双月


 この方は変わってしまった。
 ご自分の半身を失った、あの日から。

「誰が入っていいと言った」

 皮肉げな冷たい物言いに、大名児(おおなご)は手にした盆を取り落としそうになった。
 彼女の主は振り向きもせず、闇夜に煙る月を眺めている。その後姿は孤独で、しかし誰も寄せ付けようとしない頑なさが漂っていた。

 ここで引き下がるわけにはいかない。
 大名児は下腹に力を込めて、か細い声を精一杯張り上げた。

「日嗣皇子(ひつぎのみこ)、お食事を持って参りました」
「要らぬ」

 優しさの欠片もない拒絶を無視して、大名児は卓上に粥を置く。

「お召し上がり下さい」
「要らぬと言っているだろう。下がれ」
「どうかお召し上がり下さいませ! どうか……お願いです」

 尚も無視し続ける主のすぐ傍に寄り、ひれ伏す。泣いてはいけないと必死に堪えていても、声が震えるのを止められない。

「草壁さま……」

 最近呼ぶことの少なくなった主の名を、大名児は久々に口にした。
 彼が日嗣皇子となって早五年、草壁をその名で呼ぶことは親兄弟ですら少なくなっていた。
 ただ一人、草壁に最も近い異母弟を除いては。

 ためらうような間をおいて、小さく衣擦れの音。
 顔を上げると、草壁皇子がその端正な横顔だけを向けていた。

「その名で呼んでくれたのは、久しぶりだ」

 だが、その目は大名児をかすかにしか捕らえていなかった。虚ろな瞳は今は亡き人の幻を求めている。

 いつ見ても綺麗な方だと、大名児は状況も忘れて嘆息した。
 大津皇子によれば、大津の姉である大伯皇女とそっくりなのだと言う。
 先の大王つまり草壁の父である大海人は、草壁が大田皇女に生き写しだと言っていた。
 草壁にとって、大田は母后(ははきさき)である鵜野讃良皇女の実姉であり、大伯は異母姉にして従姉。これだけ血筋が近いのだから、似ているのも当然だろう。

「どうせ私は女みたい顔だ」

 綺麗だと褒められるのを、草壁は嫌がった。
 自分の顔が嫌いだとため息をつく彼に、大津は屈託無く笑った。

「私は草壁の顔が好きだよ」

 記憶の彼方の亡き母や遠く伊勢にいる姉を思い出させる異母兄を、大津は心から好いていた。
 草壁も大津にだけは心を許していた。

 二人の関係は不思議だった。
 仲睦まじい兄弟だったとは、お世辞にも言えない。
 しかし時々、誰にも入り込めない雰囲気になることがあった。何気なく挨拶を交わした時、他愛ないことを喋った時、向き合って酒を酌み交わした時。

 何も言わずとも、二人はお互いを理解していた。
 動的な大津に対して、静的な草壁。
 対照的な二人なのに、言葉なんて要らなかった。

「私達は一つなんだ」

 かつて草壁が幸せそうに、そして誇らしげに話したことを、大名児は今もはっきりと憶えている。
 互いに認め、互いに慈しみ、互いを自らの半身と思った。
 そして今、草壁はその半身を失った。

 一陣の風。
 思わず身震いするほどの冷たさに、大名児は我に返った。

「日嗣皇子 、奥へお入り下さい。お体を冷やしてしまいます」
「月を、見ていたんだ」

 草壁の声色はさっきよりも随分と柔らかかった。
 でも、とても寂し気だった。
 霞がかった空に白い薄明かりが揺れている。はっきりとしない光は、どこに月の輪郭があるのかを悟らせない。煙った光が幻の月形を作り出し、まるで二つの月が寄り添うよう。

 なぜ草壁が月を眺めるのか、大名児にはわかっていた。
 月の神ツクヨミは死と再生の両方を司ると言う。

「彼の御魂はいづこにあるのだろうか」
「……皇子、どうか中に」

 それ以上聞いていられなくて、無礼を承知で、大名児は草壁の腕を引いた。
 もはやこの人は亡き大津のことしか考えられない。失われた命を懐かしみ、何もできずに失ってしまった自分を責めるばかり。

 大名児の細腕では草壁を動かすことはできなかった。
 諦めて、自らの肩に巻いていた毛織布を草壁にそっとかける。
 と、やんわりと振り払われた。

「要らぬ。お前が風邪を引く」
「いいえ、日嗣皇子のお身体が大事です」

 優しさを隠し切れない主に、やり切れない思いで大名児は言い募った。
 その優しさをどうして自分に向けることができないのか、それが歯がゆい。自分にできることは、ただ傍に仕えることだけ。

 強引に毛織布をかけようとする大名児と、それを大名児の肩に戻そうとする草壁が押し合う。
 結局どちらも手を引くことができず、大名児は布の半分を草壁にかけた。残りは自らの肩に巻いたまま、主の傍に腰を下ろす。

「これなら、よろしいですよね」

 彼女らしくない頑固な物言いに、草壁は漆黒の瞳を丸くして、困ったように微笑んだ。しかし追い払うわけでもなく、また月を見上げる。
 いまだ雲は晴れず、二つの月が淡く輝いている。
 大名児も黙って、主に倣った。しかし、草壁の横顔を盗み見て、今度は彼女が目を見張った。

 草壁の目は赤く腫れていた。
 袖がやけに冷えているのは、さっきまで雫を含んでいたから。
 また独りで泣いていたのだ。自分のために死んでいった亡き弟のために、人知れず、そして孤独に。

「……きっと悲しまれます」

 大名児は潤んできた目を抑えることもできず、ボロボロと涙を零した。

「草壁さまがこんなに苦しまれていると知ったら、大津さまはきっと悲しんで、泣いてしまわれます」
「泣かないよ。笑っているさ」
「なぜ、そんなことを仰るのですか!?」
「裏切ったんだ……大津は私を裏切ったんだ」

 大津が日嗣皇子に対して謀反を企み、その罪で死を賜ったと知った時、大名児は何かの間違いだと思った。大津が草壁を裏切るはずが無い。
 しかし、草壁は大津が「裏切った」と告げ、それ以上のことは言おうとしなかった。
 ずっと聞けなかったことを、大名児は口にした。

「大津さまは、本当に謀反を?」

 草壁は沈黙して、言葉を選ぶようにしてつぶやいた。

「確かに、大津は皇位を望んでいた。彼にはその資格も才能もあったから」

 でも、と苦渋の面で続ける。

「私が皇位を望まないことを知っていたから、わざとそう振舞っていたんだ。母も気づいていた」
「でも、大后(おおきさき)さまは大津さまに死を賜られたのでしょう?」
「……大津の謀反の企みは、本物だった」

 透明な悲しみが一筋、草壁の頬を流れる。

「私は大津が傍に居てくれるなら、本当はなりたくない大王にだって、なるつもりだった。
 大津の言いなりに政をする人形でも良かったんだ」

 草壁の喉から哄笑が漏れた。

「無責任だろう? でも、私にはそれしかできない。父上のようにはなれないんだ。
 大津となら……私達は一つだから、二人でやれば上手く行くと信じていた」
「草壁さま……」
「それなのに大津は、私を遠ざけようとしたんだ。裏切ったんだ! 私は大津のことだけは……」

 信じていたのに。
 その言葉は嗚咽に遮られる。
 草壁は顔を空に向けたまま、両手で顔を覆った。
 大名児には止め処なく流れる涙を拭うことすらできない。

 大津は草壁を守ろうとしたのだ。皇位を望まない、しかし誰よりも日嗣皇子に相応しい草壁を守るために、裏切った。
 結果、その企みは失敗し、草壁だけが遺された。

「絶対に許さない」

 硬い声で言い放つ。
 大名児は白くそそけ立った頬に、そっと指を当てた。

「……大名児?」
「似合いません、草壁さまには」

 言いながら、自分の頬にも涙が流れていることに気がついた。

「大津さまには、こうなることがわかっておられたのではないでしょうか?」

 企みが失敗しても、自分は死に、草壁に敵対できる者はいなくなる。そして、草壁の皇位は完全に保障されるだろう。
 政のことは鵜野讃良と異母兄の高市皇子に任せれば、何も問題はない。

「大名児、本気で言っているのか?」
「わかりません。でも、私が大津さまの立場であれば、きっと――」

 同じことをしただろう。そう言おうとした声は途切れた。
 大名児は草壁の腕の中に居た。

「お前まで、そんなことを。お前までが私を置いて……」

 それ以上は言葉にならず、草壁は唇を噛み締める。
 思わず息を呑むほど強く抱き締められて、大名児は瞳を閉じた。

 大津の身代わりになど、誰にもなれない。
 それをわかっていながら、大津は去ってしまった。草壁を置いて。
 はるか彼方、闇夜の向こうへと。

 雲が晴れる。
 たった一つの月が静かに顔を出すのに、草壁は瞼を固く閉じて、その光を拒む。

 この人は今、独り。

「裏切りません」

 失われた命の代わりにはなれない。
 それでも、少しでもその心を癒せるのなら、すべてを捧げてお仕えしよう。
 草壁の胸に頬をつけて、囁くように言った。

「大名児はずっと、草壁さまのお傍にいます。だからもう――」

 独りで泣かないで下さい。
 私は決して、あなたのお傍を離れませんから。


(C) 2008 Yuuhi

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参考:魔女ノ安息地>歴史街道>古代史>草壁皇子と大津皇子>草壁皇子 死の真相

石川郎女大名児、大好きです。
大津が亡き後、草壁の心の支えであって欲しいです。
   ちなみに拙サイトには石川郎女が二人おりまして、草壁皇子の仕えた大名児を姉、大津皇子に仕えた小名児を妹としています。

タイトルは裏ページの「幻月」と揃えました。
なんとなく、草壁と大津のイメージは"月"であり"風と雨"なのです。