中臣鎌足【なかとみのかまたり】(614 〜 669年) / Copyright (c) 2008 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.


(C 古人皇子)

D ロイヤルファミリーのプライド 間人皇女

間人皇女。名前はご存知でしょうか。
山辺皇女や十市皇女と並び、悲劇の皇女と認識されていることが多いかと思います。
兄の葛城皇子の命令で結婚し、兄の都合で別れさせられ、その後は結婚せずに死ぬ。
まるで兄の操り人形のように意志のない女性、として描かれがちです。
果たして本当にそうでしょうか。そんな人形的性格でこの政争を乗り切れたのでしょうか。
いいえ、無理です。重要な政略結婚は、覚悟のできない人間には務められない代物です。
相手方に溶け込んでいいならともかく、あくまで実家の味方という立場を崩してはならないからです。

そんな結婚に間人皇女は適任でした。
彼女は父も母も大王であり、後には兄も弟も大王となるロイヤルファミリーの一員です。
そんな中で育った間人には、皇族としてのプライドと覚悟が生まれたのではないでしょうか。
兄から「裏切らない」という信頼を受けていたからこそ、軽王が大王になる絶対条件として彼女は皇后に立ったのです。
意志が非常に強いだけでなく、頑固なところもあったと思います。
また、兄の信頼に応えるためならば何でもできてしまう、強かで冷酷な一面もあったはずです。
葛城皇子が難波から去る際には、何のためらいもなく夫を捨て、兄や母と共に飛鳥に戻りましたからね。
勝気で誇り高く、時に傲慢で、それがたまらなく魅力的なロイヤルプリンセスであったのだと思います。

と言う訳で、葛城皇子の権力形成、すなわち鎌足さんの暗躍を語るに避けて通れないこの人、間人皇女が今回の主人公です。
まずはお約束の家系図から。割とすっきりしています。(当社比)

 蘇我馬子
  |____              _____________
  |    |            |                |
蘇我蝦夷 法提郎女===田村皇子===宝皇女《皇極》        |
  |       | 《舒明》 |_________       |
  |       |         |    |    |      |
蘇我入鹿     古人皇子   葛城皇子 大海人皇子 間人皇女===軽皇子
          |                    | 《孝徳》
         倭女王                  有間皇子

第四回で古人大兄皇子が殺されたというところまで書きました。
時は645年。この年までに亡くなった人を、上の系図ではこの色で書いています。
宝女王は玉座を放棄。しかし、嫡男の葛城皇子が即位、とはなりません。
腹違いとは言え、兄の古人皇子を殺した葛城に対して批判的な目は少なくないし、
蘇我氏総本家(蝦夷と入鹿)や物部氏に連なっていた者の勢力も、無視できるほど小さくありません。
葛城が即位すれば彼に対する反対勢力が手を組み、葛城(と鎌足)の邪魔をすることは明白です。
場合によっては、他の王族を担ぎ上げて大王のすげ替えを図るかもしれません。
鎌足にしてみれば、こんなゴタゴタした時に大本命の葛城が即位する必要は有りません。
葛城が即位する時までに、すべてを平定しておくことが必要なのです。
要するに、第三回で述べた「葛城皇子即位までに汚い仕事は全部済ましておこう☆大作戦」です。
鎌足さんの策略で、皇位は宝女王の実弟である軽王へと引き継がれました。
このスムーズな(?)皇位継承に一役買ったのが、間人皇女です。
宝女王が皇女ではないように、軽王は正確には皇子ではありません。
宝は皇后であったために大王となりましたが、軽に皇位継承の資格は本来はありませんでした。
そこで軽王の身分を補完する意味も含めて、ロイヤルファミリーのメンバーである間人が、"皇后"となりました。
軽王の即位の正統性を豪族達に認めさせるためには、間人の立后が不可欠でした。
軽王の命の保険の意味もあったと思います。(参照 中臣鎌足B

まず、間人皇女本人の生い立ちについて、もう少し探ってみましょう。
ここでいつもの如く年表を……と思いきや、なんじゃこりゃあ!?
間人皇女って生年不明!? しかも、手がかりになる思った大海人皇子の生年も真偽不明だとぅ!?
ええい、歴史上の諸君! 自分の生まれた年くらい、記録しておきたまえよっ!!(←逆切れ)
ついでに、やはり生年不明な次期皇后・倭女王も推測しておきましょう。古人が殺された645年には生まれていた、としか言えません。
(古人の死後に生まれた場合、謀反人の子としてその存在は隠蔽されたと思われますので)
父である古人も年齢不明なので実に推測しにくいのですが、自作の年表を頼りに考えてみます。

倭女王
(640年頃誕生)
古人大兄皇子
(621年頃誕生)
間人皇女
(629年頃誕生)
葛城皇子
(626年誕生)
その他
626   6歳   誕生 1歳 蘇我馬子死去
629   8歳 誕生か? 1歳 3歳 額田部皇女(推古)崩御
630   皇太子候補 10歳 3歳 5歳 田村王即位→舒明天皇
631   11歳 4歳 6歳 この頃大海人皇子誕生か?
640 誕生か? 1歳 20歳 13歳 15歳  
641 2歳 21歳 14歳 16歳 田村王崩御
642 3歳 22歳 15歳 17歳 宝女王即位→皇極天皇
645 6歳 殺される 25歳 立后 18歳 入鹿を殺す 20歳 乙巳の変
軽王即位→孝徳天皇
654 15歳   27歳 29歳 軽王崩御
655 16歳   28歳 30歳 宝女王再即位→斉明天皇
658 19歳   31歳 33歳 建皇子(葛城の皇子)死去
有間皇子、謀反の罪で処刑
661 22歳   34歳 称政 36歳 宝女王崩御
665 26歳   崩御 38歳 40歳  
668 立后 28歳     即位 42歳 葛城皇子即位→天智天皇
都を近江に定める

宝女王考察で書きましたが、蘇我蝦夷は甥の古人大兄皇子に間人皇女を娶わせようと考えていました。
間人の立后は生まれた時から定められたものだったのです。
蝦夷が大嫌いな宝女王には面白くありませんが、ぐっと我慢します。
時には小さな娘を呼び寄せて、こう言い聞かせたかもしれません。

  「私のちっちゃな媛、よ〜く聴くのよ。あなたは皇后になるの。この母の後を継ぐのよん」
  「お母様の後を?」
  「そうよ。皇后はただの后じゃないの。大王の椅子も何もかも、すべてを手に入れるのよん


そもそも宝女王が田村王との婚姻に承諾したのは、権力を我が物にするための賭け。
蝦夷の口車に乗ったふりをして、夫と息子を置いて、単身乗り込んできたわけです。
宝女王の脳裏には皇后、次いで大王として輝いた額田部皇女(推古天皇)の姿があったに違い有りません。
政治の細かい所は厩戸皇子やら蘇我馬子やら男連中にやらせておき、
そのくせ決して傀儡になることなく、長年に渡って権力を握り続けた額田部のように、私もなりたい。
いいえ、なってみせる。大伯母様のように!(額田部は宝女王の母方の祖父の実姉に当たります)
皇后となった宝女王は表向きでは政治に口を挟むことはありませんでしたが、
自らの権力範囲をじわじわと広げ、蝦夷の息子・入鹿を手懐けて、田村王の次を狙います。
その運動が功を奏したのか、田村王の死後、宝は即位することとなります。
まだそんな未来が来ることもわからず、夢物語的可能性として宝女王がぽろっと話したことを
幼い間人はよくわからないながらも「そんなものなのね」と納得したことでしょう。
母の部屋を辞して、てくてくと向かった先は兄・葛城皇子のところ。

  「あのね、兄さま。間人、コウゴーになるの」

ブホォーッと音を立てて、葛城皇子は飲んでいた白湯を噴き出したことでしょう。(この時代、茶はありません)

  「だ、誰のだ!? 結婚だなんて、兄さんは聞いてないぞぉ!!」
  「だってぇ、お母様がそう仰ったんだもん」
  「駄目だ! 母上が何と言おうと、この私が許さん!!」


騒がしい兄姉を「仲が良いなぁ」と微笑ましく眺めつつ、柿をモシャモシャと食べる弟・大海人がいたことでしょう。
(以上、妄想に基づくフィクションです)
とにかく、間人は立后するという自分の未来がほぼ揺るがないことを、幼少より知っていました。
相手が誰になるかが微妙というだけで、皇后候補という自分の価値は決して薄れない。
私こそがロイヤルファミリーの確固たるメンバーであり、夫となる大王なんぞ私の付属品、ぐらいに考えていたかも。
そういう高慢なところが、たまらなく魅力的だったことでしょうね。
しかも、立后しないのは実の兄弟である葛城か大海人が大王になった時だけ。
どう転んでも、ロイヤルファミリーの確立に不足は有りません。
この当時は、宝女王も息子達より娘に政治生命(権力掌握生命?)を懸けていたのだと思います。


今更ですが、ここで「皇后」という地位がどういうものであったかを確認しましょう。
しつこいですが、改めて次の表とその下の家系図を御覧下さい。
ああ、その前に大事なことを。
私は継体より前の大王は神話だと思っているので、系図などには載せません。
継体以降、"大王"として面白い家系図が書けるのは、欽明からだと思いますので、すべてはそこから。
ただし、第○代というのは神武天皇からの数字を使います。(ややこしいから)
また、ここでは「皇后の資格」というものを延々と語ります。
この「皇后の資格」は聖武天皇時代に藤原四兄弟にぶち壊されますので、
今回取り扱うのはその先代・元正天皇までの時代になります。

皇后の名前 その父(出自) 大王、つまり皇后の夫(名前) その父(出自) 大王×皇后の
主な子供
その母(出自) その母(出自)
石姫皇女 宣化(28大王 欽明の異母兄) 29 欽明 継体 敏達
[神話では橘仲皇女] [神話では手白香皇女]
広姫 息長真手王 30 敏達(語訳田) 欽明 押坂彦人
額田部皇女 欽明 石姫宣化×[橘仲皇女] 竹田
田眼(舒明妃)
蘇我堅塩媛(蘇我稲目の娘)
穴穂部間人皇女 欽明 31 用明(大兄) 欽明 厩戸
蘇我小姉君(蘇我稲目の娘) 蘇我堅塩媛
皇后不在 32 祟峻(泊瀬部) 欽明  
蘇我小姉君
女帝のため、皇后不在  33 推古
額田部皇后
欽明  
蘇我堅塩媛
予定では
田眼皇女
敏達 34 舒明(田村王 押坂彦人大兄
欽明×広姫
葛城天智
間人(孝徳皇后)
大海人(天武
額田部皇女
宝女王 茅淳王
(押坂彦人皇子の子)
糠手姫
敏達×伊勢大鹿氏の娘)
吉備女王(桜井皇子※の娘)
女帝のため、皇后不在 35 皇極
宝女王
茅淳  
吉備
間人皇女 舒明 36 孝徳(軽王 茅淳  
宝女王 吉備
女帝のため、皇后不在 37 斉明(宝女王の重祚)
倭女王 古人大兄皇子
(舒明×蘇我法提)
38 天智(葛城 舒明  
皇極・斉明
十市皇女 天武 39 弘文(大友 天智 葛野
額田王 宅子郎女(伊賀豪族の娘)
鵜野讃良
皇女
天智 40 天武(大海人 舒明 草壁
蘇我遠智郎女
(蘇我倉山田石川麻呂の娘)
皇極・斉明
女帝のため、皇后不在 41 持統(鵜野讃良) 天武の皇后 天智  
遠智郎女
正妃無し 42 文武(珂瑠 草壁天武×持統  
阿閇天智×姪郎女)
女帝のため、皇后不在  43 元明(阿閇 天智  
蘇我姪郎女
(蘇我倉山田石川麻呂の娘)
女帝のため、皇后不在 44 元正(氷高 草壁  
阿閇
※ 桜井皇子は用明・推古帝の同母弟です

これを家系図にするのは、すごーく面倒臭い……でも、書かないと多分もっとややこしいので、頑張ります。
色がついているのが皇后で、[ ]括弧内が天皇です。

     広姫
      |―――押坂彦人皇子
石姫皇女|      |―――――[舒明]―古人皇子―倭女王
 |―――[敏達]―糠手姫皇女   | |          |      
 |    |―――――――田眼皇女 |――――――[天智]――[弘文]
[欽明]――額田部皇女[推古]        |                 |
     | (母は蘇我堅塩媛)      |――――――[天武]―十市皇女
     |                   |―――――間人皇女
     |―桜井皇子―吉備女王―宝女王[皇極・斉明]  |
     |               |_________[孝徳]
     |               
     |――[用明](母は蘇我堅塩媛)
     |    | 
      ――穴穂部間人
        (母は蘇我小姉君)

(天武以降)
      ______阿閇皇女[元明]
     |           |――[元正]
[天智]―|_[持統]      |――[文武] → (以下、二代)
        鵜野讃良皇女 |
        |―――――草壁皇子
       [天武]

まず表の「皇后」欄を御覧いただきますと、見事なまでに皆さんに色がついています。
「皇后=皇女」が望ましく、「止む終えぬ場合は王族でも可」でした。
王族出身の皇后として、広姫(敏達后)、宝女王(舒明后)、倭女王(天智后)がいます。

最初の王族出身皇后の広姫は敏達天皇の嫡男・押坂彦人大兄皇子を産んでいます。
しかし、おそらく広姫は早くに亡くなったのでしょう。
母后の死によって、押坂彦人は大兄(皇太子)と呼ばれていながら、次期の大王の座から追われたと考えられます。
何故、そんなことになったのか。
それは母・広姫に代わって皇后となった額田部皇女、つまり広姫より高い身分あったからです。
額田部は何人もの男の子を産んでいます。(いずれも、母より先に亡くなったようですが)
結果、母親が王族出身の皇后でしかない押坂彦人は皇位から遠ざけられてしまったのです。

そんな押坂彦人大兄皇子は、異母姉妹の糠手姫皇女を妻としていました。
押坂彦人が大王になれば、当然糠手姫が皇后となっていたことでしょう。
一方、その二人の間に生まれた田村王には、外部の意図によって皇位が回ってきました。
先代の大王は推古天皇、つまり額田部です。
彼女は息子達には先に死なれ、頼りとした甥・厩戸皇子(同母兄の息子)にも先立たれます。
そこで、かつて自分の立后によって大兄の地位を追われた押坂彦人の忘れ形見・田村に白羽の矢を立てます
ただし、自分の娘・田眼皇女を皇后にすることを条件に
額田部皇女は「皇后」という地位が如何に重要なものか、よくわかっていました。
彼女が大王・推古となったのは、皇后だったからなのですから。
田眼皇女が皇后となり、男の子を産めば、その子はきっと将来の大王に。
女の子しか生まれなくても、その娘は皇后候補となるでしょう。
更に、もし田村王に万が一のことがあれば、田眼が大王になる事だってできる。
そんな、額田部の計算が目に見えるようではありませんか。
それだけでなく、厩戸皇子の息子・山背大兄王を皇位に就けたくない蘇我氏の意向も働いていましたが。
(詳しくは宝女王考察

ところが、額田部の策略は上手く行きませんでした。
田村王の即位を待たずに、田眼皇女が亡くなってしまったのです。子供もいなかったらしい。
困ってしまったた額田部さんですが、ここでめげずに次の皇后候補を擁立します。
それが次の王族出身の皇后・宝女王です。
宝女王は額田部の同母弟・桜井皇子の孫娘に当たります。(家系図参照)
しかも、母の吉備女王は時の大臣・蘇我馬子が可愛がっていた王族。蘇我氏との利益も一致します。
どうやら、「額田部皇女の養女格」として「皇女ではないけれど、皇后になった」ということのようです。

歴史は繰り返す、と申しましょうか。
額田部が皇后から大王になったのと同じ道を、宝女王は辿りました。
いえ、その影響は彼女の子供達以外にも及びました。
宝女王の弟・軽王までが、大王の座に引っ張り出される羽目になったのです。
(本人も多少は乗り気だったからこそ、引っ張り出されたのでしょうけれど)
軽王を巻き込むために皇后となったのが、今回の主役・間人皇女というわけです。


こんなに重要な政略結婚を上手くやってのけたことからして、間人はかなりの才媛です。
あくまでロイヤルファミリーのメンバーという立場を崩すことなく、鎌足の策略を利用しました。
ここで注目して欲しいのは、誰が皇位継承権を持っているのかということです。
現在の大王は軽王、その前と更に前の大王は宝女王&田村王夫妻です。
その前の大王は額田部皇女で、彼女の死よりも前に子供達は皆死んでしまっています。
と言うわけで、皇位継承権はロイヤルファミリーの三きょうだいと軽王の皇子・有間だけにあります。
ですが、一時的に軽王に移した玉座はいつかロイヤルファミリーに戻ってくるべき物
そのメンバーは日嗣皇子・葛城、皇后・間人、そして大海人。加えれば、ママの前大王・宝女王。
一番有力なのは葛城ですが、彼が即位する時はすべてが平定された時です。時を間違ってはいけません
当時の大海人はまだ若すぎて、あまり政治に関わっていません。
そんな彼が実兄・葛城を差し置いて即位するというのは、ちょっと考えにくい。
じゃあ、どうするか。平定が十分でない場合は、軽王の後は有間皇子に継がせるのですか?
いえいえ、そんなことしちゃいけません。
あくまで「最終的には皇位が葛城に来る」ようにルートを巡らさなければなりません
そこで重要なのが、間人皇后の存在です。
かつて"大兄"ですらあった山背王を抑え、皇后・宝女王が即位したように、
軽王の後を皇后・間人皇女が継ぐというケースは十分考えられます。
その方が葛城と鎌足にとっては都合が良いのです。って言うか、筋書き考えたのは鎌足さんです。

倉山田石川麻呂一族を滅亡に追い込んだりしている内に、軽王と葛城皇子との仲は険悪になっていきました。
元々仲が良くないので破綻は時間の問題でしたが、8年も保ったのは大したものです。
まあ、そんな悠長なことも言っていられない。
軽王が利用できなくなった以上、プロジェクトは次の段階へ移さなければなりません。
当時(664年)の葛城皇子は三十路直前で、年齢的には皇位継承の資格が十分に有りました。
しかし、まだすべてを平定したわけではないし、軽王に従う豪族もいないわけではない。

しかも、ちょっとばかり国の外が騒がしくなっていました。
海を隔てた朝鮮半島では高句麗(現在の北朝鮮辺り)が唐(618年成立)の激しい攻撃に遭い、息絶え絶え。
その唐とつるんでいるのが、新羅(現在の韓国の東側)でした。
高句麗を滅ぼせば、唐&新羅連合軍の次なる標的は百済(現在の韓国の西側)です。
この頃の唐の情勢は、対外的には絶好調でした。
チベットや中央・北アジアにずんずん軍を進め、次々と滅ぼして制圧していきます。
また公主(皇女)を近隣の民族の君主に娶らせて、通婚政策による懐柔を広げていきました。
唐には東アジア=朝鮮半島に目を向ける余裕が有り、百済の次は海を隔てた日本へ、
ということだって有り得なくはないかもしれない。

そこで、鎌足さんは一石二鳥を狙いました。
元々細々とした親交があった百済を応援することで、唐の侵略に対して防衛線を張ると同時に
ロイヤルファミリーという確固たるリーダーの下、豪族達が一致団結する状況を作り出すのです。
鎌足は豪族が間人(あるいは葛城)の即位を認めなければならない状況が作れることを察知し、
あわよくば利用しようすらと考えたのです。
国内のことで内輪揉めしている状況でなくなる=外国との戦争というのは、世界史上よくあることです。
(そういう形でリーダーになった人は数え切れません。ヒトラーとか、二期目のブッ○ュ大統領とか。
今でも北○鮮が、「外敵のために結束しよう」と言っていますしね。要は、使い古された手です。)

この政略は、ある意味で実に上手く行きました。
軽王を見捨てて飛鳥に戻ったご一行は、まずは新大王を立てます。
ロイヤルファミリーの一員であると同時に、元大王というスゴイ肩書きを持つ宝女王が重祚します。
元大王である以上、豪族達も納得せざるを得ません。(参照 中臣鎌足B
しかし、一つ問題。
どんなに性格が子供じみていても、宝女王も随分歳ですので、彼女がいつ倒れるか心配なところです。
日嗣皇子は相変わらず葛城ですが、間人も皇后となったことで同等の皇位継承権を持っています。
皇后というのは"正妻"という立場だけでなく、為政者となり得る立場でもあったのですから。
当たり前ですが、宝女王に皇后はいませんので、
彼女が崩御した場合に備えて、皇后を続投している間人が待機していたわけ。
母→娘という皇位継承は当時例が有りませんでしたが、
夫→正妻叔父→姪(田村王→宝女王のケース)という継承と比較しても、血筋の正統性は完璧です。
完全にロイヤルファミリーの概念です。
間人は自分の役割と価値を存分に理解していたと思います。
「いざという時は私が椅子を押さえておくから、その間に用事を済ませちゃいなさいよ」という感じです。
勿論、政治は兄・葛城(&鎌足)にやらせる気満々で。


ところが、上手く行くように見えたこの政略は、結果的にはまったく上手く行かなかったのです。
大王に権力を一極集中させ、豪族達を従わせるという考え方自体は間違っていなかったのですが、
如何せん、敵とした相手が悪かった。当時の日本の軍力で唐に勝てるわけが無かったのです。
私は鎌足さん最大の失策はここに有り!だと思っています。
内政のことはある程度把握できていて、完璧な策略を廻らせることに成功しました。
しかし、外政については知識も経験も不十分。
乙巳の変を始め、いろいろな謀略が上手く行き過ぎたせいで驕っていた面があるのではないでしょうか。
当然、負け戦となったことで、豪族から大王に対する不満は高まります。
悪いことに、この戦争の途中で宝女王は急死。批判は皇太子である葛城に一極集中します。
しかも、もっともっと悪い事態が存在していました。
なんと超身内のはずの同母弟・大海人皇子が「唐との戦争なんてナンセンスだ!」と
兄(と鎌足)の政策を真っ向から否定していたのです。
朝鮮半島への出兵に協力させられて、経済的にも精神的にも疲弊している豪族達は
「同じ兄弟でも、葛城皇子より大海人皇子の方が話がわかるじゃないか」
と感じざるを得ませんでした。

朝鮮半島から引き上げても、葛城と大海人の関係が修復することは有りませんでした。
警戒した葛城は、大海人の次男・草壁王を人質同然に取り上げて、自分の館(岡本宮)に連れて来てしまいます。
大海人はますます態度を頑なにするばかり。
宝女王が死んで、ようやく葛城が即位するはずだったのに、不安定なこと限りない。
鎌足さんは考えます。
こんな状態では、葛城即位を断行することはできない
豪族達を上手くまとめるための手立てを考える時間が欲しい。
何とかして、豪族には葛城への忠節を誓わせなければならない。
葛城を非難している大海人を支持するなんて、言語道断。彼の勢力を抑えなければならない。
もっと細かく言えば、豪族達の権力がはびこる奈良周辺を離れた場所に遷都したい。
しかし、誰を臨時の大王にしましょうか?
葛城以外に皇位継承可能な人物は、もはや同母きょうだいである二人しかいないのです。
(↑他の皇位継承可能者は皆、鎌足さんが死に追いやったんだから、悩むのは自業自得ってやつです)
もちろん、大海人皇子に皇位を渡すなど論外ですね。
となると、当初の予定通り、皇后・間人皇女に即位していただくしかありません。

ところが、間人皇后は初めて鎌足さんの策略を真っ向から否定しました。。
即位を承知してくれるはずの間人皇女でしたが、ここで鎌足の申し出を拒否したのです。
間人皇女が皇后となった理由を思い出して下さい。
彼女はロイヤルファミリーとしての役割を果たすために、立后したのです。
極端に言ってしまえば、次の大王は兄・葛城でも弟・大海人でも、どちらでもいい
自分が形だけでも即位してしまえば、その間に葛城が大海人を追い落としかねません。
葛城と大海人の仲を更に引き裂くような事態は、彼女にはとても許容できるものではありませんでした。
ここで大王不在という異例の事態が起こります。
葛城は大王の位に就くこともできず、皇太子として称制を行わなければならなくなりました。
今までのように、大王の陰に隠れて暗躍することはできません。
実質、すべての責任は称制を行う葛城皇子が背負うことになります。

一方の間人はこの時、病に犯されていました。
自らの命が短いことを悟った彼女は、自分が生きているうちに何とか兄弟仲を回復させようしますが、
彼女の必死の努力が実ることはなく、間人皇女は665年に病のためにこの世を去りました。
兄弟の仲違いに心を傷めた最期の心境は、いかがなものだったのでしょうか。

間人の死から数年後、葛城と鎌足は近江遷都を断行します。
すべてのしがらみを捨て、大王というただ一人の絶対的存在を作り出そうとした葛城と鎌足。
ロイヤルファミリーという概念にこだわり、家族が支え合うことで権力を確立しようとした間人皇女
その目指す方向は、似ているようで相容れなかったようですね。
もし間人がここで死なず、葛城の御世を生き続けたとしたら、
葛城に権力が集中する体制にはならず、大海人もある程度は兄のやり方を許容し、
お互いに歩み寄ることができたのではないでしょうか。
もっと言えば、葛城の死後に壬申の乱が起こるような間抜けな事態は起こらなかったと、私は考えるのですが、
皆さんはどう思われますか?

(中臣鎌足考察D「ロイヤルファミリーのプライド 間人皇女」 終わり)

参考:魔女ノ安息地>創作部屋>詩>歴史もの>この青のもとに -大海人皇子を想う-

(E 有間皇子)


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