始まりは何度でもある

モドル | ススム | モクジ

  7 at Aquarius  

 十二宮流。黄道十二宮国家連合の各国の陸地を繋ぐ川。宝瓶都市アクアリウスからこんこんと湧き出る豊かな流れは、見た目の清らかさとは裏腹に、すべての物質を溶かす全能の溶媒となる。巨蟹都市カンケル以外の沿岸では、この流れに近付くことは自殺行為だった。
 それでも、守護神霊の加護を受けた船であれば航行は可能である。神殿に上がって来た航行申請を受け、各国の許可を出している。
 しかし、いかに加護を受けようとも、ちゃちな船では恐怖の流れに呑まれてしまう。造船には多額の費用がかかる。それゆえに船を多用する国は、貿易が盛んな処女都市ヴィルゴや造船業を得意とする獅子都市レオ、漁で生計を立てる者が多いカンケル、農作物の出荷に船が欠かせない金牛都市タウルス、戦闘艇を操る双児都市ゲミニなどに限られていた。
 もちろん、カプリコルヌスには観光客を乗せた船が毎日何回もやって来るが、それはあくまで他国の客のための物。一般市民が国外に出ることはまずなかった。
 パン卿候補を乗せた馬車は神殿を遠く離れ、対岸のアクアリウスへと渡るために十二宮流へと近付いていた。
「もう川が見えるわ」
 開かない窓ガラスに頬を張り付けながら、ヘレンが呟いた。
「この国を出るチャンスがあるなんて、思ってなかった。すごくドキドキするわ」
 隣に座っているカミーラは、何を浮ついたことを言っているのだろう、と思ったが、とりあえず「うーん」と曖昧に返事をした。
 カプリコルヌスから離れたことがないのは、カミーラも同じだ。それどころか、カミーラは自分が生まれ育った田舎町からほとんど出たことがなかった。パーン神殿のある首都に行くことすら初めてで、本当はずっと興奮しっぱなしだったのだが、正直に言うつもりはなかった。
「俺も外から来る人ばっかり見てるからなあ。外に出てみると、色々刺激を受けられる気がするな」
 タズーの素直な感想に、カミーラは自分も話に乗るべきかどうか、一瞬迷った。思い直して、賛同しようと口を開きかけたが、先にライサが話し出した。
「中等科の時に一度だけ、サギタリウスの学校を見学したことがある」
「……」
 カミーラは完全に口を噤んで、下を向いた。
「さすが学問の国だけあって、施設や環境はすばらしく整っていた。我が国でも、すべては無理でも、導入すべき利点は多いな。万が一、来年も高等科を続けることになれば、リブラの法律学院に短期留学の可能性もあるから、これは捨てがたいところだ」
 まだライサの話は続いていたが、カミーラは耳に入っていないふりをして、パーン神殿で貰った羊皮紙を手持ち無沙汰に開いた。面接を受けに行く各国の概略が載っていて、一枚目は今から向かうアクアリウスについてだった。アクアリウスはカプリコルヌスの隣国。外のことに疎いカミーラでも、多少の知識はあった。それでも、ライサの自慢話から逃れられるなら、集中できる物は何でも良かった。
 十二宮流が湧き起こる源、宝瓶都市アクアリウス。酷い戦争が続く時期であっても、豊かな流れの水源であるこの国は戦火に呑まれることは決して無かった。常に他国から大切に守られる立場にあった。
 そんな平和を約束された地であるためか、アクアリウスでは古くから王制が布かれてきた。政治制度は立憲君主制。そして、騎士であるガニュメディス卿は政治には一切関わらず、平和の象徴として崇め奉られている。それゆえか十年以上に渡って騎士を務めることが一般的で、極端に在位年数が短い騎士は他国より少ない。当代のガニュメディス卿も三十二年目を務め、12国の内の第三長老の地位にある。
 アクアリウスは中心に小高い丘を持ち、同心円状の町並みを形成している。丘の上には守護霊ガニュメディスを祀った水晶の神殿と、併設して建てられた王宮が街のどこからでも見える。一日に三回、礼拝の知らせが鳴り響くと、国民は神殿に向かって跪拝して祈りを奉げるのが習慣になっているが、図らずもそれは王宮を拝んでいる形になり、国王もまた神や騎士に準じる形で崇められてきた。
 王制、平和の象徴としての騎士、神殿への習慣的な跪拝など、カプリコルヌスの民としてはいまいちピンと来ないことが多い。
 と、揺れる馬車の中で器用に熟睡していたセディが、むっくりと体を起こした。
「光の橋だ」
 セディはヘレンとは逆側の窓の向こうを見ていた。
 カミーラもセディの頭越しに外を見た。
 豊かに流れる十二宮流の上、いつもは何も存在しない空間に薄っすらと光る橋が架かっていた。透明なので一見ガラス製のようだが、それはカプリコルヌスとアクアリウスとを一時的に繋ぐために、パン卿とガニュメディス卿の力で架けられた吊り橋だった。カプリコルヌス側は国色の「水色」の通りに色の無い完全透明、アクアリウス側は青く輝いている。
「ドキドキするわ」
 もう一度ヘレンが言った。誰もが同じだった。誰も何も言わない。
 馬車がゆっくりゆっくり、長い時間をかけて橋を渡っていく。おそらくはこの光の橋を何らかの理由で渡った経験があって、だからこそ今回の道行案内役を任されたのであろう御者も馬も、騎士候補を乗せた馬車をより慎重に、時間をかけて国境を越えているようだった。
 カプリコルヌスを出ている。
 カミーラの心にははっきりとした高揚感があった。
 小さくて閉塞的な世界から、確かに今、物理的にも離れていくのだ。
 これは出発だ。どうにも動かせなかった既存の毎日からの脱却。守護神パーンがカミーラに与え賜った大きなチャンス。二度とないチャンス。これは活かさなければ。
 今までに外に出る機会がなかったわけではない。選り好みをして迷っている間に逃して来た。あるいは実力が足りなかったりした。すぐに決意せずにぐずぐずと思い悩んでいる内に、時間なんてすぐに経ってしまった。自分は保守的なのだろうか、変化に対応できないのだろうか、努力できない人間なのだろうかと、ずっと苦しんで来た。
 今は違う。
 カミーラは確かに選ばれた。神と言う大いなる力によって、彼女の何かが認められた。それだけでこんこんと湧き起こった自信。権力も組織も馬鹿にして、内心では神々の存在も信じていなかったくせに、我ながら現金だとは思う。
 絶対に逃げない。そして、負けない。
 ガタンと大きな音を立てて、馬車の揺れ方が変わった。ボコボコした感覚、大き目の石畳の上を進んでいる感じだ。どうやら、無事にアクアリウスへと着いたようだった。
 その証拠に、窓の外に光の橋は見えない。役目を終えたので、消えてしまったのだろう。
「まあ、なんて綺麗な街なの」
 早速外を見やったヘレンが感嘆の声を挙げた。
 まだ国の外れにいるに過ぎないが、アクアリウスは大きな都市国家ではない。国の端には何も無いカプリコルヌスとは違って、国土のギリギリまで街並みが形成されているらしい。国の中心にあるという丘の位置がはっきりわかるし、ぼんやりとではあるが神殿か王宮らしき建物の輪郭も見える。
「見て、水晶のお城よ。あそこに王様やガニュメディス卿がいらっしゃるのかしら」
「ここから見えているのは、西側にあるという神殿の方だろう。我々が行くのはそちらだ」
 ライサは持参してきたらしい地図をめくっていた。
「と言っても、王宮と神殿は地下で繋がっているようだな。うちのパーン神殿と同じで、普段は騎士と巫子しかガニュメディス神殿には入れないようだが、王族は特別なのだろう。私的に祈りを奉げることもあるのだろうな」
 それを聞いて、タズーがニヤッと笑った。
「俺の聞いた噂じゃ、今の王は祈祷に託けてガニュメディス卿の姿を拝みに行ってるって話だぜ。何せ、当代のガニュメディス卿はものすごい美少女らしいからな」
「やだ、厭らしい王様だこと」
 ヘレンのすっとんきょうな声は耳障りだったが、カミーラも心底同意した。王という地位を利用して、神に選ばれた騎士という神聖な存在に近付くなんて、おこがましいにも程があると思った。
「まったくね。そんな奴が王で、ガニュメディス卿は嫌じゃないのかしら?」
「嫌も何も、王は騎士と違って血筋で決まる。誰にも替えられない絶対不可侵の地位なのだから、上手く付き合っていくしかないのだろうな」
 ライサの言う通りだとは納得したが、それでもカミーラは嫌な気分を拭いきれなかった。
 各国で騎士の役割が違うということは、知識としては知っている。でも、王には逆らえず、政治にも関わらず、ただ神聖な存在として崇め奉られるだけの存在であるガニュメディス卿と、国民議会と共に政治を主導するパン卿とでは、随分と立場に差があるように感じた。
 カミーラの内心を読んだのだろう。タズーが苦笑を浮かべた。
「求められる能力とか気質とか、国ごとに全然違うんだろうよ。多分、ガニュメディス卿は人当たりのいい性格なんじゃないかと、俺は睨んでる。最初の面接官がガニュメディス卿っていうのは、そういう意味ではラッキーだよな。面接に慣れない内は穏やかな人に審査される方が安心だし」
 タズーの意見に、ヘレンが身を乗り出した。
「実際、とても物静かな人みたいよ。うちのお客さんが言ってたもの。アフロディテ=エロス卿は噂通りの美貌の持ち主で、ヘラ卿はさっぱりした面倒見のいい方なんですって。あと、ケイロン卿は真面目で実直な方」
「他の国のことなのに、よく知ってるなあ」
 また眠る体勢に入っていたセディが、大欠伸をしながら驚きの声を挙げた。
「おいら、全然知らないや。客となんか、お喋りなんかしたことないし」
「私もちょっと聞いた程度よ。他の国の騎士の性格とかを伝え聞くだけでも、ちょっとは面接の心構えができるかなって思って、急いでお客さんに聞いて回ったの」
 ヘレンがフフフと笑い、タズーも頷いた
「俺もだ。どの国が選定役に当たってるのか、神殿に来るまでわからなかったからな、とにかく聞きまくった。ただ、全部の都市から観光に来てるわけじゃねえからなあ。幾つかの国は聞けなかった」
「そうね。さすがにアリエスとスコルピウスからは観光客なんて来ないから、情報の仕入れようが無かったわ」
「あと、ヴィルゴな。あの国の連中は金があるから、うちみたいな貧乏宿屋には来ねえもん」
「私の学校では、少し前までリブラから来た教授に指導を受けていた」
 ライサも少し得意げに話に加わった。
えん様がリブラに要請して、リブラの最高裁判所で判事を務めた方を講師として招いていたんだ。残念ながら私が入学する前に帰国されてしまったが、アストラエア卿の噂は聞いた。彼女自身も法務職に就いていた方で、物事を正しく理解される素晴らしい方だそうだ」
 自国の騎士を良く言うのは当たり前だと、カミーラは突込みを入れたくなったが、ぐっと堪えて黙っていた。
 セディと同じく、カミーラは他国の騎士のことなど、まるで知らなかった。知る必要なんてないと思っていたのに、他の候補が色々知っているとなると、気持ちが焦ってきた。少しでも情報が欲しかった。下手なことを言って嫌な雰囲気を作ってしまうのは得策ではない。
 あれこれと話している間にも、馬車はアクアリウスの中心へと進んで行く。
 黄道十二宮国家連合の東北部に位置するアリアリウス。神聖文字では「宝瓶都市」と記す。
 守護霊ガニュメディスは全能神ゼウスが見初めた美少年の霊魂であり、厳密に言えば神ではないのだが、国を守護する者として神と同列に扱われている。
 守護霊の容姿の美しさに影響されてなのか、アクアリウスの騎士は代々美貌に優れた者が継いでいるというのが、世間専らの噂だった。現在のガニュメディス卿はれい。彼女の清楚な愛らしさは黄道十二宮国家連合の外にも聞こえているほどだった。単に彼女の容姿がずば抜けて優れていると考えることもできるが、理由は他にもある。
 零の治世は三十二年に及ぶ。各都市によって騎士の平均任期は異なるが、十年から二十年が目安だ。騎士の交代が割と少ないアクアリウスでも三十年を超えて騎士の地位にある者は希だった。それだけ長い間、彼女の評判は語り継がれることになり、「希に見る美少女」という評価が定着したのであった。
 その「類希な美少女」が見守る国に相応しく、アクアリウスは美しい都市だった。神殿からこんこんと湧き起こる豊かな水は、街中に設計された水路を巡り、すべての穢れを十二宮流へと流し去る。建物はどれも白い石造りで、あちらこちらに埋め込まれた国宝石サファイヤが青い光を反射している。アクアリウスが「水の都」あるいは「青の都」と言われる所以だった。
 パン卿選定ご一行様が乗った馬車が着いたのは、水晶の神殿を臨む丘のふもとだった。
「ようこそ、アクアリウスへ」
 青白い薄衣に身を包んだ神官達が、馬車の扉を開けて五人を迎えてくれた。
「我らがカニュメディス卿におかれましては、明朝に謁見なさるご予定です。今宵は神殿の外宮にご宿泊下さい」
 案内された外宮で、まず夕食が振舞われ、その後に男女別にこざっぱりとした部屋が与えられた。
「私は街を見て来ようと思う」
「俺も行く。ついでに飯でも食おうぜ、さっきのじゃ足りねえや」
 ライサとタズーが連れ立って出掛ける様子が廊下から聞こえる。
 気持ちの高揚もあって、カミーラはそれなりに疲れていたし、明日の朝に備えてしっかり睡眠を取りたかった。だが、いかんせん、お腹が空いていた。夕食として出されたのは薄く削いだ野菜が入った簡素な粥だけ。カミーラは決して大食漢ではないのだが、いくらなんでも十七歳の胃袋を満たすには足りなさ過ぎた。
「ヘレン、私達も行かない?」
 同室となったヘレンを誘ってみるが、彼女は寝台にぼーっと座ったまま動かなかった。
「私はいいわ。お腹空いてないし、もう眠いから」
「あ、そう? じゃ、私は行くね」
 あれだけ話しまくっていたのだから疲れていて当然だと思い、カミーラはそれ以上は誘わず、貴重品の入ったポシェットを掴んで部屋を出た。
 夕暮れ時の街には小さな市場が点在していた。食べ物の屋台もたくさん出ているし、雑貨店や衣料店も多い。
 色々と物珍しくて、カミーラはあちこち見て回った。
 カプリコルヌスにも出店はたくさんあるが、すべて観光客用ばかりで、どれも一般市民にとっては割り高な値段だった。
 カミーラは学校帰りの買い食いもあまりしたことがない。カプリコルヌスでは義務教育は初等科までなので、十七歳ともなれば働いている者が大半だった。現にカミーラの二歳年下で中等科最終学年の妹も高等科に進学する気はないらしく、ここ最近は近所のお土産工房で雑貨作成のアルバイトに勤しんでいる。そんなこともあって、自分が親に金銭的に負担をかけているのは重々承知しているので、カミーラはお金を自由に使う気にはなれなかった。
 アクアリウスでは外食が市民の生活の一部となっているのだろう。先ほど外宮で案内してくれた神官と同じような服を着た人が、店先で饅頭を頼んでいた。学生らしき少女二人組は大きな綿飴を分け合いながら歩いて行く。あちらは大工職人だろうか、屋台でカウンターで麺を立ったまま啜っているし、その横の簡素な椅子では、買い物帰りらしい大荷物をしょった女性が赤ん坊に汁物を食べさせていた。
「おーい、カミーラ」
 突然呼ばれて、カミーラは思わず辺りをぐるぐる見回してしまった。この異国の地でカミーラのことを知っているなんて、騎士候補の誰かに違いないのだが、夕飯時の人の多さは半端ではない。どこに誰がいるのか見つけられない。
 困って足踏みしていると、ポンっと肩を叩かれた。吃驚して振り向くと、相変わらずふにゃふにゃした悪びれない顔で、セディがのほほんと立っていた。
「やあ、カミーラもご飯食べに来たの?」
「う、うん。お粥だけじゃ、さすがに少ないもの。それに」
 周囲を見渡してから、周りに聞こえないように声を潜める。
「この国が菜食主義で動物を食べないのは知ってたけど、あれはボリュームなさすぎ。賓客扱いにしろとは言わないけど、騎士候補なんだし、もうちょっといい食事を出してくれてもバチは当たらないと思うんだけど」
 セディも同感だったらしく、初めて苦笑を見せた。
「おいらも食事とかは全部出してくれる物で間に合うと思ってた。お金もそんなに持ってこなかったし」
 困ったように屋台の前に立てられたメニューを一瞥する。
「そうよね、観光で来たんじゃないんだし。って、え……嘘でしょ」
 セディの視線の先を追って、カミーラは言葉を失くした。
 高い。カプリコルヌスの観光価格よりも更に高額な値段が、当たり前に書き付けられていた。
 黄道十二宮国家連合の12の都市国家では共通通貨が使われている。金貨、銀貨、銅貨の3種類を持っていれば、どこの国でも自由に売買ができるはずであった。
 しかし、都市国家間の格差は今、カミーラ達の目の前に確実に存在していた。
 結局、二人はお金を出し合って、とりあえずお腹が膨れそうな量が入ったパンのセットを買い、神殿へと通じているらしい階段の隅に腰をかけた。飲み物も欲しかったが、これもまた目玉が飛び出るほど高い代物だったし、街のあちこちに水飲み場が設置されているので、我慢した。
「わかってはいたけど、現実を見るとショックだわ。うちの国って本当に貧乏なのよね」
 パンを噛み切りながら、カミーラはため息を吐いた。何も入っていない、簡素な揚げパン。
 セディは豆入りの塩パンを苦労して飲み込んでいた。
「なんか、めちゃ硬いし、しょっぱいだけだね」
「そうね。私、もうチーズが恋しい」
「おいらも。あと、生野菜が食べたい」
「言えてる」
 そんな会話をしながら、段々食欲も失せてしまったのか、最後にはこれまた硬そうなパンが一つ残ってしまった。
「カミーラ、食べる?」
「無理。明日の緊急用にでもとっておくとしますか。これじゃ、朝ごはんも期待できなさそうだし」
 カミーラが預かることにして、パンを袋に詰め直す。
 夕焼けが暗くなって行くに連れて、人通りは目に見えて少なくなった。屋台も次々に営業を終えていく。青白い街灯が付き始めて、涼やかな街並みが浮かび上がる。
 二人とも、これ以上外にいる気にはなれずに、どちらからともなく宿泊先の外宮に足を向けていた。
 水路に流れる水の音だけが、冷ややかに響いている。
「カミーラはさあ、何で騎士になりたいと思ったの?」
 突然、セディが訊いてきた。
 そんなこと、ライバルに言えるものかと思ったが、セディの邪気のない笑顔に毒気を殺がれてしまった。
「騎士になりたいって言うか、今のカプリコルヌスのままじゃダメって思っただけよ。国を変えるために私に出来ることは何かって、ずっと考えてたの。観光開発の方針とか、具体的な政策とか。縁様が推し進めてきた自然保護の方法も、全部やめるんじゃなくて、一部は継続する必要があると思っているのよ。パーン神が認めたとすれば、私のそういう気持ちじゃないかしら」
「へえ、すっごく真面目なんだね。おいら、そんなこと考えたことないや」
 どういう意味だ、と突っ込みを入れたくなった。そういうことを考えていないなら、何故セディは候補に選ばれたのか。
 だが、何も言わなかった。
 考えていないはずがない。カミーラを油断させるために言わないだけだろう。他人に言わせておいて自分は言わないなんて、卑怯だと思った。
「あ、ライサとタズーだ」
 外宮の少し手前で、タズー達と出逢う。
「おお、お前らも出てたのか。飯、食えた?」
「お腹は膨れたわ」
 カミーラの微妙な言い回しに、タズーはガハハと笑った。
「だよなあ。有り得ないよなあ、あの価格は。観光用じゃねえから、値切りもできなかったし」
 タズーは後ろをふと振り返って、ポリポリと頭を掻いた。
「俺の宿、もうちょっと値上げしてもいいじゃねーかと思ったぜ」
「ああ、なるほど」
 カミーラは笑って見せたが、すぐに引っ込めた。タズーの冗談っぽい言い方に、幾分か本気が含まれているような気がしたからだ。
 そういっている間に、ライサは無言でさっさと外宮に入ってしまった。
「何、あいつ? 不機嫌ね」
「ああ、まあな」
 タズーは言葉を濁して、何も言わなかった。
  二人は喧嘩でもしたのだろうか。だとしたら、一方的にライサが臍を曲げたに違いなかった。
 タズーとライサは馬車でもずっと、仲良く談話しているように見えた。それは二人の気が合うのではなく、タズーが下手に出て、ライサの自尊心を刺激しないようにしていたからだ。さすがに接客の基本を心得ている。誰とでもそつなく付き合えるタイプだ。カミーラには喉から手が出るほど欲しくて、得られない性格。それが騎士という役割に必要とは限らないけれど、彼の口調を盗むのは有益そうだった。
 一方、ライサの高慢な言い方は、誰でも頭に来るはずだ。それに気づかないはずがないのに、自分は特別だとでも思っているのか、彼は傲慢な口調を改めない。正真正銘のエリートなのだろうけれど、謙虚さに欠ける。ただ、騎士の選抜という過程においては自信に満ちた自己顕示も大事かもしれない。アピールの上手い下手で選定されたくはないが、自分の売りを伝えられなくては意味がない。
「じゃ、また明日ね」
「おうよ。ゆっくり休めよ」
 宿泊部屋の前でタズーとセディと別れて、カミーラはそっと中に入った。
 室内は締め切られていて、暑くは無いが、ちょっと蒸す感じだった。
 物音一つしない。ヘレンはもう熟睡しているのだろう。それでも、できるだけ静かに備え付けの水瓶から銅製の洗面器に水を汲み、手足と顔を洗う。そして、空気を入れ替えようと窓を開けた。ひんやりとした涼やかな風が流れ込んでくる。
 日はとっくに沈んでいたが、街中の灯りと青いサファイヤの反射で神聖な感じの光に満ちていた。
 と、廊下側の寝台で、ヘレンが寝返りを打つ気配がした。
「あ、ゴメン。起こしちゃった?」
「ううん、大丈夫。寝てなかったから」
 蚊の鳴くような声に、カミーラは違和感を感じた。
 明らかにヘレンは具合が悪そうだった。つい数時間前まであんなに元気だったのに。
「ヘレン、どこか痛いの?」
「うん、ちょっと……生理痛」
 ヘレンの目が薄く開いた。薄緑の瞳が涙に煙っている。
「いつものことなんだけど、今回はちょっと早くて……騎士候補に選ばれて、緊張してたんだわ。だから、予定よりもずっと早く来たみたいで」
「そっか。あるよね、そういうことって。痛み止めとか、使ってるの?」
「うん。でも、タイミング逃しちゃったみたいで、効きが悪くて」
「そっか」
 カミーラは冷たい空気が入り込んでいた窓を閉めた。
「ねえ、ヘレン。私、腹巻を持って来てるんだけど、使う? 温めた方がいいんじゃない?」
「いいの? 助かるわ」
 ヘレンはとても嬉しそうに微笑んだ。
 カミーラは卓上のランプを点けると、自分の荷物の中から色鮮やかな腹巻を取り出す。道中寒いと困るからと、近所に住む祖母に出発の朝に無理やり持たされたのだが、意外なところで役に立った。
「まあ、とてもカラフルね。なんだかお花畑みたい」
「派手でしょう。うちのおばあちゃんのお手製なんだけど、観光地に卸すセーターとか作ってる人なのよ。だから、普段着にするには困るデザインが多いのよね。腹巻だから、まだ良いんだけど」
「あら、素敵なおばあさまじゃないの」
 ヘレンの黄色い髪に、白地に明るい紫と橙色、黄緑の水玉が散ったデザインはよく似合っていた。
 カミーラの心がチクリと痛んだ。
 同性の目で見ても、ヘレンは華やかで綺麗だった。寝床で乱れていてさえも、豊かな髪は艶やかに見えるし、体調の悪さを抑えて絞り出した笑顔すら華やかで素敵だった。腹巻を渡す時に触れた手は見た目よりもずっと荒れた肌をしていたけれど、それは当たり前だと思い至る。ヘレンは実家のレストランを手伝っていると言っていたから、洗い物なども頻繁にするはずだ。手が荒れているのは当然だった。
 それでも手入れをは怠っていないのだろう。服装も持ち物も高価な物ではなさそうなのに、何故かセンスが良いと思わされる。全身に自分の美しさへの自信が満ち溢れているように見えた。
 普段から明るくて華やかで、こんな時でも綺麗で、羨ましすぎる。妬ましすぎる。
「カミーラ、ありがとう」
 ヘレンの表情は穏やかだった。穏やかに見せていた
「ごめんね、カミーラだって早く寝たいのに、迷惑かけちゃって」
「べ、別に迷惑だなんて思ってないわよ」
 どもってしまった。本当は迷惑だと思う気持ちが心のどこかにあるのかもしれない。純粋に優しくもなれないし、かと言って関係ないふりをすることもできない。そのくせ、感謝されるのは悪くないと思っている。偽善者だ。その中途半端さが表面に出てしまう自分が嫌だった。
 口からは全然違う言葉が出てくる。
「どう、寝られそう?」
「うん、ありがとう」
 またお礼を言って、ヘレンは長い睫毛に縁取られた瞼を伏せた。
 カミーラは卓上ランプを消すと、窓側の寝台に潜り込む。仰向けに寝転がって、すぐに窓の方を向いた。ヘレンに背を向けるように。
 わかっている。他人を羨んだって何にもならない。羨ましいと思うくらいなら、それに追い付き、並んで、追い越せるように努力をすればいいのに、自分は何の能力も持っていないし、何の努力もしていない。
 自分は何が魅力なのだろう。何が自分の売りなのだろうか。
――――カミーラはさあ、何で騎士になりたいと思ったの?
 先刻のセディの言葉が脳に甦る。
 国のための方策なら色々考えている。でも、詳細までは考えられていない。面接で具体的なことを訊かれたら、何と答えればいいのだろうか。
 カミーラは本当に小さくため息を吐いて、そしてギュッと唇を噛み締めた。
 負けない。負けたくない。負けられない。
 自分は騎士になりたいのだ。自分が世界を変える。救ってみせる。
 パン卿への就任はカミーラの夢だった。誰よりも信頼していたルカにすら言えない、秘密の夢。青年期に達せば、自分に騎士候補の神託が下ると心の隅で信じていた。
 生活そのものに不安があったわけではない。安定した未来を手にするために、コツコツと努力することだって可能だった。それが一番楽な生き方なのだろうと思いながらも、このままではダメだという根拠の無い不安を消せなかった。
 だから、欲しかった。世界へ大きく羽ばたくための手段が必要だった。それも何の当てもない旅ではなく、自分の実力が認められて温かく迎え入れられることが前提での出発が望ましかった。現実的な策として、高校を出たら首都に行って、飛びっきり良い仕事に就いて、自分の行きたいように生きる。そう思っていた。
 突然のルカの事故死。悲しみと、頼るものを失った不安。そして、下った神託。
 すべてが運命に思えた。今の自分から脱皮するために、パーン神がくれた最高のチャンス。
 騎士になるしかない。他の候補を蹴落としてでも、自分が栄光を掴んで見せる。カミーラには大した能力も技術もないけれど、国を任せられる自信があった。今まではチャンスがなかっただけだ。そう、お膳立てさえあれば何だってできる。
 万が一、騎士になれなくても、しみったれたあの田舎町には戻らない。帰れない。
 絶対に負けない。絶対に勝ち上がって見せる。
 カミーラは自分の心に何度も言い聞かせながら、やがて眠りに就いた。



 翌朝早く、カミーラは文字通り飛び起きる羽目になった。
「うー、何の音ぉ?」
 寝ぼけた声を絞り出したヘレンは、毛布に頭を埋めてしまう。
 建物の外から響いたガラーン、ゴローン、ゴワーンという巨大な音は一分ほども鳴り続けて、ようやく収まってくれた。そして、今度は何やらブツブツ言う声が這い上がるように聞こえてくる。
 奇妙な感覚に鳥肌が立った腕をさすりながら、カミーラは窓の外を見やって、橙色の目を真ん丸くした。
「信じられない。朝っぱらからこんなに人がいるし、皆で祈ってる」
 ヘレンも寝床からゆっくりと這い出した。
「礼拝の時間なのかしら? まだ6時にもなってないじゃないの」
「そうだよね。って、ヘレン、起き上がって大丈夫なの?」
「ありがとう、随分良くなったわ。おばあさまの腹巻効果は抜群ね」
 ヘレンが屈託なく笑ったので、カミーラはちょっと安心した。
 彼女の体調が気になったまま面接に臨むのは嫌だなと、眠りに落ちる寸前に思ったからだ。自分勝手な考えだけれども、大事な試練なのだ。心に引っ掛かりは無い方が良い。
「良かったら、そのまま使ってて」
「いいの? ありがとう」
 朝食は6時からと言われていたので、二人は服を着替えて、昨日夕食が振舞われた食堂へと向かい、また目を丸くする羽目になった。
 食卓の上には、昨夜は何の間違いだったのだろう、と尋ねたくなるくらい大量の食事が並んでいた。炊き立てのご飯の芳しい匂い、添えられているのは大根の油漬けらしい。揚げ茄子に玉ねぎ、トマト、茹でアスパラを合わせた酢漬けは大皿にたっぷり。胡麻油の香りは青菜と芋の汁物から漂ってくる。炒めた米粉の麺は人参と干し豆腐入りで、ボリュームがありすぎるくらいだ。更に、甘い豆の水菓子付きときた。
「俺は理解したぜ。この国は超朝飯重視派なんだな」
「そ、そうみたいね。それでもって、夕食はあれが普通なんだわ」
 先に席に着いていたタズーの感想に、カミーラも即座に納得した。
 昨日、屋台で見かけた人々は夜になってから仕事をしたり、あるいは帰宅に時間がかかるような人達だったようだ。そう言えば、学生二人組は帰宅すると言うより、これから学校に向かう雰囲気だった。昨日の簡素な粥は、何もせずに寝るだけの騎士候補には軽い食事が良いだろうという、この国の人々の判断であったらしかった。
 ヘレンとライサも困惑は隠せないようだった。
「うちの国では、朝はパンとチーズくらいだものね」
「私はそもそも朝は食べないのだが」
 とりあえず、いただきます。手の込んだ食事を残すのは気が引けるので、五人は黙々と食べることに専念した。だが、ヘレンはまだ本調子ではないようで、それほど食が進まないようだし、ライサに至っては慣れない朝食に悪戦苦闘している感じで、早々に水菓子に手を付けていた。
 意外にもセディは、細身の見た目に反してムシャムシャと食欲旺盛に平らげていて、二人分くらいは余裕で食べそうだった。
「カミーラ、昨日買ったパンさあ」
 そんな調子で口にものを詰め込んだまま、セディが話しかけてきた。
「ちょっと、もごもご喋んないでよ」
「ごめんごめん。あれってさあ、本当はそのまま食べるんじゃなくて、こうやってスープに浸すんだってさ」
 神殿の食事係に聞いたらしく、麺を汁物に沈めて見せてくれた。
「だから、あんなに硬くてボソボソしてたのね。納得だわ」
 隣りの国なのに随分な違いようだった。
 食文化の違いに驚かされながら、やはり食べ切れなくて残してしまったので、申し訳ないと食事係の皆様に平謝りして、食堂を後にした。休んでいる時間はない。既にガニュメディス卿のもとへ向かう準備ができていると言うことなので、五人は宿泊した部屋に戻って、急いで荷物をまとめると、神殿で用意してくれた馬車に乗り込んだ。
 すると、後ろから一人の若者が追いかけて来た。服装から見ると食事係の一人らしい。
「良かった、間に合いました。あまり召し上がっておられないようでしたので」
 そう言って、ライサに渡してくれたのは竹の皮で包んだおにぎり。
「……ご、ご厚意に感謝いたします」
 多少顔が引き攣らせながら、ライサは包みを受け取った。
 よく晴れた朝だった。太陽の光を受けて、丘の上の内宮はキラキラと輝いている。白亜の王宮もまた、街を凌駕するかのように、堂々とした体躯を見せていた。
 馬車は急勾配の丘を螺旋状に進んで行く。この道はガニュメディス神殿の内宮や王宮へ向かう参道なのだと言う。途中で、歩いて行く人々を次々に追い越して行く。
「王家の方々と上位の神官のみが、馬や乗り物を用いて通ることができます」
 御者を務める神殿の衛兵がそう教えてくれた。
「もちろん、ガニュメディス卿もですよね」
 カミーラは問いかける、と言うより世間話程度に話を繋げたのだが、衛兵の横に座る中年の女性巫子は首を傾げた。
「外出なさることがあれば馬車をご利用になるかと思います。ですが、私めは零様のご就任の頃よりお仕えしておりますが、零様が当神殿の内宮を出られたことは一度もないと記憶しております」
 目を丸くしてしまったカミーラに、タズーが「事実らしいぜ」と言うように目配せした。ライサは眉をひそめ、ヘレンも驚きを抑えるように口元を指で押さえている。セディは聞いているのか、いないのか、顔を見る限り半分夢の中だ。
 この国の騎士でありながら、この国を見ない騎士。神殿に籠もり、おそらくは民に姿を見せることもめったになく、王族や神官、巫子達に取り巻かれて、崇め奉られるだけ。正に象徴でしかないガニュメディス卿。
 カミーラは無性に腹が立って来た。
 そんな役割の騎士なら、居ても居なくても同じではないのか。誰がなってもいいような存在に選定されるなんて、馬鹿にされているような気すらした。
 カプリコルヌスではそんなことはしていられない。少なくとも現パン卿は常に全国を飛び回ってきた。カミーラの住む田舎の町でも、青灰色の髪を無造作にかきあげながら、不機嫌そうに視察をする縁の姿を見たことがある。町長や役場の説明を受けながら、あれができていない、これができていない、と自ら裁定を下すのだと聞いた。町役場に勤める父曰く、「他人をまったく信用していないから」らしく、普段仕事の愚痴など何一つ言わない父の言葉だけに、カミーラの記憶に強く残っていた。だが、それだけ縁は自ら先頭に立ち、責任の所在を明確にし、批判も堂々と受けているのだ。ルカはそんな彼の潔さを尊敬していると言っていた。
 国が違うというだけで、こんなにも役割が異なるなんて、これだけ話を聞かされても信じられない。
 内宮の門の前で、荷物を置いたまま馬車を降り、巫子の案内に従って敷地内へと入った。アクアリウスへ着いた時にヘレンが水晶の城と称した内宮は、素材はガラスだろうか、透明な外壁の向こうに神官の姿がちらほら見える。しかし、奥には更に壁があって、その向こうにまた透明な壁。壁は青白い光を反射して、奥の方はまったく見えない。
 幾つもの扉をくぐって階段を上がっていく内に、こぽこぽという水の音が聞こえるようになる。十二宮流が湧き上がる音だ。この神殿の中心部、ガニュメディス卿が居る場所に、その源泉があると言われている。
 寒いわけではないけれど、空気が冷たい。澄みきっている。神聖、という言葉が頭に浮かぶ。
 分厚い扉を開けて、通されたのは広々とした円形の空間だった。ガラスで壁も床も天井も囲まれた部屋。
 いや、違う。カミーラは目を凝らして、その輝きに圧倒された。
 人工の輝きではない。この部屋はすべてキラキラと反射する本物の水晶でできているのだ。歩くたびにカツーン、カツーンと部屋中に何度も木霊する。まるで輪唱のように。
 真ん中に置かれた丸机に案内される。五人が等間隔に並んだ椅子に座ると、巫子は静かにその場を去った。
 誰も何も言わない。緊張の面持ちで、ガニュメディス卿の登場を待った。
 緊張感が漂う中、さらさらと水の流れる音だけが耳に届く。
 やがて小さな足音がかすかに聞こえてきた。それは少しずつ明瞭になっていくのに、部屋を円形に囲む壁に反響して、どこからガニュメディス卿が現れるのか、まるで見当が付かなかった。
 時間にしてほんの二、三十秒のこと。随分長く待ったように感じた。
 かすかな衣擦れの音と共に、水晶の重なりで功名に隠された出入り口から現れたのは細身の少女だった。
 カミーラは偶然その正面に座っていたため、突然ガニュメディス卿と視線を合わせる羽目になった。そして、緊張も忘れるほど驚いて、思わず息を呑んだ。
 吸い込まれそうだった。青い、青い、その瞳に。
 ガラス玉のようだった。昔、近所の工房で作らせてもらった蜻蛉玉を思い出す。透き通った青一色だけを選んで、丸く溶かした簡単な物。他の色で柄を付けたら良いのに、と工房の職人には笑われたけれど、何の曇りも無い青の球体をカミーラは心底美しいと思った。いつの間にか失くしてしまったけれど。
 その青の双眸は一瞬だけカミーラを見つめて、すぐに反らされた。
 カミーラの様子に、皆もガニュメディス卿の位置がわかったらしい。ふいに、ガニュメディス卿に背を向ける位置になっていたタズーが起立し、つられるように全員が立ち上がった。
 しかし、ガニュメディス卿は何の反応も示さなかった。部屋の奥、カミーラ達が入って来た扉に相対するように置かれた透明な椅子の傍へ進んで行く。
 力を籠めたら折れてしまいそうなほどに華奢な体は、襞をたっぷりとった青いワンピースに包まれていた。それを引き摺るようにして、ゆっくりゆっくりと歩を進めている。一歩一歩がとても億劫そうに、わずかな距離に時間をかけている。
 光沢を放つ濃紺の髪は、首元できっちりと切り揃えられていた。透けそうなくらい青白い肌は、わずかに桃色を帯びた唇を不自然にすら感じさせる。生気のない、まるで作り物。
 ようやく水晶の椅子の傍に立ち、彼女はパン卿候補に向き直った。
「ようこそ、ガニュメディス神殿へ」
 鈴の鳴るような美しい声。
 しかし、それを発した唇はほとんど動いていなかった。音を何倍にも響かせるこの部屋でなければ、果たして聞き取れたかどうか不安なほど小さな声だった。
 現ガニュメディス卿、名を零。国内外でその美しさを称えられる騎士は確かに並外れた美少女であった。
 ただし、それは人形のような。小首を傾げ、半開きの唇で薄く微笑み、細かい睫毛でびっしり覆われた瞼は瞬きを忘れていた。
「どうぞ座ってください」
 鈴の声に促され、五人はぎこちなく席に着いた。ライサは図らずもガニュメディス卿に背を向けることになり、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
 カミーラも完全にではないが、半分くらいは背を向けている。だが、逆にほっとした。あの人形の顔が視界に入るなんて落ち着かない。現に、ガニュメディス卿と相対する位置になったヘレンは目を泳がせている。もっとも、その隣りに座るセディは相も変わらずのほほんとしているのだが。
「それでは、わたくしからの面接を始めます」
 感情の籠もらない声は淡々と続けた。
「わたくしはこのアクアリウスで騎士を務める零です。あなた達にはこれから五つの国で面接を受けてもらいます。その後、カプリコルヌス以外の騎士全員の話し合いで次のパン卿を選びます」
 繰り出される言葉は楽曲の調べのように澱みなく、カミーラは聞き逃さないようにと、内心で自分を叱り付けた。
 だが、気にせずにはいられなかった。
 鈴の声と無機質な愛らしさ。彼女が同じ空間にいて、息をしていて、声を出して話しているということに違和感すら感じるくらいだ。あまりに人間的でなく、それゆえに神聖さすら感じさせる存在。
 ガニュメディス卿の話は早くも今日の面接の内容に進んだ。しかし、与えられた題目はカミーラが思っていたようなものではなかった。
「それでは今から、カプリコルヌスをどうしたいかを自由に話し合ってください」
 それだけ告げると、ガニュメディス卿は後は何も言わずに水晶の椅子に腰を下ろした。
 自由にどうぞ、と言われるのが一番困る。面接なのだから、騎士が候補に質問をして、それに候補が答えるのだと思っていたのに。
 どう火蓋を切ろうかと他の候補を伺う間も無く、即座にライサが改まった口調で口を開いた。
「では、討論時間を区切るために、私がタイムキーパーを務めましょう。題目は自らが次期パン卿に選定された場合、騎士として実現したい政策についてということでいかがですか?」
 しまった、とカミーラは臍を噛んだ。
 これは来学期に授業でやる予定の集団討論というやつだ。教科書に出ているのを読んだ限りでは、タイムキーパーは時間を調整することで集団を仕切り、討論の展開や収束に貢献しやすい役割らしい。時間という誰にとっても共通の概念を調整するため、難易度も低く、それなのに目立ちやすい。
 ライサは明らかに集団討論に慣れている様子だった。高等学校で法律を学んでいるだけはある。
 まずい。この場を完全に仕切られてしまう。
 しかし、カミーラは何も言えなかった。ライサのやり方は正統すぎて、反論できる余地がなかった。変に発言をして、全体の流れを乱すことになれば、議論を暴走させようとしていると見られてしまうかもしれない。
 他の候補も無言だった。ぽかんとしている感じだ。
 暗黙の内に司会兼時間調整役を担ったライサは、先ほどの苦渋の表情から一転して、自信のありげな微笑みを浮かべていた。
「まずは、各自の具体的な政策案を述べていきましょう。時間は各自が二分程度、その後まとめに五分を取る。それでどうですか」
「具体的な政策案って、例えばどんなの?」
 のんびりとした声が響いた。セディだった。
 カミーラが横目でライサを見ると、自分のテンポに横槍を入れられて、ちょっと気分を害したようだった。
 それを見て、カミーラは自分でも不思議なくらい落ち着いた気分になった。嫌な性格。
「自分がパン卿に選ばれたら何を提案したいのか、アイデアを発表するということでいいですよね? これまで縁様が行ってきた観光産業への規制をどこまで撤廃するのか、とか」
 隣席のヘレンが頷いてくれたのが見えて、カミーラは我ながら上手く言えた、とほくそ笑んだ。
 そうだ、候補の五人はそれぞれ今まで生きて来た背景が違うのだ。だから、頭ごなしに教科書通りの言葉を並べても、セディやヘレンには意味が掴めない。
「あー、そういうことね。ありがとう」
 セディも納得してくれて、ライサが咳払いと共に再度口火を切ろうとしたのだが、意図してか偶然か、タズーがタイミングを奪った。
「政策っていうテーマだと広すぎだし、うちの国で今一番問題になってる経済のことに絞るってのはどうだ? あと、もう一つ提案なんだが、こういう時って多分敬語で話すもんだと思うんだが、それは無しにしたい」
「いいわね。そうしましょうよ」
 ヘレンも同意し、ライサは肩を竦めてから鷹揚に頷いた。
「では、経済問題に的を絞ってそれぞれの対策案を述べてくれたまえ。タズーから、いかがかな?」
「言い出しっぺだからな」
 タズーは鼻の頭を掻きながら、話し始めた。
「うちの国はもう何年も経済が上手く行っていない。これは誰もが感じていることだ」
 そうだ。カミーラが生まれた時から、世の中は不況だった。いつか好転すると言われ続けてきたが、大きな改善は見られていない。
「その原因は縁様が出した自然保護策だよな。自然を守ろうって理由で、うちの国のほとんどの人が関係してる観光の仕事がどんどん減っちまった。まずは今の規制をある程度廃止するべきだと思うんだが」
「異議あり」
 ライサがすかさず反論した。
「現パン卿は我が国の自然の荒廃を止め、国土を守るために選出された。そして、その功績は他国からも評価されてきた経緯がある。観光業界がその自然資源を活用している以上、撤廃など有り得ないことだ」
 ライサのきつい物言いに、タズーは怯むことなく、むしろ面白がっている風でもあった。
「確かに俺達にとって自然は大切な資源だし、守ることが大事だ。でも、そこにいる人間を守ることも同じくらい大事だと、俺は思う。今の法律は違反の基準が厳しくなるばかりで、民を締め付けすぎてる気がするんだよな」
「つまり、罰則の見直しということか」
「そういうことだな。ただでさえ何処も彼処も経営難なのに、その上に罰金が乗っかってる状況だ。俺が騎士になったら、まずここを見直すな」
「だが、現パン卿とて無意味に厳罰化を強いたわけではない。我が国の民が規制を守らないからこそ、罰則を設けなければならなかったのであり、罰則の緩和は過去の状況に戻ることになりかねないだろう。私も基準自体の見直しには着手したいと考えているが、罰則の程度については君とは意見を異にするな」
 カミーラはタズーの言い分に共感を覚えた。あれをしてはいけない、と年々増えたり厳しくなったりする規制。やっとすべての基準に対応したと思ったら、更なる規制がもう出されている。市民が守りたくなくなるのは当然だと思う。
 しかし、ライサの言い分にも一理あった。それまで自然破壊に対する規制が皆無に等しかったカプリコルヌスで、罰則を伴う規制政策に舵をとったことは縁の大きな功績であり、他国からも評価されている。特に法律の国リブラは、カプリコルヌスの行政機関やライサの通うパン高等学院などに法務知識者を派遣したりして、莫大な労力を以って支援をしている。縁の政策を否定するのは、他国の騎士の支援をも否定することになる。
 自分の意見がまとまらなくて、カミーラが悩んでいると、ぽつりと呟く声があった。
「本当に縁様のせいなのかしら?」
 ヘレンだった。意外に響いてしまった独り言に、慌てたように顔を上げた。
「あ、あの、タズーとライサが言ってることは両方とも理解できるんだけど、今の国の状況って縁様のやり方だけが問題なのかなって思って。確かに観光のお仕事が少なくなって、仕事には就きにくくなったと思うわ。実際に私もそうだから、すごく理解できるの。でも、今のカプリコルヌスが外国の人にとって魅力的なのかどうか、つまり……つまりね、また観光に来たいと思ってもらえるような国じゃないと思うの」
 ヘレンの意見に、カミーラは目を丸くした。
 観光産業に従事して、客の反応を肌で感じているからこその意見だ。そのようなことを、カミーラは考えたことがなかった。カプリコルヌスは他国の人々にとって魅力的な観光地に違いないと思い込んでいたから、観光産業を盛んにしたり、種類を増やすことばかりを考えていた。
「なるほど、その節はあるな」
 同じく観光業に従事するタズーが唸った。
「俺も客が満足してるのかどうか、いつも気にはなってた。実際のところは訊いてねえけど、何度も来てくれる人は結構少ねえな」
「そうでしょう。それに、今あちこちで特産品を作り出したりして、何とか自分の地域をお客さんに気に入ってもらえるように工夫してるけど、そういうのって本当に喜ばれてるのかもわからないのよね」
「そういう調査が大事なんじゃない?」
 そう言ってから、カミーラは自分が発言したことに気が付いた。思い付きなのに。全然考えがまとまってないのに。
 四人の視線が自分に集まっている。忘れかけていたが、背後からはガニュメディス卿も見ているはずだ。
 カミーラは落ち着いて見えるように、精一杯虚勢を張った。
「根本的なことを言えば、何かして欲しいって言うだけじゃなくて、どうしたらもっと良くなるのか、自分にできることは何なのか、一人一人が考えて行動することが大事だと思うな。もちろん、政府や役所は皆の意見をまとめるのが仕事なんだし、そこは利用すべきよね。例えば、タズーがお客さんに不満な点を訊いて、それを他の宿とか地域と共有し合って、行政や政府がちゃんと有効な調査をして、皆でアイデアや情報を共有できれば、国全体で何を改善すればいいのかが見えて来るんじゃないかしら」
 ちゃんと言えた。
 内心では、民衆の意思に任せるなんて、政策を執るパン卿を目指す者が言うべきことではないようにも思う。しかし、言わずにはいられなかった。
 縁の政策を非難するのは簡単なことだ。そして、実際に取り締まっている役所に文句を言うのはもっと簡単だ。役所で苦情処理に追われて来た父は、行政とはそういう役割だとも言っていた。しかし、今のカプリコルヌスはそれだけで終わらせている。自分達で考える意志が欠けている。
「個人的な立場では、私もそう思う」
 俯きかけたカミーラは、ライサの呟くような声にぐっと視線を上げた。
「傲慢に聞こえるかもしれないが、我が国の人々には自らが解決しようという気持ちがない。だからこそ、現パン卿のように強力な指導者が求められたのではないだろうか。政策として行き過ぎがあったために、今回の罷免に至った訳だが……」
 ちょっと重苦しい雰囲気で話が止まってしまい、ライサは落としていた視線を上げる。
「他に意見はないだろうか」
 カミーラはそっとセディを見つめた。彼だけが発言していない。
 もしかしたら、何の意見もなくて発言できないのかもしれない。あるいは、言い出しにくいのか。いずれにしろ、意見を促してライバルに点数を与えるような真似なんて……
「セディはどう思うの?」
 心中の一部に反して、カミーラはセディに話を振っていた。何て中途半端にお節介な性格なのだろうか。
「えっと、おいら、全然話に着いて行けてないんだけど」
 セディは困ったように頭を掻いた。
「経済の話なんだよね?」
「あ……そ、そうね。そうだったわね」
 カミーラの意見は、話を国民の精神論に発展させてしまっていた。話を暴走させたな、と反省する。
「おいらもヘレンと同じ意見なんだけど、カプリコルヌスに何度も来る人って決まったタイプの人達だと思うんだよね」
「そりゃ、個人的にも詳しく聞きてえ話だな」
 タズーが素直に身を乗り出した。
「たとえばさあ、うちの国の湿地とか自然を見たいだけで来る人って、よほど好きじゃない限りはリピーターになんないよね。でも、怪我や病気の治療のために来る場合は、同じ人とか同じ国から何度も来てるよ。リラックスしたいからって、おいらもよく仕事させてもらってる」
 カミーラはピンと来て、大きく頷いた。
「それって西部地区の話よね。湯治目的の観光客が年々増えてるって聞いたわ。ヴィルゴからも結構来てるって」
 黄道十二宮国家連合の中で一番経済的に発展していて、娯楽も多いと言われるヴィルゴの民衆すら惹き付ける温泉施設。いや、その中にはヴィルゴの国民だけではなく、ヴィルゴを拠点の一つとして貿易を展開する、黄道十二宮国家連合外の国の商人達も含まれているだろう。お金持ちの彼らは多額の金を落として行くに違いない。この地区の観光開発は経済発展に繋がると、カミーラは睨んでいた。
 しかし、セディの意見は少し違うものだった。
「うん、ヴィルゴからの人もいるね。でも、おいらがよく呼ばれるのはレオとかゲミニの人かな」
「え? レオって、どうして……」
 カミーラは目を丸くして、授業で配られた統計資料を必死に頭に呼び起こした。
 軍人国家であるゲミニやレオから怪我の治療目的にやって来るという背景は理解できるが、どちらの国もカプリコルヌスからは随分遠いし、観光客の内訳としては大きくはなかったはずだ。特に、レオはそれほど裕福な国ではない。セディの仕事は楽士のはず。何故、悦楽目的の演奏が軍人達に求められるのだろうか。
 ヘレンが小さな声で訊いた。
「もしかして、戦争のトラウマ治療とか?」
「うん……詳しくは聞かないけど、そうみたい。長いこと滞在する人も多いしね。それでさ」
 セディは少し悲しそうな顔をして続けた。
「大きな戦争が終わった後にはたくさんお客が来る。一回じゃ治んないから、何度も。そういうお客が増えるかどうかって、おいら達には操作できないことで、来るか来ないかは他の国の状態にかかってるから、おいらに仕事を斡旋してくれる人達はどこで誰が戦って、どのくらい被害があったかとか、すごくよく調べてるよ」
 そう言って、セディは下を向いてしまった。他人の不幸を食い物にしているように思って、内心では恥じているのかもしれない。
「セディの言うとおり、外的要因は間違いなく大きいな。他の国からの客でも、航路内で危険の可能性があれば激減するだろうし、向こうの経済状態が芳しくなくなれば、我が国は引き摺られて大打撃だ」
 ライサが明るめの声で経済の話題に戻してくれたので、カミーラは意気込んで発言した。
「だからこそ、施設の充実は必要だと思うの。うちの経済が外からの観光客で成り立ってるんだから、外の状況によって一時的に客が減ることは仕方ないじゃない。それにそういう影響を受けるのは観光業に限ったことじゃないし、いちいちそれで縮小するんじゃなくて、客を呼び込める時に備えた産業を支援するべきよ」
 タズーとヘレンも口々に言った。
「そういう絶対に人を呼び込める方面に集中して、開発とかサービスを充実させていくのが大事かもな。西部の温泉街はまだ未開発の部分も多いらしいし、これからも伸びるかもしれねえ」
「他の国にだって観光産業はあるんだし、勝てるもので勝負しないといけないわね。方向をちゃんと絞れば、自然の保護とも両立できるんじゃないかしら?」
「本当にそれで客を呼び込めるのか、徹底的な調査が必要だな」
 ライサは肯定的な口調でまとめて、全員を見回した。
「今、八分を過ぎたところだ。既にある程度意見がまとまったと思うのだが」
 他に意見は出なかった。
 何だか良い討論ができたような気がした。自分の発言内容には自信はない部分もあるが、全員がそれぞれのアイデアを言えたし、おおまかに意見はまとまった。
 カミーラはホッとして、無意識の内に力が入っていた肩をそっと下ろした。
「以上ですか?」
 瞬時に背筋が凍った。
 ガニュメディス卿はずっとカミーラの背後に居たのだ。一回思い出しただけで、あとはまったく気が付かなかった。これが面接だということをすっかり忘れていた。
 ライサがさっと立ち上がってガニュメディス卿の方を振り向き、タズーとカミーラもそれに続く。ヘレンもわたわたと起立し、セディはだいぶ間があってから立ち上がった。
「はい、我々の一致した意見としては、発展する可能性の高い観光産業への集中的な支援が必要と考えています。現行の自然保護策については、各自程度の違いはありますが、見直しをしつつ、産業の発展と両立させていく所存です」
「そうですか」
 興味のなさそうな相槌に、ライサがゴクリと喉を鳴らしたのがわかった。
「では、わたくしからあなた達に質問させてください」
 最初から手にしていたのだろうか、ガニュメディス卿は羊皮紙を膝に置いていた。その一枚を取り上げて、視線を落とす。
「ハーレンディア」
「あ、はい」
「町の特産品を作ることには反対ですか?」
「そ、それは……反対と言うわけではなくって」
 訊かれているヘレンと同じくらい、カミーラも焦った。ガニュメディス卿の存在を忘れて、随分と好き勝手に発言してしまったことを悔やんだ。ちゃんとチェックされていたのだ。
 答えに詰まってしまったヘレンに、ガニュメディス卿は小首を傾げた。
「あなたの意見を聞きたいだけです。思っていることを話してください」
「は、はい。あの、地域の特産品そのものに反対なのではなくて、ちゃんと成果が出せるようにしたいんです。私の地域では、頑張っているという自己満足に終わってしまっていて、観光客受けする品物ができない理由を縁様のせいにしたり、時には買おうとしないお客様のせいにしたりしています。成果をちゃんと評価されたり、支援してもらえるような制度があればいいなって思っています」
 ヘレンが恐ろしく早口で捲くし立てたので、カミーラはガニュメディス卿がちゃんと聞き取れたのだろうかと、ちょっと心配になった。
 自己満足ではなく成果そのものを評価して支援する制度。言葉にしてしまうと綺麗事だけれど、それはとても大切だと思った。ヘレンは地元で働く中でもどかしく思い続けてきたのだろうか。
「そうですか」
 相変わらずガニュメディス卿の声は無機質だった。彼女は次の羊皮紙を手にした。
「ターズラム」
「はい」
 どうやら年齢順らしい。予想をつけていたのか、タズーは落ち着いていた。いや、そう言えば、タズーが感情を剥き出しにしたところを見たことがない。
「今ある中で、どの自然保護策が必要だと思いますか?」
 タズーが答えるまで、少し間があった。彼が主張していた見直すべき政策ではなく、ガニュメディス卿は逆に残しておきたいものについて尋ねて来た。
 人形に見えて、こういった面接にかなり慣れている。失礼にも、カミーラはそんなことを思ってしまった。よくよく考えれば、相手は在位三十二年の第三長老。見た目の可愛らしさに騙されたが、実年齢は五十歳程度にはなっているはずだ。慣れていて当然だった。
 そんなことを考えていて、カミーラはタズーの答えを聞き逃した。
「サンダッドリー」
 質問の相手は次に年長のセディに移っていた。心的外傷を負った軍人相手の仕事のことを訊かれなければいいのだが、と心配になった。そんなことを尋ねてきたら、このガニュメディス卿は馬鹿か鬼かどちらかだ。
 だが、セディに出された質問はごく一般的なものだった。
「何故、パン卿になりたいと思ったのですか?」
 それは自分に訊いて欲しいと思った次の瞬間、カミーラはセディの回答に目が転げ落ちるかと思うほど驚かされた。
「おいら、パン卿になりたいなんて思ったことはありません」
 咎めるようにヘレンがセディの名を囁いたのが、かすかに聞こえた。
 カミーラだって同じ気持ちだった。しかしセディの表情を伺うと、彼は見たことのないくらい真面目な顔をしていた。
「では、あなたがカプリコルヌスのためにできることは何ですか?」
 少し沈黙の間があったが、セディは冷静だった。
「今のおいらには難しいことはわかりません。必要なことは学びながら、できることからやっていきます」
 具体性がなさすぎる、とカミーラは思った。しかし、自分が同じことを訊かれたら、何と答えただろうか。
 ガニュメディス卿は特に反応せず、
「ティブライサ」
と、ライサに矛先を変えた。
「観光の仕事の中で何に興味がありますか?」
 ライサが硬直するのが、カミーラにも伝わった。彼は観光業に従事してはいないし、将来的にもその可能性は多くはない。
 だが、ライサは意外な切り口で語り出した。
「私が一番興味があるのは、我が国固有の動物を紹介することです。我が国は守護神パーンの恩恵を受け、七色の聖鳥や湿地に住む希少な動物達がいます。ですが、観光施設の乱立によって絶滅の危機にある種類も少なくなく、私はそれらを守りながらも観光資源として活かせる方法を探しております」
 言い切ったライサに、ライバルながら凄いとカミーラは思った。彼には負けるかもしれない、と。単なる勉強好き、法律主義かと思っていたのだが、ライサが厳罰の緩和に渋る理由が少しわかった気がした。
「カミュロリエ」
「はい」
 やっとカミーラが呼ばれた。だが、飛んで来たのはあまり答えなくない質問だった。
「あなたの周りの人は、あなたがパン卿の候補に選ばれたことをどう思っていますか?」
 ガニュメディス卿がどこまで候補の出自や経歴を知っているのか、カミーラにはわからないが、できれば触れて欲しくない項目だった。
 カミーラはルカのことを思い出した。きっと喜んでくれている。
「私には人生の先輩のように思っている人がいます。彼女は私の背中を押してくれました」
 曖昧な表現に留め、先ほどの討論でも話題になった政策構想を口にした。
「私達は以前から自然保護策の問題点や、さっき話題になった温泉街への投資についても話し合ってきました。その思いが認められたことを、私達は嬉しく思っています」
「そうですか」
 ガニュメディス卿はそれ以上突っ込んでは来なかった。何とか平静を装ってはいたがカミーラの心臓は飛び出そうなほどにドキドキしていたので、詳しく訊かれなくて助かった。
「では、わたくしからは以上です。あなた達から質問はありますか?」
 互いを探るような間があってから、ライサが挙手した。
「今回の選定についてお聞かせください。どのような基準で次のパン卿を選定されるのか、差し支えない範囲で結構ですので教えていただけますか?」
 ガニュメディス卿はゆっくりと首を傾けた。
「どんな人が今のカプリコルヌスに必要なのか、色々なことを考えて合わせて選びますが、今あなた達が持っている能力だけが基準になるのではありません。選ぶのは面接をする騎士だけではなく、現パン卿以外の12人の騎士が話し合って決めることです。それぞれの騎士の意見は違いますから、基準も同じではありません」
「わかりました。丁寧なお答え、ありがとうございます」
 ライサは一礼して質問を終えたので、カミーラはさっと挙手した。
「あの、騎士同士の関係について教えてください。それぞれの国の騎士はお互いに協力し合って、たとえば政治をなさったりしているのでしょうか?」
「政治のことはわたくしは関わりませんから、他の国の騎士に訊いてください。あと、すべての騎士は協力する関係にあります。でも」
 ガニュメディス卿は青い目を少し細め、また開いた。
「誰もが仲が良いという訳ではありません」
 その瞳が放った光に、カミーラはドキッとさせられた。
 黄道十二宮国家連合の名の下に、それぞれの騎士は協力し合うのが当たり前だと思っていた。騎士に選ばれれば、他国の騎士から自動的に信頼され、仲間として受け入れられると思っていた。そんな甘い考えを見透かされた気がした。
 人間関係は騎士同士でも大事なのだ。普通の世界と同じで。
 カミーラは自分の心が急速に沈んでいくのを止められなかった。たった13人しかいない騎士。上手くやっていく自信なんかない。
「今のカミーラの質問に関係するんですが」
 今度はタズーが尋ねた。
「もしパン卿に選ばれたら、零様のように今回の選定に当たる騎士とは、今後何か特別な関係になるんですか?」
 特別な関係とは何のことなのか、カミーラはタズーの質問の意図が掴めず、少し首を捻った。
 だがガニュメディス卿には通じたようで、答えは澱みなく返ってきた。
「あなた達がパン卿になった後、面接をした騎士や就任に賛成した騎士が積極的にフォローやアドバイスをする可能性はあります。ですが、それも義務ではないですし、あくまで国と国、人と人との関係に任されています」
 ライサが再度質問を投げかけた。
「騎士の職務は各国で異なると思うのですが、ガニュメディス卿からご覧になって、パン卿に必要な能力や気を付けるべき点というものは何かありますでしょうか?」
 ガニュメディス卿はまた首を傾ける。どうやらその仕草は、何か考えながら話す時の彼女の癖のようだった。人形めいた風でもあったが、それでも何も動きがないよりはずっと人間らしく見えた。
「そうですね。わたくしは縁の他に二人のパン卿を知っていますが、みんな議会との話し合いをとても重視していたようです。カプリコルヌスの議会の人達はそれぞれの地方の代表と聞いていますので、国民との対話を大事にしているのだと思います」
 カミーラは少し意外に感じた。噂によれば、縁は議長として議会を完全に牛耳っていて、行政機関との衝突が絶えないと聞いている。市民に対しても自分の理想を押し付けるばかりで、対話を重要視しているというイメージはカミーラの中にはなかった。カミーラが持つ縁に対するイメージは伝聞の産物の面は否定できないし、同じく騎士であるガニュメディス卿が見ているものとは全然違うのかもしれない。
 少し間があってから、ヘレンがおずおずと手を挙げた。
「あの、私は政治のやり方とか国のこととか、難しいことはよくわからなくて、そういうことって皆さんはどうやって学ばれたのですか?」
 それはカミーラも是非知りたかった。退任する騎士からの引継ぎがあるのか、あるいは他に教えてくれる人が傍にいるのか、それとも他国の騎士から何らかの手助けがあるのだろうか。だが、その質問をガニュメディス卿に投げても無駄なような気がした。
「ごめんなさい、別の国で訊いてもらえますか? これも国によって違うので、わたくしもよくわからないのです」
 やはりガニュメディス卿の回答は意味を為すものではなかった。
 他の質問を確認するように、ガニュメディス卿は五人の顔を順繰りに見ていく。
「他にありますか?」
「さっき、おいらが訊かれたことなんですけど」
 突然発言したのはセディだった。
「ガニュメディス卿は騎士になりたいって思ったんですか?」
 大きな青い瞳が再びスッと細められた。そして、ガニュメディス卿は何か感情の波を堪えているような、ちょっと泣きそうな表情を見せた。
「思ったことはありません。でも、わたくししか選ばれませんでしたから」
 カミーラは一瞬驚いて、そして物凄く納得することができた。このガニュメディスが纏う雰囲気が現パン卿とあまりにも違うのは、そもそも騎士に選ばれた時の心構えから違ったわけで、当然のことだったらしい。
 カミーラはパン卿になりたいと思い続けてきた。ヘレンやタズー、ライサも漠然とでも何かやりたいことがあって、騎士になることでその願いを叶えようとしているはずだ。セディも騎士になりたいとは思わなくても、無意識下で何か願いがあるのかもしれない。
 しかし、ガニュメディス卿は違ったのだと言う。そして、望んでもいない境遇に三十二年間も居続けている。
 カミーラはゾッとした。
 彼女は一人しか選ばれなかったのだと言う。五人も候補がいる自分達とは違って、ガニュメディス卿になる運命から逃れることはできなかったのだ。巫子にかしずかれ、平和の象徴として王や市民から崇め奉られながら、神殿に籠もり続けてきた。この人形のような姿は果たして生来の姿だったのだろうか。
「じゃあ、騎士になったことを後悔してますか?」
 重ねて問いかけたセディに、カミーラは思わず叫びそうになった。酷いと思った。
 しかし、ガニュメディス卿は静かに微笑んだ。
「いいえ。運命ですから」
 次の句を誰も繋げなくて、さらさらと水の流れる音だけが聞こえていた。
 ガニュメディス卿がスッと立ち上がる。
「それでは、これでわたくしからの面接を終わります」
 五人は慌てて頭を下げて、彼女の退室を見送った。
 しばらくしても誰も来ないので、候補達は椅子に座り直して指示を待つことにした。
「……セディ、さっきの質問は酷いんじゃないの?」
「ほへっ?」
 カミーラの言う意味がわからなかったらしく、セディは助けを求めるように隣席のタズーを見た。
「酷いって言うか、あんまり良い感じはしないよな。本当は騎士になりたくなかったのに、断れなかったわけだしよ」
 セディは空色の瞳をパチパチさせた。悪気があったわけではないらしい。
「で、でもさ、それでも今も騎士であり続けてるわけだし、それがあの人の選んだことなんじゃないの?」
「セディって意外に冷たいのね」
「ガニュメディス卿は王の意向にも左右される立場だ。自分の意志ではどうしようもないこともあるだろう」
 ヘレンとライサにも呆れたように言われて、セディはちょっとしょんぼりしてしまった。
 と、この部屋に入った時に通った扉が開いた。先ほど案内してくれた巫子が待っていた。
「どうぞ、こちらへ。ピスケスへの馬車が待っております」
 どうやら休んでいる間はないらしい。早速、次の面接地への出発だった。
 五人は巫子に従って、水晶の部屋を後にした。
 次の訪問国はアクアリウスの南西、十二宮流に沈む双魚都市ピスケス。
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