スカーレットメトロポリス

   〜緋色の虚空都市〜

Act.1 ある学生への贈り物


- メディア大学 総合知識群 複合社会学部 人間科学科棟にて
                         in UE2005 -

 後期の終わりも近い中、学務課から成績のことで呼び出しを喰らった一学生は、どうやら慌て過ぎていたらしい。扉が閉じかけたエレベーターに体を滑りこませて、あわや挟まれそうになる。
 絶対に挟まれる、と覚悟した途端、
「気をつけなさい」
と、厳しい声がして、扉が開かれたことに気づいた。
 恐る恐る操作盤の方に目をやれば、彼が所属する人間科学科のアラップ教授が、声に違わない厳しい表情でこちらを見ていた。
「す、すみません」
 言い訳の言葉も出ずに、必死に頭を下げる。
 幸いなことに、アラップは「何階ですか」と言っただけで、それ以上のおとがめはなかった。
 見れば、彼女は大きな書類ケースを抱えていた。
 それだけではない。本が詰まっているらしいスーツケースまで見える。
「あ、あの……アラップ先生、学会に行かれるんですか?」
 すぐに、そうではないと気がついた。単なる出張にしては、荷物が多過ぎるのだ。
 案の定、彼女は首を横に振った。
「来期から、私はガイアの南大に行くことになりました」
「えっ!? そ、それは……おめでとうございます」
 一介の地方大学でしかないメディア大学から、エリート六大学の一つと言われるガイア連邦南大学への転勤。それは栄転と言えるものであり、喜ぶべきものだった。
「ありがとう。正直、私は複雑なんだが」
 何が複雑なのかを、アラップは明かさなかった。しかし、いつもより表情が険しく見えた。苦渋に満ちた気持ちを必死に押し殺している様子だった。
 だが、理由もわからないので下手なことは言えない。学生は少し迷ってから、アラップの心中には触れず、自分の気持ちを伝えることにした。
「そうなんですか。実は僕もです。入学する前から、先生のゼミに所属したいと思ってましたから」
 言ってから、余計なことを言ってしまったと後悔した。そんなことはアラップにとって、どうでも良いことに違いないのに。
 しかし、アラップは改めて彼の方を向いた。
「私のゼミに? では、人身売買防止の対策に興味があるのですか」
「はい。特に、僕の故郷に近い惑星群ポセイドンのエルフ族について、とても興味があります」
 彼の言葉に、アラップは細い目を精一杯丸くしたようだった。
「そうですか。おととしのゼミにいれば、一緒に調査に行くことができたのですが、残念ですね」
 少し考えて、アラップはハンドバッグから一枚のディスクを取り出し、彼に差し出した。
「学務課に預けて行こうと思いましたが、ただの資料になってしまうでしょうから、止めておきます。君が持っていて下さい」
「何ですか、これは?」
 何の変哲もないディスクで、タイトルすら書かれていない。急いで書いたらしく、乱雑な『コピー可』の文字が見える。
「おととし、私が行ったアンドロメダでの調査の音声記録です」
 アンドロメダとは惑星群ポセイドンの衛星の一つであり、彼が興味を持っているエルフ族における人身売買の中心地である。
「こ、こんな貴重なものを僕がもらってもいいんですか? だって、僕はまだ二年生なんですよ?」
 彼が思わず叫んだ時、ちょうど学務課のある階に到着してしまった。
 アラップは寂しそうに、しかしどこか安堵した様子で微笑んでいた。
「マスターレコードは私が持っています。興味のある人が他にいるならば、それをコピーして渡して下さい」
 下の階に行く人達がわらわらと乗って来て、彼はあっと言う間に押し出された。何か言う前に、扉は閉まる。
 手には銀色のディスク。
 何故に、アラップは大事な資料をコピーしたディスクを、自分に託したのだろうか。気まぐれか、それとも何か意図があってのことだろうか。
 何か意図されたとしたも、期待に応えられるのだろうか。
 彼は少し心配になったが、ディスクを鞄に滑り込ませた。
 早く読んでみたい。娯楽室のコンピュータは、今の時間なら空いているだろうか。
 気持ちが逸り過ぎたのだろう。彼は学務課への用向きを完全に忘れてしまっていた。

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