阿倍ちゃんの縁の地巡り紀行(2012.5.1)


2012年のゴールデンウィークは9連休でございました。有り難いことです。
昨年2011/5/1の大津京巡りに続いて、今年も晶さんにお声掛けいただきましたvv
晶さん、本当にいつも有難うございます!
今年は夕陽提案で「阿倍ちゃんこと阿倍内親王(孝謙/称徳天皇)の縁の地巡り」と相成りました。
晶さんは阿倍ちゃんと藤原仲麻呂のお話を執筆なさる予定で、私もいまだ仲麻呂考察に苦戦中……
お互いに阿倍ちゃんに縁のある時期と言うことで、「平城京&西の京周辺を回ってみよう!」ということになりました。

と言うわけで、GW前にせっせと予習。
阿倍ちゃんの縁の地!と言い出した割に、どこが彼女の縁の地なのか知りませぬ……
西大寺は縁のお寺らしいとは知っているのですが、それ以外は皆無でございます。ヤ〜バ〜イ〜。
ネットと仏像本を必死に調べて愕然……だってだって、縁の地が少なすぎるんですけど!
阿倍ちゃんを調べているのに、出てくるのは何故か「光明子」「光明皇后」「藤三娘」。
全部、阿倍ちゃんのママの光明子さんのことです。
ちょっと阿倍ちゃん! あなた、知名度で完全にママに負けてるわよ!!
そんなことを心で叫び、晶さんにもメールでぼやきつつ(すみません…)、平城京周辺から西ノ京へ回るルートに決まりました。

朝は近鉄奈良で待ち合わせて、電車で新大宮へ。そこから海龍王寺へ向けて北向きにてくてく歩く。
雨の合間の日だったので念のため徒歩+近鉄周遊切符を使いましたが、晴れていたらレンタサイクルがいいですね。
坂が少ないし、バスはあまり無いし、5月なら風が気持ち良いし……という目論みは見事に裏切られました。
暑い! 本当に今日は5/1かい!?ってくらい、日差しの強い日でございました。
しかし風は強く湿気ており、途中で雨が降らないか気が気じゃありませんでした。(ちなみに翌日は大雨でした。)
徒歩で回ると時間はかかりますが、歩きながらお喋りができるので良いですね♪
晶さんは前日、大波乱のあったGIレースに行っていらっしゃったそうで、面白い話をいっぱい聴かせていただきました。
なんでも競馬の勝敗予想は血統で読むのだそうな。家系図好きの私が興味を惹かれないはずがない!(大笑)
母方のお祖父さんの血が重要なんて、まさに天皇と外祖父の関係でございます。
例えば阿倍ちゃんと不比等、あるいは首皇子(聖武天皇)と不比等の関係ですなあ。うふふ、面白い。

【海龍王寺】
さて、まずは海龍王寺です。
さて、入り口どこだ? とってもわかりにくい入り口を探すこと暫し。
民家らしき 周囲の塀に埋もれる参道らしきものを発見。両脇を鬱蒼と茂る木々と塀に囲まれた、不思議な雰囲気です。
奈良のガイドブックにも載る、そこそこ有名な所ではありますが、小さいお寺ですし、
東大寺やら薬師寺やら有名所とは場所が離れているせいか、騒がしいお客さんもいない。落ち着いています。
そんなマイナーな所ですが、奈良時代好きとしては絶対に外してはいけない場所なのです。
ここには光明皇后をモデルにしたという十一面観音像があるのです。ハイ、早速阿倍ちゃんではありません。ママです。

それはともかく、この観音様は普段は見られないのですが、ちょうど特別開帳期間の初日でした。グッドタイミング、わたくし達☆
この観音様がなかなかお洒落です。エキゾチックなアクセサリーを沢山身に着けて、くびれた腰もセクシー。
肌は金泥という金色の塗料。落ち着いた輝きを放っています。左手には赤い花をお持ちです。
しかし、それよりも何よりも光明子さんを彷彿とさせるのは、意志の強そうなお顔です。
跳ね上がった眉、相手を静かに見据える切れ長の眼差し、固く引き結ばれた唇。
正に光明子という感じですねえ、と晶さんと感嘆。無論、光明子さんに逢ったことはありませんが、イメージぴったりです。
仏像なのに温かみよりも強さ、賢さ、冷静さ、そして冷徹さすら感じさせるのは私の偏見でしょうか?

また、光明皇后が写経したとされる般若心教が弘法大師の写経したそれと並べて展示されていました。
弘法大師はさすがに三筆のお一人、とても綺麗な字を書かれますね。
それと比較して、光明子さんの文字のなんと角張っていること! 力強いこと!!
この筆跡についても、晶さんと「光明子さんの性格が出てますよね〜」と意見が合致しました(大笑)
阿倍ちゃん筆の何かが現存しているのかどうか知りませんが、あるなら見てみたいです。
ママとは対極的な丸文字だったんじゃないかしらね〜(笑)

この海龍王寺という名前、奈良なのに何で海?と思ったのでネット検索。
何でも遣唐使だった玄肪が初代住職で、彼が唐から持ち帰った「海龍王経」なるものが名称の起源であるようです。
玄肪と言えば、首皇子の母、光明子さんの異母姉の宮子を産後の長いノイローゼ(?)から解放したお坊さんですね。
この後に行く予定の法華寺が藤原不比等の屋敷跡であったこと、宮子がそこで暮らしていたらしいことを踏まえると、
玄肪がいつでも宮子の処に馳せ参じることができるように、藤原氏は彼に近場のお寺に住まいと職場を与えたのでしょうね。
そもそも、海龍王寺も不比等邸の一部だった時期があるそうです。
元々は飛鳥時代に毘沙門天(四天王の内、北を司るお方)を祀るお寺があって、平城京遷都に伴い不比等邸に吸収されたのだとか。
平城宮の北東隅にあるので、「隅寺」とも呼ばれるそうです。
中国の思想では東西南北で一番偉いのは北とされていますが、平城宮の「北東」に屋敷を陣取って、
しかも宮を守る「隅」は自分の家です、って不比等が主張しているような気がする。気のせいかしら??

【法華寺】
海龍王寺を出て、お次は同じく不比等邸跡である法華寺です。
こちらは元からお寺だったわけではないです。不比等&三千代夫妻の死後に、二人の娘である光明子さんが
屋敷の敷地を尼寺の親玉(総国分尼寺)「法華滅罪之寺」を創ったのであります。
「すべての人を罪から救うために」という建前なんでしょうが、光明子さんの本音は「仏よ、私を救いたまえ」なんでしょうよ。
長屋王の変、橘諸兄失脚、橘奈良麻呂の変、安積親王の急死、etc.……彼女が関わったと思われる事件は多数ございます。
ええ、推測ですよ。証拠なんて可愛らしいものを光明子さんが残すはず無いですからね(←偏見)

さてさて、現在の法華寺の敷地はあくまで不比等邸だった場所の一部です。
受付の住職さんによると、平城宮の北東一面はほとんど不比等の土地だったそうです。(南面は長屋王&吉備内親王邸でした。)
うーむ、今の法華寺にしたって寺の知名度と規模からすると、相当広いです。不比等、土地を取り過ぎだ。
敷地内には庭園があったり池があったり、光明子さんの慈善事業の象徴「からふろ」もここにございます!

「からふろ」というのは、光明皇后が「天然痘の恐怖から都を救う」という建前で行った
慈善事業『千人施浴発願』の施設、要するに「蒸し風呂」です。
何でも仏様のお告げに従って法華寺に蒸し風呂を作った光明皇后は「我、自ら千人の垢を去らん」と言って、
訪れた人達の垢をせっせとこすって落としていたそうな。
そして、千人目に全身が膿だらけの病人がやって来て、 彼の求めに応じて光明皇后が口で膿を吸い出してあげると、
ナントその人は如来に変身!(いや、元の姿に戻ったのか)
「あなたの願いは叶いました」と言って、光りながら去って行ったとか……なんと嘘臭い。
そもそも他人の垢落としなんて、光明子さんは絶対やらないでしょうが!
光明子さん自ら施浴を行った事実があるのだとしたら、私は彼女に言いたい。
「仕事しろ。あんたの仕事は政治だ。自分を救うための慈善事業なんぞ、考えるでない」って。
ちなみにこの「からふろ」は修復されながら現役なんだそうです! 1200年以上も!?
毎月6月には信者の方向けに体験施浴があるそうな。

庭園は季節外れだったのか、お花があまり咲いていなくて残念。
光明子さんを模したという木像十一面観音も、この時はレプリカ展示でした。
それにしても、こちらの観音様は海龍王寺の金ぴか十一面観音様とお顔がそっくり!
うむ、光明子さんってこういうお顔だったのね、とまじまじと拝見いたしました。

【平城宮跡・称徳天皇陵】
次は阿倍ちゃんの古墳、称徳天皇陵です。
法華寺からひたすら西へ西へ平城宮跡を突っ切っていきます。
平城京という名前は有名ですね。千年の都である平安京と並んで、日本人なら誰もが知っている名前でしょう。
でもね、ここが都だった時期は短いです。元明天皇(阿部ちゃんのひいおばあ様)の御世の710年から
元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁、桓武と8代7人の御世の都だったのですが、
長岡京への移転騒動を挟んで794年には平安京へと遷都していますから、百年に満たない。
しかし都を作った藤原不比等は永遠の都であるように、そして永遠に政治の中心であるようにと、
願いと執念と半ば呪いも込めて、この都を作り上げたに違いありません。
おかげさまで平城宮は広々と立派なものだったようです。
現在「平城宮跡」として整備されている部分の横幅だけで1.3kmくらいかな。バス停にして2区間分。
バス通りを真っ直ぐに突っ切れるのですが、折角なので途中で平城宮に進入。
整備しているとは言っても「ここは史跡です」と区切っているだけなので、草茫々の荒地状態。
靴の中に土とか砂利とか草とか色んな物が入ってきて大変でした。運動靴で行くべきだったな。
(そういえば1年前に行った大津京跡は、完全に空き地状態でした。あれに比べれば、
南大門と宮殿だけでも復元して、大型観光バスでも来られるようにしている平城宮跡のほうが史跡らしいです。うん。)
宮殿の屋根の両端には金ぴかの魚の尻尾、と言うか下半身だけみたいな飾りが乗っています。
晶さんと「あれ、何だろう?」「シャチホコみたいだけど、頭が無い」と首を捻っておりました。
後で調べたところによると、『鴟尾』と書いて『しび』あるいは『とびのお』と読むそうです。
魚が水に飛び込んでいる姿=火災除けのおまじない、という説があるらしい。
シャチホコの原型とも言われているんだそうな。わかりやすいですね。

さて、法華寺から2kmほど歩いて、秋篠側沿いに北上すると称徳天皇陵です。
その古墳はひっそりと在りました。周囲には目ぼしい物は何もありませんでした。広々として、とても静かです。
父母の陵は近鉄奈良駅の北側で、東大寺に近い位置にあります。ここから6kmくらい離れていますね。
夭折した実の弟の墓は現在の東大寺三月堂ですので、さらに通り場所になります。
こんな寂しい所に一人葬られたのは本人の意思だったのか、それとも違うのか。私は前者だと思います。

この近くに彼女自身が発願した西大寺があります。この近くに眠りたかったのではないでしょうか。
父である聖武天皇が平城宮の東側に東大寺を作ったのに対し、阿部ちゃんは北西側に西大寺を作りました。
その発願理由は「鎮護国家と平和祈願」。何から守るのかと言うと「恵美押勝=藤原仲麻呂から」。
恵美押勝の乱への戦勝祈願です。「仲麻呂に勝てたら寺を作って四天王様を祀ります」ということだったらしい。
大阪の四天王寺も厩戸皇子が似たようなことを言って発願したはず。四天王の寺はそういう類なのでしょうかね。

【西大寺】
と言うわけで、西大寺に到着。昔は東大寺に対するだけあって広大な敷地を誇っていたようですが、
度重なる火災と興廃でその多くが失われました。今はぐるっと散歩するのにちょうどいいくらいの広さです。
東大寺は観光客が多いし、ずうずうしい鹿も多いので、あまり行きたくないのですが、
それに対して西大寺の静けさと穏やかさの素敵なこと! 奈良旅行には是非こちらへ!!

【唐招提寺】
さて、大和西大寺駅で近鉄に乗って尼ヶ辻駅へ。次の目的地は唐招提寺です。
と、その前に寄り道。晶さんのリクエストで近鉄線を挟んで唐招提寺とは逆側の垂仁天皇陵へ。
垂仁天皇とは日本武尊の祖父にあたる人です。で、垂仁天皇の墓の濠には田道間守の墓とされる小島があります。7
田道間守は垂仁天皇の命令で、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めて常世の国に行き、
果実(橘の実)を得て帰って来たら、天皇は既にお亡くなりになっていました、という伝説の人です。
その話は知っていたのですが、垂仁天皇という名前は記憶しておらず、まさかこんな所に墓があるとも思わず……
晶さんはとても広い知識をお持ちなので、ご一緒させて頂くたびに勉強になります! 本当にありがとうございます!!

さてさて、夕方になってきて少し涼しくなった辺りで唐招提寺へ。こちらはなかなかの広さです。
2009年に大修理が終わったばかりということで、改修の様子のパネル展示もありました。貴重!
特に夕陽さんが大興奮したのが、十一面千手観音像です。
大小合わせて、本当に千本の手があるんですよ! 小さい手にもちゃんと指がある!!
大修理の時には手を一本一本外して修理したとかで、手を外して並べた時の写真もありました。
気に入りすぎてお土産店で絵葉書を買ってしまいました。(家族に見せたら、悪趣味って言われた……ちぇっ!)
こちらのお寺の屋根にも鴟尾があります。いや、平城宮の方は想像した復元だから、
唐招提寺の方は鴟尾が現存しています、と言うべきですかね。

唐招提寺は鑑真が開祖ですね。日本からの要請に応じて渡航しようとするものの、何度も失敗。
6回目にしてようやく来日を果たしたという方です。
しばらく東大寺に居た後、759年に新田部親王の旧宅地を下賜されて、そこに私寺「唐律招提」を開きます。
新田部親王というと天武天皇を父に、藤原不比等の異母妹である五百重娘に持つ親王です。
天武天皇の死後に母は異母兄の不比等との間に、不比等の四男となる麻呂を産みます。心中、複雑だっただろうな。
735年に天然痘で卒去しています。
それから25年も立たないうちに旧邸宅が赤の他人の私寺用に下賜されるというのは、どうなんでしょうかね。

759年というと、新田部親王の子供達に数々の災難が降りかかった後のことです。
時は藤原仲麻呂の絶頂期。彼は阿部ちゃんの皇太子を、自分の意のままに動く大炊王にすり替えようとします。
阿部ちゃんの御世の757年に、皇太子だった道祖王は素行が悪いということで廃太子となりました。
同年の橘奈良麻呂の乱で道祖王は獄死。塩焼王は死を免れたものの、氷上塩焼と改名して臣籍降下。
758年には阿部ちゃんが譲位して、新しく皇太子になった大炊王が即位します。淳仁天皇です。
そんなこんなの759年。新田部親王には娘達も居ましたが、この邸宅には居なかったか、この後に追い出されたか。
とにかく、この邸宅を受け継ぐ資格のある皇族は誰も居ない状態で、赤の他人である鑑真に建物ごと下賜された様子。
政敵を駆逐した後、その痕跡は無かったことにしてしまったんですね、仲麻呂は。

肝心の阿部ちゃんがどうしていたのか、というのは全く資料がございません。
道鏡に昏倒していた阿部ちゃんは、彼を東大寺のお偉いさんにしたり、自分も法華寺で出家したりしていますが、
鑑真一行については関心が無かったんじゃないでしょうか。
763年には鑑真が亡くなっていますが、翌年764年は恵美押勝の乱で、混乱した時代でしたしね。

帰りはバスで西ノ京駅へ。途中で薬師寺の横を通ります。
この日は拝観時間に間に合わなかったので薬師寺に行くのは諦めましたが、
天武天皇発願のこちらのお寺もいつか行ってみたいです。

以上で阿倍ちゃん縁の地巡り紀行は終わりです。
遅いご報告にお付き合いくださいまして、ありがとうございました!

(「阿倍ちゃん縁の地巡り紀行」おわり 2014.1.19)
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