中臣鎌足【なかとみのかまたり】(614 〜 669年) / Copyright (c) 2010 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.



今更ですが、これを最初にやるべきだったと気が付きました。
鎌足さんのシリーズ考察なんだから、家族関係をはっきりさせておかなきゃ。
と言うわけで、今更ですが家族考察とまいりましょう!

中臣鎌足考察番外編
  鎌足さん家の家庭事情


まずはお馴染みお約束の家系図と年表です。

【家系図】
          大伴智仙郎女===中臣御食子
                    |     |_______________________
                    |                                        |
                                                          中臣国足
鏡=====================車持与志古郎女                  |
女                         |                                 |
王==葛城皇子=安見児==      真人(定恵)                            |
       |           |_____________________            |
       |           |     |      |        |        |         |
     大友皇子===耳面刀自  氷上郎女  五百重郎女  史(不比等)  斗売郎女==中臣意美麻呂
            U                                            |
          壱志女王?                                      中臣東人

【年表】
614年 中臣鎌子(後に鎌足)誕生 1歳
634年〜639年頃 車持与志古郎女と婚姻
643年 長男・真人【後に出家して定恵】誕生 30歳
645年 乙巳の変 32歳
645年〜661年頃 鏡女王と婚姻
648年 大友皇子誕生 35歳
643年〜657年頃 長女・耳面刀自誕生
650〜655年頃 次女・氷上郎女誕生
653年 定恵が遣唐使の一員として唐に渡る 40歳
654年〜660年頃 三女・斗売郎女誕生
659年 次男・史【後の藤原不比等】誕生 46歳
660〜670年頃 四女・五百重郎女誕生
661年 宝女王【斉明天皇】崩御 48歳
661年〜669年頃 采女の安見児と婚姻
663年 白村江の戦いで大敗 50歳
665年9月 定恵が帰国
665年12月 定恵が急死 52歳
667年 近江遷都、葛城皇子即位【天智天皇】 54歳
669年 鎌足死去 56歳
672年 壬申の乱、大友皇子自害
682年 氷上郎女(大海人皇子夫人)死去
682年頃 但馬皇女誕生
683年 鏡女王(中臣鎌足正妻)薨去
686年 大海人皇子【天武天皇】崩御、大津皇子謀反?(中臣意美麻呂が参加)
693年 中臣大嶋死去
695年 藤原麻呂(藤原不比等と五百重郎女の息子)誕生
708年 但馬皇女(大海人皇子と氷上郎女の娘)薨去
711年 中臣意美麻呂死去
720年 藤原不比等死去

☆婚姻関係
鎌足さんの妻として確認されているのは、次の三人です。
1.車持与志古郎女(元々、軽王の妾という説もありますが……)
2.鏡女王(元々、葛城皇子の妃の一人だった 参照:中臣鎌足考察G「さよなら、秋風 鏡女王」
3.安見児(元々、葛城皇子の采女だった 参照:鎌足さんの「ピカチュウ☆ゲットだぜ!」?
この内の二人、鏡女王と安見児は乙巳の変より後に鎌足さんと結婚していることは間違いありません。
鎌足さんと彼女達との婚姻は葛城皇子の命令であり、恋心から派生した代物ではありません。
では、車持与志古郎女(くるまもちのよしこのいらつめ)はどうでしょうか?
車持氏は現在の群馬県辺りの地方豪族で、鎌足さんの出身地である常陸(茨城県)と近いと言えば近い。
かつては政治中枢にいた中臣氏と違って、車持氏には派手な活躍はないようですが、
中臣氏と車持氏の間で何らかの交流があってもおかしくはありません。
両家は飛鳥でも親密にしていて、中臣氏嫡子である鎌足さんと車持氏の与志古嬢さんが出逢い、
本人達の合意の下、両家の結び付きを強める意味で婚姻関係が結ばれたと考えられます。
おそらく彼女は鎌足さんの最初の妻であり、鎌足さんが20歳〜25歳の頃、 つまり634年〜639年頃には結婚していたと考えられます。

与志古郎女が軽王(孝徳天皇)の寵妃だったという説もあります。BY 『多武峯略記』
鎌足さんのことを気に入った軽王が、鎌足さんに与志古郎女を下賜したというのです。
しかし解せないことに、与志古郎女ではなく阿倍氏出身の寵妃を下賜したという説も。BY 『日本書紀』
軽王の阿部氏出身の寵妃と言えば、有間皇子の母である小足媛のこと??
別人の可能性も有りますが、もし阿部氏の娘を鎌足さんに云々なんてことが本当に有ったとしたら、 軽王さんが阿部氏に怨まれます。
どんなに軽王が考えなしだったとしても、これは絶対に無い。
じゃあ、地方豪族の車持氏出身の与志古郎女なら有り得たのか。これも無いと思います。
采女という立場ではなくとも、与志古郎女を皇族の妻にするということは、 車持氏と軽王との間に信頼関係を結ぶということなのです。
そんなに簡単に誰かに下賜してしまったら、皇族の権威を自ら捨てて、豪族の怒りを被るようなものです。
勿論、例が無いわけではありません。安見児を鎌足さんが下賜された事例があります。
ですが、これは鎌足さんの政治的功績と葛城皇子との信頼関係をアピールする目的がありました。
何の功績も挙げていない乙巳の変より前に、鎌足さんが皇族の妃をいただくなんて話は有り得ないのです。
要するに、「与志古郎女は軽王の寵妃」説は世間の妬みが作り出した妄想です。


☆親子関係
鎌足さんの子供として確認できるのは、二男四女です。
(息子)長男・真人【出家後は定恵】 643年生まれ〜665年急死
    次男・史【後の藤原不比等】 659年生まれ〜720年死去
(娘)長女?・耳面刀自(大友皇子の夫人) 生没年?
   次女?・氷上郎女(大海人皇子の夫人) ?〜682年死去
   三女?・斗売郎女(中臣意美麻呂の妻) 生没年?
   四女・五百重郎女(大海人皇子の夫人 後に、藤原不比等の夫人) 生没年?

この6人で全員と仮定しますと、順番が気になりますね。
長男の真人(まひと)は643年生まれとされています。母は与志古郎女と思われます。
一方、次男の史(ふひと)は659年生まれ。 真人とは歳が離れていますが、やはり彼の母も与志古郎女であったと考えられます。
(注:平安時代にまとめられた藤原氏批判物語『かぐや姫』の登場人物の一人「くらもちの皇子」のモデルは
 藤原不比等だと言われています。「くらもち」は「車持」氏からの連想とのこと。)
真人を産んだ時に与志古郎女が20歳くらいと仮定しますと、史誕生時には36歳。
後の時代に橘三千代(県犬養三千代)が20歳で葛城王(橘諸兄)、37歳で安宿媛(光明子)を産み、
更にその後に多比能という娘を生んだ可能性がありますので、 史の母が与志古さんであっても不思議はありません。
鏡女王が生母という説もあるのですが、鏡女王考察でも述べた通り、
藤原氏が鏡女王の血を引いているのなら、それを政治権力に利用しないはずがありません
と言うわけで、真人と史は与志古郎女の息子と考えるのが適当だと思います。


では、四人いるとされている娘達はどうでしょうか?
生年は全員謎。没年は唯一、氷上郎女(ひかみのいらつめ)が682年に亡くなったことがわかっています。
氷上郎女の娘である但馬皇女(たじまのひめみこ)が682年生まれとしても、
氷上郎女は当時若くて16歳頃。よって、氷上郎女自身は遅くとも666年には生まれています。
ですが、彼女が氷上大刀自(ひかみのおおとじ)とも呼ばれていたことに注目しましょう。
この「大刀自」とは、家を仕切る女性という意味があるようです。
うら若き時代に亡くなったのなら、こんな称号は付かないのではないかと思います。
そう考えると682年時点では25歳〜30歳くらい、よって生年は650年〜655年前後のようです。

次に五百重郎女(いおえのいらつめ)、別名を大原大刀自(おおはらのおおとじ)です。
大原は現在の奈良県高市郡明日香村小原のことで、鎌足さんの家があったのではないかと思われます。
(定恵が亡くなったのが、やはり大原だとされていますので。)
氷上郎女と同じく、五百重郎女も大海人皇子の夫人になっていますが、 二人が同母姉妹かどうかはわかりません。
686年に大海人皇子が崩御しているので、五百重郎女は687年までに新田部皇子を産んでいます。
695年には異母兄の史(当時は藤原不比等)との間に、藤原麻呂を産んでいます。
695年時点で40歳頃としても、687年には32歳、生年は早くても656年頃ということになります。
669年に鎌足さんが死去していることから、656年〜670年の間の生まれています。
ただ、史(659年生まれ)より年下のようなので、660年〜670年頃の生まれと考えてられます。

さて、もう二人の娘、耳面刀自と斗売郎女の存在はあまり知られていません。
私も今回調べるまで、そう言えば居たかしら?という程度の知識でした。
まず、耳面刀自(みみものとじ)は大友皇子の夫人とされています。
奈良時代成立の日本最古の漢詩集『懐風藻』に“鎌足の娘が大友皇子と結婚した”との記述があり、
室町時代1426年成立の『本朝皇胤紹運録』によると、“大友皇子には鎌足の娘の耳面刀自という女性との間に
壱志姫王(いちしのひめおおきみ)という娘がいた”とされています。
日本書紀など他の資料では、耳面刀自の存在は確認できませんが、
千葉県旭市泉川の内裏神社には、壬申の乱の後に逃げ延びた「耳面刀自媛」なる人物の墓があるとか。
中臣氏の地盤である鹿島(現:茨城県日立市にあり、福島県に近い海岸沿いの地)に逃げようとしたとのことですので、
船で房総半島の九十九里浜に行き着き、そこから鹿島を目指す途中で亡くなったということでしょうか。
672年壬申の乱にて大友皇子は自害、当時数え年で25歳です。
壱志女王が実在していたとしますと、673年には生まれていなくてはいけない。
耳面刀自が当時若くて16歳と考えると、彼女は遅くとも657年には生まれていることになります。
大友皇子より年上の可能性もありますので、643年〜657年頃の生まれでしょうか。


一方、斗売郎女(とねのいらつめ)は従兄弟の中臣意美麻呂(なかとみのおみまろ)と結婚しました。
この中臣意美麻呂が結構な手がかりを残してくれています。
@ 斗売郎女と結婚したことによって、鎌足さんの猶子(後継者)扱いになっていた時期がある。
A 一時期、同族の中臣大嶋(なかとみのおおしま)と共に「藤原氏」を中継ぎしていた。
B 686年の「大津皇子の変」で大津皇子の謀反の企みに参加していたとされている。

まず@について。
どうやら中臣氏の後継ぎが心配されていたようです
真人と史という優秀な息子がいたのにも関わらず、何故そんなことが起きたのでしょうか?
その一つの理由に、長男の真人はわずか11歳で653年遣唐使の一員として渡唐してしまっていて、
無事に帰って来る保証がなかったことが挙げられます。(しかも、出家しています。)
彼は665年に無事帰国はしたものの、すぐに急死。当時、弟の史はわずか7歳。
鎌足さんの後継者、そして中臣氏の嫡男としての力量を量るには幼すぎます。
そこで669年の鎌足さんの死の前後に、 年長の従兄である意美麻呂が斗売郎女の婿養子に入る事が決まったのでしょう。
この時点で斗売郎女は結婚適齢期以上。彼女が665年〜669年に16歳とすると、 654年〜660年頃に生まれたと考えられます。
史とあまり変わらないか、もうちょっと年上です。

Aを見ても、意美麻呂は史より年長と考えられます。
ただし、中臣大嶋という親戚もいて、鎌足の死後は二人が藤原氏(中臣氏)を支えていたことが伺われます。
婿養子ではあっても、鎌足さんが死んだ669年時点では意美麻呂はまだ頼りない年頃だったのでしょう。
年嵩の親族である大嶋に助けられながら、藤原氏(中臣氏)の中心を担っていたようです。

次にBについて。686年に皇后(鵜野讃良皇女)と皇太子(草壁皇子)に対し謀反を企画したとして
大津皇子が皇后から自害を命じられた、有名なあの事件です。
その経緯については「大津皇子が現体制に不満を抱いたため」との理解される傾向に有りますが、
現体制に不満を抱く若者達が、若くて賢くて血筋の良い大津皇子をけしかけて、 自分達が思い描く政権を作ろうとしたという側面は忘れられがちです。
そんな若者達の一人が、この中臣意美麻呂です。
他には葛城皇子(天智天皇)の遺児の川嶋皇子、意美麻呂の同僚の巨勢多益須がいました。
(※ ちなみにこの時、史は意美麻呂と逆で、皇太子である草壁皇子を守る立場にありました。)
ここで重要なことは686年時点で意美麻呂はまだ年寄りではなかったということです。、
藤原氏の跡目として史を認めなければならない日が近づいていて、焦っていたのかもしれません。
そこで大津皇子を担ぎ上げることで、草壁皇子の舎人であった史に対抗し、
「 大津皇子が大王になった暁には権力を得よう。藤原氏を名実共に継ごう」と目論んだ可能性
はあります。
史が当時28歳ですので、彼より少し年上というと“若者”とは言い難いのですが、老人の域には達していない30歳〜40歳ぐらいが適当でしょうか。
斗売郎女とはあまり歳の変わらない夫婦だったのでしょうね。


耳面刀自、斗売郎女、氷上郎女の3人は、年齢的に考えて与志古郎女の娘かもしれません。
鎌足さんが若い頃に与志古以外に妻がいたのなら、その人の子ということも考えられます。
ただし、鏡女王や安見児(やすみこ)が母親ということはないでしょう。
鏡女王の子であれば、大王の血を引いているという記述がどこかにあって然るべきです。

さて、鎌足さんの妻の一人、采女である安見児(やすみこ)との婚姻は
葛城皇子が全権を掌握した称政時代以降、つまり宝女王の崩御後の661年以降と考えられます。
安見児さんの実家が葛城皇子を絶対的に応援する地方豪族ならば、裏切る心配もないため、
彼女はもっと以前に鎌足さんに下賜された可能性はありますが、
私の考えでは、鎌足さんと安見児の婚姻は665年12月以降のことです。
665年12月と言えば真人の急死した頃、そして中臣氏は後継者として意美麻呂を担ぎ出します。
一方、鎌足さんの盟友である葛城皇子は、鎌足の唯一の息子となった史に何かあった時のことを心配して、
自分の采女の一人であった安見児を送り込んだのではないでしょうか。

余談ですが、この安見児さんは美人なだけでなく、多産の家系だったと想像しています。
鎌足さんの後継者をできるだけ確実に産めそうな若くて元気な女性、という観点から、 数多の采女の中から安見児が選ばれたのではないかな、と。
そうして生まれたのが、もしかすると五百重郎女だったのかな?とも思えます。

以上をまとめると、子供達はこんな構成。

 1人目 長男 真人     643年生まれ        母親:車持与志古郎女
 2人目 長女 耳面刀自  643年〜657年頃生まれ 母親:車持与志古郎女?
 3人目 次女 氷上郎女  650年〜655年頃生まれ 母親:車持与志古郎女?
 4人目 三女 斗売郎女  654年〜660年頃生まれ 母親:車持与志古郎女?
 5人目 次男 史       659年生まれ        母親:車持与志古郎女(多分)
 6人目 四女 五百重郎女 660年〜670年頃生まれ 母親:?(もしかして安見児?)


氷上郎女が史より年上というのは、私にはちょっと違和感があります。
何となく五百重郎女とセットで覚えていたので、二人の歳は変わらないイメージでした。
でも氷上郎女は大海人皇子の妻となっていて、 史は大海人皇子の息子である草壁皇子と歳の近い舎人だったわけですから、
氷上郎女の方が姉だったと考えてもまったくおかしくはないですね。

耳面刀自と斗売郎女については、今回初めて考察をしました。
彼女達の婚姻もまた皇室と繋がり、藤原氏を守っていくために為されたようです。
長男の真人は勉強を重ねて、いずれは父親の政策を手伝うつもりだったのかもしれませんが、
彼の急死、そして壬申の乱によって藤原氏は存亡の危機に立たされます。
しかし、耳面刀自、氷上郎女、五百重郎女の三人が大王(皇太子)と結婚し、子供を産み、
斗売郎女が従兄を引き入れて藤原氏を守りました。

そうしたバックアップがあったからこそ、史は藤原不比等として花開くことが出来たのだと思います。

(中臣鎌足考察番外編「鎌足さん家の家庭事情」 2010.01.28)
Copyright (c) 2010 夕陽 All rights reserved.