草壁皇子【くさかべのみこ】(662 〜 689) / Copyright (c) 2007-2008 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.



草壁皇子 死の真相

皇太子でありながら、天皇になれなかった人。
亡くなってしまったから。それも28歳という若さで。

父は大海人皇子。葛城皇子(天智天皇)の実弟です。
母は鵜野讃良皇女。葛城皇子と遠智郎女(蘇我倉山田石川麻呂の次女)の間に生まれた次女です。
実の兄弟姉妹はいませんが、近い血筋に母親同士が実姉妹の大伯皇女と大津皇子がいます。
草壁皇子は母の異母妹にあたる阿閇皇女を正妻とし、氷高皇女と珂瑠皇子をもうけ、
また不詳の女性との間に吉備皇女をもうけています。(阿閇皇女を母とする可能性も有ります)
まずは家系図と年表を詳しく見てみましょう。(直接関係ないことも載せていますが、歴史確認ということで)

蘇我倉山田石川麻呂
    |______________________________
    |                                            |
   遠智郎女============葛城皇子【天智】========姪郎女
    _____|_____________              |
   |       |                   |             |____
   建皇子  太田皇女====大海人皇子==鵜野讃良皇女【持統】 |      |      (大海人の長男)
   (夭折)      ___|   【天武】   |               |      御名部皇女=高市皇子
            |    |          草壁皇子=======阿閇皇女         |
   山辺皇女=大津皇子 大伯皇女       ________|               長屋王
(葛城皇子の娘) |                 |     |     |
       粟津王              氷高皇女  珂瑠皇子  吉備皇女(母親は別人説有)

草壁皇子 大津皇子  
661(斉明7)   実姉・大伯皇女誕生 斉明天皇が遠征先の筑紫で薨去
662
(葛城称政1)
誕生     
663
(葛城称政2)
2歳 誕生 葛城皇子が率いる日本軍は白村江の戦いで大敗(大海人皇子はこの戦いに反対)
665
(葛城称政4)
4歳 3歳 間人皇女(葛城皇子同母妹)薨去
667
(葛城称政6)
6歳 5歳母・太田皇女を葬送(死去年は不明) 斉明・間人・建皇子を葬送
近江大津京に遷都
668
(天智7)
7歳 6歳 葛城皇子が近江で即位→天智天皇
大海人が皇太弟に?(否定説有)
671(天智10) 10歳両親と共に吉野へ逃れる 9歳異母兄・高市皇子と共に近江に留まる 天智発病→大海人は吉野へ逃れる
672(天武1) 11歳伊勢へ脱出 10歳伊勢へ脱出 天智薨去
 ⇒壬申の乱に大海人側が勝利
673(天武2) 12歳 11歳 大海人が飛鳥で即位→天武天皇
鵜野讃良皇女が立后
673(天武2) 13歳 12歳大伯が伊勢斎宮に  
676(天武5) 15歳 14歳 新羅親善のために、唐との国交を断絶
678(天武7) 17歳 16歳 十市皇女薨去
679(天武8) 18歳 17歳 吉野にて六皇子の盟約(※1)
680(天武9) 19歳長女・氷高皇女誕生 18歳  
681(天武10) 20歳立太子
19歳 草壁皇子が律令と歴史書の編纂を命じられる(※2)
683(天武12) 22歳長男・珂瑠皇子誕生 21歳朝政に参加  
685(天武14) 24歳浄広壱位 23歳浄広弐位 高市皇子が浄広弐位、忍壁皇子が浄大参位に
686(天武15) 25歳母と共に称政 24歳10月3日謀反の罪により賜死 天武薨去→鵜野讃良皇女・草壁皇子称政
大伯が伊勢より退下
688
(持統称政2)
27歳   天武を御陵に葬送(殯宮終了)
689
(持統称政3)
28歳4月13日薨去    
690     鵜野讃良皇女即位→持統天皇
高市皇子が太政大臣に

※1  天武の皇子(高市皇子、忍壁皇子、草壁皇子、大津皇子)と天智の皇子(川嶋皇子、志貴皇子)の六人が、
「兄弟(従兄弟)同士、仲良くします」「天皇皇后に逆らいません」等を誓い合ったとされています。
実質は「草壁皇子が皇太子になることを認め、私達は従います」という意味でした。

※2  草壁皇子は立太子と同時に「律令と歴史書の編纂」を命じられたと考えられます。
律令とは「法律」であり、歴史書とは「皇位継承の正統性確認文書」です。
これらを皇太子となった草壁皇子に編纂させたのには、大きな意味があります。
彼がResearch&Writingしたのではなく、現場監督的な立場にあったと考えられますが、
その作業を通して有能な者(法律や歴史に精通した者)を見つけ出し、
後に皇位に就いた時、有能な側近として迎えることを目的としていたのではないでしょうか。

では改めて、草壁皇子の死について考えてみようと思います。

@ 純然たる病死
息子の珂瑠皇子(文武天皇)も若くして亡くなったことから、草壁皇子=病弱という説があるようですが、
しかし、風邪をこじらせただけでも、古代人にとっては命取りです。
体がものすごく丈夫だったという記事はどこにも見つからないし、その逆も然りです。
つまりごく標準的な体型でごく普通の健康状態だったと思われます。


A 他殺
草壁皇子は二十歳代半ばを過ぎたところで亡くなっていて、病気で無いとすれば自然死は考えられません。
外発的要因を考えると、「殺された」という可能性も選択肢に入れなければなりません。

「殺された」と言っても二つのパターンがあります。
草壁皇子は皇太子です。異母弟の大津皇子亡き後、草壁皇子の皇位継承を妨げる者は誰もいないことになります。
686年の大海人の死後、殯宮(もがりのみや=葬式)を経て、草壁皇子がいよいよ皇位に就こうという689年に、
彼の即位を快く思わない誰かが草壁皇子を殺害した可能性は十分にあります。
草壁皇子他殺説を考える時に考慮しなければならないのは、三年前の「大津皇子の変」です。
686年、父の大海人皇子崩御後すぐに、草壁皇子の異母弟・大津皇子が謀反を企てた疑いで捕らえられ、
草壁皇子の母后・鵜野讃良皇女の命令で自害した事件です。(参照:大津皇子 許されざる皇位
皇位継承者の立場にある若い兄弟が、三年の間にバタバタと死亡しているわけです。きな臭いですね。
他殺説の場合、その犯人は誰でしょうか?パターンは二つあります。

1) 草壁皇子の死によって、利益を得られる者
この基準で見ると、最も怪しいのは大海人皇子の皇子達とその擁護者でしょうね。
草壁皇子亡き後、こんなエピソードがあります。

草壁皇子の死の7年後の696年、太政大臣となっていた異母兄・高市皇子が急死し、
大王・鵜野讃良皇女(持統天皇)は皇族・諸侯・官僚などを集合させます。
議論されたのは「皇太子を誰にするか」ということ。
鵜野讃良皇女は一人息子・草壁皇子の忘れ形見である珂瑠王の立太子を望んでいました。
しかし、珂瑠王の最大の後見人だった高市皇子が亡くなってしまい、鵜野讃良皇女の独断では動きにくい状況です。
議論は自分の利益ばかりを考える豪族達によって、無駄に紛糾します。
そんな時、あれやこれやと自分勝手なことを言う群臣達を静めたのが葛野王(かどのおおきみ)です。
彼は壬申の乱で敗れた大友皇子とその后・十市皇女(天武の長女)との間に生まれました。
世が世ならば、彼こそが正統な大王の後継者です。
鵜野讃良皇女にしてみれば敵方の忘れ形見ですが、彼がこの場で次のような発言をしたのです。
「この国では古来より直系相続(子孫が相続して皇位を継ぐこと)を行っている。
 兄弟間の相続は争乱の火種となる。だから、直系相続が望ましい」

鵜野讃良皇女の意図を察してこんな発言をした彼は後に官位を貰い、それなりに出世します。
 
しかし、この発言には大きな間違いがあります。
古来より兄弟間相続はよくありました。第一、鵜野讃良皇女の亡き夫である大海人皇子がそうなんですが……
突っ込みを入れようとした弓削皇子(大海人の六男)を、葛野王は一蹴したらしいです。
でも、誰かがこうでも言わないと議論は更に紛糾し、皇位継承戦争へと進んだかもしれません。
新たな「壬申の乱」を引き起こさないために、葛野王のこの発言は大事だったのです。

この時(696年)、皇位継承の可能性がある者は何人いたのでしょうか。ちょっと確認しましょうか。
( )内は親を表します。

 ・ 珂瑠王【後に珂瑠皇子】 14歳(大海人皇子と鵜野讃良皇女の皇子・草壁皇子×葛城皇子の皇女・阿閇皇女)
 ・ 長皇子 ?歳(大海人皇子×葛城皇子の皇女・大江皇女)
 ・ 弓削皇子 ?歳(大海人皇子×葛城皇子の皇女・大江皇女)
 ・ 舎人皇子 21歳(大海人皇子×葛城皇子の皇女・新田部皇女)

他の大海人皇子の息子や葛城皇子の息子達、高市皇子の忘れ形見・長屋王も考えられますが、
血筋や立場から考えると皇位継承の可能性は薄いので、この四人に絞られます。
この四人の中で鵜野讃良皇女の血を引いているのは孫である珂瑠王だけです。
長皇子と弓削皇子の母は葛城皇子(天智天皇)の娘ではありますが、その母の身分が低いことがネックとなり、
血筋で言えば珂瑠王に勝ちようがありません。

問題は舎人皇子(とねりのみこ)です。まだ21歳の若さです。
母の新田部皇女は「葛城皇子×古くからの豪族・阿倍氏の橘娘」の間に生まれた身分の高い皇女です。
ちなみに 彼女は軽皇子(孝徳天皇)の息子である有間皇子とは従兄妹同士(母親同士が姉妹)にあたります。
つまり、舎人皇子には阿倍氏のパックアップがあるわけです。
彼は草壁皇子が死んだ689年にはまだ14歳ですが、それでも彼を皇位につけようと画策した者がいないとも限りません。
と言うわけで、容疑者・舎人皇子(とその周辺)の可能性はあります。要するに、容疑者=阿倍氏です。

※この時に珂瑠王に皇位を持っていかれたことを、舎人皇子は恨んでいたのかもしれません。
 ずっと後の729年、彼は珂瑠皇子の実妹で皇位継承権のあった吉備皇女を死に追いやっています(長屋王の変)。

他に容疑者は考えられるでしょうか。
少し考えさせられるお話があります。梨木香歩さんが書かれた「丹生都比売」(におつひめ)です。
草壁皇子の人柄について、これほどまでに繊細な描写をなさった方は他にいないでしょう。
この作品の草壁皇子は異母弟・忍壁皇子や母、乳母を気遣うことができる心優しい少年の姿をしています。
政治的才能ではなく、人を思いやる心に恵まれた皇子。そんな彼を殺したのは……実の母・鵜野讃良皇女という設定です。
実弟・建や同じ男の妃となった実姉・大田を殺したのと同じ手口で、実子・草壁皇子を殺した、と。
何のために? 皇位継承のために。

私は鵜野讃良皇女が賢くて、政治的判断のできる女性であったと思います。
姉の子でもある大津皇子の存在も、「新たな壬申の乱」を引き起こさないために消さなければなりませんでした。
そして、性格的にいつ豪族達に利用されるともわからない皇太子・草壁皇子もまた……有り得る話です。
鵜野讃良皇女が草壁皇子を殺そうとしたのであれば、草壁皇子は気づいたと思います。
そして何の抵抗もすることなく、若い命を差し出したのでしょう。

しかし、母后とは言え、大方の政務を執り行っていた鵜野が草壁皇子を直接殺せるでしょうか。
直接手を下す協力者が必要です。では、誰が?
鵜野讃良皇女の忠実な手先となったのは草壁皇子の正妃、 つまり阿閇皇女であったかもしれないと、私は思います。
草壁皇子の妻と言っても、阿閇皇女は鵜野讃良皇女の異母妹であり、母親同士は姉妹という近い間柄です。(系図参照)
既に草壁皇子との間に二人の子をもうけ、妻としての役割は果たしました。
今度は母としての役割が彼女には待っています。
鵜野讃良皇女の意に沿おうとしない夫を殺し、息子を皇位に就けるために――
こう考えると、もしや高市皇子も正妃・御名部皇女(阿閇皇女の実姉)に殺されたのでは、と思えてきます。おお、怖い。


2) 大津皇子を死に到らしめる遠因となった草壁皇子を恨みに思う者
文武両道で多くの信奉者がいたと思われる大津皇子。彼を悼む言葉は方々で囁かれていたようです。
その内の誰かが草壁皇子の殺害した可能性もゼロではありません。

では、その犯人は誰でしょうか?
まずは大津皇子と親しかった皇族を考えてみましょう。
異母兄弟の高市皇子、忍壁皇子は吉野にて「草壁皇子を皇太子に認めます」と誓った仲ですが、
草壁皇子よりも大津皇子の皇位継承を望んでいたかもしれません。
でも、彼らは下手に動けませんでした。鵜野皇后の手の者が彼らの動向を見張っていたはずから。
特に、この後に太政大臣に就いている高市皇子が、草壁皇子暗殺を命じた可能性は低いです。
忍壁皇子は後に一時期華々しくない人生を送ったことから、何らかの関わりを睨まれた、という可能性は有ります。
(私は全身全霊をこめて、その可能性を否定しますけれどね)
他の皇族でも、皇后に一矢報いたいと考える者はいたでしょう。
例えば葛城皇子(天智天皇)関係の者が何か企んだかもしれませんが、それこそ鵜野讃良皇女に見張られていたような気がします。

では、豪族はどうでしょうか。
大津皇子に肩入れしていた豪族と言えば、近江朝の生き残りが考えられます。
(大津皇子は667〜672年まで、母の実父である葛城皇子の手元で育っています)
中臣氏、蘇我赤兄一家(大津皇子の正妻・山辺皇女の実家)などなど、ワンサカいます。
でも、彼らは飛鳥浄御ヶ原に入り込めたのか……それが怪しいですね。
鵜野讃良皇女も大海人皇子(天武天皇)も彼らを信用していませんでしたから。
下手すれば今度こそ一族滅亡という危険を冒してまで、草壁皇子殺害を企てるかどうかは微妙です。

まあ、企てたのが誰にせよ、直接の実行犯は別の人間です。
草壁皇子の側に簡単に近づくことができる者となれば、舎人か采女だと思います。
舎人というのは時代によって仕事内容がちょっと異なるようですが、
古代においては貴人(皇族)の警護担当であり、様々な雑用も務めた男性と考えられます。
特に皇太子である草壁皇子の側にいたのであれば、それなりに血筋・教養が高い人物でしょうね。

采女は女官です。地方豪族が中央(大王)に逆らわない証として、娘を宮中に差し出します。
要は人質ですが、大王の寵愛を受けて皇子や皇女の母となった者もいます。
(壬申の乱で有名な大友皇子は葛城皇子×采女の息子です。だから、身分が低かったのです)
メインの仕事場は宮中ですが、他の皇族宅へ出仕するケースもあったようです。
壬申の乱の後、大海人皇子は地方豪族が自分への忠誠を尽くすかどうか、徹底的に疑ったようですから、
人質(采女)として都に上った女性の数はかなり多かったのではないでしょうか。
その何人かとの間に大海人皇子は子をもうけていたりもする。(鵜野讃良皇后には頭の痛いことです)
皇太子の草壁皇子の下にも何人かの采女が出仕していた可能性があります。

舎人犯にしろ、采女犯にしろ、方法としては毒殺が有力かと思います。
側仕えであれば、草壁皇子が口にする物を用意して毒を混ぜることなど容易い。
ただ、この説の欠点はすぐに足がつくということです。
舎人も采女も一応はそれなりの家の出身なので、犯行がばれれば一族郎党諸々断罪となります。
そういう事例は草壁皇子の死の前後には見当たらないので、秘密裏に葬られた可能性はあります。

どうやって秘密裏に葬ったのか。これには一人の男の存在が関わると考えられます。
彼の名は藤原不比等。葛城皇子の腹心・中臣鎌足の息子です。
なぜか鵜野讃良皇女は藤原不比等を重用しています
憎き父・葛城皇子の腹心であった鎌足の息子を、鵜野讃良皇女が警戒しなかったはずがありません。
しかも、彼の出身・中臣氏は壬申の乱では敵方。思いっきり敵ですよ。
不比等が鵜野の信頼を得たのは、この草壁皇子殺害の後に役に立ったからではないでしょうか。
秘密裏に草壁皇子殺害の実行犯とその関係者を葬り去る。
その裏役を不比等が担い、完璧にこなした上で忠誠を誓った。
鵜野讃良皇女に「この男は生かしておけば使える」と思わせることに成功したのです。

鵜野讃良皇女は「親バカ」と評されることが少なくありません。
我が子・草壁皇子を皇位に就けるために、大津皇子を死に追いやったのだと。
そんな人だったら、後々の彼女の政治が上手くいくはずがありません。
政治に私事を持ち込まない。これは彼女の鉄則だと思います。
(葛城皇子や大海人皇子もその傾向にありますが、鵜野は徹底的です)
皇太子暗殺という国家の一大事にも慌てず騒がす、裏では対策を着々と進める。
そんな政治的配慮がこの時には求められたはずです。


B 自殺
草壁皇子が自ら命を絶ったとすると、その要因は何だったのでしょうか。
引き金は二年半前の「大津皇子の自害」であり、もっと昔に遡れば「壬申の乱」ではないかと思います。
草壁皇子は幼い頃から、血族同士の醜い皇位継承争いの渦中にずっと置かれてきました。
どうして人を殺してまで権力を手に入れたいのか、ずっと疑問に思う立場にありました。
祖父・葛城皇子、父・大海人皇子、母・鵜野讃良皇女、そして異母弟・大津皇子。
誰が大王になるか、自分はどんな立場になるか、どう政治をしていくかということに興味がある人々。
草壁皇子とは随分違うタイプの人々です。
「大王になどなりたくない」というのが草壁皇子の本心であったと、私は思います。子供が生まれた後には尚更です。
妻の阿閇皇女も優しい人柄であったように思います。
自分の血筋のせいで、家族を醜い皇位継承に巻き込みたくなかったのでしょう。
でも、世間は彼に流れる高貴な血を許しません。長女・氷高女王が生まれた翌年、草壁皇子は皇太子となります。
やがて父が死に、大津皇子は謀反の罪により死を賜ります。
大津皇子は優秀で、彼が大王になることを望む者は少なくありませんでした。
大津皇子を悼む声が大きくなるにつれて、草壁皇子の苦悩は最高潮に達したことでしょう。
「自分が死ねば良かった」と。

私は大海人皇子の殯宮の間、皇位が空白だったことに疑問を感じます。
いくら大津皇子の死の後で気まずかったとは言え、三年も空位なんてちょっと奇妙です。
もちろん、前例はありますよ。鵜野の父・葛城皇子は母大王の死後七年称政を布いていました。
しかし、あの時は「白村江の戦い」でボロ負けしたばかりでしたから仕方ありません。
都も近江に移しましたしね。いろいろと忙しかったんです。
では、なぜ草壁皇子はすぐに大王の位に就かなかったのか
これは草壁皇子から母への無言の抵抗だったのではないでしょうか。
「氷高と珂瑠も、無意味な殺し合いに巻き込む気ですか?」と。
鵜野讃良皇女が権力を求めるのは私欲ではないことを、息子である彼が一番よく知っていました。
だからこそ自分が皇太子となって、この国を安定させようとしました。
再び「壬申の乱」が起こらないように、鵜野の望む平和な世界を創造するために、 言いなりの大王になること承諾しました。

でも自分の片腕となるはずだった大津皇子が死に、草壁皇子は絶望しました。
「結局、無意味な殺し合いは避けられないのか」
そんな地位は欲しくない。そんなことに家族を巻き込みたくない。
でも皇太子で、しかも称政を布いている草壁皇子が皇位を拒むことは不可能でした。
子供達も物心がついてきて、皇女・皇子としての立場を理解させられる時期が近づいています。
「大王の椅子は血に汚れている。
それでもこの国のため、何より家族のために心を押し殺して、その地位を受け入れようとしていた。
でも、そんな思いは自分だけでたくさんだ。」

草壁皇子の自殺は悩み抜いた末の、一種の防衛策だったように思います。
自分のことならいくらでも耐えてきました。でも、家族だけは守る。
そんな優しくて悲しい心の内が聞こえてくるような気がします。

ですが、なぜ大津皇子の死後三年という年月が空いたのでしょうか。
私は草壁皇子の末っ子・吉備女王の誕生が関わっていると考えています。
吉備女王は女性です。ですが、生まれて来るまで男児か女児かはわかりません。
吉備女王の生年も母親が誰なのかかもわかっていません。(阿閇皇女の子というのが一般的です。)
母親が誰にせよ、草壁皇子は珂瑠王の下に男児が生まれる可能性に戦慄を覚えたに違いありません。
もし生まれる子が男なら、その子もまた皇子になる。
そして、珂瑠王と皇位後継者争いをする立場に祭り上げられる。
それだけではありません。草壁皇子が大王になれば、豪族から娘を差し出されるに決まっています。
自分が生きている限り、皇位も新たな皇子の誕生も免れないのです。
「でも今、私が死ねば…」
仮に鵜野讃良皇女の血が優先されるとしても、珂瑠王だけが皇位適格者であり、無駄な争いは起こらない。
壬申の乱を憎む鵜野讃良皇女ならば、新たに生まれる子が男児なら、草壁皇子の子と認めないかもしれない。
そして長子相続がなされ、無益な争いで誰かが傷つかなくて済む……

優し過ぎる人間というのは弱く見えることもあります。
でも「誰かを守りたい」という強い気持ちを持った時、優しさは悲しいくらい強い武器になります。
草壁皇子はその武器を自らに向けて、命を絶ってしまったのかもしれません。
他殺にしても自殺にしても、草壁皇子はすべての罪を背負って、一人静かにこの世を去った。
そのように私は感じています。

(草壁皇子 死の真相 2007.11.19 改訂)

参考:魔女ノ安息地>創作部屋>小説>歴史もの>失われていくもの
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