに汲んだ水は水鏡のものだった。豪が寝かされた台のすぐ傍に水鏡があり、つまりここが神殿の中心であった。聖なる水鏡の水を飲むなんて他国では非常識極まりない行為だったが、錠は便利な水源くらいにしか思っていないらしい。レオでも獅子達が好き勝手に水鏡の水を飲んだり、行水に使ったりしているので、その点については豪は錠に文句を言ったことはなかった。
 この神殿自体も他国から見れば信じられない場所だった。迷路のように入り組んだ洞窟は全く飾り気が無く、大地の女神ガイアを祀っている気配も無い。巫子の姿を見たことも無い。時折、医者やその関係者らしき人物が見え隠れするだけで、基本的にはこの神殿には錠しかいない様子だった。
 錠は布袋から何か取り出した。赤黒い無花果。以前にも渡されて、とても滋養分に富んだ木の実だと教えられた。薬の前に食べろ、と言うことらしかった。
 それだけ示すと、錠は踵を返そうとした。あとは勝手に帰れ、と言うことらしい。
 豪は無言で頭を下げた。人間としては許せない相手だが、面倒を見られているのは自分の方だ。望まない施しではあっても、礼を欠くことはできない。
 錠は人付き合いの悪い騎士の代表格ではあるが、一部の後輩騎士に対しては面倒見は悪くなかった。ヘラ卿就任の時に大層世話になった仁が錠のことを慕うのも、気に入らないとは思うが、わからなくもなかった。
 経緯は知らないが、現パン卿も錠とは親しい様子だった。
「あんた、えんとは親しかったよな」
 何気なく口にすると、錠はぴたりと足を留めた。
 豪は余計なことを言ったと、瞬時に後悔した。錠は長くガイア卿の座にある。親しい騎士との別れを何度も経験していて、気持ちの折り合いの付け方も十分に知っているだろう。それでも別れを寂しいと思う気持ちくらい、この万年無表情の女にだってあるはずだ。
「パン卿候補を、カンケルから直接ヴィルゴに運んだらしい」
 彼女は背を向けたままで、その口調からは何の意図も読み取れない。例えこちらを向いていたとしても、何を思っているのかはわからなかっただろうが。
「また水鏡を使ったのか。まあ、仕方ねえよな」
「陵の判断だ。カプリコルヌス政府の頼みでもある」
「……カプリコルヌスの連中は、早く縁を辞めさせたいってことか」
 強引な手段を辞さない縁のことだ。残された時間が少ないとわかれば、可能な限り自然保護策をぶち上げてから去るつもりだろう。縁の仕掛けた爆弾法案を解除するのか、実現に移すのか、次のパン卿はそこから始めることになるだろう。豪は次期パン卿に心底同情した。
「ガイア卿、あんたならどういう奴を次のパン卿に選ぶ?」
 錠は微動だにしなかった。少し考えているようだった。
 豪は左手で赤黒い実を掴んだ。水気の多い柔らかな実に歯をガブッと歯を立てると、じんわりとした甘みと僅かな苦味が広がる。
「正直、俺は今回の選定役でなくて良かったと思ってる。カプリコルヌスの内情はこじれちまってるし、あの縁の後釜に座らされる奴が気の毒だぜ。どう動いたって縁と比べられて、非難されるに決まってるからな」
 錠は少しだけ豪の方に首を傾けた。
「お前は非難されなかったのか?」
「あっ?……ああ、そうだな。そうだったな」
 嫌なことを思い出させられた。豪は不機嫌に唸って、甘い果実を無理に口に突っ込んだ。
 先代と比較されるのは仕方の無いことだ。豪の先代は短い就任期間だったにも関わらず、一部の民にとても任期があった。豪は就任して暫く、先代の影を常に感じざるを得なかった。二十年以上パン卿の座にあった縁の後を継ぐとなれば、より一層比較の対象とされるだろう。
「そう言うあんたはどうなんだよ?」
 睨み付けるような目で問い返すと、錠は今度は横倒しに首を傾げた。
「無かった」
「……まじかよ」
 この女、どこまでもいけ好かない。豪が叫びを堪えて天井を仰ぐと、「そうじゃない」と錠が振り向いた。
「私には先代が居ない。だから、誰とも比べようが無かった」
「は? 前のガイア卿が居ないって、どういう意味だ」
「長らく空位だった」
 炎に照らされた錠の青白い顔を、豪はまじまじと見つめた。彼女を信用はしていないが、嘘を吐く必要性も感じられないし、調べればすぐに真実かどうかわかることだ。本当に錠以前のガイア卿の座は空位だった、ということだろう。
「そんなことが有り得るのか……」
 呆然と呟いた豪に、錠は口角を上げた。
「他の国は知らないが、騎士が居なくても国は保たれる。カプリコルヌスのように行政の仕組みが有る国なら、尚更だ。パン卿に相応しい者が見つからなければ、むしろ居なくても問題は……」
 居なくても問題は無いはずだ。そう言いかけて、錠は口を噤んだ。目線を豪からずらして、水鏡を見つめた。
「あくまで私個人の意見だ」
 彼女が何を気にしたのか、珍しく豪にも読み取れた。
「ああ、仁には言わねえよ。他の連中にもな。俺はあんたの意見なんか参考にしねえけど、あんたがパン卿なんて要らないって言っちまえば、無駄に影響が広がるからな」
 錠は何も言い返さなかったが、顔は皮肉げな笑いに歪んでいた。これも珍しいことだった。
 そのまま踵を返すと、錠はスッと姿を消した。やって来た時のような不可思議な足音は全く聞こえなかった。
 間もなく灯りが消え、豪は再び闇の中に戻された。

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