藤原仲麻呂【ふじわらのなかまろ】(706 〜 764年) / Copyright (c) 2011 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.


中臣鎌足から始まった藤原氏。
二代目(実質の初代)藤原不比等の時代に、政治の中枢だけでなく皇室の中へと入り込みます。
三代目の藤原四子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の時代には、武力による政敵排除を表面化させました。
そして四代目に当たる藤原仲麻呂は、父や叔父達の用いた武力行使を公然と用いるようになりました。
臣下の地位に飽き足らず、更なる野心を抱いた仲麻呂は、名実共に最高権力者になることを望みます。
しかし臣下であるからこそ、藤原氏は恨まれながらも認められ、その権力を確保し続けることができたのです。
それ以上の地位を望んだために、仲麻呂は周囲から完全にそっぽを向かれます。
太政天皇となっていた阿倍内親王(孝謙天皇)と完全に対立し、時の権力者の地位から転落。一転して謀反人に。
最期は斬首という結末を迎えました。

ところで、彼は悪人だったのでしょうか? 
驕り高ぶって孤立に至った経緯はどのようなものだったのでしょうか?

   悪人 藤原仲麻呂

中臣鎌足の時代から百年も経たない706年に仲麻呂は誕生します。鎌足の曾孫に当たります。
場所は飛鳥京周辺、時の大王(天皇)は元明女帝こと阿閇皇女です。

仲麻呂の父親は藤原武智麻呂。時の右大臣である藤原不比等の長男であり、嫡男です。
その武智麻呂の生母は、不比等の最初の正妻・蘇我娼子です。
(余談ですが、二番目の正妻・橘三千代と不比等との間には女児の安宿媛(光明子)が居ますが、男児は生まれていません。)
武智麻呂は甥に当たる首皇子(聖武天皇)の教育係となり、また実弟の房前、宇合、異母弟の麻呂と共謀して、
朝廷でも天皇の指南役として権勢を振るい、朝堂に藤原氏の天下を打ち立てました。
臨終の間際に与えられた 最高位は正一位左大臣。臣下として得られる最高の地位を戴きました。

仲麻呂の母親は古くからの豪族である阿倍氏出身で、貞媛(さだひめ?)と呼ばれる人です。
彼女の祖父は阿倍御主人(あべのみうし)といいます。
阿倍御主人と言えば「壬申の乱の際には大海人皇子に味方したので、天武朝で重臣扱いになった」
くらいの史実しか知られていないのですが、その割にこの人は有名です。
何故かと言うと、かの有名な『竹取物語』の中に出てくる、かぐや姫への五人の求婚者の内の一人が
この阿倍御主人をモデルにしているからです。しかも、そのまんまの名前で。

さて、毎度お馴染みお約束の家系図さん、こんにちは。
しかし一体何なんざましょ、この人物の多さは!? これでも仲麻呂の母方は抜いていますのに……

【系図@】ピンク字は味方、青字は敵対者です。時期によって敵味方の解釈は様々ですが、基準は764年の仲麻呂死亡時点です。
                                    _________________________________
                                   |                                                |
蘇我娼子================藤原不比等===============================藤原五百重(天武夫人)
     ____________|_____________________________              |           |
(南家)|                             |                         (式家)|             (京家)        |
武智麻呂=============阿倍貞媛   房前(北家)===牟漏女王             宇合==石上麻呂娘   麻呂      新田部皇子
  |_________      |____       |      |___________      |___        |      __|________
  |      |     |      |     |      |      |    |     |    |      |    |       |     |        |      |
 南殿    乙麻呂  巨勢麻呂  豊成  仲麻呂==宇比良古   北殿   永手  真楯  御楯    広嗣   良継      百能   道祖王   塩焼王    陽候女王
(聖武夫人)               |         |         (聖武夫人)         (妻:児従)              (夫:豊成)      (妻:不破内親王)  (夫:仲麻呂)
                     中将姫       |____
                 (母:藤原京家百能)   |     |
                                児従    真従==粟田諸姉==大炊王《淳仁》
                              (夫:御楯)

【系図A】                                     大海人皇子《天武》
                                                |_____________________________
                                                |                    |                     |
                       (県犬養)               草壁皇子(母:鵜野讃良皇女)     高市皇子             舎人皇子(母:新田部皇女)
美努王============橘三千代=====藤原不比等     |________    (母:胸形尼子郎女)              |
     |                        |     |          |    |      |       |                      |
     |_________          |     宮子===珂瑠皇子  氷高皇女  吉備皇女==長屋王==長娥子(不比等娘)  大炊王《淳仁》==粟田諸姉
     |   |        |          |           | 《文武》   《元正》                 |________
   葛城王  佐為王   牟漏女王    安宿(光明皇后)==首皇子===県犬養広刀自                |     |     |
  (橘諸兄) (橘佐為) (藤原房前正室)  (聖武皇后) |  《聖武》  |_________          安宿王   黄文王  山背王
     |                                |         |     |      |                      (藤原弟貞)
   奈良麻呂                        阿倍内親王  井上内親王  安積親王  不破内親王==塩焼王
(母:多比能(不比等娘))                《孝謙・称徳》   (光仁皇后)                  |
                                                                 氷上志計志麻呂

【系図B】太字は764年の藤原仲麻呂の乱で死んだ人、緑字はそれ以前に死んでいた人です。
  _____________________________________________
 |                                                |      |         |
仲麻呂                                            乙麻呂  巨勢麻呂      豊成===百能(藤原京家麻呂娘)
 |____________________________________________
 (母:藤原袁比良古(房前娘))              (母:大伴犬養の娘)  (母:陽候女王)   (母不明)
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 |       |       |       |   |     |     |     |    |        |   |    |     |
真従      真先(執弓) 久須麻呂  児従  真文 刷雄(薩雄) 徳一   朝狩 辛加知    東子  額  小湯麻呂  執卓
(妻:粟田諸姉)                (夫:藤原御楯
※児従は藤原仲麻呂の乱に連座した記録はありませんが、761年に位を貰った記録があるので、生きていて連座した可能性が高いです。

【年表】 赤字は仲麻呂の運命を変える節目となった出来事です。
704年 
実兄・藤原豊成誕生(仲麻呂とは二歳違いの同母兄)
706年 藤原仲麻呂誕生(父・藤原武智麻呂×母・阿倍貞媛) 1歳
707年 珂瑠皇子《文武天皇》崩御→阿閇皇女《元明天皇》即位 2歳
710年 平城京遷都 5歳
713年 珂瑠皇子の妻である石川嬪と紀嬪が嬪号を削られ、石川嬪の産んだ広成皇子と広世皇子も石川姓となる 8歳
714年 首皇子(14歳)元服 従弟の藤原永手(父の実弟・藤原房前の次男)誕生 9歳
715年 阿閇皇女《元明天皇》譲位→氷高皇女《元正天皇》即位 従弟の藤原八束(藤原房前の三男、後に改名して藤原真楯)誕生10歳
716年 従弟の藤原千尋(藤原房前の四男、後に改名して藤原御楯)誕生 11歳
    遣唐使として藤原宇合(遣唐副使)、吉備(下道)真備、阿倍仲麻呂、玄ムらが派遣される
717年 藤原房前が武智麻呂に先駆けて参議となる、首皇子の第一子である井上内親王誕生 12歳
718年 阿倍内親王誕生 父・武智麻呂が式部卿(文官の人事機関のトップ)就任 13歳
719年 父・武智麻呂が首皇子の春宮傳(とうぐうのふ・皇太子の教育係)に就任 14歳
720年 母方の祖父・藤原不比等死去→長屋王が右大臣に 15歳
721年 阿閇皇女《元明太政天皇》崩御 井上内親王が伊勢斎宮に 16歳
724年 氷高皇女《元正天皇》譲位→首皇子即位《聖武天皇》 実兄・豊成が正六位下から従五位上に昇叙 19歳
726年頃 仲麻呂は内舎人として初出仕、その後に大学少允を拝命 21歳
727年 某親王誕生→立太子 22歳
728年 某親王薨去 安積親王誕生 23歳
729年 長屋王の変(長屋王と吉備皇女、その子らが自害させられる)、藤原安宿立后(光明皇后) 24歳
733年 橘三千代(藤原不比等の二番目の正妻、安宿の生母)死去 28歳
734年 
仲麻呂は従五位下で朝廷に出仕 父・武智麻呂は右大臣に就任 29歳
735年 吉備真備、玄ムらが唐から帰国 30歳
737年 藤原四子(房前、麻呂、武智麻呂、宇合)が相次いで死去 実兄・豊成が参議に就任 32歳
738年 阿倍内親王が初の女性皇太子に 橘諸兄が右大臣就任、玄肪と吉備真備も重用される 33歳
739年 仲麻呂は従五位上に昇叙 陽候女王(後に仲麻呂の庶妻)が従四位下を初叙 34歳
740年 藤原広嗣(藤原宇合嫡男)の乱 35歳
742年 塩焼王(新田部皇子の息子)と後宮女官数名が配流に(誣告事件か?) 37歳
743年 仲麻呂は参議に就任 氷高皇女が首皇子に代わって、難波遷都の詔を出す 38歳
744年 恭仁京にて安積親王急死(藤原仲麻呂による暗殺か?) 39歳
746年 仲麻呂は従三位に昇叙 牟漏女王(橘諸兄実妹、房前正妻)卒去  41歳
748年 氷高皇女《元正太政天皇》崩御 43歳
749年 東大寺大仏建立 首皇子譲位→阿倍内親王即位《孝謙天皇》 44歳
     仲麻呂は大納言に昇進し、中衛大将と紫微中台(光明皇后のための独立機関)長官も兼任
     仲麻呂の正妻・藤原宇比良古(藤原房前の娘)は正五位下に昇叙
     嫡男・真従は従五位下に昇叙→その後、数年で早世したらしい
750年 吉備真備が筑前守として九州に赴任(実質、都から追い出された) 45歳
752年 第十次遣唐使。正使は藤原清河(房前の四男、後に唐で没)、副使は大伴古麻呂と吉備真備、留学生に六男・刷雄 47歳
    東大寺の大仏開眼法会
    阿倍内親王は田村第(仲麻呂の屋敷)を御在所とする
753年 新羅征伐の方針を打ち出す 48歳
754年 首皇子の生母・藤原宮子死去 49歳
756年 首皇子《聖武太政天皇》崩御 左大臣・橘諸兄辞職(翌年、死去) 51歳
757年 道祖王が廃太子に→舎人皇子の息子・大炊王を皇太子に指名 52歳
     次男・真先と四男・朝狩が従五位下となる。
     橘奈良麻呂の変
    
 奈良麻呂、大伴古麻呂、黄文王、道祖王獄死 安宿王流罪
     塩焼王→氷上塩焼と改名して臣籍降下(恐らく姉妹の陽候女王も同時期に臣籍降下→氷上陽候)
     藤原豊成(仲麻呂の実兄)左遷
     朝狩が陸奥守に就任

758年 阿倍内親王譲位→大炊王即位《淳仁天皇》  恵美押勝の名をを与えられる 53歳
760年 仲麻呂は臣下としては初めて太子(太政大臣)に 光明皇太后崩御 藤原乙麻呂(異母弟)死去 55歳
761年 上皇(阿倍内親王)が病気に伏せる→看病に当たった僧・弓削道鏡を寵愛するようになる 56歳
     八男・辛加知が従五位下となる
762年 次男・真先、三男・久須麻呂、四男・朝狩が揃って参議に就任 57歳
     正妻・宇比良古が死去 
     上皇と天皇が対立→上皇は平城京に勝手に帰還し、法華寺にて出家→「天皇から実権を取り上げる」宣言
764年 1月 庶妻・氷上陽候(陽候女王の臣籍降下後の名前)が従三位に昇叙、四男・辛加知が越前守に就任 59歳
    1月 吉備真備が大宰府から帰京し、造東大寺長官に就任
    6月 藤原御楯死去(仲麻呂の娘、児依の夫)
    9月 藤原仲麻呂の乱→仲麻呂一族敗死、氷上塩焼(元・塩焼王)処刑・大炊王配流→阿倍内親王重祚《称徳天皇》

さて、やっとこさ考察と参りましょうか。
まず仲麻呂が生まれた頃、彼の周囲がどんな風になっていたのかを確認しましょう。
仲麻呂が生まれる5年前の701年のこと。藤原武智麻呂(仲麻呂のパパ)の異母姉妹である藤原宮子が
珂瑠皇子(文武天皇)との間に首皇子(後の聖武天皇)を産みます。
同じ年、藤原不比等と県犬養橘三千代との間に安宿媛(後の聖武天皇后の光明皇后)が誕生します。
ご存知の通り、この二人の赤ん坊は15年後に当たり前のように結婚させられます。
珂瑠皇子の後を首皇子が継いで、我が娘の安宿媛がその皇后となる。
そんな計画を既に不比等は、そして三千代は思い描いていたことでしょう。

しかし、仲麻呂が生まれた翌年707年に計画が暗礁に乗り上げます。まだ若い珂瑠皇子が病死してしまったのです。
後は誰が継ぐのか。皇位の行方は不比等の、そして藤原氏の命取りになります。
大海人皇子(天武天皇)の皇子はまだ数人存命ですが、そちらに皇位が流れてしまったら困ります。
草壁皇子の直系として珂瑠皇子を守り立てて、宮子を娶わせて、首皇子を誕生させた不比等の努力がパーになります。
何としても草壁皇子ファミリーから皇位を動かしてはならない。ゆくゆくは首皇子に継承させなければなりません。
そこで不比等が目を付けたのが珂瑠皇子の母、皇后にすらなっていない阿閇皇女でした。
阿閇皇女は不比等の目論見など見抜いていたことでしょうが、彼女は皇位を継承します。
後の贈り名を元明天皇。首皇子にとっては父方の祖母に当たります。

とりあえずは首皇子の未来は安泰。かと思いきや、715年に阿閇皇女は突然譲位を決行します。
15歳の首皇子なんぞ目にもくれず、独身の長女、氷高皇女が皇位を継承することになりました。
阿閇皇女の「不比等、どうしたのです? 何か思い通りにならないことでも?」という爽やかな嫌味が聞こえてきそうですね。
首皇子の父である珂瑠皇子は15歳で祖母の鵜野讃良皇女から譲位されています。
不比等としては色々文句も言いたかったことでしょう。
氷高皇女自身は独身ですが、その実妹である吉備皇女は従兄の長屋王との間に何人もの息子をもうけています。
血筋的に見れば、どう考えても首皇子よりも吉備皇女の息子達の方が大王に近いところに居ます。
いや、夫の長屋王だって天智・天武両天皇の皇孫なのです。父は武運の誉れ高き高市皇子です。
更に母は阿閇皇女の実姉の御名部皇女(みなべのひめみこ)です。皇位を継承する血筋にあると言えますよね。
いやいや、むしろ吉備皇女自身が姉の氷高皇女の後を継いで女帝になるということも考えられます。
夫である長屋王が補佐をし、息子達が皇位継承に相応しい歳になるのを待てばヨロシ。

不比等は政治的には既に朝廷を制していました。都も古い体質の豪族がはびこる飛鳥と藤原京を捨てて、
新しい平城京で更に自分達の力を練り上げていたところですが、肝心の皇位が遠くなっては困ります。
そんな不比等の切実な願いは、安宿媛が男の子を産むことでした。
氷高皇女には子供が産まれない以上、草壁皇子→珂瑠皇子→首皇子→安宿媛が産む皇子というラインを作って、
こっちが正統な皇位継承ルートなんだぞと見せ付ける必要
がありました。
父の期待に応えるように安宿媛は身ごもります。しかし、718年に生まれたのは女の子でした。
彼女の名前は阿倍内親王、後の孝謙天皇・称徳天皇です。
仲麻呂とは12歳違いの従妹にあたり、ある意味で彼の運命の人となった女性です。
皇子の誕生を心待ちにしていた不比等は心底がっかりしましたが、まだ希望を捨てたわけではありません。
まずは首皇子の即位を確実にするべく、そしてその補佐役として藤原氏を根付かせるべく、
翌年の719年に長男の武智麻呂を、19歳になった首皇子の春宮傳(皇太子の教育係)に就かせます。

この皇太子の教育係という役割はとても重要です。
皇太子が天皇の位に就けば、春宮傳はその先導役として当然のように高い地位に就きますからね。
(ちなみに、阿倍内親王にとっての教育係は吉備真備でした。
 阿倍内親王を操るのに真備が邪魔だと仲麻呂は判断し、真備を大宰府に追いやり、中央政権から遠ざけます。
 父と首皇子の政治的立場と絆を知っていた仲麻呂だからこそ、学者でしかない真備を必要以上に警戒したのでしょうね。)
しかし、ここで不比等がリタイヤ。720年に62歳で死去します。
翌年721年、不比等と張り合った女帝・元明太政天皇こと阿閇皇女が崩御します。

同年、伊勢神宮の斎宮が交代します。
久勢女王という出自不明の王族から、なんと首皇子の長女である井上内親王(いのえないしんのう)にバトンタッチ
なんだ、この突然のグレードアップは……
井上内親王の母親は県犬養氏の広刀自ですので、阿倍内親王よりは血筋的には格が下になりますが、
それでも井上は皇太子の長女なのですよ。
しかも、まだ5歳なんですけど……いいのか、そんなちびっ子が斎宮で? 天照大神に怒られない?
私はここに藤原氏の焦りを感じます。阿倍内親王こと阿倍ちゃんより1歳だけ年上の井上内親王ですが、
首皇子に息子がいない以上、藤原氏にとっては井上内親王の存在さえも脅威的であったようですね。

3年後の724年、氷高皇女は譲位を承諾し、首皇子が即位します。理由は知りません。是非知りたい!
とりあえず、藤原氏悲願の『藤原氏の血を引く天皇』の初誕生です。
藤原氏万々歳!と言いたいところですが、その次を継ぐべき皇子が居りません。
右大臣の座には男皇族の代表と言える長屋王がいます。その妻は氷高太政天皇の実妹である吉備皇女。
二人の間には少なくとも3人の息子がいまして、一番上の膳夫王(かしわでのおおきみ)は704年頃に誕生しています。
首皇子の即位の時に膳夫王が従四位下を叙位していますので、20歳くらい。新たな皇族政治家の誕生と言えます。
しかも膳夫王達は、母方の祖母にあたる阿閇皇女から皇孫待遇に叙されています。藤原氏またもや焦る〜。

焦って焦って727年、ついに安宿媛は男の子を産みます。名前が不明なので某(なにがし)親王とされています。
(基親王という説もありますが、赤子の時に死んでしまうので、恐らく「某」を「基」と転記し間違えた結果でしょう。)
藤原氏万々歳!と大喜びして赤子の立太子まで強行したのも束の間、某親王は1年で死んでしまいます。
失意の藤原氏に追い討ちを掛けたのは、県犬養広刀自が男の子を産んだことです。この子が阿積親王(あさかしんのう)です。
焦った藤原氏は翌年729年、当面の目の上のたんこぶとも言える長屋王と吉備内親王一家を死に追いやります。長屋王の変です。
同年、天皇の夫人でしかなかった安宿媛を皇后の位に押し上げます。藤原氏とりあえず一安心。

えー、ここまで不比等の死後における「藤原氏」の焦りと陰謀について散々書いてきましたが、この藤原氏って誰なんでしょうか?
不比等には長男である武智麻呂をはじめ、房前、宇合、麻呂という四人の息子がいます。
武智麻呂が仲麻呂の父親で、その一歳年下の同母弟が房前。少し歳が離れて宇合(武智麻呂達とは異母弟の説もあります)。
そして、末っ子の麻呂は母が不比等の異母妹(元天武天皇夫人の五百重娘)という純粋藤原っ子です。
では、不比等の死後に陰謀を張り巡らせたのはこの四人全員、所謂「藤原四子」なのでしょうか?
この四兄弟、だいたいが「藤原四兄弟」とか「藤原四子」という感じで一まとめにされています(涙)。
後世の創作を見ても、藤原四子の四人全員が共謀していた、とする説に基づいて書かれた物が多いですね。
何で十把一絡げにされているのか。思うに、彼らの死に方がまずかったのでしょう。
四人同時期に天然痘でバタンキュー。それが長屋王の呪いによるものだった、とも言われていますし。

しかし、呪いで人は死にません。
同時期に死亡したのは同じ職場(朝廷)に居たり、お互いをお見舞いしている間に感染してしまったからです。
実際、四兄弟が亡くなる少し前には皇族政治家である舎人皇子や新田部皇子も天然痘で死んでいます。
この二皇子も立場的には反長屋王派であったようので、彼らの死もまた長屋王の呪いなどと言われています。
でも当時の朝廷はほぼ反長屋王派で占められていたのだから、親長屋王派に感染しろって言う方が無理な話です。
こんな重臣壊滅の状況で、大王である首皇子に感染しなかったのは奇跡的ですね。
首皇子は若いから体力もある、と肯定的な見方もできますが、意地悪な見方をすれば武智麻呂達に政治を任せて、
本人は人前に姿を現していなかった証拠なんじゃないかと疑ってしまいます。
光明子さんが感染しなかったのは……何と言うか、根性の為せる業のような気がします。
いや、彼女の字を見ているとね、ウイルスも裸足で逃げ出すほどのパワーを感じたと言いますか……
(参照:紀行文 2012年阿倍ちゃん縁の巡り
まあ、彼女の場合は朝堂の表舞台に立たずに裏で政治を行っていたので感染しなかった可能性もありますね。
それよりも奇跡的なのは橘諸兄が死ななかったことです。彼はある程度、朝堂に入り浸っていたはずですからね。
実弟の橘佐為(佐為王)はこの時の天然痘で亡くなっています。
もしかすると、諸兄はごく幼い頃に軽い天然痘に罹ったことがあるのかもしれませんね。
それは佐為が生まれる前のことで、それ故に諸兄のみが天然痘に対して免疫があった、ということかもしれません。

すみません、話が飛びました。
要するに、死に様のせいで藤原四子は常に共謀して長屋王を追い落とし、
その後も藤原氏の地位を高めるべく協力しあっていたというイメージが持たれているようなのです。
でも、本当にそうでしょうか?

ここで注目したいのが、長男の武智麻呂と次男の房前の性格や考え方の違いです。
前述の通り、武智麻呂は首皇子の政治的な養育係を任されていました。
一歳年下の房前の方が政治的手腕を認められていて、武智麻呂は自分に対して歯痒く思うこともあったかもしれません。
そんな彼にとって、首皇子を守り、首皇子の血統を守り繋げていくことは父から託された使命であり、自分の存在意義でした。
だから何かと藤原氏のやり方に盾突く長屋王、そして正統な皇位継承権のある吉備皇女の血筋を排除すること、
そして安宿媛の立后はどんな手を使っても成し遂げなければならない事項だったのです。
穏やかな文人との評価がありますが、悪く言えば頭でっかちな理想主義者とも言えます。

一方の房前は、藤原氏を守り栄えさせるという立場は武智麻呂と同じでした。
しかし房前は氷高皇女(元正天皇)の内臣という地位にあり、長屋王とも協力してきた間柄です。
更に正妻の牟漏女王(橘三千代の娘、橘諸兄の実妹)は母の三千代の跡を継いで後宮を取り仕切っています。
藤原氏にとって皇室は倒す相手ではなく、絡めとリ操るもの。彼はそう考えていたはずです。
第一、後継者の生まれない首皇子と安宿媛に藤原氏の命運を懸けるなど、とんでもない話です。
いっそ長屋王と吉備皇女の息子に皇太子にして、そこに自分達の娘を入内させてしまった方が安泰ではないか。
あるいは、長屋王の側室である異母妹・藤原長娥子が産んだ娘なら皇后に相応しい……
というのは、梓澤要さんの小説『橘三千代』に房前の思惑として書かれていたことなのですが、 まったくもってその通りです。
首皇子にこだわる武智麻呂と、確実な皇室支配を考えて首皇子を見限りつつあった房前。
そんなわけで長屋王の変については武智麻呂の独断であったか、房前が渋々従ったのか、
とにかく房前にとっては不本意な事件でありました。

では、三男の宇合はどうでしょうか。
宇合は兵を率いて長屋王邸を囲んでいますので、長兄の指示に従ったと考えられます。
しかし、宇合は遣唐使参加や地方への出向などを経ています。
ずっと中央政権に居た兄達とは違う、グローバルな視点を持っていたはずなのです。
また、詩吟などを通じて長屋王をも交流が深かった人物です。
(参照:2008年お年玉企画A心、自由自在 藤原宇合
そんな宇合が何故、長屋王の敵に回ったのか。
理由は幾つかあると思いますが、宇合は藤原家の長である武智麻呂に逆らおうとは思わなかったのでしょう。
グローバルな活躍を見せる宇合ですが、基本的に藤原氏の命令内で動いています。
多才な人ではありましたが、政治的に自分から「何かやろう、編み出そう」という人ではないようです。
長兄と次兄の考えが対立していても、二人の意見がまとまるのを待つか、最年長である武智麻呂に従うか。
そこに自分の考えを割り込ませることはしなかったのでしょう。
それに、宇合は房前が目論む後宮絡みの駆け引きの類は苦手だったようです。
彼は多くの子女をもうけていますが、武智麻呂や房前のように娘を首皇子の夫人にするということはしていません。
要は、思考が複雑な次兄・房前より、わかりやすい理想主義の長兄・武智麻呂の方が性に合っていたようです。

末っ子の麻呂は長屋王の変の時は地方に居たという説もあり、あまり関わっていない可能性があります。
彼は母親が違いますし、年齢も武智麻呂達とは随分離れていますので、
たとえ手を汚すとしても麻呂は巻き込みたくない、という武智麻呂の判断だったのかもしれません。

えーっと、仲麻呂考察なのにパパと叔父さん達の考察になってるぞ、と。
とりあえず、藤原四兄弟が必ずしも一枚岩ではなかった、いうことを念頭に置いて下さいませ。
さーて、いよいよ仲麻呂考察に行くぞー!!


歴史の流れがそんなこんなしている間、仲麻呂自身は子供の頃からお勉強に励んでいたみたいです。
『続日本書紀』には仲麻呂が兄貴の豊成と共に大納言阿倍少麻呂(あべのすくなまろ)と言う人から算術を習っていて、
結構筋がよろしかったのじゃ、という記述があります。
算術と言うのは計算だけではなく、測量や占いも含まれていたらしい。
彼の後の政策では、この人は相当占星術が好きなんだろうな、と思わされるアレコレが出て来るのですが、
どうやらそれは子供の時の教育の賜物みたいですね。
(彼だけじゃなくて、この時代の人は占いとか呪いとか大好きみたいですけどね)
その後、726年頃(21歳)には内舎人(うちどねり)として初出仕。その期間を経て大学少允(ダイガクノショウジョウ)となります。
この頃の『大学』というのは式部卿(朝廷の人事院)直轄の官僚育成機関で、その事務官人の一人が大学少允だそうな。
今で言う東京大学の正規職員ってところかしら?(あくまで夕陽さんの勝手なイメージです)
どれだけのエリート街道なのかは不明ですが、あえて学び舎に身を置いているところからして、
仲麻呂は学問そのものが割と好きだったんじゃないでしょうか。
現実の政治情勢や人間関係、そして武力による制圧にはあまり興味が無かったのかもしれません。

729年、仲麻呂が24歳の時に大きな騒ぎが起こります。
仲麻呂の父、武智麻呂が首謀者となり 長屋王と吉備内親王とその間の息子達が死に追いやられた後、
藤原氏の安宿媛がぬけぬけと立后したのです。
これで藤原氏の完全天下です! 武智麻呂は臣下で最高の地位にあるようなもの!!
その次男、大学少允の仲麻呂の将来も明るいぜ☆とはなりませんでした。

実はこの前後から仲麻呂は屈折と野望の未来を築き始めていたのです。
思い出してください。仲麻呂には2歳だけ年上の同母兄・豊成がいます。当然、嫡男は豊成です。
豊成は21歳で内舎人として出仕後、その同時期に従五位下に昇叙され、朝廷メンバーの仲間入りを果たしていました。
一方の仲麻呂が従五位下を賜ったのは、彼が29歳の時。2歳差の長男、次男で8年もの差がつけられているのですよ。
もし「兄ちゃんの豊成はスーパー☆クレバーなやり手で、房前叔父さんもまあビックリ! 
それに比べて次男坊の仲麻呂はボンヤリ坊やで頼りないなあ」
っていうことなら事情はわかりますが、
後の歴史を見る限りそんなことはない。
豊成は紆余曲折の末に政治的な位人臣を極めた割に、具体的に何か成し遂げた形跡が無いのです。
一方の仲麻呂は叔母の光明皇后の後ろ盾を得て、強引過ぎる陰謀を次々に成功させます。
豊成と仲麻呂、どちらが政治向きか。
人間的には豊成は穏やかな性格で、人望もそこそこあったのではないかと思います。しかし、政治家向きではない。
汚れた部分も少なくない政界で生き抜ける性格なのは、頭の回転が速くて策略にも長けた仲麻呂の方でしょう。
はい、ここで問題です。
武智麻呂父さんは2歳違いの息子達を見ていて、仲麻呂こそが藤原氏のリーダーに相応しいと思わなかったのでしょうか?
はい、思いました。思わないはずが無いのです。
しかし、必死に否定しました。仲麻呂の存在を肯定することは自分自身を否定することになるからです。
そうです。武智麻呂には1歳年下の実弟、やり手の政治家である房前がいるのです。
長男である自分こそが藤原氏のリーダーであると信じる武智麻呂が、自分の長男である豊成を優遇し、
次男である仲麻呂を冷遇したのは、自分の存在の正しさを主張した結果であったと言えます。


そんな勝手な言い分に巻き込まれた仲麻呂がいつまでも大人しくしているはずが無い。
転機は737年に訪れます。前述の通り、父の武智麻呂を含む政治家連中が悉く天然痘に倒れたのです。
生き残ったのは橘諸兄。光明皇后にとっては亡き母・橘三千代《元・県犬養三千代》が前夫との間に産んだ異父兄です。
しかし、諸兄が光明皇后と組んで藤原四兄弟の政治路線を継承、とはなりませんでした。
諸兄は皇后である異父妹ではなく、首皇子の唯一の男皇子である安積親王を擁立する方向に進み出したのです。
光明皇后は同じ母から生まれたとはいえ完全に藤原氏の一員であり、諸兄とは相容れない存在でした。
一方、安積親王の生母である県犬養広刀自は諸兄の母・橘三千代の同族です。
県犬養氏は三千代という逸材を輩出したものの、一族の勢力は小さく、諸兄の御し易い存在でした。
更に、藤原氏に妹一家を抹殺された怨みに燻る氷高内親王《元正太政天皇》が安積親王と諸兄に組します。
こうして光明皇后の味方が一気に居なくなってしまったのです。
光明皇后の絶対的な支えだった実母の橘三千代は四年前の733年に死去しています。
異父姉の牟漏女王《橘三千代娘・藤原房前正妻》が後宮を取り仕切っていますが、彼女は諸兄の実妹でもあります。
取り急ぎ、光明皇后は甥の豊成を参議に昇格させましたが、とても諸兄達に対抗できるものではありません。
自分の意を汲み、構想を理解できる者が必要でした。
その人物は綺麗事に終止するのではなく、策謀に長け、汚れ役も厭わない者でなくてはいけません。
光明皇后のリクエストとマッチしたのが、父の意図の下で燻っていた仲麻呂でした。

仲麻呂は兄の豊成と違ってまだ要職には就いていませんが、頭が切れることは光明皇后ならお見通しだったはず。
亡き次兄・房前にも似た切れ者の甥を使わない手はありません。

翌738年、光明皇后は阿倍内親王の立太子を決行しました。初の、そして日本史上唯一の女性皇太子です。
光明皇后の宿敵となった異母兄・諸兄は、朝廷の空位を埋めるべく右大臣に昇進します。
ここに光明皇后&阿倍内親王(皇太子)&藤原豊成(&仲麻呂) VS 元正太政天皇&安積親王&橘諸兄という構図が出来上がりました。
身分的には聖武天皇に近い分、光明皇后サイドが有利に見えますが、本当の戦いはここから。
まずは天皇の位をどうするか、です。
光明皇后サイドとしては早いところ首皇子から彼女への譲位を行って、安積親王の即位を阻みたいところです。
しかし、氷高皇女が首皇子の譲位を許しませんでした。彼女は出家もせず太政天皇として生き続けることで、
見えざる手で首皇子の首根っこを引っ掴んで玉座に座らせ続けます。
次の対決はどちらが朝廷を牛耳れるか、です。
イーブンな関係である以上、お互いに認められる人員しか朝廷に入れることはできません。
お互いに納得できる人員として重用されたのが遣唐使帰りの吉備真備と玄ムでした。
吉備真備は遣唐使を経て、朝廷でめきめきと昇進をしていました。
僧の玄ムは首皇子出産以来精神を患っていた藤原宮子の気鬱を晴らしたことで、聖武天皇・光明皇后から絶大な信頼を寄せられていました。
仲麻呂は738年の人事には入れませんでしたが、翌年の739年に従五位上に叙されます。
光明皇后は表向きには豊成を藤原氏の長として立てながらも、仲麻呂を着々と引き入れていきます。

しかし、ここでとんでもないことが起こりました。よりによって藤原氏の中から反逆者が出たのです。
藤原氏は藤原四兄弟のそれぞれの子孫が南家(武智麻呂)、北家(房前)、式家(宇合)、京家(麻呂)と
分かれて家をもっていましたが、その内の式家の長男が反乱を起こしたのです。
740年に起きた藤原広嗣の乱です。仲麻呂にとって、広嗣は父方の従兄弟でに当たります。
738年に大宰府に赴任させられていた広嗣は、自分の人事を左遷と感じたらしいです。
不本意な人事の原因を取り除くべく、朝廷からの吉備真備と玄ムの排除を唱えます。
そして朝廷の軍と戦って負け、斬られてしまいます。
家が違うとは言え、身内から反逆者を出してしまうなんて何たる失態でしょうか。
しかも、この反乱に怯えきった首皇子が強迫観念症を悪化させたらしく、
「ちょ、ちょっと関東に言ってくるわ」とか言って、平城京を捨てて逃避行を始めてしまったのです。
首皇子がノイローゼになる気持ちも、まあ理解できなくはありません。
彼は藤原氏の母から産まれたことで藤原氏からは壮絶な期待を寄せられましたが、
一方で父方の祖母・阿閇皇女や伯母・氷高皇女からは天皇家の一員として認めてもらえませんでした。
紆余曲折の末、藤原氏のゴリ押しで自分の即位と安宿媛の立后は適ったものの、
その過程で待望の息子である某親王を失い、我を忘れて藤原氏の敵である長屋王・吉備内親王一家を滅ぼしてしまいます。
その結果、長屋王の呪い(と噂される天然痘)で藤原四兄弟を一気に失ってしまいます。
それでも何とか立て直そうと、橘諸兄を中心とした政権運営をやっと整えたところに、
追い討ちをかけるように藤原氏の広嗣が乱を起こしたわけです。
藤原氏を非難しようにも自分の皇后は藤原氏出身で、自分もまた半分藤原氏です。
自分の境遇を嘆いた首皇子が藤原氏の牙城である平城京から逃げ出したのは、無責任ながら仕方のないことでもありました。
しかし、光明皇后としてはそんな暢気なことを言っていられません。
平城京は父の不比等が首皇子とそこから続いていく天皇家のために築いた都なのです。
しかも、首皇子の逃避は彼が自分で考え出したものではなかったようです。
首皇子は逃げた先への遷都を言い出すのですが、この遷都先の恭仁京(くにきょう)は橘諸兄の本拠地でした。
更にあちこち放浪の末に743年の難波京への遷都となりますが、遷都の詔は
首皇子(政務ができる精神状態ではなかった)に代わって太政天皇である氷高皇女が行いました。
この逃避行自体が諸兄と氷高皇女によって主導……とまでは言わなくても、誘導されたものだったと考えられます。

そうしている内に安積親王も成長して、十代後半になっていました。
このまま行けば、阿倍内親王を皇太子の座から廃して安積親王が立太子、と成りかねません。
さあ、不利になった光明皇后サイドはどうするか。もう余裕はありません。
744年、安積親王は恭仁京で急死します。この時、恭仁京の留守役だったのが仲麻呂でした。
表向きは脚気(ビタミンB1不足)が原因の急死とされていますが、まあ暗殺でしょうね。
栄養不足になったこともなく若くて元気な時期の皇子様が脚気の急死(心筋梗塞)って、嘘を吐くにしても
もうちょっとマシなことを言えなかったのかと思いますが、それだけ光明皇后サイドが焦っていたということなのでしょうか。
とにかく、安積親王がいなくなったことによって次の天皇は阿倍内親王以外は有り得なくなります。
橘諸兄にとってはここから一気に味方が居なくなりました。
二年後の746年、同母妹で藤原房前の正妻であった牟漏女王が卒去します。
そしてそのまた二年後、諸兄の最大の後ろ盾であった氷高内親王《元正太政天皇》が崩御します。
光明皇后サイド圧勝のムードの中、翌年の749年に東大寺が完成しました。
東大寺完成の野望を果たし、これからは仏の僕(しもべ)として生きたいと願う首皇子《聖武天皇》はついに譲位。
初の女性皇太子となっていた阿倍内親王《孝謙天皇》が即位します。
さあ、ここで44歳になっていた仲麻呂が政治の裏側から躍り出て来ました。
まず仲麻呂は大納言に昇進し、軍事面でも中衛大将を兼任します。
更に、皇后宮職を改めて設置された紫微中台という独立機関の長官も兼任します。
(この時、橘諸兄が左大臣、兄の藤原豊成が右大臣です。)
更に更に、仲麻呂の家族も取立てられます。正妻の宇比良古は正五位下、長男の真従は従五位下を拝命します。

ここで仲麻呂の家族についてご紹介しましょう。
系図Bの通り、仲麻呂には四人以上の妻が居たと考えられます。
中でも最も重要なのが正妻の宇比良古(うひらこ)。袁比良(おひら)とも書くようです。
彼女は藤原房前の娘で、仲麻呂とは従妹の間柄です。
二人の結婚時期は明らかではありませんが、武智麻呂や房前が死んだ時に仲麻呂は既に32歳ですから、
武智麻呂・房前の生前に父親同士の合意によって、仲麻呂と宇比良古の婚姻が成立したと考えた方が良いでしょう。
宇比良古は後に、義母の牟漏女王を継いで後宮を取り仕切るようになります。それだけの力量がある女性です。
房前が、武智麻呂の嫡男である豊成ではなく、次男に過ぎない仲麻呂に宇比良古を娶わせているということは
房前が仲麻呂の資質を見抜いていた何よりの証拠です。

彼女が産んだ子は諸説ありますが、真先(後に執弓)と久須麻呂は宇比良古の息子とされています。
749年の仲麻呂大躍進の時に他の兄弟を差し置いて長男の真従が叙位されていますので、
彼は嫡男であり、正妻の宇比良古の産んだ息子と考えられます。
他にも、児従という娘と真文という息子が居た可能性があります。
「五人も子供が居て宮仕えとか有り得るの?」と吃驚しますが、前任の牟漏女王だって四人の子持ち。
牟漏女王の母である橘三千代は前夫との間に三人の子供を産み育てながら珂瑠皇子の乳母となり、
藤原不比等と再婚してから光明子を高齢出産。その身で同時期に生まれた首皇子の乳母もやってのけます。
女には男と同じ仕事はできないけれど、女にしかできない仕事がある。
男性と女性の仕事が分かれていたからこそ、こういうことができるのでしょうね。
今の日本社会では女性が高度経済成長期から続くサラリーマン生活に従って生きろと言われているのですから、
そりゃ家庭や子育てと仕事の両立なんて無理に決まってるだろ、と夕陽さんは常々思っています。

おっと脱線しました。仲麻呂の家族の話でしたね。
仲麻呂の妻には古くからの豪族である大伴氏の娘も居ます。古くからの豪族と言えば聞こえは良いですが、
蘇我氏や物部氏、その後藤原氏が台頭する中で追い落とされていく一方の一族です。
長屋王と親しくしていた大伴旅人が藤原四子によって政治的に左遷されるなど、藤原氏の風下の存在です。
彼女が産んだのは刷雄(または薩雄)と、仲麻呂の末息子の徳一です。刷雄と薩雄は同一人物ではないとの説もあります。
この息子達は、他の異母兄弟姉妹がことごとく藤原仲麻呂の乱に連座して処刑されたのに対し、死を免れています。
仏教の教えに帰依していたことが評価されたようですが、それに加えて出自の違いは見逃せません。

大伴氏の母から生まれ、藤原氏に対して複雑な思いを持ちながら育ったことで
父とは精神的に距離を置いていたはずです。それが周囲の人にも見て取れたからこそ、謀反の連座を免れたのでしょう。

そして、仲麻呂にはもう一人注目すべき妻が居ます。名は陽候女王。後の名を氷上陽候。
最初の名前が示すとおり、彼女は元々は王族でした。
父は新田部親王で、大海人皇子《天武天皇》と藤原五百重娘の間に生まれた皇族です。
陽候女王の兄弟には道祖王と塩焼王がいます。他にも二人の姉妹がいます。
道祖王は阿倍内親王の即位の後に、首皇子《聖武太政天皇》によって後継者に指名されました。
塩焼王は首皇子の娘である不破内親王と結婚しています。
というわけで、陽候女王は諸王の中でも阿倍内親王や藤原氏と近い関係にあります。
しかし、当時の身分の高い王族女性は皇族あるいは王族と結婚している事例が多いです。
藤原氏のやり手とは言え、なぜ彼女が臣下に過ぎない仲麻呂と結婚したのでしょうか。
757年橘奈良麻呂の乱によって兄の道祖王は獄死、塩焼王は臣籍降下しました。
陽候女王もこの時に王位を剥奪されていますが、仲麻呂との婚姻関係は臣籍降下以前のことのようなのです。
彼女の産んだ息子である藤原辛加知が764年の藤原仲麻呂の乱の時には
(完全に親のゴリ押しとは言え)越前守に任じられていますので、この時の彼は20歳以上です。
逆算すると、その母である陽候女王の結婚は744年以前だったはずです。
744年と言えば、例の安積親王急死事件のあった年です。
光明皇后の陰で暗躍する仲麻呂に怯えた道祖王達が彼に気に入られようとして、仲麻呂に姉妹との婚姻を申し込んだか。
あるいは仲麻呂の方が陽候女王を見初め、兄王達に金や名誉をチラつかせたのか。
どちらも陽候女王にとっては失礼な話なので、陽候女王が「できる男って超カッコいい!」と仲麻呂に惚れて、
身分の差も乗り越えて彼の妻に成りたいと猛アタックした、という可能性も残しておきたいところです。
(私の勝手なイメージですが、新田部親王の子供達は皆揃って考えが浅はかと言うか、
行き当たりばったりで派手に動いては人生をTHE ENDにしているという残念な人々なのです。)
陽候女王の母の出自は一切わかっていませんが、臣下の若造に過ぎない仲麻呂との結婚が認められている点からして、
身分の高くない女性だったのではないかと思います。

この三人以外にも仲麻呂の子を産んだ女性が居ます。子供の居ない相手も含めたら、かなりの数になりそうです。
やれやれ、仲麻呂の女性関係は相当派手だったのではないでしょうか。
そのせいで私は、彼の子供を把握するために系図Bを作る羽目になったわけですからな。
仲麻呂は阿倍内親王と恋人関係にあったとも言われています。
本当にそういう関係だったら、嫉妬に悶える阿倍ちゃんには「本当に愛しているのは君だけだぜ、ベイビー☆」とか何とか
絶対に言っていたと思います。政治闘争のためならそのくらいの嘘はさらっと吐くでしょう、彼は。


さて、749年に阿倍内親王が即位してからの数年は完全に光明皇后・藤原仲麻呂チームの圧勝でした。
二人は朝廷に残る敵を着々と追い落とし、政治の中心に味方を集めます。
手始めは750年、阿倍内親王の家庭教師であり、橘諸兄や玄ムと共に藤原四子没後の政権を担った吉備真備を
筑前守として九州に追いやります。実質、左遷ですね。
続いて752年には亡き房前の四男である藤原清河を正使とした第十次遣唐使を派遣します。
ここにも吉備真備が大伴古麻呂(彼も反仲麻呂派)と共に副使に任命され、真備はまたもや朝廷から遥か遠くへ追いやられます。
なお、仲麻呂は自分の六男である刷雄も留学生としてこの遣唐使に加えています。
祖父の不比等も三男の宇合を遣唐使として送り込んでいますし、そもそも正使の清河は仲麻呂の従弟です。
刷雄の唐行きも左遷ではなく「勉強して来い」という父の命令だった可能性が高いですが、
先述の通り刷雄は大伴氏の娘が産んだ子で、さらに彼は仲麻呂の処刑後も生き長らえています。
命の危険が伴う遣唐使メンバーに加えられたのは、仲麻呂に軽視されていたから、と考えることもできます。

そんなことをしている間に、同じ752年に東大寺では大仏開眼供養会が行われます。首皇子《聖武太政天皇》の悲願です。
その夜に阿倍内親王は御在所を田村第(たむらのだい)とします。
御在所は文字通り「天皇が居る所」なのですが、「天皇の住まい」ということなのでしょうね。
興味深いことに、田村第を御在所とする前の阿倍内親王は、父の首皇子と同居していたらしいのです。
ということは、「ノイローゼで隠居したパパの悲願のセレモニーが無事終わって、ママも一安心。
後を継いだ娘も一安心で、セレモニーをお膳立てした長年の彼氏の家に押しかけちゃった」ってことですか?
仲麻呂47歳、阿倍内親王34歳。いい歳した大人がわかりやすく何をしてるんだ……と思わんでもないですが、
阿倍ちゃんとしては父から押し付けられた宿題をやっと終わらせたような気分だったのかもしれない。

754年には首皇子の母、藤原宮子が亡くなります。(ちなみに玄ムは745年に失脚し、翌年死去しています。)
その翌年の755年頃から、仲麻呂はまたもや陰謀による政権統制を開始します。
755年に「橘諸兄が酒の席で、首皇子について失礼なことを言った。謀反の疑いあり」との密告があります。
病の床にあった首皇子は問題にしなかったのですが、翌年の756年に諸兄は発言の責任を取って辞職してしまいます。
同じ年に首皇子《聖武太政天皇》は崩御します。
藤原四子亡き後は一時栄華を極めた諸兄ですが、仲麻呂に追い詰められ、最後は完全な負けを悟って政界を去りました。
その翌年757年、諸兄は失意の内に亡くなります。

こうして仲麻呂は、真備と諸兄という首皇子の政治を支えた宿敵をあの手この手で追い出しました。
真備は阿倍内親王の師匠ですし、諸兄は光明皇太后の異父兄。そして二人ともベテランの政治家です。
首皇子が存命中ということもあり、仲麻呂としても強硬手段を用いて追い落とすことは躊躇われる段階でした。
しかし、これから先の仲麻呂は怖いもの知らずです。誰も彼の行動を制約するものはありません。
天皇である阿倍内親王は仲麻呂の言いなりです。
仲麻呂を制御できるとしたら、これまで彼を手駒にして陰謀を形にしてきた光明皇太后だけでしょう。
しかし、彼女が仲麻呂を諌めた形跡はありません。その理由を推測すると……

彼女にはもう、その気力はありませんでした。
光明皇后にとっての首皇子は、夫というだけでなく、自分自身の存在意義でもありました。
両親の藤原不比等と橘三千代は首皇子の誕生に合わせて自分を誕生させ、未来の妃として首皇子と共に育てました。
兄の藤原四子は非道な手段で彼女を皇后の位に押し上げました。
家族の期待に応えて、彼女も首皇子のパートナーとしての藤原氏をあの手この手で盛り立ててきましたが、
首皇子を失ったことで緊張の糸が切れてしまったのでしょう。


と、推測できるかと思って色々調べてみましたが、どうもそんな事実は微塵もなかったらしい。
仲麻呂を諌めるどころか、ここからが彼女の本領発揮です。
まずは自らが提案して、首皇子が生前に愛用していた品々を東大寺に献上します。これが正倉院の始まりです。
宝物を納めただけならともかく、どうやら武器も保管されていたというからきな臭い。
(この武器が764年の藤原仲麻呂の乱で持ち出されて、一部は返却されていないという記述があるそうです。)
また、皇后付きの紫微中台の長官である紫微令を紫微内相と改めます。この役に就いているのは勿論、仲麻呂です。
このことで紫微中台は太政官(だいじょうかん。律令政治における政治・行政の中枢期間)と同等の権限を持つ機関に発展し、
太政官や中務省を経ずに、天皇の勅命だけで動くことができるようになったのです。
つまり阿倍ちゃんに勅命を出させれば、あとは紫微中台で好き勝手に動けるというわけです。
律令政治を自ら壊しまくって、紫微中台に権力を集めたわけです。
光明皇太后が仲麻呂を手駒にしていたのか、それとも仲麻呂が光明皇太后を操っていたのか。
いやいや、利害の完全一致によって共謀していたと見るべきか。妄想は尽きません。

この状況下で起こったのが、757年の橘奈良麻呂の変でした。
奈良麻呂は同年に亡くなった諸兄の息子です(系図Aに居ります)。橘三千代は、彼の父方の祖母に当たります。
また、奈良麻呂の母は藤原多比能といいまして、藤原不比等の娘です。
その母は橘三千代とされていますので、多比能は光明皇太后の実妹ということになります。異説もあるようですが。
つまり奈良麻呂は父方を見ても母方を見ても、光明皇太后に非常に近い血縁だったと言えます。
しかし、異父兄の諸兄すら追い払ってしまった光明皇太后です。妹の産んだ子であろうが容赦なく排除しました。
彼女と仲麻呂はこの757年という1年間を使って、一気に権力を確立したのです。詳しく見てみましょう。

まず、首皇子の遺志によって皇太子となっていた道祖王(ふなどおう)が廃嫡されます。
道祖王は藤原氏の血を引く新田部皇子の、そのまた息子です。前述の仲麻呂妻の一人、陽候女王の兄弟ですね。
理由は近習の少年と淫らな行為に耽ったかららしいです。
替わって皇太子に立てられたのが、新田部皇子の異母弟である舎人親王の息子、大炊王(おおいおう)です。
彼自身はまったく藤原氏の血脈ではないのですが、この立太子によって仲麻呂は大きな利益を得ることになります。
系図@の通り、仲麻呂には正妻の袁比良古との間に真従(まより)という長男が居ました。
しかし真従は早くに亡くなってしまい、妻の粟田諸姉(あわたのもろね)が遺されます。
息子の未亡人を仲麻呂は利用しました。大炊王に諸姉を娶わせて、自分の屋敷である田村第に住まわせていたのです。
藤原氏の血を引かない大炊王としても、飛ぶ取り落とす勢いの仲麻呂と縁戚になれる素晴らしい案だったことでしょう。
関係があるかはわかりませんが、大炊王と仲麻呂には血筋的な共通点もあります。
大炊王の父の舎人皇子の母は新田部皇女(にたべのひめみこ)といい、葛城皇子《天智天皇》の娘です。
この新田部皇女の母は橘娘といいまして、阿倍内麻呂の娘です。つまり阿倍氏の影響下にあるわけです。
仲麻呂の母の貞媛も阿倍御主人の娘です。この御主人は内麻呂の息子です。つまり……
すみません、やっぱり仲麻呂の母方も家系図を描きます。

阿倍内麻呂         田村皇子《舒明》==宝皇女《皇極・斉明》
 |____________     ____|____
 |            |   |         |
御主人          橘娘==葛城皇子《天智》   |
 |             |            |
真虎あるいは貞吉      新田部皇女==大海人皇子《天武》
 |                 |
貞媛==藤原武智麻呂       舎人皇子==当麻山背
  |_____             |
  |     |           大炊王
 豊成    仲麻呂           |
                 山於女王、後に阿倍内親王

大炊王の方は娘を阿倍内親王と改名させる程度に、阿倍氏の影響下にあったようです
仲麻呂が自身に流れる阿倍氏の血に関心を払っていたかは怪しいところですが、
他の藤原氏の勢力との差異をつけるために、阿倍氏を配下に取り込もうとした可能性は有ります。


続きまして、仲麻呂の次男の真先と四男の朝狩が役職を貰い、従五位下となります。
長男を失った仲麻呂にしてみれば、朝廷内で自分の勢力を確立するためには、他の息子達の出世を急ぐ必要がありました。
5月には軍事権を掌握する紫微内相をという役職を新設して、仲麻呂が自ら地位に就任します。(前述)
そして、祖父の不比等が40年も前に編纂して放置されていた『養老律令』を突然施行しました。

このタイミングで橘奈良麻呂の謀反計画が発覚します。
それが仲麻呂が足場を固めた途端に発覚するなんて、奈良麻呂が焦ったのか、仲麻呂が敢えて奈良麻呂を焚き付けたのか、
あるいは謀反計画そのものが仲麻呂によって仕組まれたのか……妄想は尽きませんが、順を追って見ていきましょう。

実は奈良麻呂は反藤原氏・反仲麻呂の仲間集めを、父の諸兄の存命中から行ってきました。
彼は「民衆はいまだに続く東大寺の造営にこき使われて苦しんでいる。彼らを助けよう」と謀反を正当化していましたが、
声を掛けられた大伴氏や佐伯氏は最初は色よい返事をしませんでした。
しかし仲麻呂のやりたい放題に次第に不満を募らせた彼らは、ついには奈良麻呂を筆頭にして、謀を巡らすようになります。
これに対して仲麻呂の動きは早かった。
6月には「豪族諸君、勝手に集まってはいけません」という布告を出し、更に主だった人物を異動、いや左遷します。
奈良麻呂側に痛手だったのは、軍事のエキスパートである大伴古麻呂が陸奥鎮守将軍として遠く奥州に飛ばされたことです。

そこへ密告がありました。密告者は山背王(やましろおう)と言い、長屋王の遺児であり、仲麻呂の従弟でもあります。
(山背王の母は、藤原不比等の娘である長娥子です。)
彼は藤原仲麻呂殺害計画を告白し、その計画を大伴古麻呂も知っていると告げたのです。
その噂を聞いた阿倍内親王と光明皇太后は「謀反など有り得ない」と荒事にしないことを望みました。
6月28日、光明皇太后は呼び出された奈良麻呂以下、謀の首謀者達に対して親族の情に訴えかけて、
「噂は嘘に違いない。お前達を信じています」と諭したのです。
あの陰謀にまみれた光明子さんがどうしちゃったのかしら???と思わないでもないのですが、
彼女の危惧は仲麻呂にあったのではないかと思います。
仲麻呂を導き、時に利用してきた光明皇太后ですが、自分の手に負えないくらい仲麻呂に権力が集中したことに
危機感を募らせたのではないでしょうか。ここは皇太后の権力でガツンと納めようとしたのではないかと。
しかし、仲麻呂はその意図をぶち壊すように、敵を一網打尽にしてコテンパンにしてしまいました。

7月2日、仲麻呂の元には更に密告者がやってきて、具体的な計画を暴露しました。
この暴露によって、7月3日に小野東人(おののあずまびと)という者が仲麻呂に捕まり拷問されます。
拷問に耐えかねた小野東人の自白により、こんな計画が明らかになります。
・藤原仲麻呂を殺害する
・大伴古麻呂は病気と称して不破の関(現在の三重県)に留まり、関を固める
・光明皇太后が持つ玉璽(天皇の印鑑)と駅鈴(宿所を自由に行き来できることを証明する鈴)を奪う
・阿倍内親王を天皇の位から下ろす
・皇太子である大炊王を廃嫡する
・元皇太子の道祖王か、長屋王遺児の安宿王(あすかべおう)か黄文王(きぶみおう)を皇太子に立てる

そして奈良麻呂以下、一味はことごとく逮捕されます。
橘奈良麻呂、大伴古麻呂、黄文王、道祖王は獄死。安宿王は佐渡に流罪となります。
また陸奥守の佐伯全成(さえきのまたなり)は奈良麻呂から再三誘いを受け、拒絶していたにも関わらず、
新たに陸奥守に任じられた朝狩によって拷問を受けた末に陰謀を知っていたことを自白し、自殺しています。
処罰された人は443人にも上ったのだそうな……
この処罰された中には、仲麻呂の実兄である右大臣・藤原豊成も含まれていました。
豊成は奈良麻呂から誘いを受けていたわけではありません。
しかし、奈良麻呂の陰謀を察していたのに右大臣として何も手を打たなかったとして、左遷されたのです。
余談ですが、このときに難を逃れた塩焼王(道祖王の兄弟。阿倍内親王の異母妹である不破内親王の夫)は、
王族であることを恐れを為したのか氷上塩焼と改名して、臣籍降下しています。
恐らく姉妹の陽候女王(仲麻呂の妻の一人)も同時期に臣籍降下して、氷上陽候となったと思われます。

この事件と前後して、仲麻呂は四男の朝狩を陸奥守に任じます。
黄金の産出地帯でもあり、東大寺の大仏に塗ってあった金は陸奥のものだそうな。
つまり陸奥守は経済的に美味しい地位であったわけですが、仲麻呂の狙いは別にありました。
一つ目は軍事力です。陸奥守は蝦夷討伐のために多大な軍事力を掌握しています。
反仲麻呂派が行動を起こした場合に備えて、合法的にかつ自在に動かせる軍事力を手に入れたわけです。

こうして邪魔者を排除し、一層権力を強めた仲麻呂は翌年にいよいよ仕上げに入ります。
阿倍内親王を譲位させて、息子同然の大炊王《淳仁天皇》を即位させました。
そしてもう一つ、彼はあることを強行します。
大炊王より賜るという形で「藤原恵美 押勝(ふじわらえみのおしかつ)」と名を改めたのです。
これまで名乗っていた「藤原」の姓に「恵美」の文字を付けるのは、仲麻呂と一家にだけ許されました。
つまり同母兄の豊成ですらこの姓は該当せず、仲麻呂が自身の血筋のみを高等な存在へと引き上げさせました。
そして次男坊を意味する「仲麻呂」の名を捨て、「押勝」と名乗ったのです。
親から与えられたこの名前が仲麻呂にとってどれだけ屈辱的なものだったのかが、よく表れていますね。
とは言え、ややこしいのでこの考察は「仲麻呂」で続けます。

それから二年、彼は絶頂期を迎えます。
760年には太子という唐風の名の地位に就くのですが、これは太政大臣と同格なのだとか。
太政大臣という地位は飛鳥時代の近江朝で初にお目見えした地位で、まずは大友皇子が就き、
その後に飛鳥に都が戻されてからは高市皇子が就いたという、皇太子と同格かその下ぐらいの立場です。
はい、おかしいですね。大友皇子も高市皇子も皇族ですが、仲麻呂は一滴も皇族の血を引いていません。
それを唐風に改めて誤魔化しつつ、大炊王を操って、実質の皇太子格に自ら上ってしまうわけです。
あーもう、これはやっちゃった感が満載ですねえ。
これまでの権力者の立場を思い返してみてください。
かつて専横政治を振るったと言われている蘇我氏も、自ら大王に成り代わろうとはしませんでした。
娘を大王や有力な皇子と娶わせて、大王の身内である臣下として権力を得たに過ぎません。
蘇我入鹿は「大王に成り代わろうとした」と葛城皇子《後の天智天皇》に糾弾されたと伝えられていますが、
実際には従兄弟である古人大兄皇子を表に立て、彼を宝皇女《皇極天皇》の後に据えようとしていました。
中臣鎌足はあくまで裏方に徹して、葛城皇子を前面に押し出しましたし、
藤原不比等は蘇我氏と同じ手を使って、孫の首皇子《聖武天皇》を天皇にする為にアレコレ画策します。
つまり、皇室の乗っ取りというタブーを画策したのは仲麻呂だけなんです。
これは一概に仲麻呂を責められない事情もあります。
仲麻呂は中国(この時点では唐)の政治に精通していました。
中国は殷・周・秦・漢〜と受験生泣かせなフレーズでお馴染みの通り、乗っ取り乗っ取られで王朝が交代しています。
「同じことをやって何が悪い! いつまでも皇室を立てているから我が国は進まないんだ。これは国のためだ!」
と、鼻息荒くのたまっている仲麻呂の姿が目に浮かびます。

同じ760年に仲麻呂はある歴史本を編纂させています。
その名も『藤氏家伝』(上巻)。藤原氏の、藤原氏による、藤原氏のための伝記です。
書かれているのは、中臣鎌足とその二人に息子、定恵と藤原不比等のスバラシサについて。
自分の先祖は素晴らしいので「つまりその子孫である俺様ってスゴイんだぜ☆」と言いたかったんでしょう。
この三人の内、仲麻呂の祖父に当たる不比等は『日本書紀』編纂に深く関わっています。
『日本書紀』は元々は大海人皇子《天武天皇》が編纂を命じたとされているのですが、
完成はその死後三十年以上経った720年。
これは不比等の没年にもあたるわけですが、藤原氏の権力下に書かれた、藤原氏に都合の良い『正史』というわけです。
(あくまで正史とされているだけで、突っ込み所はかなり多い。頭から信じちゃ駄目ですよ)
仲麻呂は『日本書紀』の歴史に沿いながら『家伝』という形で自らの血筋の正統性を飾り立て、
自分がいかに優れた一族から出ていて、王に相応しい人物であるかを世に知らしめようとしたのです。

しかし、この760年という年は仲麻呂の未来に大きな陰りを落とした年でもありました。
仲麻呂の能力を最も認めて重用した人物、光明皇太后が崩御したのです。
橘の奈良麻呂の乱で彼女の介入を無視したことからわかるように、仲麻呂は既に彼女の手綱から離れていました。
光明皇太后が居なくても問題ない、むしろ目の上のたんこぶが消えたような気分だったことでしょう。
同じ年にもう一人、仲麻呂が懇意にしていた異母弟である乙麻呂が死去しました。
乙麻呂は仲麻呂政権下で式部卿(軍事面のトップ)を担当しており、仲麻呂の有力な賛同者でした。
仲麻呂には痛い喪失でしたが、それも他の賛同者を代わりに就ければ良い。仲麻呂にはその程度の話でした。
しかし、この思い上がりと勘違いが仲麻呂に最大のミスを犯させてしまったのです。

(2017.2.5 「悪人 藤原仲麻呂」 続く)

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