初恋の行方

 車持(くるまもち)氏は宮中に食材を納める責任者であり、その本家の娘である与志古郎女(よしこのいらつめ)は一応お嬢様であるはずなのだが、父親に「何故、お前は男に生まれなかったのだ?」と半分残念がられ、半分は呆れられるほど活発な少女であった。あの山の木の実が美味しいだの、どこで川魚が取れ易いだの、食材を扱う家系だけに情報を容易く獲得しては、調査と称して実物を獲得しに行くのを日課としていた。
 この日も大収穫だった彼女は、山のように抱えた穫物で前方が見えていなかった。背後から「与志古さまー、前! 前を見て下さい!」とお供の者の声が聞こえたが、全然気付いておらず、あやうくそこでうずくまる男に躓いて、美味しい食材を川に投げ込むところだった。
「ちょっと、鎌子!」
 与志古はうずくまる男、もとい中臣鎌子を睨み付けた。
「そんな所であたしの進路を妨害をするなんて、一体どういうつもり? 川なんか覗き込んだって、祝詞の台本も、あんたが大好きな唐の政治情報も落ちちゃいないわよ」
 鎌子はいつもと変わらない、与志古の父曰く「何を考えているのか、全然わからん目付き」で怒り心頭の与志古を見やり、
「なんだ、与志古か」
と、言っただけだった。
 そんな反応を笑って許せる与志古ではない。
「キーッ!! ええ、そうですとも。あんたの幼馴染さんよ。あんたのおかげで、飛鳥川に山菜を献上しそうになった与志古さんですわよ!」
 何も抱えていなければ間違いなく掴みかかっているであろう勢いで詰め寄られて、何事にも動じない、動じられないほど感受性の乏しい男と評判も鎌子も、さすがにたじろいだ。
「そうか、すまん」
「ええ、そうよ。あたしは今、大変なのよ。こんなに沢山の荷物を運ばなきゃいけなくて、すっごく大変」
「……手伝イマショウカ?」
「よろしい。そうこなくっちゃ」
 ドンと渡されたのは半分、いや3分の2ほどの分量。
「全部でないだけ、まだましか」
「何か言いまして?」
「いいえ、何にも」
 鎌子は大人しく幼馴染に付き従い、二人は並んで川沿いを歩き始めた。
「それで、何であんな所でうずくまっていたのよ?」
 この辺りは鎌子が通う学問所へと向かう道でもあるので、会うこと自体は珍しくない。しかし、勉強やら家の仕事やらで忙しい鎌子が川辺で座り込んでいるなんて、与志古の知る限り初めての出来事だった。
「少し考え事があってな」
「また? 鎌子のことだから、これからの国の在り方だの政治の仕組みだの、小難しいことをまた考えてたんでしょう」
 与志古は軽く茶化してみたが、鎌子はさも深刻そうにため息をついた。
「いや、個人的なことだ。あいつのことを考えると夜もろくに眠れない」
 バサッと音を立てて、与志古の腕から山菜の束が落下した。
「まあ、何てことかしら」
 慌てて拾いながらも、与志古は心底驚いていた。幼い頃から鎌子とは長い付き合いだが、こんなことは初めてだ。学問やら何やらにしか興味がなかった鎌子が、ついに恋わずらいに陥る日が来るなんて。
「鎌子も大人になったのねえ」
「何の話だ?」
「いいのよ、隠さなくたって。幼馴染のあたしには何もかもお見通しよ」
 恋愛事には晩熟(おくて)の鎌子のことだ。自分を苦しめる感情の正体を自覚できずに持て余しているのだろう。
 よし、と与志古は気合を入れて息を吸った。
 ここで指南の一つもしてやるのが、幼馴染の務めというものだ。鎌子の初恋成就に一役買って差し上げようではないか。そうと決まれば情報収集だ。
「で、相手はどんな人なの?」
「どんなって……とりあえず、あいつに会うたびに頭がおかしくなる。自分を抑えるのに必死だ」
 そんなにも冷静さを失うくらいに心を奪われているのか。これはかなりの重症だと、与志古は神妙に頷いた。
「それは大変ね。どんなことを話すの?」
「私からは話さない。あいつが何かと話を持ちかけてくる。他の奴なら逃げるか無視するが、あいつにだけは何故か捕まってしまう」
「まあ、そうなの」
 図らずとも、何と相思相愛らしい。それを鎌子の素直ではない態度が拒んでいるのだ。これは大きな問題である。
「そこで逃げちゃダメよ、鎌子。お互いの気持ちに素直にならなきゃ」
「いーや、私は素直にあいつから逃げたいと思っている」
「違う! そこで逃げたら負けよ。ちゃんと立ち向かわなきゃ。わかった?」
 不服そうにそっぽを向いた鎌子だったが、与志古の念押しに渋々頷いた。
「善処しよう」
「よろしい。でも鎌子がそこまで気にするなんて、どんな人なのかしら? 鎌子に挑戦してくるってことは、かなり賢そうね」
 鎌子は認めたくないというように、肩を落とした。
「確かにあいつは賢いが、自分が優秀だと信じて疑っていない。やたらと自尊心も高いし、嫉妬されても逆に得意顔になる奴だ」
「あ、そう。鎌子みたいね」
 鎌子は前につんのめった。
「ちょっとー、落とさないように気をつけてよ」
「嘘だ。あいつに似ているなんて、あんまりな悪夢だ」
「何をブツブツ言ってるのよ。いいこと? 勇気を出して、ちゃんと伝えるのよ」
「……伝える、とは?」
「決まってるじゃないのよ。「あなたのことが好きです」って言わなきゃ駄目よ」
 その場で鎌子は石化した。持たされた食材を落とさなかったのは、彼の根性の為せる業である。
「す、好き!?」
「そうよ、何で自分で気付かないのかしら。本当に男って鈍くて困っちゃうわよね。まあ、とにかく頑張りなさいよ。この与志古さんが応援してあげるから」
 与志古が肘でドンッと突っつくと、ようやく鎌子が動き出した。
「そんな馬鹿な。有り得ない」
 長身を折り曲げてトボトボ歩く鎌子を見て、与志古はため息をついた。
「あーあ、これじゃ歌を詠むのはとても無理よね。まあ、普段から歌なんて詠まないか。もう直球で行っちゃうのがいいのよ。喧嘩するくらい仲がいいなら、次に会った時に言いなさいよ。って、鎌子? 待ちなさいよ。あたしの言うこと聞いてる?」
「聞いてない、聞こえない、私は何にも聞こえない」
「こらー、逃げるなー!」
 山菜を抱えたまま素晴らしい速さで逃げる鎌子を追って、与志古も駆け足になった。
「与志古さまー、落としてますってばー」
 遥か後方から従者の悲鳴が上がっていたが、前を行く二人が気付くことはなかった。



 数日後、また山に出かけていた与志古は目の前の光景に既視感を覚えた。
「鎌子、なんでまた座ってるの?」
 振り向いた鎌子の表情は何やらどんよりと曇っていて、おまけに頬に引っ掻き傷ができている。与志古はハッとして駆け寄った。
「そう、言ったのね。でも、駄目だったのね」
「与志古、やはりどう考えてもお前の勘違いだ。私はあいつのことなど――」
 言い募ろうとする鎌子を遮って、与志古は涙ぐんで見せた。
「いいのよ、鎌子。初恋なんて所詮そんなものなのよ」
 与志古は相思相愛と睨んでいたのだが、残念ながら鎌子の初恋は実らなかったのだ。普段は挫折感をあまり味わったことのない鎌子は、自分の気持ちを否定することで、失恋から立ち直ろうとしているに違いなかった。
「どうか気を落とさないでね。今日はうちで呑み明かしましょう。うちの父もその話を絶対に聞きたがるから」
「何故、お前の親父に話さなければならんのだ!」
「だって、黙って一人で抱え込んでるのは良くないもの。大丈夫、うちの父はあんたのこと何かと気に入ってるから、喜んで聞いてくれるわよ。さあっ、そうと決まれば行くわよ。これ、持ってちょうだい」
 たっぷりの山の幸を鎌子に強引に持たせると、まだ何やら喚いている鎌子を半ば引きずるようにして、与志古は車持氏の館へと帰って行った。



 同じ頃、甘樫の丘に立つ蘇我氏本家の館では、的を射る小気味良い音が連続して響いていた。
 その音を聞きつけた蝦夷は、少し首を傾げた。
 音を立てているのは息子の鞍作入鹿に違いない。しかし入鹿は今日、旻法師の塾に行っていたはずである。いつもは講義が終わっても、喋っていたり宮中に寄ったりでなかなか帰宅しないくせに、今日は随分と早く帰って来ている。
 不思議に思って外に出てみると、思った通りで入鹿が再び矢を番(つが)えていた。従者によって的が立てられるや否や、バシュッと矢を飛ばす。
 見事に真ん中を射ているのだが、入鹿の目に満足感はまったくない。それどころかイライラがますます募った様子で、すぐさま次の矢を番えようとする。従者達は矢を渡したり、新しい的を立てたりとてんやわんやだった。
「何をやっとるんだ、あいつは?」
 蝦夷の声に、木に寄りかかって入鹿を見ていた青年が振り返った。
「こんにちは、叔父上。邪魔をしているよ」
「おや、古人皇子様もおいででしたか。ところで、これは一体……」
 古人皇子は苦笑を浮かべて、入鹿を見やった。
 またバシュッと良い音がする。矢が突き刺さった的を睨んで、入鹿は何故か肩を震わせていた。明らかに怒りに燃えている。
「簡単に言うと、ある人物から嫌がらせを受けたんだ」
「嫌がらせ、ですか? それだけとは、あいつもまだ青いなあ」
 蝦夷が呆れてぼやくと、古人は笑顔のまま首を横に振った。
「鞍作の名誉のために言っておくと、あの嫌がらせはかなり打撃的だったよ。さすがのあの男でも、相当に作戦を練ったんじゃないかな」
「ほお、そこまでうちの倅(せがれ)を敵視している者がいるのですか」
「水と油の関係かな。と言っても、いつも衝突しに行くのは鞍作の方なんだけど」
 クスクス笑い声を立てて、古人は続けた。
「そんな奴から、お前が好きなのかもしれない、なんて言われるとはね」
 なるほど、と蝦夷は合点がいった。
 相手がどこの誰なのかは知らないが、入鹿の余裕たっぷりの態度を崩させるために、捨て身の作戦に出たということらしい。
「ははは、そんなやり口に引っ掛かるとは、やはり鞍作は未熟者です。これに懲りて、自分から突っかかりに行くこともなくなるでしょう」
「どうかなあ。私は悪化するような気がするんだけど」


 古人の予想通り、いたく自尊心を傷付けられた入鹿は前にも増して鎌子を敵視するようになってしまった。
 そして一方の鎌子は、今日の一件は存在しなかったものと位置付けて、以前と変わらない態度を貫き通した。それも彼の根性の為せる業であった。

<終わり>

参考:魔女ノ安息地>歴史街道>古代史>
    シリーズ考察 中臣鎌足>A最高の好敵手 蘇我入鹿

(C) 2010.01.11 Yuuhi