大津京巡り紀行(2011.5.1)


2011年のゴールデンウィークは10連休だった夕陽です。
ほぼ実家でごろごろしていた私ですが、5月1日には以前から計画していた嬉しいイベントが!
いつもお世話になっている晶さんと「大津京巡り」に行くのです♪
お誘いいただいたのが3月初めで、もうゴールデンウィークが待ち遠しくてたまりませんでした。
この「大津京」は実家の市内にあります。が、行ったことがございません。
市内と言っても、実家からはバスと電車を乗り継いで1時間近くかかりますので、地元って感じではないです。
そもそも天智天皇の「近江京」の場所はずっと謎とされていました。
大津市のその辺りだとわかり、「大津京」なんて言われるようになったのは本当に最近のことのようです。
しかもGoogleマップを見る限り、超住宅地のど真ん中なんですけど……本当に「近江京」の遺跡なのか、これは?

そんな大津京に乗り込んできたのは、5月の1日。雨が時々パラパラ降る、少し肌寒い日でした。
晶さんとはJRの大津京駅で待ち合わせです。
この「大津京駅」ですが、ほんの数年前までは駅の名前が「西大津駅」でしたな。
大津京の史跡が見つかって数年経った今、「ここがあの天智天皇の大津京なんですよ」とJRがアピールしてくれています。
この大津京駅の構内にこの辺の史跡を教えてくれる「大津京周辺マップ」が置いてありましたので、2枚GET!

そして晶さんと無事待ち合わせできまして、まずは「歴史博物館」を目指してテクテク歩きます。
幸い雨も止んでいて、空気も程よく冷えた感じでした。
私は数日前に東京で唐突な猛暑にうんざりしていましたので、涼しくて過ごしやすく嬉しいことです。
晶さんが仰るには、晶さんは雨女なのだとか。雨乞いに参加できますね、と二人で大笑い。
いやいや、それは貴重です。飛鳥時代に皇極天皇(宝女王)と蘇我蝦夷が雨乞い対決をして、
結果は宝さんが勝ったようですが、晶さん、宝さんに勝てるかもしれませんよ!(笑)
今回、晶さんは真人くん(中臣真人、鎌足さんの長男)が開いたと伝えられる桑実寺にも行きたいと仰っていたのですが、
大津と安土は遠い……今度、車で行きましょう!の候補地です。本気で運転の練習をしなきゃ!
真人くんの話の流れで、鎌足さんの子供の少なさが話題になりました。
私も去年考察して初めて知りましたが、男女合わせて6人しかいないんですよね。(参照「鎌足さん家の家庭事情」)
まあ、鎌足さんが偉くなったのは中年期以降だったので、あちこちの豪族から縁談を持ち込まれるということも
なかったんじゃないかとは思いますが、それでも息子は真人くん(出家して定恵)と史(藤原不比等)だけですからね。
でも、晶さん曰く、「鎌足さんのイメージにピッタリ!」とのこと。まったくもって同意です!
好色な鎌足さんとか、絶対に想像できませんわ。私生活についてはストイックな感じのお人だったに違いないです。


さて、10分ほどは歩いたでしょうか、標識を頼りに山の上の方へ歩いていくと、山際ギリギリにありました。
歴史博物館なのに、書の市民展覧会みたいなものもやっている様子。謎。
ここで大津京のお勉強をしてから史跡へ行こう!と思ったのですが、大津京に関する資料はあまり多くなく、
しかし近江八景や比叡山延暦寺関係の展示もいっぱいあって面白かったです。
(入り口でニンテンドーDSを使ったガイドを貸してくれます。便利な世の中になったもんだ〜)
琵琶湖と緑豊かなの山のおかげで喰うには困らなかった近江の地には、昔の集落の跡も多いようです。
飛鳥奈良時代には大津京(天智天皇)、紫香楽宮(聖武天皇)、保良宮(淳仁天皇)といずれも短命ながら宮殿が置かれ、
藤原仲麻呂も北陸へ繋がるこの地を重視して、息子達をこの地を司る責任者に配置しています。
平安時代には比叡山を挟んで西側にあたる京都に都が引っ越してきたこともあり、文化的にな舞台にもなります。
比叡山には最澄が延暦寺を開き、石山寺では紫式部が源氏物語を執筆したと伝えられています。
室町時代には比叡山と日吉大社の門前町として栄えたらしいですね。
戦国時代で言えば、大津市から遠いですが、織田信長の安土城、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の長浜城、
浅井長政の小谷城などなどの有名所がいっぱいです。
石田光成も近江の石田村出身らしく、彼の佐和山も彦根の近くにあります。(ひこにゃんも滋賀県産)
しかし、都に近いということは戦乱も多いということで、数々の戦場の舞台ともなっています。
飛鳥時代最大の戦乱となった壬申の乱。大友皇子の終焉の地と言われる場所がこの辺に幾つかあります。
奈良時代には藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱。仲麻呂が首を取られたのが、近江の北方です。
平安時代には木曾義仲が従兄の源義経の軍勢に討伐されたのも、琵琶湖から流れる瀬田川のほとりである粟津の地。
今年の大河ドラマの始まりは小谷城の落城でしたね。ちなみに、浅井三姉妹の次女である初は同じ近江の京極家に嫁いでいます。
京都と江戸を繋ぐ要所となった江戸時代には近江商人が活躍。行商を足がかりに、他国に店を出す方法で繁栄していったようです。
その精神を「三方よし(さんぽうよし)」と言うらしく、「売りよし、買い手よし、世間よし」なのだとか。
そう言えば、滋賀県発祥の企業は少なくないですね。たねや(クラブハリエ)、近江兄弟社、ヤンマー、etc…。
西武、高島屋、ワコール、伊藤忠商事を創った人達も近江の出身だと聞いたことがあります。魂の継承ですねえ。
おっと、滋賀県の紹介になってしまった。思わぬところで地元愛(?)を発揮。
いやいや、滋賀県好きですよ、現知事はお洒落で可愛らしい素敵なおばちゃまです(←そこかい!)
あと、大津絵が可愛かったです。鼠に怯えて柱にしがみ付く鬼の絵があって、そのユーモアが好きですわ。
近代史だと、ロシア皇太子(後にロシア革命で銃殺されるニコライ二世)に巡査が突然切りかかったという大津事件の展示も
実に興味深かったです。極刑を求めた日本政府に対して、裁判長は一歩も譲らず終身刑を決めたのだとか。

肝心の大津京の展示はまずは復元模型から拝見。
うわー、本当に住宅地の中ですわ。だって、模型の中にも今実在の家が建ってますよ!
どうやら見つかったのは史跡のほんの一部のようで、模型もほとんどが想像図なんですね。
更にこのブースにはちょっと目を見張ってしまったものが…
 (パンフレットより)
なんと鎌足さんの復元模型…じゃなかった、なんて言うんだろう? 想像図マネキン?
何でも鎌足さんの墓とも言われている阿武山古墳から出てきた遺体を元に復元したらしいです。
私はその古墳の存在を全然知らず、てっきり鎌足さんのお墓は滋賀か奈良あたりにあるのと思っていたのですが、
晶さんが大阪府高槻市にあるという阿武山古墳の存在を教えて下さいました。
その遺体が錦の衣をまとっていたことや金糸を用いた冠(大織冠か?)も一緒に埋葬されていたことから、
この古墳は鎌足さんのお墓に違いない!とされているようです。
なんで高槻市?と疑問の沸くところではありますが、これだけの副葬品が出土した上に年齢的にも合致するようですし、
遺体の身長も当時としては相当大柄で髪も豊かだったとなると、イメージ的にも鎌足さんっぽいですな。
もうちょっと鉄面皮の仏頂面だったんじゃないか、なんて失礼なことを思っていることは誰にも言えない…(いや、言ってますが)

見所たっぷりで思った以上に楽しかったです。
それにしてもゴールデンウィークの日曜日だと言うのに、あの人気(ひとけ)の無さには驚きました。
おかげでゆっくり喋りならじっくり見ることが出来ましたが、本当に人が居なくって吃驚です。もったいないのう…
そう言えば先日、印刷博物館なる所に行って来たばかりなのですが、こちらもほぼ貸切状態でございました。
皆様、博物館と言うのは余程の企画展をやっていない限り、混まないようです。穴場ですよ、こいつは☆


博物館で思ったより時間をとってしまいまして、既に13時過ぎ。隣りの敷地にある三井寺は今回はパスしました。
いつかここもゆっくり行きたいですね。
(三井寺には天智・天武・持統の天皇三代の産湯に使われたと言う井戸があるそうなのですが、ちょっと待て。
 ここは大津です。滋賀県です。奈良県の飛鳥とは現代の電車を使っても2時間かかりますよ。
 三人ともおそらく飛鳥かその周辺の生まれのはずでは?? まさか、水を持っていったの!?)
小雨が降って来た中、次の目的地は弘文天皇陵(大友皇子の墓)でございます。
実際のところ大王として即位していたのかは疑問視されていますが、明治初期に天皇と追号されまして、
1200年も経ってから、大津京があったであろうこの辺りに御陵が造られることになりました。
よって、本当のお墓じゃないですが、それでも古代史ファンとしてはお参りしておかねばならんでしょう!

傘を差しながら結構急な山坂を下りまして、元来た道を北に戻ります。
大津京駅でGETした大津京周辺マップを見ると、途中でどこかで山手に曲がればいいようですが、さて、どこだ?
幸い、道の案内標識に「弘文天皇陵」と書かれた文字を発見! しかし、見にくい……この地味な感じが滋賀県ですなあ(失礼)。
それに沿って左に曲がりまして、また坂を、それも結構また急な山沿い坂を登ります。
で……ここで道を間違えました。いや、そろそろまた左に曲がるところがあるかな、と思っていて、ずんずん登ってしまって、
これはおかしいと言うことで注意しながら下っていくと、砂利の敷き詰められたスペースに観光バスが何台も停まって、
どうやらそのスペースの奥に行かなければならなかったようです。バスの陰になって奥の道が見えなかったんですな。
早めに下りて来て良かったです。私一人だったら、きっと山際ギリギリまで突き進んじゃいます(汗)
晶さん、巻き込んでしまってスミマセン(滝汗)

気を取り直して鬱蒼と木々が茂る砂利道を進むと、大津市役所の真後ろに突然現れました、弘文天皇陵。
京都の天皇陵と比較すると、随分広いですねえ。児童公園くらいはあるかも。さすが滋賀県、土地がありますなあ(誉めてます)。
住宅街と休日の市役所に囲まれた土地柄のせいでしょうか、おそろしく静かな場所でした。
ちょうど小雨が降ったり止んだりしていたせいか、空気も冷たかったので、静謐な雰囲気に満ちていました。
ここに大友皇子の魂が眠っているわけではないとはわかっていても、彼の冥福を願わずにはいられません。
もっとも、手を合わせてお参りをしようとして、あやうく「願掛け」をしようとしてしまったワタクシ。
ここは神社じゃないぞ!と内心一人でツッコミを入れておりました(苦笑)
気を取り直して、大友皇子にご報告。「あなた達のおかげで素敵なお友達ができました。有難うございます!」
それと「その内、鎌足さん考察であなたを書きますんで、その時はよろしく!」と先手必勝の通告。
多分、大友様は「遠慮するよ。むしろ、却下」とお応えになったことでしょうが、そこは聞こえなかったということで♪♪
ところで、晶さんは大友様に何をお話しになったのでしょうか??


さてさて、お昼休憩を挟みまして(コメダ珈琲に初めて行きました。名古屋の店ですが、滋賀県に進出中。食事がなかなか旨い)、
次なる目的地は大津京、と言うか大津京跡地です。もっと正確に言うと、「錦織(にしこおり)遺跡」と呼ばれる遺跡が
「近江大津宮の跡と考えられている」という所です。まだ本当の所はわかんないですが、多分そうであろう、という感じ。
しかし、この大津京跡地(と呼びましょう)、本当に住宅地の中なのです。いや、むしろ下と言った方が正しい。
実は妹の同級生のお宅がこの辺りで、家の下は大津京が埋まっている、らしいです。毎日足蹴というわけですな。
いやいや、吃驚するなかれ。歴史大国滋賀県をなめちゃいけません。
なまじ京都やら奈良やらに近い上に、それらの都と北陸(日本海)や東海地方との交通を結ぶ要所だったせいで、
遺跡やら何やらが山ほどあります。しかし、近代以降は一田舎県の扱いだったためなのか、調査が進んでおらんのです。
それが最近(1974年)になって大津京跡地が発見されるし、他にもちらほら新発掘がございます。
私が卒業した高校が建替えられる際に、聖武天皇が暫く滞在したという遺跡が運動場の下から見つかってしまったため、
建替えが2年遅れたと言う若干迷惑な話も……ハハハ、私らも遺跡を足蹴にしておったわけですな。

そんなことは置いておいて、大津京跡地へGO! 大津市立歴史博物館で受付のお姉さんに大津京跡地のことを聞いたら、
跡地が何処にあるのかを示した詳細な地図を下さいました。親切!
驚いたことにコレが住宅地図のコピーに遺跡の場所を書き込んだものでした。
この場所の建物には誰それさんが住んでいます、というアレです。良いのか、個人情報に当たらんの!?
でも、ざっくりした地図だと遺跡の場所が何処かわからんのも事実です。Googleマップには載っていません。
だって、本当に家々に囲まれた住宅地の中の、しかも点在した空き地が遺跡なんですもの!
うーん、まず京都とか奈良とかの整備された遺跡を想像しちゃいけません。本当に空き地としか思えません。
小雨の降ったり止んだりする中、点在する空き地を歩き回りながら、晶さんとも共に唖然としておりました。
多分、住宅の建替えをしようとしたら遺跡が見つかっちゃったんだろうな、と容易に想像がつきますね。
遺跡は9つの空き地に分かれていて、その内、柱の跡が見学できるのは4箇所だけ。
一応、この場所は公園みたいに緑化整備されていましたが、他は金網に囲まれて雑草が伸び放題でした。
うーん、これだけを見てもかつて近江宮であったとは考えづらいですね。

それにしても西側を見れば比叡山の尾根らしきものがそびえ、東はすぐ琵琶湖というこの超狭い場所に、
よくもまあ鎌足さんと葛城皇子は都を移そうなどと考え付いたものです。
しかし、確かに663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に惨敗した彼らの心情としては、
九州の大宰府に防御勢力は置いたものの、そこを唐の軍隊に突破され、瀬戸内海を通って大阪に攻め込まれたら
すぐにでも辿り着けそうな奈良の都は危険だと考えたのでしょう。
背後に高々かつ広々と比叡山がそびえ、いざとなったら琵琶湖に船を出して北陸や岐阜に逃げられる大津は
都として安全に思えたかもしれませんね。
やれやれ、百済救出とか余計なことに首を突っ込むから、こういうことになる。
そもそも、鎌足さんが百済への援助を考えたのは、国防目的だけではなく国内の豪族の不満を封じ込めるためです。
(参照「中臣鎌足考察Dロイヤルファミリーのプライド 間人皇女」 )
敵は外にあり!と思わせることで葛城皇子の下、豪族達を結集させる狙いがありました。
それが多大な犠牲を払い、朝鮮半島における倭国の拠点も失い、更に当時の大王であった宝女王も客死してしまいます。
こうなると唐に攻め込まれるのも怖いし、何よりも飛鳥周辺で力を蓄える豪族達の反乱も怖い。
そうなると、古いことに縛られっぱなしの飛鳥なんぞ捨てて、新天地しかも攻守に長けた場所に都を移すのが得策というわけです。
それに大津自体は狭いですが、琵琶湖の向こう側(三重県側)には平野が広がり、現在でも稲作が盛んな場所です。
なんせ琵琶湖のおかげで水資源には苦労しませんし、気候も稲作に適していて、奈良よりもよっぽど米が採れます。
福井県に通じる鯖街道から日本海からの資源が豊富に運ばれて来ることでしょう。
岐阜県や愛知県との交通も、飛鳥からだと三重県の険しい山道を通らねばなりませんが、滋賀県には平坦な東海道がある!
後に近江商人が活躍することからもわかるように、経済を発展させるためには近江は適した場所なのです。
経済(食糧事情でしょうな)が安定すれば豪族達も大人しくなるであろうという鎌足さんの目論見は間違ってはいません。
でも、経済的な事情まで理解できる豪族は居なかったでしょうし、何より早急すぎました。
難波宮と飛鳥京のように近い場所ならともかく、近江は飛鳥から遠すぎます。
もちろん遠いからこそ鎌足さんは良し!としたのですけどね。それでも期待より不満の方が大きかったでしょう。
実際、この大津京には何度も付け火(放火)があったようです。
(注 当時の民衆は不満があると宮廷や有力者の邸宅に放火をしたそうです。豪族はそれに便乗したり、指揮したり。
   当時はどこも木造でしたから、乾いた時期を狙われたら一溜まりもありませんね。)


そんな大津京跡地(と思われる場所)を後にして、最後に向かったのは近江神宮です。
途中にシンボル緑地と名付けられた駐車場(大津京跡地を車で見に来る人はココに停めなさいとのこと)に
真新しい歌碑がありました。歌は「近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ」です。
柿本人麻呂の歌ですね。彼は主に鵜野讃良皇女(持統天皇)時代に活躍した歌人で、
自分の想いではなく他者の心情を歌することが多かったようです。それも、当時の政権や権力者に擦り寄る形で。
そんな彼がこんな近江宮を忍ぶような歌を詠んで大丈夫だったのでしょうか?
深読みをすれば、この歌を知った大海人皇子や鵜野讃良皇女が人の心を代弁することのできる歌詠みとして、
彼を重用したのではないでしょうか。
あるいはもっと深読みすれば、後ろ盾となった鵜野讃良皇女がこの世の人で無かった時期の歌かもしれません。
そして、近江宮の陰の権力者たる鎌足の息子、藤原不比等が権力を握りつつあった頃だったのかもしれません。
人麻呂と不比等は共に亡き草壁皇子に仕えていたと言われる人物。そして、共に鵜野讃良皇女と浅からぬ縁もあります。
好意か敵意かはともかくとして、何らかの交流はあったことでしょう。
この歌では、滅びた近江の都を思い出させるのは琵琶湖の波と湖上を飛ぶ鳥の群れの声としていますが、
これらは晩年の人麻呂に近江の都の攻防よりも、壬申の乱の虚しさを感じさせたのかもしれません。
内紛で大きな犠牲を払って大海人皇子は皇位を手に入れ、鵜野讃良皇女や多くの皇子達と共に親政をしようとしたのに、
有力な皇子は草壁、大津、高市と次々に倒れ、政権を握ったのは草壁の舎人の一人でしかなかった藤原不比等です。
彼の長女(宮子)は皇子を産み、その皇子は三女(安宿媛)と共に妻(県犬養美千代)のてもとで育っている。
権力とはこんなにも流れ移ろいやすいものかと、人麻呂は琵琶湖の畔でただただ虚しさを覚えていたのではないでしょうか。

それはともかくとして近江神宮です。天智天皇(葛城皇子)を祀っているらしいです。
と言っても、神社自体は昭和に入ってから造られたらしいですよ。おやおや超新しいですな。
建物もかなり新しく、砂利道も周辺の木々も整備されていましたし、歴史的な雰囲気は無いです。
それでも皇族のナントカさんがお参りに来た記念の札?みたいな物があったりして、
一応、現皇室の祖として崇められているんだなあと思いました。
ちなみに、ここも私は初めてでございます。これだけ飛鳥時代について好き勝手書いている元大津市民として、
行った事が無いってどうなのよ?と若干引け目を感じておりましたが、これで心の荷が下りました。(単純)
ちゃんと、お参りの際に葛城皇子に「来ましたよ。あなたの息子さんのお墓にも行って来ましたよ」と伝えました。
きっと、葛城皇子も心底嫌な顔をしていたことでしょうな、ハッハッハ。

長らくお時間をいただきましたが、大津巡り紀行はこれにて終了です。お付き合いいただきまして誠に有難うございました!
歴史にまつわるアレコレも然ることながら、やっぱり晶さんとゆっくりお喋りできたのが楽しかったですvv
またご一緒できたらいいなあ、と思ったら、なんとちょうど一年後に実現することに!(これを書いているのは2012年…悪しからず)
もしかしてもしかすると、葛城皇子や大友皇子にお参りしたご利益がありましたかね?
(だから、大友皇子の墓はそういうお願いをする所じゃないって……)

(「大津京巡り紀行」終わり 2012.5.20)
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