始まりは何度でもある

ススム | モクジ

  1 at Capricornus  

 何故自分だけが残されたのか、ルカには心当たりがなかった。
 同僚達はとっくに帰って、誰一人いないオフィス。日もとうに暮れた真っ暗な部屋で、ルカは手持ち無沙汰に待ち続けるしかなかった。
 今日は給料日でもあった。手渡されたわずかな賃金を手に、他の皆はささやかな夕食会らしい。
 少し前まではルカのことも誘ってくれていたし、ルカも積極的にではないにせよ、付き合いだと思って参加していた。でも、話が合わないことに苦痛を感じて断る日が続く内に、自然と疎遠になった。
 それで良いと思う。形だけの付き合いはお互いにとって不利益だ。寂しいと思わないわけではないけれど、自分がいることで気まずくなっている気がして、気を遣って空回りするのは避けたかった。
 それにしても、いつまで待たせるつもりなのだろう。終業間際にまったく急ぎではない用事を命令し、終わったら直接確認するからと待っているようにと言って、上司はそそくさと立ち去った。抗議する間もなかった。同僚達からは無言の哀れみと好奇の視線。
 ため息をついて、ルカは机を力なく叩いた。仕事は口実だ。ルカに話があるのだ。問題はそれが良いことなのか悪いことなのか。良いことなら多少待つのは構わない。賃金アップとか栄転とか、その類なら大歓迎だ。
 ククッとルカの薄い唇から嘲笑が漏れた。
 この不況下にそんな話があるわけがない。しかも何の功績があるわけでもない彼女に。期待するのは現実逃避、ただの妄想だ。
 悪いことは何だろう。配置転換なら、ついこの前に受け入れたばかりだ。給与など就職してから下がり続ける一方。暮らしていくのが精一杯で、それは誰でも同じだ。ルカだけが不幸なわけではない。
 田舎の母親からは、都会にしがみ着く娘を心配する手紙が今月だけで何通も届いている。
 苦しければ帰って来いと暗に匂わせる文面に、ルカは何にも返信していない。
 甘えたくなかった。ここで挫けるのは負けなのだ。必死に勉強して高等学校まで進んで、条件の良い会社に入り込んで、嫌な思いをしながらも我慢し続けた。それを無駄にするなんてできない。ここで踏ん張らなければ、すべてが水の泡だ。
 それに帰ったところで、周囲はどんな目で見るだろう。自分を慕ってくれている近所のあの子は、尊敬するルカが辛気臭い田舎に逃げ戻って来たことに幻滅するかもしれない。あの子に向かって、卒業して街に出て来るなら力になる、と言ったのはつい数ヶ月前のことだ。
 意地っ張りと笑えばいい。これは自尊心をかけた問題なのだ。あの子にだけは醜態は見せられない。
「大丈夫、まだ戦える」
 いつものおまじない。何度も唱えて、自分を鼓舞していると、
「遅くなってすまないね」
と、上司の声が聞こえた。気味の悪い猫なで声。
 心に黄信号が灯った。ルカを何とか丸め込もうとしている気配。その後ろには部長の姿が見えた。普段は話したこともない上役。
 頭の中でサイレンが響いた。黄信号から赤信号へ。
 なぜ。
 その言葉が喉に刺さって息苦しい。
 なぜ、私だけ。
 強張った笑みを浮かべて、身体は示された席へと向かう。
 座った瞬間、はっきりと見えた。禍々しい赤信号が。


 それから半年後のことだった。
 12の鐘の音が12の都市に鳴り響いたのは。

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