始まりは何度でもある

モドル | ススム | モクジ

  11 at Cancer  

 双魚都市ピスケスから巨蟹都市カンケルへ。
 水鏡の目映い光に包まれていたのはほんの一瞬だった。カミーラが硬く閉じていた目を開けると、水晶の壁と妖艶なアフロディテ=エロス卿の姿は無かった。替わりに、明るい白壁を背にして、いかにも活動的な姿の女性がその背筋を伸ばして待っていた。
「ようこそ、カンケルへ」
 軽快な口調。手足の長い長身に、短くまとめた赤い髪。黄茶色の瞳はくりくりとして木の実のよう。大きくなりすぎた少年ような風貌だったが、落ち着いた表情は大人そのものだった。カンケルを統べるヘラ卿、在位三年目のじんである。
 タズーが真っ先に気が付いて、
「はじめまして、ヘラ卿。お忙しいところお邪魔します」
と、大きな声で挨拶。他の四人も慌てて頭を下げた。
「いいえ。こちらの都合で急いで来てもらうことになって、本当にごめんなさいね」
 ヘラ卿はパン卿候補の手を次々にとって、水鏡から引き上げてくれた。
 こういう騎士も存在するのかと、カミーラは失礼だとは思いつつもヘラ卿をじっと観察した。
 同じ女性の騎士でもアクアリウスのガニュメディス卿や、ピスケスで出逢ったアリエスのフリクソス卿とは全然雰囲気が違う。少年っぽい服装にも関わらず、ずっとずっと大人の女性だった。
「翻《ほん》から聞いたと思いますが、ちょっと敵に侵攻されてしまっていて」
 今は小康状態なので少し時間があるのだ、とヘラ卿は苦笑して見せた。
 そんな状態で他国のことに関わっていて良いのか、とカミーラは心配した。だがカミーラが言葉に出す前に、ヘラ卿は安心させるように言い切った。
「でも、絶対に疎かにはしません。同盟国の騎士の選定に関わることも、私達の重要な仕事ですから」
 真面目な性格でもあるらしい。気遣いもできる人だ。カミーラは今まであったどの騎士よりもヘラ卿に親しみを覚えた。
 こちらへ、と案内される。ちょっと鼻の奥にツンと来る生温い空気の中、カミーラ達は歩き出した。
 カンケルの神殿は天井が高い。壁の大きな四角穴から燦々と日光が差し込み、明るく開放的だった。水鏡の間と同じく、神殿全体は白い岩で覆われている。よく見ると、それは白く塗っているのではなく幾つもの大きな石を器用に組み合わせてできていた。
「凄いねえ。遠目には全っ然継ぎ目が見えないよ」
「ああ、熟練の技だなあ」
 セディとタズーが壁を見ながら感嘆しているのを聞いて、ヘラ卿は微笑んだ。
「カンケルは砂浜ばかりで、切り出して建物にできるような巨大な岩が少ないんです。だから大き目の白い岩を組み合わせています。うちは漁師が多い国で、みんな細かい作業が得意だから、こういう神殿になったんでしょうね」
 カミーラもまじまじと壁を見つめた。上手く岩を配置してあるので、よくよく見ないと継ぎ目なのか石の本来の模様なのか判別できない。
 これは継ぎ目だろうかと爪先で触ってみる。と、触ったところがボロッと崩れ落ちた。
「ちょっと、カミーラ!」
 ヘレンが咎めるように叫んだ。彼女に言われなくても、カミーラだって心の中で叫んでいた。なんて間の悪い。ちょっと触っただけで崩れるなんて、一体自分が何をしたというのか。
「ああ、気にしないで。石灰岩とか花崗岩とか、割と脆い岩が多いの。だから、しょっちゅう崩れてお掃除も大変で」
 ヘラ卿が優しく言ってくれて、カミーラは金切り声で泣き出しそうだった自分を押し留められた。
「ごめんなさい。私、後で掃除します」
 先に謝れば良かったのに、と思わないでもない。何を良い子ぶっているのか、と自分を嫌悪もした。
 ヘラ卿は気にしないでと繰り返した。そして四角い大きな壁穴から外を見やると、少し眉を潜めた。外で何かを見つけたようだったが、何も言わず彼女は先を急ぐように少し早足になった。
 ヘラ卿が視線を向けた先は晴天の砂浜だった。宮殿のすぐ外は見渡す限りキラキラと太陽を反射する砂浜で、その先は静かに流れる黄道十二宮流。
 いや、違う。川とは異なる、不思議な香りが風に乗って漂ってくる。
 ライサが壁穴から首を外に出した。
「そうか、これが海なのか。潮の香りというものなんだな」
「海……これが?」
 カミーラも改めて息を吸ってみる。
 黄道都市の国々は宝瓶都市アクアリウスから流れ出る黄道十二宮流に囲まれていて、基本的に海というものが存在しない。唯一、巨蟹都市カンケルだけが海に面し、黄道十二宮流はここで豊かな流れを海に押し出していく。
 初めての海。そう考えれば、さっきまで気持ち悪いとすら思っていた風が少し気持ちよく感じられた。湿度の高い、少し生臭い風。カプリコルヌスの川面とは明らかに違う、体に纏わりついて染み込んで来そうな匂い。
 カミーラがうっとりと目を細めた先で、セディも鼻を引く付かせていた。
「うーん、煮込みの足りない塩スープみたい」
「セディ……」
 なんて情緒感のない、と続けようかと思ったが、自分だって生臭いとか思っていたのだから他人のことは言えなかった。
「しまった。置いて行かれる」
 ライサがまだ覚束ない足取りで駆け出して、カミーラも慌てて彼を追った。セディもアワアワと追って来る。
 カミーラはさっきヘラ卿が窓の外に何を見たのか気になったが、通り過ぎる数々の窓から覗いても、カミーラの目にはただひたすら晴れた空と輝く砂浜と光る海が見えるばかりだった。
 ヘラ卿が五人を案内したのは彼女の執務室のようだった。膨大な書類や書物が収まる、幾つもの本棚。どれも細かく仕切られて、整然と並んでいた。巫子らしき少女二人がパタパタと席を設えている。
「ありがとう。お茶もお願いしていいかしら?」
「はい、仁様。すぐお持ちします」
 少女達は軽やかな足取りで駆けていった。
「さあ、掛けて。寛いで下さいね」
 ガラスのテーブルを囲む籐椅子を勧められた。背もたれのカーブ、肘置きのフォルム、座面の安定感、すべてが素晴らしく座り心地の良い椅子だった。
 カミーラは「素敵な椅子ですね」と言いかけたが、
「素晴らしい椅子ですね」
と、タズーの声が聞こえて、言葉を飲み込んだ。
「ありがとう。私も気に入っているんです」
「本当に素晴らしい。これもカンケルで作っているのですか?」
「ええ。漁に出られない日には、こういったものを家内工業でよく作ります」
「カンケルの方達は本当に器用なんですね。いや、素晴らしい。カプリコルヌスに買って帰りたいぐらいです」
 タズーの横では、ヘレンが同意するように幾度も頷いている。
 自分の言葉が追いつかなくても、ヘレンのように賛同を示すだけという手もあるのだと、カミーラは少しだけ爪を噛んだ。口が間に合わなくても意見は示せるのに、自分は先に言われてしまったことに悄然とするばかりで、今もこうして余計なことを考えている。ヘラ卿には、カミーラもこの椅子を素敵だと思っていることなど伝わっていない。
 テンポ良く会話を生み出せない自分。他人を羨み嫉む自分。卑屈に他人を観察する自分。全部嫌いだ。
「アクアリウスとピスケスではどうでしたか?」
 ヘラ卿の優しい声に、カミーラは涙をこっそり拭ってから顔を上げた。
「両方とも美しい国で大変驚きました。俺はカプリコルヌスを出たことがありませんでしたから、他の国に行っただけでも凄い収穫です」
 タズーの答えに、ヘラ卿は深く頷いた。
「そうでしょうね。私も以前は国外どころか、自分の村を離れたことさえありませんでした。騎士候補に選ばれた時、とにかく外の世界を見られることが嬉しかったです」
 カミーラはヘラ卿に更に親近感を覚えた。カミーラも自分が生まれ育った田舎町からほとんど出たことが無い。だから都会に憧れ、自力で都会に就職したルカを尊敬している。騎士候補にならなければ、就職先を求めて首都に出るのが始めての遠出になったことだろう。
「あの時選ばれなかったら、私は今もあの場所から外の世界に憧れていたのでしょうね」
 そう言って目を伏せたヘラ卿の顔が、カミーラには何故か少し寂しそうに見えた。
 ふと、カミーラの脳裏にピスケスで出会った元巫子の男性の言葉が蘇った。
――――あの方は孤独です。何ができるわけでもなく、若さも失った私ですが、それでもあの方を置いて遠くへ行くことはできませんでした。
 アフロディテ=エロス卿のことはよくわからないが、ガニュメディス卿はとても寂しそうな人だったし、現パン卿も孤独と言えば孤独だ。明るく元気なこの女性も、ヘラ卿になったことによる孤独を感じているのだろうか。
 ヘラ卿がどう思っているのか、カミーラは聞いてみたい気がした。セディがガニュメディス卿やアフロディテ=エロス卿に騎士になったことを後悔しているのかと質問をした時、失礼だと思って窘めてしまった。でも、これから騎士になるかもしれないという自分達の立場では、疑問に思って当たり前の疑問だったのだと今更ながら気が付いた。
 セディはパン卿になった自分の姿を現実的に思い描こうとしているのかもしれない。カミーラにはその自覚がなかった。妄想的に、期待と不安の入り混じった未来しか思い描けない。
「仁様、失礼いたします」
 先ほどの少女達が銀のワゴンにお茶セットを乗せてやって来た。お茶請けには真っ白な焼き菓子。
 アクアリウスでたらふく朝食を食べ、ピスケスでもご馳走になり、カミーラは正直食べられそうに無かった。だが、ヘラ卿には了解済みだったらしい。
「翻の所でも色々お出ししているでしょうから、お茶菓子は軽いメレンゲ菓子です。無理の無い程度に召し上がってください」
 さりげなく気遣いのできて、本当に素敵な人だな、とカミーラは心から思った。
 自分がパン卿になったら、どんな騎士になれるのだろうか。ヘラ卿のように優しく思いやりに満ちた人間にいきなりなれるのだろうか。なれるかもしれない。アフロディテ=エロス卿も騎士就任前後の自分は異なると言っていた。生きる環境が変われば、自分もきっと変われる。
 そこまで考えて、カミーラは小さく首を振った。
 夢を見るべきじゃない。カプリコルヌスを取り巻く情勢は厳しいのだ。穏やかでいられるはずが無い。
「慌しいけど、早速始めますね」
 そう言って、ヘラ卿が深く腰掛けなおした瞬間だった。
 ドスンと扉を蹴る衝撃音がして、お茶を運んできた少女が閉めたばかりの重い扉が開け放たれる。
「超過勤務!」
 続いて怒号が飛び込んできて、その場にいた全員が入り口を凝視した。
 逆光の中に女のシルエットが浮かび上がっていた。緩く結い上げられた波打つ髪が、外から舞い込む海風にふわりふわり揺れている。太陽の光に反射して孔雀の羽のように煌くのが、夢の風景のように美しい。
 雲がかかったのか、すぐに光が弱まった。
 女も姿はさっきまでの幻想的な雰囲気をぶち壊していた。腕を組んで仁王立ち。大きな瞳を不機嫌に顰めている。堅苦しい詰襟の服、腰のベルトには短刀らしき物を帯び、さっき扉を蹴り飛ばしたのであろう踵の高い真っ黒なブーツはとても丈夫そうである。肩には煌びやかな飾りが幾つも光って見えた。それが勲章だか階級章だかカミーラには全く判別ができないが、とにかく偉そうな軍人だと思った。カンケルの軍隊の人のだろうか。
 その彼女はパン卿候補には一瞥をくれただけで、冷たい視線を真っ直ぐヘラ卿に注いでいた。
 睨まれたヘラ卿は数秒固まっていたが、こめかみに指を当てて乱入者に話しかけた。
「数《すう》、まだ時間があると仰ったではないですか」
 数と呼ばれた女はフンと鼻を鳴らした。
「優雅にお茶してる時間があるなんて言ってない」
「お茶じゃないです! パン卿候補を選ぶ面接です」
「ハッ、暢気なことで」
 女は仁王立ちのまま、更に不機嫌そうに腕を組んだ。時間をパン卿候補達に譲る気は毛頭ないらしい。
 ヘラ卿は小さくため息をつくと、手の平サイズのベルを鳴らして巫子達を再び呼んだ。すぐに少女達が開けっ放しの扉の後ろからおずおずと現れる。
「はい、仁様」
「何度も悪いけど、皆様を応接室にご案内してくれる?」
 そして、ヘラ卿はカミーラ達を本当に申し訳なさそうに見回した。
「皆さん、始めても無いのにごめんなさい。しばらく待ってもらっても良いかしら?」
 呆気にとられていた五人はそれぞれギクシャクと立ち上がる。セディがおっかなびっくり駆け出して、ライサもふらふらと続く。タズーは乱入者にお辞儀をしながら、ヘレンもその後を追った。カミーラも慌てて小走りになる。
 すれ違った女軍人は二十歳頃に見えた。とても目の大きな可愛らしい顔立ちをしているのに、眉間に深く刻まれた皺がその容貌を裏切っている。
 カミーラが部屋が出るのも待たずに、彼女はヘラ卿に声を放った。
「ゴウがやられた」
「何ですって!」
 ヘラ卿の叫ぶ声は閉まってしまった厚い扉に遮られ、それ以上は聞こえなかった。
「さっきの軍人、肩にゲミニの紋章が着いてたぞ」
 タズーが呟くと、案内のために呼ばれた巫子達が小さく頷いた。どこか萎縮している様子だった。
「ゲミニのポルクス卿でいらっしゃいます」
 カミーラは目を丸くして、固く閉ざされた扉を振り返った。
 唯一二人の騎士を戴く双児都市ゲミニの片割れ、ポルクス卿。騎士名は数。ヘラ卿と同じくらいか少し年下に見えたが、その在位は現在四位。現パン卿の縁よりも長い。最長老のペルセポネ卿、第二長老のガイア卿、第三長老のガニュメディス卿の誰かが斃れれば、代わって第三長老に名を連ねる立場である。
 そして、ゲミニは傭兵を生業とする国。主に黄道十二都市の国々を外敵から守るため、それなりの金額と引き換えに傭兵を各国に派遣してきた。戦乱とは直接は無関係なカプリコルヌスでさえ、十二宮流外側の防衛をゲミニの傭兵部隊に依頼している。黄道十二都市の中でゲミニと契約をしていないのは、獅子都市レオと天蠍都市スコルピウスだけだった。
 そのゲミニの騎士が告げた言葉に対し、ヘラ卿のあの慌て様。ただ事ではない。
「ねえ、何か大変なことがあったんじゃ」
 カミーラが誰にとも無く問いかけると、ヘレンが心配そうに頷いた。
「ええ、何かがやられたってポルクス卿は仰ったわ」
「何かあったんですか?」
 タズーが巫子達に尋ねるが、答えることを禁じられているのか、あるいは状況をよく知らないのか、少女達はただ首を横に振るばかりだった。
「こちらへどうぞ。応接室にご案内します」
 そう促されて、パン卿候補達は仕方なく黙って巫子達の後に従った。
 先ほど通ったばかりの回廊に来て、ふと、カミーラは外を見やった。さっきヘラ卿が窓の外を見て顔を顰めていた方に目をやると、キラキラと輝く水平線の上に何か黒いものが点々と存在した。
 今は水の上に見えて、でもさっきは近視のカミーラには見えなかった物。つまり、その黒い点々はこちらの方へ近付いて来ているということだ。
 カミーラはゾッとした。近付いて来ているのは敵国の船ではないだろうか。だから、ヘラ卿は顔を歪めていたのではないのか。そうだとしたら、その状況でパン卿選びの面接をしようとするなんて、ポルクス卿の言うとおりヘラ卿は暢気すぎる。
 混乱した頭で立ち尽くしていると、
「カミーラ、もう行きましょう」
と、ヘレンに小声で呼ばれた。カミーラは我に返り、他の皆の後を慌てて追うのだった。



 それから三日が過ぎた。
 ヘラ卿がパン卿候補達を面接に呼ぶことはなかった。それどころではないのは、直接戦争に関わったことのないカプリコルヌスの民でも理解できた。
 カミーラ達がヘラ卿の執務室を辞した数時間後には、神殿の窓からはっきりと船団の姿が見えるようになった。ただし、それはカミーラが危惧していたような敵国のものではなく、ゲミニが誇る傭兵部隊だった。カンケルの防衛を固めるためにポルクス卿が派遣したらしい。
 手持ち無沙汰で待つ間に、カミーラは何度もヘラ卿やポルクス卿の姿を見かけた。ヘラ卿の顔には刻々と疲労が刻まれていくのがわかった。血色の良かった頬が青白くなっていくのが痛々しかった。時折パン卿候補達を見つけると、「待たせて本当にごめんなさい」と本当に申し訳なさそうに謝るので、次第にヘラ卿の視界に入らないように努力するようになった。
 ポルクス卿はいつもカリカリと怒っていた。パン卿候補を目の端に捕らえると、実に鬱陶しそうに鼻を鳴らして、何も言わずに超高速の早足で去っていくのだった。
「俺達、完全に邪魔だよな」
 三日目の夜、神殿の巫子達が用意してくれた夕食を摂りながら、タズーが溜め息と共に吐き出した。誰も反論できず、葬列のように黙りきっていた。
 カンケルの食事はさすがに新鮮な海産物を使ったものが多い。初めて食べる生魚の刺身。サラダは葉物野菜の代わりに生の若布。昆布と帆立の佃煮もホロホロ崩れて柔らかい。カミーラはホカホカの白ご飯にぷりっぷりの釜揚げしらすと生卵、それに生山葵をたっぷり乗せて、よく混ぜて食べるのがとても気に入った。
 カプリコルヌスの食事は乳製品以外は火が通ったものが多い。そもそも魚はオイル漬けか燻製しか食べない。故郷の習慣とは真逆だが、味も量も申し分なかった。
 最初は美味しい料理に嬉々としていたパン卿候補達だったが、その楽しい旅行気分は食事の回を重ねるごとに消沈し、食べ物を淡々と口に運び続けるしかなかった。
 たかが三日。しかし、楽観的でいられない状況であることを把握するには十分だった。
 カンケルが歴史的に敵国と交戦し続けていることは知識として知っていた。その宿敵国とは、神話の中で語り継がれる勇者の名を戴くヘルクレスである。黄道十二宮国家連合には属さない巨大な国家だ。その民は粗暴で好戦的で、遺伝子的に戦うことしか頭にない野蛮人だと言われている。黄道十二宮国家連合に属する国々とは基本的に仲が悪く、特に巨蟹都市カンケル、獅子都市レオ、人馬都市サギタリウスの三国との関係は交戦中か、一時的な和解しか有り得なかった。
 黄道十二宮国家連合に敵対する国はヘルクレスだけではない。天蠍都市スコルピウスと、こちらも神話の凄腕の狩人の名を戴くオリオンは天敵同士としか言いようが無い。また、スコルピウスは隣国のセルペンスという白蛇の名を戴く国とも折り合いが悪く、数十年前に一悶着あってからは絶縁状態である。
 無論、黄道十二宮国家連合以外の国が敵国ばかりというわけではない。双児都市ゲミニと白鳥の名を戴くキグナス、宝瓶都市アクアリウスと大鷲の名を戴くアクイラとは、それぞれ固い友好関係で結ばれている。キグナスとアクイラ、それに竪琴の名を戴くリラの三国は同盟を結んでいて、その関係で黄道十二宮国家連合の各国とリラの関係も良好である。獅子都市レオならびに処女都市ヴィルゴと同盟関係にあるボーテス(神話で牛飼いを意味する)も、他の連合の国々と友好的な関係を築いている。
 逆にオリオンと固い同盟関係で結ばれているカニス・マヨルとカニス・ミノル(それぞれ神話の大犬と子犬を意味する)は、黄道十二宮国家連合の国々とは敵同士である。
 こんな風に敵味方関係にざっくり分かれているが、相手が敵側だから一切交流しないとか、一触即発で戦闘態勢に入ると言うことはない。貿易都市であるヴィルゴは各国と商売を行っているし、学園都市であるサギタリウスは各国から留学生を受け入れている。白羊都市アリエスに集められる孤児の中には敵国出身者もいて、二十四歳を過ぎて成人になる時には出身国に戻るか、それとも連合内の都市国家で生きるか、本人が選ぶ。湯治目的でカプリコルヌスに来る人の中には、所属国を偽ったヘルクレスの兵士達が密かに紛れているのは周知の事実だ。カプリコルヌス側はいちいち彼らを見つけ出して放り出したりしない。その辺りは暗黙の了解となっている。
 そういう状況もあって、カプリコルヌスから来たパン卿候補達がヘルクレスとの戦争を楽観視していた。
 でも、戦争の実態は楽観視できるものではなさそうだった。
 神殿のあちこちで巫子や衛兵達が話す声が聞こえた。隣国の獅子都市レオがヘルクレスに敗北、騎士であるセレネ卿は危篤という噂だった。三日前の時点でポルクス卿が言っていた"ゴウ"というのは、セレネ卿の騎士名なのだと言う。まだ亡くなっていない証拠に、セレネ卿の命が消えたことを示す六回の鐘はなっていない。
 レオに勝利したヘルクレスが勢いを増してカンケルに攻め込んでくるか、と騒がれていたが、幸いその気配はない。ヘルクレスも無傷ではなかったらしく、一旦同盟国の領地に引き上げたと噂されている。それでも、いつカンケルが危険に晒されるかわからない。
 ヘラ卿は必死に国を守ろうとしている。ポルクス卿もきっとそうだ。
 皆で暗い顔を突き合わせているのも辛くて、カミーラは薄手のカーディガンを羽織って海岸に出た。
 宮殿の海側は延々と砂浜が広がっていて、静かに波が打ち寄せていた。戦争になれば、この静かな光景も踏み荒らされてしまうのだろうか。
 カミーラは傲慢なことを考えていた自分の思い上がりが恥ずかしかった。カプリコルヌスを取り巻く状況は厳しい。他の国の騎士のように穏やかでいられるはずがない。そう思っていた自分が馬鹿にしか思えない。
 騎士の仕事は内政だけではないのだ。外敵からの攻撃に備えて自国で戦うのか、金銭などと引き換えに他国に援軍を要請するのか、国防にも気を回さなければならない。協力関係にある国との付き合い方も大事になってくる。
 カプリコルヌスが黄道十二宮国家連合の一員である以上、カプリコルヌスを外敵から守るために他国に、具体的にはゲミニに金銭を払い続けなければならない。それが今日の経済危機の一因だと聞いたことがあるけれど、支払いをやめる事はできないだろう。カプリコルヌスには男女を問わず徴兵制があるが、免除金を納めれば兵役を逃れることができる。大抵の若者が兵役免除金支払いを選ぶ。カミーラの家でも、カミーラと妹の分の免除金を両親と祖父母が色々やりくりして支払ってくれた。
 自国の軍隊を使えないとなると、何とか支払いを続けるか、守りが薄くなることを覚悟でゲミニへの支払額を下げてもらうか。考えられる手段はそう多くない。
 内でも外からも国を守る。そんな難しいことが自分にできるのか。自問自答すればするほど自信がなくなっていく。
 大きくため息を吐いて顔を上げると、暗い砂浜に腰を下ろしている人の姿が見えた。長い髪が潮風に靡いているが、シルエットからすると男性のようだった。
 カミーラの存在に気が付いたのか、彼がこちらを振り向いた。
「カミーラか」
「え、ライサ?」
 確かにそれはライサだった。前髪を横分けにして頬沿いに流しているせいで、いつもの彼とは雰囲気が違った。偉ぶった印象が薄くなり、年相応に見える。
「やだ、わからなかった。いっつもターバン巻いてるんだもの。髪が長いのね。髪を下ろした方が若く見えるよ」
「……セディとまったく同じ反応だな」
 ライサは微かにため息を吐いた。
「若くなど見られたくない。早く一人前になって、自分で道を切り開けるようになりたい」
 ちらっとカミーラの方を流し見た。自分はそう思わないのか、と尋ねられている気がした。
「うん、そうだね。早く一人前になりたいよね」
 とりあえず同意したものの、自分で道を切り開ける自信はカミーラにはなかった。パン卿になってカプリコルヌスの経済を立て直す自信も、他国と折衝して国を守る自信もない。そしてパン卿になれなかった場合、どう生きていけばいいのかもわからなかった。能力も展望も無い自分が心底惨めだった。
 カミーラの内心など知らないライサは大きく頷いて、また視線を海に戻した。
「パン卿になるかどうかは別として。自分の力で多くのものを守りたい」
 再度同意しようとしたが、カミーラには自分の守りたいものがわからなくなっていた。国民の暮らし、などと政治家の如く口に出すのは簡単だけれど、実際に何をすればいいのか全くわからない。
 ライサは自然を守りたいと明言した。騎士になった後の展望もあるのだろう。タズーもきっとそうだ。ヘレンとセディはそこまで考えていないかもしれないけど、仕事をしているのだからカミーラよりは社会のことを知っているはずだ。自分だけが机上の空論を振りかざしているような気がした。そんな自分がパン卿になれるはずがない。パーン神が何故カミーラを選定の対象にしたのかはわからないけれど、この場に残っているのも無意味に思えて来る。
 そんな気持ちでいるのが辛くて、誰かに打ち明けてしまいたかったけれど、今は相手が悪すぎた。よりによって、ここにいるのは同じ学生という身分で、カミーラが一番意識しているライサだ。強がって前向きな発言内容を考え出した。
「私はパン卿になるわ、絶対。やりたいことがあるんだもの」
 嘘ではない。カプリコルヌスは今のままではダメだと思っている。何とかしたい。
 ライサは器用に片眉だけを上げて見せた。
「アクアリウスでの面接の時に言っていたことか?」
 カミーラは一瞬頭がパニックになった。確かに話の流れで何か意見を言ったような気がするが、全然覚えていない。そうだ、確か父の仕事に関する何かだったような気がするが、具体的になんだったか。
 辺りが暗いせいか、ライサはカミーラの焦りに気がつかなかったらしい。一人で納得して頷いている。
「あの意見はなかなか良かった。民が一人一人が考えて、行政が意見をまとめるというのは我が国に欠けている点だからな。しかし」
 ライサは夜空を見上げた。カミーラもつられて顔を上げる。今夜は雲が掛かっているが、明るい星が数個だけ肉眼でも確認できた。
「意見は一人一人違う。無数の星のようなものだ。その中で実際に政策の検討にかけられるのは、口の上手い輩の意見ばかりで、少数派は口を噤むしかない。それがわかっているから誰も自分の考えなど言おうとしない。考えもしなくなる。そうやって一部の要望ばかりが吸い上げられて経済発展を優先させた結果が自然破壊だ。だから、縁様が選ばれたはずなのに――」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 次第に口調がヒートアップするライサを、カミーラは押しとどめた。
「どうしてそうなるのよ? 確かにうちの国の人達は縁様や役所の人に文句を言ってばっかりで、ちゃんとした……えっと、建設的な意見ってやつは少ないわ。それは私も思ってる。でもね、経済的な発展が一部の人だけの意見ってことはないわよ。逆だわ。経済の安定と言うか、ちゃんと仕事ができて毎日ちゃんと暮らせる……つまり、生活が成り立つ環境を大多数の人が求めているはずよ」
 詰まりながらも言い募るカミーラに、ライサは今度は両眉をしかめた。
「生活を守れ、か。そう言って人間の生活向上ばかりを追い求めた結果が今のカプリコルヌスじゃないのか? 君の言う通りにしたら、先代の政策に戻るだけだ。それでまた水や土壌が汚れて、虫が死んで動物も死ぬ。カプリコルヌスは人間だけの土地ではない。自然が壊れたら結局人間だって生きられなくなる。皆、何故そんな単純なことがわからないんだ」
「じゃあ、自然を守るためなら人間が死んだっていいって言うの?」
 カミーラが金切り声を上げたので、ライサがこちらを凝視した。その視線には驚きと少し侮蔑が含まれていた。
 奇声を上げてしまったことをカミーラは後悔したが、一度高ぶった気持ちは抑えられなかった。
「私の知っている人が死んだわ。優秀な人だったのに、新人だからって業績悪化した会社で真っ先に首を切られて……事故だったけど、自殺って言う人もいる。ショックで気が狂ったんだって。そんな人じゃないのに。真っ直ぐで頼りになる人だった。他にも親が失踪したとか、家族がバラバラになって子供はアリエスに行ったとか、私が知るだけでも不幸になった人がたくさんいる。仕事さえあれば生活できたのに。皆、贅沢を望んでいるんじゃない。ごく単純なことなのよ」
「確かに単純なことだな」
 ライサはカミーラから目を逸らして立ち上がった。
「果たしてその不幸の原因は経済的なことだけかな」
「どういう意味よ?」
 ライサの言い方には明らかな棘があった。
「金がなくても一家離散に至らない家族だってある。日常的な暴力や家族仲の悪さが家計悪化によって表面化しただけかもしれない。君が頼りになると言ったその人物だって、真っ直ぐに自分の意見を主張しすぎて他人とぶつかっていたのかもしれない。新人なら尚更、組織の中で媚びたり従ったりすることを求められる。それができなかったから業績悪化を理由に放り出された、と私は思ったがな」
「……何よ、それ。わかってもいないくせに勝手な事ばっかり言わないでよ!」
 涙目で睨むカミーラをライサは見ない。彼はすっと立ち上がって砂浜を歩き出した。
「真っ直ぐなことが悪いとは思わない。純粋さは大事だ。だが、自分だけが正しいつもりで他人を傷付ける輩がどれだけ多いことか……」
 語尾は小さく不明瞭だったが、カミーラの頭がスパークするには十分だった。カミーラはぐいっと立ち上がって大声で叫んだ。
「あのねえ、他人のことをとやかく言えるわけ?」
 ライサは足を止めた。しかし、黙ったまま背を向けていた。
 その静かな様子にカミーラは余計に頭に来て、更に言い募った。
「何でもかんでも自分が正しいって感じで、学歴を鼻にかけて自慢気にしてるくせに。そんなに自分が偉いって優越感に浸るのが楽しいわけ? 面接でも勝手にルールを作って、皆がそっと軌道修正しようとしているのに尊大に不機嫌になって。そんな自分勝手な人に国民も誰も着いて行かないわよ」
 感情の赴くままに叫びながら、カミーラは誰かに対してつい最近同じようなことを思ったことを思い出した。そうだ、あれはピスケスに行った時、フリクソス卿に会った後に思ったのだ。正しくて真っ直ぐで伸びやかな彼女の様子が眩しくて、妬ましかった。
 フリクソス卿はカミーラが自分と似ていると言った。だから、見ていて苛々するのだと。
 わかっている。正しいつもりで強気で主張して、忌み嫌われてきたのは自分だ。他人から遠ざけられて後悔して、自己主張ばかりしないように気をつけて、だけど他人の我侭や自分勝手さに頭に来て、何故自分には許されないのかと憤慨して、それならと結局タイミングの遅れた主張ばかりして。
 ライサとも自分は似ている。そして、ルカとも。 
 確かにルカは真っ直ぐな女性だった。相手が間違っていると思えば、ちゃんと伝えようとしていた。正義の味方気取りなどと陰口を叩く輩もいた。ルカは自分が悪し様に言われていることを知っていた。それでも、自分で意見を言わずに他人に押し付ける人間を心から軽蔑し、黙っていることで自分や大切な人が不利益を被るのは馬鹿馬鹿しいから仕方なく自分が言うのだと、肩を竦めていた。
 言い方に問題があるのは本人も自覚していた。少々ストレートすぎて相手が誤解することもよくあったらしい。でもオブラートに包みすぎて何が言いたいのかわからなくなるのは無駄な努力だ。どう言っても悪いようにしか取らない相手だって世の中には居る。
 わかっている。ルカと自分は似ている。だから、ルカが人生を切り開けるのなら自分だって大丈夫だと、卑怯な安心感を求めていた。
 自分は卑怯だ。他人を強く非難しておいて、それは自己弁護と自己嫌悪に過ぎない。
 言葉が続けられなくて、カミーラは黙ってしまった。きっとライサは嫌味に満ちた反撃が来るに違いない。それに対応できる程、自分は頭も良くないし口も回らない。
 だが、ライサから返って来たのは静寂に満ちた声だった。
「真っ直ぐでありたいなら相応の努力が必要だ。馬鹿の一つ覚えで正義を振り翳すのは愚か者がすることだ。私は自己主張する場所を弁えている」
 さくっ、さくっと音を立てて、彼は暗闇を真っ直ぐに歩いていく。
「縁様の後を継ぐのは私だ。私ならできる」
 自分に言い聞かせるように言い放って、ライサは振り向くことなく神殿の方へと足早に去ってしまった。
 カミーラは何も言い返せず、茫然と見送った。彼の足音が完全に聞こえなくなってから、
「……違うわ、私よ。パーン卿になるのは私」
と、波の音に消えそうな小声で呟くのが精一杯だった。 
 独りになって、涙が流れてきた。
 自信なんて、ひとかけらも無い。わかっているのだ、自分の甘さを。自分の頼りなさを。自分なら何とかなるという根拠の無い気持ちだけが、カミーラを支えている。
 ライサの言葉が胸に痛かった。
――――真っ直ぐでありたいなら相応の努力が必要だ。
――――馬鹿の一つ覚えで正義を振り翳すのは愚か者がすることだ。
 真っ直ぐでありたい。真っ直ぐなまま、自分の正義を貫けるのならどんなに楽だろうか。そう、あのフリクソス卿のように……
 でも、パン卿になるにはそれでは駄目なのではないか、むしろ純粋さは不要なのではないかと、ピスケスで考え付いたばかりだ。気持ちが大人にならないと、パン卿には相応しくない。
 ライサの言う通りだ。自分はお子様なのだ。自分が正しくて純粋なつもりで、他人を傷付けている。そしてカミーラが言い返した通り、ライサも同じ欠点を抱えている。彼もわかっているからこそ、ボロを出さないように「自己主張をする場を弁えている」のだろう。
 自分も自重すれば、上手く意見を伝えられるようになるのだろうか。
「……やるしかないよね」
 大きくため息を吐くと、頭痛がしてきた。
 上手くいかないものだ。騎士に選ばれれば、自分は認められると思っていた。パン卿になりさえずれば全てが上手く良くと思っていたのに、これでは普通に生きていても同じではないのか。
 ふと、アフロディテ=エロス卿の言葉が頭に鳴り響いた。
――――よく考えるが良い。本当に騎士になりたいのか。騎士になりたいとしても、それはパン卿にならねばできないことなのか。
 カミーラはハッとして顔を上げた。
 アフロディテ=エロス卿が忠告した意図とは違うけれど、パン卿になった自分と、パン卿になれなくて普通に生きる自分と、一体何が違うのだろうか。今の自分から逃げたいだけだとしたら、パン卿になったところで何も解決しない。それどころか責任の重さに潰れてしまうかもしれない。自分に責任を持てずに逃げようとしている人間に、国を担うことなんてできるはずがない。
「あーあ、私ってダメだなあ」
 もう笑うしかなくて、カミーラは力の抜けた顔で夜空を見上げた。
 自分のことで手一杯なのに、どうして国政を担えるなんて思ったのか。
 答えは簡単だ。変われると思ったのだ。パン卿に就任しさえすれば、周囲が自分を認めるようになり、自分の人格も能力も自ずと騎士に相応しいものに変化すると信じていたのだ。自分にはそれだけの資質があるのだと、何の根拠もなしに信じてきた。
 アフロディテ=エロス卿の言葉が、また脳裏に蘇る。
――――私が一つだけ忠告できるのは、騎士になる前の自分となった後の自分は異質になるかもしれないということ。
――――変わった自分を嫌いではないよ。これも私なのだとわかっている。騎士になった時から。
 変わった自分を好きだとは、彼は言わなかった。異質なものになってしまった自分に、もしかすると長い時間をかけて折り合いをつけたのかもしれない。
 良い意味で変われるなら、カミーラにとって願ったり叶ったりだ。例えばヘラ卿のようにキビキビと働く騎士になって、巫子達にも好かれて、隣国の騎士とも協力できて……
「……なんか、大変そう」
 思わずボヤキが口について出た。
 この三日間で何度も見かけたポルクス卿の不機嫌そうな表情。顔立ちは可愛らしいのに、全身から発せられるオーラは常に刺々しい。他の騎士も苦手だ。掴みどころのないガニュメディス卿やアフロディテ=エロス卿、恐ろしいほど真っ直ぐなフリクソス卿。あの人達と上手く付き合える自信がない。
 騎士になれる自信も、騎士になるメリットもどんどん感じられなくなってきた。もうここで諦めて辞退した方がいいのだろうか。
 悶々と考えていたカミーラは、ふと背後に気配を感じて振り返った。
「いやー、夜は冷えるな」
 タズーが明るい口調で片手を挙げていた。冷えると言う割りには上着も羽織らず、逞しい腕をむき出しにしている。彼の口調に釣られて、カミーラは反射的に軽口を叩いた。
「そんな格好していたら当たり前よ。上着は持って着てないの?」
「いや、荷物の底にはあるんだろうけどよ。出すのが面倒で」
 頭をかきながら、タズーはどっかり腰を下ろした。さっきまでライサが腰掛けていた場所だ。
 落ち着いた視線が海を見つめた。
「不思議だよな」
「え? ああ、海のこと?」
「いや、海もなんだけどよ」
 タズーはまた頭を掻いた。彼の癖のようだった。
「同じ黄道十二宮国家連合の国なのに、この国もアクアリウスもピスケスも全然違うだろ。俺さ、よその国のことは客から聞いて知ったつもりでいたけど、全っ然わかってなかったんだなあって思ってさ」
「うん、私も本とかでしか知らなかったわ。本当に全然わかってなかった」
 わかっていなかったのだ。騎士になるということがどういうことかも。自分にとっては、体よく現実逃避できる手段でしかなかった。他の候補に知られたら、さぞ呆れられることだろう。
 またため息が出そうになって、辛うじて堪えた。と、頭にポンと大きな手が置かれた。
「なあ、ライサと喧嘩しただろ?」 
 咄嗟に返答ができずに目を白黒させていると、タズーはニヤッと笑った。
「あいつ、向こうで凹んでたぜ。神殿の外壁に頭ガンガンぶつけてるからよ、止めさせてセディに押し付けて来た」
「え……」
 あの脆い壁に頭をぶつけるとは、ライサの頭も然ることながら、壁の方も心配になった。修復が必要にならなければ良いが。
「って、なんでライサが凹んでたら、私と喧嘩したことになるのよ」
「してないのか?」
「えーと、だから喧嘩って言うか、ちょっと言い合いになっだけよ。大した事じゃないし」
 そんなことはない。中傷的な言葉の応酬で、カミーラはそこそこ傷付いた。そのせいで今までうじうじと悩んでいたところだ。
 タズーはニヤニヤしたまま、またカミーラの頭をポンポン叩いた。
「そうか。でもまあ、勘弁してやってくれ。あいつも反省してるからよ」
「何よ、それ。私がライサに怒ってるみたいじゃないの」
「怒ってないのか?」
「怒ってるけど!」
 誘導尋問に簡単に引っかかったカミーラの剣幕を、タズーは豪快に笑い飛ばした。
「お前らさあ、ほんとよく似てるよな。似た者同士でぶつかってるんだからよ、程々にして仲良くしようや」
 今度は背中をバンッと叩かれた。これはちょっと痛かったが、カミーラは鼻に皺を寄せただけで、抗議の声は上げなかった。大きな手から感じる体温がちょっと心地よかった。
「別に私は好きでぶつかってなんかいないわよーだ。ライサの言い方が悪いんだもの」
 わざとらしく膨れっ面で言うと、タズーはうんうんと頷いた。
「まったくだ。あいつの言ってることは、たまに極端すぎて頭に来るけど、ある意味では間違っちゃいないし、真相をズバリ突いてるって時もあるんだよな。後は言い方とタイミングの問題なんだよな」
 カミーラはハッとしてタズーの横顔を凝視したが、タズーは気付かず話し続ける。
「アクアリウスの最初の夜のこと、憶えてるか? 外に飯を買いに行った帰りに俺達と会っただろ」
 そんなこともあった。少ない夕食に耐えられず、セディと外に食事を買いに行って、その帰りにタズーとライサに会ったのだ。あの時のライサはとても不機嫌そうで、カミーラとセディに挨拶さえせずに宿舎に入ってしまった。
「アクアリウスの屋台で売ってるものがあまりに高いからよ、ちょっと出来心で、カプリコルヌスならもっと安い値段で売ってるぜ、って言ってみたんだ。別に値引き交渉のつもりじゃねえし、会話のきっかけくらいのつもりだったんだよ。そうしたら、その売り子が妙にまじめ腐った子で」
 普段はお金持ちの観光客や巡礼者ばかりを相手にしていて、どう対処すれば良いのかわからなかったのかもしれない。屋台の娘は神妙な様子で、「申し訳ありませんが、お金のない方でもお値引きはできません」と大きな声で販売を断った。
 タズーは呆気にとられてたものの、これがアクアリウスの民の考え方の一例なのだと納得しようとした。
 しかし、ライサは一気に頭に血が昇ったらしい。周囲の屋台の売り子達がクスクス笑うのも、彼にとって耐え難い状況だった。
「客商売の癖に、失礼の無い受け答えもできないのか。おまけに世間知らずだ。この国の民の知性の底が知れるな」
 周囲には聞こえないくらいの小さな声だったが、冷たい声で罵倒された娘は大きな目をパチパチさせて、次いで大粒の涙を零し始めた。
 タズーは慌ててフォローしようとしたが、ライサはプイッとその場を去ってしまうし、下手に騒いで他の売り子達に怪しまれるのも面倒で、結局そのまま彼も立ち去ってしまったのだと言う。
「ライサも言い過ぎたと思ったみたいでよ、夜中に何度も起きて、ブツブツ独り言を呟いてるんだ。何であんなこと言ったんだ、とか、私は最低だ、とか。わかっちゃいるんだよ、あいつも。頭の回転が速いせいで、咄嗟に人を傷付けるようなことを言っちまう自分に腹が立ってるんだろうよ」
「……へえ」
 どこが自己主張する場を弁えている、だ。カミーラは呆れて気のない返事をしてしまった。
 さっきのライサの言葉は、自制できない自分への戒めであり、悪い面が似ているカミーラへの精一杯の強がりだったのかもしれない。しかし、彼の発言にはいちいち苛々させられる。無駄に嫌な思いをさせられるのは、これ以上は勘弁願いたい。
 カミーラはわざとらしく髪をかき上げた。
「自分で勝手に反省してないで、私に謝りに来るべきだわ。正論だからって偉そうに話して、それで嫌な思いをした人間がいるってこと、忘れてるんじゃないの?」
「そこだよな、そこがカミーラと違う」
 タズーはうんうんと幾重にも頷いて、いきなり自分のことに話を振られて目をパチパチさせるカミーラに、ニヤッと笑って見せた。実はこれはタズーが考えたことではなく、セディが言っていたのだと言う。
「そうなの、セディが」
 アクアリウスのガニュメディス卿の振る舞いについて心無い発言をしてしまったことについて、確かにカミーラはセディに謝罪した。おそらくセディはそのことを言っているのだろう。セディを皆の前で非難して傷付けてしまったような気がしていたので、謝らないと心が落ち着かなかったのは自分だ。セディが全然怒っていないことがわかって、逆にほっとしたくらいだった。
 首を傾げるカミーラを、タズーは優しい目で見ていた。
「カミーラには普通のことかもしれないけど、俺にも結構新鮮だったぜ。二人だけになるチャンスも待たないで、しかも茶化してとかじゃやなくて、ちゃんと謝ってたし、すげぇなって思った」
 そう言ってから、タズーは自分に言い聞かせるように首を横に振った。
「これも俺が最初に思ったんじゃない。ヘレンだ。お前がでっかい声でセディに謝ってるのを見て、お前のことを素直になれて羨ましいって言ってたんだ」
 カミーラは顔が熱くなって、無意識に頬を冷えた両手で押さえた。
 タズーはカミーラの方を見ていなかった。海の方を見つめたまま、硬い声で言った。
「セディもヘレンも、他人のことを結構よく見てるよな。しかも良い面を平気で褒めるんだ。俺達、騎士の選定中なんだぜ。ライバルなのにな」
 珍しく早口で言い切って、タズーは一度口を噤んだ。そして、今後は小さく囁くように言った。
「お前ら、皆、素直だよな。毛色は違うけどよ、自分の気持ちを誤魔化さないし、真っ直ぐで、なんか綺麗だ。騎士ってそういう気質が必要なのかもな」
 その声は寂しそうだった。カミーラには、彼が自身のことを卑下しているように聞こえた。
「タズーだって素直だわ。だって、ピスケスでライサと言い合いになった時もすぐに謝ったし。それに、いつだって落ち着いて他人のことを考えて話せるし、タズーと話していて嫌な気持ちになる人っていないと思う。私とかライサはすぐ他人とぶつかっちゃって、周囲の人にまで迷惑かけちゃうもの。自然体で居て、他人に嫌われない人に憧れるわ。いえ、違うわ。いつも嫉妬してる。タズーみたいに周囲に受け入れられている人を、いっつも妬んでるのよ。嫌な性格でしょ」
「そっか、俺は妬まれてるのか」
 タズーは少し嬉しそうだった。だけど、とても悲しそうだった。彼が足元の巻貝を蹴ると、呆気ないくらい簡単に貝がバラバラと崩れた。
「俺さ、昔は家業なんて絶対継がねえって思ってたんだ。親父とかお袋が、客が理不尽なこと言ってきてもペコペコ頭下げるのを見てたからよ。でも自分が宿屋を継いで、結局親父達と同じことしてるんだ。仕事なんだからって自分の気持ちに嘘吐いて。仕事の時だけだと思ってるのに、普段の生活にも改造した自分が出てきちまう。その方が周りには受け入れられるんだ。本当の俺が惨めだよな」
 カミーラはかける言葉を失くした。生まれ付き社交的で如才ないのだと思っていたタズーが、彼自身のことをそんな風に思っているなんて考えもしなかった。
 タズーの今の姿は、彼が努力を重ねた結果なのだ。そうして社会的に「良い」と見なされる結果を得たのに、タズー自身はジレンマを感じている。
 ふと、カミーラは合点がいった。タズーが騎士になりたい理由は、もちろん国の政策を変えたいという気持ちもあるのだろうけれど、今の自分を止めて、真っ直ぐ素直な自分として生きたいという気持ちもあるのかもしれない。
 心の中に言いたいことが思い浮かんだ。それは騎士選定を受ける者にあるまじき意見かと思ったが、言うことに決めた。タズーは素直なカミーラを褒めてくれたのだから、正直に言わないのはアンフェアだ。
「ねえ、もしタズーがパン卿になったら」
 一度言葉を切る間に、タズーはカミーラに視線を向けていた。
「その時は素直になってよ。他人になんて思われたって、タズーが思うように振舞えばいいのよ。私、絶対に応援するから」
「……カミーラ、お前、本当に良い奴だな」
 涙腺が緩んだらしく、タズーは鼻まで啜り出した。
「そうだな、きっとそうする。そうだ、もしカミーラが選ばれたら、カミーラは今のまま素直でいろよ。誰がなんて言おうと、俺がでっかい声で味方してやるからな」
 カミーラは返答に困った。
 自分とタズーは違う。自分が今のままパン卿になったら、きっと周りの人を不愉快にさせてしまう。曖昧に「うん、ありがとう」と呟くのが精一杯だった。
 カミーラの様子に構わず、タズーは続ける。
「俺さ、お前らを見てて、何で若者だけが騎士になる資格があるのか、わかった気がするんだよな」
 騎士候補は年齢が明確に決まっている。青年期、つまり十三歳から二十四歳の間の者だけが候補となる。十二歳までの児童期、あるいは二十五歳以上の成人が選ばれることは決してない。選ぶのは守護神であり、例外は有り得ない。
「十二歳までじゃガキ過ぎて何もできないだろ。でも、成人になっちまうと色々としがらみも多いし、自分の気持ちも誤魔化せる。まあ、俺もそこに片足突っ込んでるけどな」
 ちょっと卑下するように言って、タズーはまたいつもの明るい口調に戻した。
「騎士って、長い人は何十年も就任してるらしいからよ。ある程度は分別があって、それでいて自分に素直になれる青年の方が、国のことを真剣に考え続けられるんじゃねえのかな」
「なるほど、それは一理あるわね」
 青年期の人間だけが騎士になれる理由については様々な解釈がなされている。神学者達の主流説では、神は大人になりきっていない少年少女を愛し、自らの代理人に選ぶのだと言う。政治家が「青年期は多感な時代であり、神の操り人形に成り易いからだ」と発言して大顰蹙を買い、政界から追放されたという話もある。騎士本人の発言として、「自分は神に導かれた。神の意のままに全てを行ったまで」との記録もあるが、その騎士は失政を重ねたため他国からの要請で解任されたという記録も併記されており、言い訳に過ぎないという意見もある。
 どれもこれも神を主体にした意見だ。それより、人間の気持ちを主体にしたタズーの考えの方がカミーラには納得できた。ガニュメディス卿、アフロディテ=エロス卿、ヘラ卿、予定外に会うことになったフリクソス卿とポルクス卿。大人びたヘラ卿でさえ、国を思う真っ直ぐな心の持ち主であることは、慌しく神殿を駆け巡る姿からも想像できた。ポルクス卿は姿をちらっと見かけるだけで、まともに会話もしたことがないが、同盟国を守る為に必死に働いていることくらいは見ればわかる。
 パン卿であっても、今の騎士達のように純粋でいることが許されるのだろうか。真っ直ぐに突っ走ることが許されるのだろうか。パン卿であっても……
 カミーラは口を引き結んだ。
「ねえ、タズー」
「ん? どうした?」
「縁様も、素直なのよね、きっと」
 タズーはすぐに返事を寄越さなかった。唸るように意味を成さない相槌を返しただけで、回答に悩んでいるようだった。
「私ね、縁様って国民のことを考えない、理想主義の嫌な人だと思ってたの。いくら自然が大事だからって、民の生活のことが考えられない人がどうして騎士で在り続けることができるのか、不思議に思ってた。でも、縁様は自分の理想を貫いているんだわ。それって凄いことじゃない?」
「そりゃ、凄いことだけどよ」
 遮りかけたタズーの腕を掴む事で、カミーラは彼の反論を押し留めた。
「待って、最後まで言わせて。考えがまとまりそうなの。つまりね、どういう思索を持っているのかは二の次で、騎士に大事なのはずっと真っ直ぐなままでいて、要するにね、自分の理想を貫ける若者かどうかってことなんじゃないかしら」
「ほお、それは新鮮な考えだな」
 タズーは賛同こそしなかったが、素直に驚いている様子だった。カミーラは畳み掛けるよう喋り続けた。
「うん、ちょっと強引な考えかもしれない。でも、まだ対して社会に接したことがない青年から騎士を選ぶって事は、その人の知識とか経歴っていうのは関係ないと思うのよ。政策についても、国の細かいことを色々知るようになったら軌道修正すると思うの。ううん、それどころか意見を百八十度変えてしまうかもしれないわ。じゃあ、今の私達が見られているのはどこかって話になるでしょう。そうなると、自分の理想を通すために強くいられる人間であることが大事なのかしらって、ちょっと思ったのよ。違うかな?」
 今度はタズーの反応が少し遅かった。彼が何か考えている様子だったので、カミーラも黙って彼の返答を待った。
「そうだなあ。カミーラの言ってる通り、騎士になって色々な事情がわかってきたら、今の俺達が自分の経験だけで考えた意見なんて変わっちまうかもしれない。その心変わりがダメってわけじゃなくてよ、自分の理想と違う政策を進めなきゃならなくなっても、自分の考えを推し進めるのと同じくらい全力で仕事に取り組めるかってことも大事なんじゃねえかな」
 そう言ってから、タズーは頭をポリポリと掻いた。
「なんか、結局は処世術みたいで、全然素直じゃねえな」
「ううん、そんなことない。それも大事よね。ううん、それが大事なんだわ。素直なのと、他人の意見も受け入れられるところと、両方が必要なのよ、きっと」
 やはりタズーの考え方はカミーラよりずっと大人だった。本人は自分の考え方が不服かもしれないが、世間ずれしない考え方ができるタズーがカミーラには羨ましかった。
 すっと、冷たい風が吹いた。
「冷えるな。戻るか?」
「うん、そうね」
 カミーラは座ったまま、思いっきり伸びをした。
「ついでにライサに謝りに行くわ。私もちょっと言い過ぎたから」
「おお、そうしてやれ。そんで、あいつにも謝らせろ。こっちから言えば、向こうの敷居も低くなるってもんだ」
「そうねえ。まったく、手がかかるわ」
 二人は海風を受けながら、並んで砂浜を歩いた。
 少し分かり合えた気がして、ささくれ立っていたカミーラの心は静まっていた。

 


 五人がヘラ卿に呼び出されたのは、その翌日のことだった。
 彼女の目元には数日前には無かった隈が陣取っている。明るく振舞っているが、いつもは溌剌としていそうな表情には疲れが浮き出ていた。
「本当にごめんなさいね、こんなはずじゃなかったのに」
 ヘラ卿は何度も謝って、そのたびにカミーラ達は、
「そんなことないです」
「自分達のためにご苦労をおかけして申し訳ないです」
と、慌てて口々に返した。
 その様子を部屋の隅のポスクス卿が実に苛々した表情で見ているものだから、余計に居心地が悪い。
 何故彼女がここに居るのか、入室した時からパン卿候補達はビクビクと様子を伺っていた。まさか選定の役目がポルクス卿に代わったのではないか。カミーラはそれだけは御免蒙りたいと思っていたのだが、ヘラ卿が説明したところによると、幸いそういう事情ではなかった。ヘラ卿は多忙の合間を縫って面接を行おうとしたが、自分が意識散漫な状態であることに不安を感じたらしい。他国の騎士への選定役変更についてポルクス卿に相談したところ、自分がフォローするからやれ、と言われたらしい。
「実は私、他国の騎士を選ぶ役目になるのは今回が初めてなんです。ゆっくりお話をしたかったのだけど、今の状況ではとても落ち着けそうになくて、ポルクス卿の申し出をお受けして、私が同席をお願いしました。数、よろしくお願いいたします」
 ヘラ卿に頭を下げられて、数と呼ばれたポルクス卿が大きな溜息を吐いて見せた。
「あのね、時間が無いんだから。さっさと本題に入ったらどうなわけ?」
 刺々しい口調。しかし、カミーラはついさっきまでポルクス卿に感じていた恐怖が、すっと薄らいでいるような気がした。
 態度は怖いし、口は悪い。でも、後輩騎士が困っているとなれば、悪態を吐きながらも助けてくれる。根は優しい人なのだ。だからこそ新米騎士のヘラ卿が安心して頼ろうとするのだろう。
 羨ましい。カミーラは声に出さずに呟いた。
 思い出したのは自分とルカとの関係だった。自分とよく似たルカのことを、カミーラは慕っていたし頼りにもしていた。でも、カミーラは自分と同じ欠点がルカにもあり、その部分は頼ってはいけないと思っていた。今思えば、自分はルカのことを傷の舐め合える同属くらいにしか思っていなかったのかもしれない。本当に安心して頼りにできる関係というのは、ポルクス卿とヘラ卿のような関係だと思った。ピスケスで逢ったフリクソス卿も、わざわざ選定の場にこっそり来させてもらっていたことを考えると、きっとアフロディテ=エロス卿のことを信頼して慕っているのだろう。
 自分が騎士になったら、先輩騎士達とこんな素敵な関係を築けるだろうか。
 カミーラの心はまた揺れた。認めてもらえる騎士になれる自信なんか無い。
 ヘラ卿が改めての選定の説明に入った。カミーラは不安を抱いたまま、神妙な顔でヘラ卿の言葉に耳を傾けた。
「改めまして、皆さんの三つ目の選定はヘラ卿こと私、仁が務めさせていただきます。よろしくお願いします」
 数以外の全員が頭を下げた。
「さて、皆さんはどんな騎士になりたいかを考えていらっしゃるところだと思います」
 今のカミーラには憂鬱な内容だった。カプリコルヌスのために色々と考えてみた政策も、実際に騎士に任務に就いて国のために奔走しているヘラ卿やポルクス卿の前では、言葉にするのが差し出がましい軽い思いつきのように思える。それにパン卿に選ばれたとしても、その先を上手くやっていけるのか不安で溜まらなかった。
 ヘラ卿は静かにパン卿候補五人を見つめた。
「あなたが騎士になった時のことを考えてください」
 彼女は少し言葉を切った。
「最初に質問ではなく、確認してもらいたいことがあります。騎士になると、それまでの自分とは全く違う生活をすることになります」
 ポルクス卿が眉をひそめたのが見えた。何か気に障る内容だったのだろうか。
 ヘラ卿は言葉を選ぶようにして、ゆっくりと話を続けた。
「騎士となった者はそれまでの生活環境を捨てて、名前も変えて、神殿で暮らすことになります。もちろん、ご家族と暮らすことはできません。友達とも離れます。騎士でいる限りは歳をとることもなく、一人だけ別の時間を生きていくのです。もしかすると一生、親しい方達には会えないかもしれません」
「……会えない、のですか?」
 ヘレンが呟くような小さな声で尋ねた。
 カミーラも同じことを思っていた。確かにパン卿になった者はパーン神を祀るパーン神殿に移り住むことになる。そこに家族は伴えない。神の代理人となった以上、それまで親しかった人達と今までのようには会えなくなることは覚悟していた。しかし、会えなくなるというのは初耳だった。
 ヘラ卿は少し首を横に振った。
「会ってはいけないという決まりはありません。でも、家族や友達は会いに行くことを躊躇いますし、騎士本人は常に国民の目を気にする立場になりますから、自分から会いに行くのは難しくなります。お互いに遠慮しあっている間に、次第に会いにくくなると言った方が適切ですね」
 ヘラ卿は静かな微笑を崩さない。でも言葉を搾り出している様子で、どこか辛そうに見えた。在位三年だというヘラ卿にも、早くも疎遠になってしまった相手がいるのかもしれない。
 彼女は騎士になったことを後悔しているのだろうか。国のために身を粉にして働いている様子だったのに、そんなヘラ卿でも割り切れない気持ちがあるらしい。たかが三年くらいで人間関係が変わってしまうほど、騎士という立場は特殊なのだろうか。
 ヘラ卿の言葉が途切れた合間に、ポルクス卿が口を開いた。
「会いにくくなるのは事実。でも、それ以上に騎士は忙しくて過去を懐かしむ時間が無い。昔の人間関係なんか、いつの間にか忘れる」
 ぞんざいに言い放ってから、彼女は窓の外に目をやった。すりガラスの向こうには、ぼんやりと快晴の空の色が見えるばかりだ。
「家族とか友達だって、それぞれ自分の人生を進んでるし。こっちが会いたいと思っていても、向こうの生活には要らない人間になっていることだってある」
「そうですね、本当にポルクス卿の仰る通りです。騎士になるということは自分で選ぶことです。忘れられても、誰にも文句は言えませんから」
 ヘラ卿の表情から微笑みが消えていた。視線は下がり、ぼんやりと床を見つめている。その姿はガニュメディス卿やアフロディテ=エロス卿を思い出させた。寂しそうで、そして諦めきった表情。
 カミーラは、ピスケスで出会った元巫子の男性のことをまた思い出していた。だから、あの人はアフロディテ=エロス卿の傍に居ようとするのか。孤独なアフロディテ=エロス卿を支えるために彼は神殿に残り続ける。もう傍に侍ることは許されなくても。自分の身を犠牲にしてでも。彼の存在は、きっとアフロディテ=エロス卿の救いになっている。そんな人が一人でも傍に居てくれれば、どんな心強いだろうか。
 あからさまな溜息が聞こえた。ポルクス卿だった。しかし彼女は何も言わず、ただ窓の外に目をやっていた。
 ヘラ卿は少しだけポルクス卿の方に視線を投げて、それからカミーラ達に向かって苦笑を見せた。 
「ごめんなさいね、脅すようなことを言って。勘違いしないでください。私はヘラ卿という立場にやりがいを感じていますし、この道を選んで良かったと思っています。それでも時々悲しくなることがあります。ヘラ卿にならなければ、どんな人生を歩んでいたのだろうかと。もちろん、それはそれで悲しいことも辛いこともいっぱいあるのでしょうけれど」
 ヘラ卿は机に置いていた羊皮紙の束を手に取った。
「恋人や友達、仕事を選ぶことは、簡単ではありませんがやり直せることだと思うのです。どうしても耐えられなければその人から離れたり、仕事を替えれば済みますから。家族はそう簡単にはいきませんが。でも騎士になる道を選べば、大切なものを捨てなければならないかもしれません。皆さん、それぞれにご家族がいらっしゃいますよね。家族との関係をよくよく考えて、それでもパン卿になることに価値があると思えるのか、ご自身に問い直してください」
 カミーラは呆然と自分に問いかけていた。自分がパン卿になったら両親は、妹は、祖父母は、数少ないものの親しくしている友達は、自分との関係が切れてしまうのだろうか。新しい生活が始まるのだから、ある程度は仕方ないと思っていた。でも断絶するなんてことは、可能性すら考えたことがなかった。
 騎士は独りなのだ。独りで生きていくことを求められている。その孤独に自分は耐えられるだろうか。
 ちらっと視線を動かすと、右隣のヘレンは青褪めていた。その隣のタズーも複雑そうな表情を隠せないでいた。二人とも家族で商売をしていると言っていた。騎士になれば今までの仕事ができなくなるのは当然だが、関係まで切れてしまうというのは想定外だっただろう。タズーの更に隣で、ライサは一人真っ直ぐに前を向いていた。彼には失って困る関係など無いのかもしれないと思ったが、視線を少しずらすと、彼の手が膝上で硬く握られて震えているのに気がついた。彼にも大切な何かがあるに違いない。
 カミーラは少し息を吐いて、左隣のセディに目をやった。そして、少し目を瞬かせた。
 セディの表情は場違いなどほど穏やかだった。まるで覚悟ができていると言うように、静かに宙に見つめていた。
 ヘラ卿は順繰りにカミーラ達を見やり、静かに頷いた。
「前置きが長くなってしまいましたね。今度は皆さんことを聞かせてください」
 やっと面接に入るらしい。カミーラは姿勢を正した。そして鼻で深呼吸をして、数少ない自分の人間関係を、一度頭から追いやった。そんなことを考えていたら、ただでさえ迷ってばかりの思考が余計に混乱する。
 その間に、部屋の隅ポルクス卿が鼻を鳴らすのが聞こえた。その表情は安心したというような顔でもあり、呆れているようでもあった。
 ヘラ卿は気付いているのかいないのか、構わず話を進めた。
「皆さんは騎士になったら、どんな風に周りの人と接していきたいですか? 周りの人というのは、あなた方がパン卿としてこれから会う人達のことです」
 彼女の視線が何度もパン卿候補達の顔を行き来する。
 スッとライサの手が挙がった。
「ティブライサ、どうぞ」
「はい。私はパン卿になった暁には、常に堂々と相手と渡り合いたいと思います。我が国には国民選挙で選ばれた議員や、行政を担当する役人が居ます。政策を進めるにあたっては、彼らと対等な立場で話をするつもりです」
「対等な立場で、ですか」
 ヘラ卿が言葉を繰り返すと、ライサは力強く頷いた。
「そうです。私はまだ学生の身ですから、議員や役人からは見識が不十分だと見なされるかもしれません。しかしパン卿としてリーダーシップをとる立場にあることを意識して、対等に話をしたいのです。それは他国の騎士の方々とも、年数が浅いからと言って臆することなく、きちっと意見を言える騎士でありたいと思います」
 そこまで言ってから、彼は慌てて付け足した。
「もちろん失礼な物言いにならぬように十二分に気をつけるつもりです」
 これは相当反省したな、とカミーラは内心にやっと笑った。
 昨晩謝りに行った時、彼は罰の悪そうな表情をしていた。カミーラの謝罪に対しても気のない相槌を打つばかりだった。しかし今朝、カミーラが浜辺を散歩していると突然腕を掴まれて何事かと思ったら、顔を真っ赤にしたライサが居た。
「昨晩は私の言い方が悪かった」
 もごもごと呟くように言うと、呆気にとられるカミーラの返事も聞かずに、彼は踵を返したのだった。事情を知らないヘラ卿が、
「大切な心遣いですね」
と、にこやかに返すので、カミーラは種明かしをしたい衝動を抑えるのに苦労した。何となくヘラ卿を見つめてしまい、結果カミーラは彼女とバッチリ目が合ってしまった。
「カミュロリエ、あなたはいかがですか」
 うわっと思ったが、指名された以上は仕方ない。大丈夫、落ち着け自分。動悸を抑える一瞬の間に頭をフル回転させた。他人との関係についての話を昨晩タズーとしたばかりだ。それをそのまま言えば良い。しかし、何と言ったのだったか。これだから思い付きで喋るのは良くない。
「えーと……私は周りの人の声をよく聴きたいと思います。国民の……議員さんや役所の人の意見をよく聴いてから、方針を考えたいです」
 ヘラ卿は何も言わずに頷いただけだったので、カミーラは少し心配になって、慌てて言い募った。
「いや、もちろん自分の考えを持つことが大事だと思っていたんですけど、このパーン卿選定で他の皆と話していると、私は実務に就いたことがないし、知識も足りないし、考えも未熟って言うか大人っぽくない気がしたので。直感で決める前に、他の人の意見を聴いてからの方が良いのかなと思いました。色々な人から知恵を借りるのは凄く大事だと思います。そもそも私が独り善がりになると碌なことが無いので」
 自分で言っておきながら、勝手に回る口をペンチで捻り潰したくなった。これでは騎士に不適格と、自ら暴露しているようなものだ。
 ぷっと誰かが吹き出した。目の前のヘラ卿ではない。彼女は呆気にとられた様子だった。横並びに居る他のパン卿候補の誰かでもなかった。
 視線を窓際に向けると、ポルクス卿が肩を小刻みに震わせていた。どうやら彼女に笑われているらしい。カミーラはこのシチュエーションにデジャヴュを感じた。先日ピスケスでアフロディテ=エロス卿に大爆笑されたばかりだった。どうも自分には騎士の笑いを誘う才能があるらしい。
 笑いはヘラ卿にも伝染したらしい。彼女は左手を口元に当てて見せた。
「あなたはとても素直なんですね」
 素直なのではなく、墓穴を掘り易いだけなのだが。カミーラは自分の口がこれ以上碌でもないことを喋らないように、無言のまま引き攣った笑顔で誤魔化した。
「では……ターズラム、あなたはいかがですか?」
「そうですね」
 タズーの声も明らかに笑いを堪えていた。
「騎士になったら色々と大変なことに直面すると思います。現実を知れば、今の自分の考えを曲げなければいけないかもしれない。そうなった時でもしっかりお役目を務められるように、周りの人としっかり信頼関係を築きたいですね」
 やっぱりタズーは意見をきっちりとまとめて良い事を言うな、とカミーラは感心した。彼ならパン卿に選ばれてもおかしくない。
 ヘラ卿も穏やかに頷いていた。しかし、その背後にスッと人が立った。ポルクス卿だった。
「信頼関係? 立場もバックグラウンドも違う議員や役人の一人ひとりと? 民意や給料がかかってる彼らが、騎士に対してに諸手を挙げて信頼を差し出すとでも? 利用されるのがオチだと思うけど」
 にこやかだったタズーの表情が凍り付いた。
 カミーラも背中に冷や汗が伝うのを感じた。ポルクス卿の言っていることは現実だ。それをカミーラは知っている。
 役所勤めのカミーラの父は、決して縁を信頼していなかった。行政の立場では、騎士という役割は業務を履行するために利用するだ。業務のために話し合うことはあっても、心から信頼して助け合う関係ではない。
「私達は綺麗事を聞きたいんじゃない。誰も助けてくれない時でも騎士として責任持って生きられるのか、心構えを確認してんの」
 ポルクス卿は可愛らしい顔立ちに不似合いな、酷く不機嫌な表情を浮かべていた。
 やはり騎士は孤独なのだ。孤独に耐えられるのか、試されている。
 タズーは下を向いて暫く黙っていたが、意を決したようにポルクス卿を見上げた。
「癒着するつもりは勿論ありません。ティブライサの言葉を借りることになりますが、対等な立場で協力は得られるような信頼関係を築くようにします」
 ヘラ卿がお伺いを立てるように視線を上げると、ポルクス卿は少し首を竦めて見せた。その反応を「良し」の意味と解釈したらしく、ヘラ卿はタズーに向き直った。
「大事なことですね。これまでのお仕事でもそうされてきたのですか?」
 タズーは答えるまでに少し時間を要した。
「いえ、それは……今は対等になれていないまま、なあなあで済ませているところもあるんで、そういうのは改めようと思います」
 自分の経験上、対等な立場で仕事をすることが大事だと思うと言えば説得力があるのに、タズーは自分の現状を誤魔化さなかった。彼が卒ない回答を意識的に止めようとしているように、カミーラには思えた。昨晩のカミーラとの会話が影響しているのかもしれないと思うと、少し嬉しかった。
 ヘラ卿は穏やかな表情で頷いて、タズーの隣に目を移した。
「ハーレンディア、あなたはどう思われますか?」
「私は……私も困った時にこそ一人でも多くの味方が必要だと思います。家族や友達と離れなければならないなら、いざという時に自分を支えてくれる、信頼できる人を見つけたいと――」
「どうやって?」
 言い終わるのを待たずに、またポルクス卿が尋ねた。
 ヘレンは一瞬顔を強張らせたが、すぐに赤い唇を引き結んだ。
「まずはお話しすることから始めます。お互いのことをよく知って、些細なことでも話し合って、信用できる相手かどうかを見極めます。それから――」
「時間が掛かる」
 またポルクス卿が口を挟んだが、ヘレンは今度は負けなかった。
「時間を掛けてでも信じられる相手を見つけることは大切です。それが政治の内容にまで影響するかどうか、今の私には全然わかりませんが、パン卿になったことを自分が後悔しないで、この人達のために働きたいと思うためにも信頼関係を大事にするつもりです」
 ポルクス卿は片頬だけをピクリと動かしたが、何も言わなかった。
 ヘラ卿は少し困ったようにポルクス卿を見上げて、それからヘレンに優しく頷いて見せた。
「素敵な心構えですね。では、サンダッドリー」
 セディはすぐには答えなかった。カミーラはセディがまた上の空で何も聞いていなかったのではないかと思い、焦って隣に目をやった。だが、セディは真っ直ぐにヘラ卿を見つめていた。
「……おいらは、あまり親しい人は作らない方がいいと思います」
 カミーラは今度は首ごとセディの方を振り向いた。セディの顔は何故か悲しそうだった。
「どうしてそのように思うのですか?」
 質問したのはヘラ卿だったが、ポルクス卿も説明を促すように、セディに視線を突き刺していた。
 騎士二人から問い詰めるような視線を受けながら、セディは表情を変えることがなかった。
「仕事だからです。親しくなることは大事だけど、相手の感情や個人的な問題に深入りすると、こっちまで影響を受けるから、仕事の関係だと割り切るようにしています」
 今の楽士の仕事のことだろうか。彼が軍人の精神的外傷の治療に関わっているという話を聞いていた。確かにそういう仕事であれば、深い関係にならないように気をつけるというのはカミーラにも理解できる。しかし、騎士の務めはまた別物ではないだろうか。そんな淡白な態度で騎士が務まるのだろうか。
 ポルクス卿が目を細めた。
「独りで何ができんの?」
「騎士は一人だけ別の時間を生きるって言いましたよね? それなら尚更、周りの人からは少し距離を置く方が安全です。立場が違うってことを自覚して、いちいち振り回されないようにします。個人的なことで国に影響を与える方が、おいらはダメだと思います」
 セディは孤独に耐える準備ができている。カミーラにはそう思えた。彼の横顔がとても寂しそうで、見ている方が辛かった。
 ヘラ卿もポルクス卿は、それ以上は追及しなかった。
「もう一つ、私から皆さんにお聞きしたいことがあります」
 ヘラ卿が口を開くと、ポルクス卿が聞こえよがしに溜息を吐いた。時間が無いと言いたいらしいが、言葉にはならない。ヘラ卿にも通じたらしく、
「すみません、これで最後ですから」
と、先に謝っていた。良いとも悪いとも言わずに、ポルクス卿はカミーラ達に背を向けてしまった。
「パン卿になったとして、十年後を思い描いてみてください」
 パン卿になった自分を想像するのも難しいのに、十年後とは。カミーラは心底嫌だなと思ったが、表情に出ないように顔に力を入れた。
「周囲の人にとって、どんな存在の騎士になっていたいですか」
 どうしてヘラ卿は周りの人との関係をしつこく尋ねるのだろうか。不思議に思いながらカミーラは一生懸命想像を巡らせた。
「サンダッドリー、先程は他人から距離を置くと回答していますが、十年後もそうだと思いますか?」
 さっきと逆の順番で訊くつもりなのか、ヘラ卿はまずセディに尋ねた。
 セディはちょっと首を捻って、どう答えようかと悩んでいる様子だった。そういう仕草の方が彼らしくて、カミーラは何となく安心した。
「年数が長くなるほど、特別に親しい人を作るのは危険だと思います。その代わりに意見は公平に耳を傾けて、自分の目で見て、冷静な決断ができる人間でありたいです」
 誰にも特に加担することは無く、自分の判断を貫く。これではまるで縁と同じではないか。セディにはそれをわかっていないのだろうか。わかっていて、意識的にこんなことを言っているのだろうか。
「ハーレンディア、十年後には信頼できる相手が見つかっていると良いですね」
「はい、きっと信用できる人をたくさん見つけていると思います。そのためにも普段から親密に話し合って、気軽に相談をしてもらえればいいなって思います」
「ターズラムは信頼関係を対等な立場で築きたいとのことでしたが」
「十年後はも変わりません。むしろパン卿としての実力をつけた自分が音頭をとって、対等に話し合える雰囲気を作っていこうと考えています」
 そうだ、十年間騎士の座にあるということは、現在のヘラ卿よりもずっと長くパン卿を務めた後ということだ。その頃にパン卿としての実績を持っている違いない。カミーラの脳内で意見が唐突にまとまった。
「カミュロリエは他人の意見を聞きたいと言っていましたが、十年後はいかがでしょうか?」
「はい、最初は他人に助けてもらってばかりだと思いますが、十年後には私が知恵を貸す側になりたいです。悩みを気軽に奏上してもらえるような、頼れると思ってもらえる立場でありたいと考えています」
 ヘラ卿は静かに頷いただけだったが、その視線はとても優しげだった。
「では、ティブライサはどうですか?」
「十年後には騎士としての発言に重みが増していると思います。その期待に違わぬよう、パン卿としての功績を着実に挙げて、周囲からの信頼を勝ち得ていく所存です」
 ヘラ卿は一言「ありがとうございます」と言ってから、ポルクス卿を振り向いた。
「数、何かお聞きになりたいことはありますか?」
 ポルクス卿はこちらを向きもせず、片手をひらひら振っただけだった。さっきから彼女は爪先だけでコツコツと床を蹴り続けている。普段カミーラなら、何て失礼な態度だろうと憤慨の表情を見せるところだったが、ポルクス卿が本当に多忙であることはわかっているので、今は恐縮するしかない。
「それではこれで終わりにしたいと思います。本当ならあなた方からの質問を頂くのが筋だと思うのですが」
 ヘラ卿がそう口にした途端、ドオーンという何かが落ちてきたような音がした。すぐに二回目の音。今度は微かに地響きも感じる。
 舌打ちと共にポルクス卿が駆け出した。扉を蹴破る勢いで開け放ち、走り去っていく。その背中に、「私もすぐに行きます」とヘラ卿が投げかけた。
「すみません、タイムオーバーです」
 そんな暢気なことを言っている場合ではないのではないか。カンケルは今、正に戦場になっているのではないのか。聞き覚えの無い音に腰を抜かしそうになっているカミーラ達の様子に、ヘラ卿は慌てて言い添えた。
「ああ、ご心配なさらないで下さいね。ヘルクレスから攻撃を受けたわけではないのです。予定通りに、こちらから威嚇の砲弾を撃っただけですから。カンケルは今のところ安全です」
 それを先に言って欲しかった。カミーラは椅子から浮かしかけた腰を、ガクッと下ろした。他の四人も似たり寄ったりの心境だった様子で、安堵の溜息がいくつも聞こえた。
「とは言え、今の状況ではくヴィルゴには船で行くのは危険ですので、また水鏡を使って頂きます。どうぞ、こちらへ」
 ヘラ卿に促されて、カミーラ達は執務室を後にした。
 相変わらず青い空は眩しい。海はキラキラと輝いていて、戦争が起こっている国とは思えない。
 この景色を、そしてこの国に生きる人々を守るためにヘラ卿は戦っているのだ。どんなに自分が孤独を感じても、その責任を投げ出すことはしないだろう。
 そんな彼女をこの国の人達がどう思っているのだろうか。カミーラは尋ねてみたい気がしたヘラ卿のことを親切で優しい人だと思う。面倒見もよさそうで、年数を重ねればもっと頼りがいのある立場になるだろう。でも、それが彼女にとって幸せなのか、カンケルの人々にとって幸せなのか。カミーラには図りかねていた。
 水鏡は既に紫の光を湛えていた。これから行く先、ヴィルゴを表す色だ。五人が慣れない足取りで水の中に入ると、ヘラ卿が「リョウ、お願いします」と呼びかけた。この先で待ち受けるのは最長老の騎士、在位九十年を超えるペルセポネ卿である。
「お忙しいところ、本当にありがとうございました」
 タズーが真っ先に頭を下げて、他の四人も次々に倣う。
「こちらこそ、慌しくて申し訳ありませんでした。どうか道中お気をつけて。そして、良い結果となることを祈っています」
 ヘラ卿の微笑みは、強く光り始めた紫色に煙って見えた。

つづく
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