始まりは何度でもある

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  3 at Capricornus  

 それからしばらくの日を経て、12の都市に再び鐘が鳴り響いた。
 今度は5つ。
 それは五人を選んだ、という牧神パーンからの神託だった。



 彼女は自転車を漕ぎまくっていた。
 急ぐ用事があるわけではない。だが、一刻も早く伝えたい人がいる。
 石畳にタイヤをとられ、何度も人や荷馬車にぶつかりそうになったりして怒鳴られもしながら、カミーラは懸命に走り続けた。郊外に出て、赤茶けた山肌に沿ってぼこぼこ道をぐるりと回って、ようやく目的の場所に辿り着いた。
 広大な湿原の空気はとても冷えていて、火照った頬を急速に冷やしていく。
 自転車を停めようとした場所には、あまり健康そうに見えないロバが杭に繋がれていた。一応ロバに遠慮して、少し離れた山すそに自転車を置く。
 カプリコルヌスでは昔から交通手段を家畜に頼ってきた。ロバや馬、牛、地域によっては小型の象が移動や荷運びの手段となる。急速に道が整備された数十年前から自転車が普及しているし、お金のある人は機械仕掛けの車を使ったりもする。しかし、その道も良くて石畳や砂利道、町から少し外れると土を慣らしただけになり、あまり人の来ない所は整備などされていない。直接馬に乗ったり、家畜が引く車を利用する方がずっと便利だった。
 だからカミ−ラの行動はかなり無謀だった。こんな山の裏手まで自転車で来るなんて、いつタイヤがパンクしてもおかしくはない。
 でも田舎ならともかく、町では家畜を所有する人はあまりいなかった。レンタル業者や御者、あるいは荷運びの人ぐらいだ。一般の人は所有している人に借りに行く。ロバのレンタル料は彼女の一日の食費よりも高い。高等学校生にとっては痛い出費だし、体力にもまあまあ自信があるので何とかなるだろうと算段をつけて、自転車での決行となった。
 おかげで自転車も鞄もカミーラ自身も土ぼこりにまみれていた。道の脇に設置された溜め池の水をすくい、手と顔をごしごし洗う。本当は頭から水をかぶってしまいたいところだが、水浴びには寒すぎる。元々カミーラの髪の毛は濃い砂色なので土ぼこりは目立たない。手櫛で梳かして、ほこりを振り払うだけで我慢した。
 ゆっくりと草を食んでいたロバは、カミーラが傍を通った時にも警戒心を見せなかった。よく他人に馴れている。鞍に書かれた店名を見れば、カミーラの住む町にあるレンタル業者のロバであることがわかった。
「もしかして」
 カミーラは息も整わないまま走り出した。
 湿地に足をとられないよう、道として木の板が渡してある。静まりかえった湿地に、板を走る足音と風にそよぐ葦のざわめきだけが聞こえる。
 幾度か曲がって、カミーラは目的の場所に思った通りの人物を見つけた。
「おばさん、いらしていたんですね」
 道の途中で屈み込んでいた初老の婦人が、カミーラを振り向いた。
「カミーラちゃん、また来てくれたの?」
「はい、どうしてもルカさんに報告したいことがあって」
 顔を高潮させたカミーラに対し、婦人の表情は更に少し曇った。
「そうなの。いつもありがとうね。家からも遠いのに、ホントに……うちの子なんかのために……」
 婦人は堪え切れず、目から大粒の涙をこぼした。
「おばさん、泣かないで。いい知らせなの。私ね」
 カミーラはさっき婦人がやっていたように道にしゃがんだ。
 沢山植えられた猩々袴の前に真新しい木の札が立てられている。札には「ルキエンシュ、ここに眠る」と記されていた。ほんの半年程前に、事故で亡くなった女性の墓標である。
「ルカ姉ちゃん、私、この国を変えられるかもしれない」
 墓標に向かってカミーラは言った。
「私、選ばれたの! 次のパン卿になるチャンスが与えられたのよ」
 騎士候補。現パン卿のえんに替わって、カプリコルヌスの騎士となるべく人物が選定された。
 選んだのは牧神パーン。神殿の巫女が神託を受け取り、各地にある神社へと通達されたのは、今朝のことだった。
「ライバルは四人いるけど、私、絶対勝ち取って見せるわ。具体的な構想はまだなんだけど、私がこの国のためにやれることは一杯あると思うの。今の自然保護策を撤廃して、温泉とかで人気がある西部地区なんかには積極的に投資して、観光客を呼び戻すつもり。北部には誰も手を付けていない土地があるし、国全体のバランスを考えた政策を取れば、自然と観光の両立はできるし。ルカ姉ちゃんが言っていた通りに……」
 浮かんで来た涙を拭って、カミーラは笑って見せた。
「私、やるわ。やってみせる。もう誰にも辛い思いはさせない」
 葦の葉がざわざわと揺れた。
 カミーラはルカが賛同してくれているような気分になった。
 立ち上がって振り返ると、ルカの母が呆然とした顔でカミーラを見詰めていた。
「あなたが選ばれたの? パン卿に?」
「そうです。まだ候補だけど、きっと騎士になってみせます。それで、こんな暮らしにくい生活から皆が脱出できるように仕事を作って、生活に困った時の制度もしっかり整備しようと思うんです」
「そう、そうなの……」
 ルカの母はまだ信じられないという感じで、半分上の空で再び娘の墓の前に屈んだ。
「やっとパン卿が交替に……カミーラちゃんが……でも、どうしてもっと早く……」
 切れ切れの独り言。泣き出すのを必死で耐えているようだった。
 カミーラは慰めようとしたが、言葉が見つからなかった。
 今は何を言っても駄目だ。この国のために何か出来てこそ、ルカに報うことができる。
「おばさん、私、明日の朝に神殿に出発します。だから、しばらくここには来られないんですけど、ずっとルカさんのことを考えています。ルカさんが私に教えてくれた考えが、私を騎士候補にしてくれたと思っていますから」
 向けられた背に一礼をしてから、墓標を見つめた。
 また、来るね。その時は騎士として。
 心で呟いて、カミーラはその場を後にした。
 少し経ってから、ルカの母が泣き咽ぶ声が風に乗って聞こえてきた。



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