始まりは何度でもある

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  6 at Cancer  

 十二宮流の流れは宝瓶都市アクアリウスで湧き出でて、そこから二方向に分かれて各国を巡る。二つの流れは最終的に巨蟹都市カンケルの流域で合流し、大海原へと注いでいくのであった。
 豊かな河口に囲まれたカンケルは浜辺の国とも呼ばれ、海産物の水揚げが盛んである。黄道十二宮国家連合の中で唯一、十二宮流に触れても平気なのがカンケルの周辺であり、それは国土を取り巻く砂が十二宮流の溶媒力を殺いで、無害な物にしているためだった。
 国の守護神は全天の女王ヘラ。最高神ゼウスの姉にして妻であり、結婚の女神でもある。しかし、ゼウスの浮気に対して怒りを抑えず、復讐の鬼と化す一面もあった。
 現在のヘラ卿は女性で、名をじんという。まだ在位四年を過ぎたばかりで、アリエスのかくに次いで、任期の浅い騎士である。落ち着いた赤紫の髪を短くまとめて、服装も飾り気のない腰丈のシャツと短いパンツスタイルで、彼女の活動的な性格をよく表していた。
 いつも慌しく政務に当たっている彼女なのだが、今は浜辺に面した神殿の執務室に足止めされていた。仕事ではない。隣国の先輩騎士がやって来ているせいである。
 仁は今日何度目かのため息を吐いた。
「だーかーらっ、何にも困ってることなんてないって、さっきから言ってるじゃないですか」
 叫んだ矛先は長椅子に寝そべったまま、ニヤニヤするばかりである。
「何だよ、つれねーな。おめー、騎士を選ぶ役になんの、初めてじゃんか。何でもいーんだぜ。この豪様が何だって答えてやるから、遠慮すんなって」
 他国に入り浸っているのは、隣国の獅子都市レオのセレネ卿だった。ごうと呼ばれる彼は、その名の通りの野性味を感じさせる大男で、有数の戦士でもあった。敵国との度重なる戦闘で付いたのか、半裸の背中に目立つ大きな刀傷を始め、大小様々な傷が日に焼けた肌に刻まれていた。
 その強さを黄道十二宮国家連合内外から恐れられている豪だが、名前の如く豪快に笑う顔は人懐こい。性格も大雑把だが飾らない人柄なので、仁も度々お世話にはなって来たのだが、こうもしつこく迫られると度を超して鬱陶しい。
「大丈夫ですって。選定って直感でいいんでしょう? 事前に知識を付けたってしょうがないし」
 仁の言い分に、豪はもったいぶってチッチッチッと指を振った。
「そんな単純なもんじゃねーの。騎士に選ぶってことはよ、そいつを後輩として後々まで貢献するって意味なんだぜ。選ぶ方の責任は、おめーが思ってるよりデカイわけ。この俺様だって、陰に日向におめーの成長を見守ってやってるだろ」
「陰に日向にって、一体いつ陰にいたことがあるんですか!」
 いつも真正面で目立ちまくっているくせに、と思うだけ無駄とわかっていながらも、仁は反射的に突っ込んでしまった。
 だが、この四年間、豪に助けられてきたのは事実だ。今のカプリコルヌス同様、経済的に厳しい状況にあったカンケルを立ち直らせるため、仁は今までのヘラ卿の政策を大きく修正している。国民からの反対の声は小さくなかったが、隣国レオの圧力が真正面からそれを押さえ付けた。
 豪だけではない。もう片方の隣国である双児都市ゲミニの二人組みや、アリエスの先代フリクソス卿、第二長老である天蠍都市スコルピウスの騎士にも、仁は就任後から今までに随分と世話になって来た。
 自分のことを顧みれば、確かに選定役に選ばれる理由は存在するようにも思える。しかし、それが今回の仁にとって何なのか、彼女には検討が付かなかった。
 黄道十二宮国家連合内で言えば、カプリコルヌスはカンケルからは一番遠い国であり、歴史的に見ても親交が深い間柄とは言えない。四年前に仁がヘラ卿に選ばれた際、現パン卿のえんは選定役には当たっていなかったし、その後も語り合う機会はなかった。
 そんな国の騎士を選ぶのは気は乗らないのだが、神託に文句を言っても仕方がないと諦めている。
「責任が重いのは覚悟しています。先輩面するわけじゃないけど、私の経験を活かして、次のパン卿の相談に乗るくらいは役に立てるんじゃない?」
「おっ、ポジティヴじゃん。その調子だぜ」
 そう言いながらも一向に帰ろうとしない豪に、仁はいいかげん頭に来た。つかつかと歩み寄ると、寝そべる彼の頬っぺたを両側から抓る。
「おいおい。何すんのよ、おめーは」
「安心したのなら、人の国で油を売ってないで、とっととレオに帰りなさい」
「何だよ、いいじゃんかよ。たまにはゆっくりさせろって」
「いっつもさぼってばっかりでしょうが!」
 鬼の形相で更に頬を引っ張ると、さすがに豪も悲鳴を挙げた
「あでででででで! いだいっづーの」
 彼の大きな手が仁の手首を掴み、自分の頬から易々と外させる。
 だが、その力は右側がいつもより微妙に弱かった。
「ねえ、ちょっと」
 仁は険しい表情で、豪の右肩をにらんだ。
「この前の戦闘で毒矢を受けたって言ってたところ、まだ治ってないんじゃないの?」
「え……あー、まあ」
 ばつの悪い顔で、豪は視線を逸らした。
 騎士はその任期の間は不老の身体を与えられ、多少の病気や怪我に関しては、普通の人間よりも回復が早い。しかし、病気にならないわけではないし、酷い怪我であれば治りも遅いので、治療しなければ命にも関わる。
「ほら、すぐには治んねーんだよ。時間薬って言うだろ」
「放っておいたら、いつまで経っても治りません。今すぐにスコルピウスに行きなさい」
 その国の名を聞いた途端、豪は目を白黒させて立ち上がった。
「俺様、用事を思い出した。また今度にするわ」
「嘘おっしゃい! 今の今までさぼってたくせに」
 逃げようとする豪の耳を掴んで、仁は神殿奥の池へと連行していく。
「あでで、痛えってば! やだ、ぜってぇ行かねえ。あの女の陰険な顔を思い出すだけで、傷口がじゅくじゅく悪化するー」
「陰険とは何ですか、失礼な。騎士の身体をも蝕む猛毒なのよ。そんなもの、あの方にしか治療できないのに。どうしてすぐに行かなかったのよ、まったくもう」
 喚く豪を叱り付けながら、仁は12色の宝石に縁取られた、石造りの円形の池の前に立った。心の中でスコルピウスの騎士、ガイア卿に語りかける。
 しばらく待って見るが、水鏡には何の反応もない。池にはめられた真っ黒なヘマタイト(赤鉄鉱)も静まったままだ。
「いないみたい」
「おー、ラッキー。助かったわ」
「はぁっ? 自分のことでしょう。ちゃんと診てもらいなさいよ」
 憤慨してにらみつける仁の視線を避けて、豪はそっぽ向いた。
「ああ、何でこう、カンケルの女騎士はあの女が大好きなわけ? 俺様、超悲しい」
「何をブツブツ言ってるの。いい? 完治するまで、うちには出入り禁止にしますからね」
「おめー、つれねえなあ。わかったよ、後で行きゃ良いんだろ、ガイア卿のとこに」
「後日、確認を入れますからね」
「ああっ!? おめーは俺様の母ちゃんかよ!」
「そんなことをさせてるのは誰なんですか!」
 神聖な池の前で怒鳴りあう騎士二人。
 と、その睨み合いを中断させたのは、池から放たれた藍色の光だった。
「ゲッ! って、何だ、黒じゃねえのか。ややこしい」
 一瞬、光の色を黒と間違えた豪は、勘違いとわかって胸を撫で下ろす。
 藍色の光は最も北に位置する国、人馬都市サギタリウスの騎士がカンケルへの来訪を尋ねている印であった。ちなみに黒はその隣国スコルピウスを表す色である。
けいだわ。彼も今回のパン卿選びの役に当たっているから、その相談かもしれない」
「だろうな。あいつにとっちゃ縁は恩人みてーなもんだし。よっしゃ、何でも聞いてやろうぜ」
 そう言って、自分は帰る気がないのが見え見えだった。
 仁は諦めて、水面に向かい、
「どうぞ」
と、声をかけた。
 揺らぎ一つなかった水鏡に波紋が現れ、やがて光が藍色に盛り上がって、人の形を作った。
「あれ、誰かしら?」
 仁の目がとらえた人の形は、どう見ても二人分だった。
「まさかガイア卿じゃねえだろーな。ん、待てよ……ぐへー、ほんかよ!」
 片方の姿が白く光っているのに気が付いて、豪は本当に悲鳴を上げた。
 豪が確信した通り、白い光から現れたのはアフロディテ=エロス卿こと翻であった。
 逃げる間もあればこそ。豪が回れ右をして駆け出そうとした時には、水鏡から身軽に飛び出した翻が舞うような優雅さで豪の首に腕を巻きつけたのであった。
「豪、なんて久しぶりの逢瀬だろうね。カンケルにしょっちゅう来ていると聞いたけれど、ピスケスには随分とご無沙汰なこと。つれないことをしてくれるよ」
「ぐへえー! バッキャロー、首っ! 首絞まる。ってか、いちいち俺様に抱き付くなっ!」
「何を照れているのだか。私とそなたの仲だろう? ほら、大人しく」
「どわー、唇寄せんな! 仁、助けろ! 敬、おめーも綺麗さっぱり無視すんじゃねーっての」
 喚く豪に我関せず、サギタリウスの騎士であるケイロン卿が落ち着き払った様子で水面を離れ、仁に歩み寄った。名を敬、細めの縁無しの眼鏡の向こうで、青緑の目が思慮深い光を放っていた。
「失礼、邪魔をしてしまいましたか?」
「いいえ、全然。豪をスコルピウスに放り込もうとしていただけです。右肩を毒矢でやられたのに、また放っておいてるんですよ」
「おめー、ばらすなっての!」
 豪の叫び虚しく、翻は艶かしい手つきで豪の肩を撫ぜた。
「おやまあ、また怪我をしたのだね。やせ我慢をするでないよ。さあ、私がしっかり看てあげるから」
「やめい! その方がよっぽど危険だっての!」
 今にも水鏡上に引っ張られそうになった豪は必死に翻を振り解き、すっ飛ぶようにして仁の後ろに隠れた。
「ああ、酷い。私よりも仁を選ぶなんて」
 翻はよろめいて、今度は敬の肩にしな垂れかかった。
「ねえ、敬。私には魅力がないのだろうか?」
「……誰よりもお綺麗だと思います。男ですが」
 敬は前半はかなり棒読みで、後半を若干強調して言ってのけた。そして顔の硬直は全然隠せていない。
 それでも翻は一応満足して、ようやくこの国の騎士である仁と顔を見合わせた。
「仁、久方ぶりだね」
「ええ、ご無沙汰しています。お元気そうですね」
 本当に挨拶でしかない普通の挨拶をごく普通に交わすと、翻は打って変わって真面目な顔になった。
「察しているだろうけれど、私も今回の選定には少し戸惑ってしまってね。それで敬に相談にしていたのだよ」
 一応事実も入っているだろうが半分は嘘だと、仁は確信した。
 パン卿選定の議題を口実に、翻はサギタリウスに押し掛けたに違いない。翻は敬のことも、豪と同じくらい気に入っているのだ。豪は翻とは一年違いで騎士に就任して付き合いも長いせいか、これでも逃げ回る対処法を心得てはいる。だが、もっと年少の敬はいまだに手玉に取られていて、ことあるごとに玩具にされている有様だった。ちなみに翻は金牛都市タウルスのエウロペ卿にもかなり惚れ込んでいるのだが、彼はもう少し世渡り上手で、さらっと翻の誘惑をかわしているようだった。
 騎士になった当初、仁はこの翻のあからさまな態度に驚いたものだったが、自分には特に関係がなかったせいもあってすっかり慣れてしまっていた。
「相談と言うのは、騎士の候補となった五人のことですね」
「そう。彼らの資料を見たのだけれども、どうにも判断に困ってね」
 パン卿候補の五人の略歴等がカプリコルヌス政府から届いたのは、今日の朝早くのことだった。
 彼らの中から誰を選ぶべきか、既に十四年も騎士を務める翻でも何か迷うところがある様子。話は長くなりそうだ。
「立ち話もなんですし、軽く食事でもいかがですか?」
「あ、なんだよ。おめー、俺様には帰れって言ったくせに」
「はいはい、おいでなさい。私特製のキッシュをご馳走するわ」
 あっという間に機嫌を直した豪は真っ先に聖水の間を飛び出した。翻が絡ませようとした腕から逃れるために。
「ああ、もう」
 どうせ行く先は同じ。無闇に追い駆けることはせず、翻は敬ににこやかに微笑みかけた。
「せっかくだから我々もいただこう」
「はい、では有り難く」
 三人が連れ立って仁の執務室に戻ると、巫子達が食事の用意を整えているところだった。豪が先回りをして伝えたのだろう。
 仁は客人を置いて、一度厨房へと足を運んだ。料理人達がお辞儀をしようとするのを留めて、稼動中の天火の傍に立つ。巫子や神殿の衛兵などにも配るキッシュがぐつぐつと焼き上がったところだった。
「仁様、お客様にはどれをお出ししましょうか?」
 料理人の一人が鉄板掴みを手に訊いて来る。
「そうね。海老のアボカドソース仕立てと、ケイロン卿の分はどうしようかしら? 彼、蟹とか海老にアレルギーがあるから」
「では、鱈とアスパラにチーズを絡めた物をお出ししましょう。甘い物はいかがですか? すぐにご用意できるのは、レモンパイとアーモンドタルトです」
「うーん、両方二つずつにしようかな。半分個して皆で分けるわ」
 まずは焼き立てのキッシュをワゴンに乗せて執務室に戻ると、三人の騎士は円卓で顔をつき合わせて、巫子が淹れたお茶を片手に羊皮紙を覗き込んでいた。
「へー、宿の親父に食堂のねーちゃん、笛吹きに学生が二人ね。何の参考にもなんねー資料だな」
 カプリコルヌス政府が出した資料を、初見の豪は思いっきりケチをつけつつも喜々として読み込んでいた。
 別の意味で、翻も楽しそうに資料を眺めている。
「年齢は十七歳から二十四歳、割りと高めね。男は三人か。これはとても楽しみ」
「おい、審査とか言って候補を襲うんじゃねーぞ」
「おや、豪が妬いてくれるなんて嬉しいこと」
「違うわ、このたわけ! 敬、おめーからも何とか言ってやれ!」
 相変わらず続く掛け合い漫才を無視して、敬は仁を手伝い始めた。
「ありがとう。四角いお皿に盛ったのが、あなたの分です。白身魚は大丈夫でしょう?」
「はい、お気遣い有難うございます」
 騎士の肉体は病気や怪我に関しては、並々ならぬ免疫力と回復力を保つ。しかし、アレルギーは収まるものではないらしい。リブラのきんも、アストラエア卿となる前と変わらず花粉症に悩んでいると、よく愚痴を零している。
 すべて配り終えて、仁も自分の席に着いた。
「さあ、冷めない内にどうぞ」
「やっほい、いっただきまーす」
 真っ先に豪が喰らい付く。
 一方、翻はまず香りを楽しむように瞼を伏せた。
「これはまた美味しそうだね。ソースはえんどう豆?」
「いえ、アボカドです。カロリーは高くなっちゃうんですけど、濃厚なのに後味はさっぱりで、すごく美味しいんですよ。私の新開発の自信作です」
「なるほど。カロリーは夕食に配慮するとして、有り難くいただくよ」
「僕もいただきます」
 翻と敬も静かにフォークを差し入れたが、その時には豪は小型のキッシュをあっという間に平らげていた。それを見越していた仁は、余分に取って来ていた鱈のキッシュを豪の皿に盛った。
「おっ、サーンキュ」
「豪に優しいのだねえ。どうりで私が負けてしまうわけだ」
「違います。こうでもしないと、私の分まで食べられちゃうからです」
 翻の突っ込みに、仁は間髪入れず切り込んだ。
 そうやって豪を甘やかしていることには変わりないのだが、翻は苦笑しただけでそれ以上は突っ込んで来なかった。
「それで、何について迷っていらっしゃるのですか」
 食べながらで行儀が悪いが、仁は本題に入った。
「ああ、そうだったね。仁は今のカプリコルヌスの状態をあまり知らないだろうね」
「ええ、そうなんです。国としてもあまり関わらないし、縁とも付き合いがありませんし。それなのにどうして私が面接官に当たっちゃたのかしら、って思いましたよ」
 仁は自分の境遇を茶化したつもりだったのだが、翻と敬は笑わなかった。
「僕達もその点が気になっています」
 敬はフォークを置くと、先ほどから見ていた羊皮紙を広げ直した。
「候補者の経歴を見て下さい。五人中、学生を除いた三人は全員が何らかの形で観光産業に従事しています。当然、彼らは縁がやってきた自然保護策を否定し、再び観光業に力を入れようとするでしょう」
「なるほど、確かに。でも、それがパーン神の意志なのでしょう?」
「はい。ですが、カプリコルヌスの観光産業かつて、十二宮流そのものに影響を及ぼした経緯があります。北側の流域でカプリコルヌスへの批判が起こって、ついには他国の圧力で当時のパン卿を辞めさせたことがあるようなのです」
「他の騎士が辞めさせた?」
 仁は思わず、四人の中では最も任期が長い翻にすがるような視線を向けてしまった。
 騎士が交代する理由は様々だ。失政によって国民からの支持を失う場合、不慮の死や病などによる止むを得ない場合、そして他国の騎士によって黄道十二宮国家連合の一国を担うに値しないと判定された場合などがある。今回の縁は国内からの求めで罷免された形だし、去年辞任した先代フリクソス卿は国内外から惜しまれての退任だった。他国からの圧力で騎士が交代する実例を、仁はまったく知らない。
 だが、翻は静かに首を横に振った。翻も知らない頃の事なのだ。
「二十九年も前、先々代のパン卿が退任した時のことだから、今の長老陣しか知らないだろうね」
 今の長老陣とは、最長老のペルセポネ卿ことりょう、第二長老のガイア卿、そして今回最初の選定役であるアクアリウスのガニュメディス卿が第三長老である。
「そんなら、何でおめーらが知ってんだよ?」
 豪の質問に、敬は持参していた羊皮紙の巻物を広げた。
「先々代のケイロン卿が事の詳細を書き留めていました。僕は以前にこれを見つけていて、興味深かったので手元に置いていたんです」
「私もつい先程この話を敬から聞いてね、仁は知っておいた方がいいのではないかと思って、それで訪問したのだよ」
 仁は敬から手渡された巻物を、ざっと読んだ。
 三十年以上前から十二宮流の水質に異変が起きており、各都市国家で土地への侵食などの被害が見られたこと。それはカプリコルヌスの観光施設建設が原因と考えられ、各国から批判が相次いだこと。
 二十九年前に十二宮流北回り流域の6都市国家、サギタリウス、スコルピウス、リブラ、ヴィルゴ、レオ、そしてカンケルの騎士が連名で、抗議文を当時のパン卿に提出したこと。
 パン卿は一度はそれに応じたものの、具体的な対策を一切採らなかったこと。
 川の汚染に漁民達が業を煮やしたカンケルでは、当時のヘラ卿がゲミニに制裁の協力を申し入れたこと。ゲミニの騎士がそれに応じて、カプリコルヌス沿岸の警備についていた傭兵部隊を撤退させたこと。
 パン卿が当時の長老陣、最長老のケイロン卿や第二長老のペルセポネ卿(つまり現ペルセポネ卿)、そして第三長老であったアフロディテ=エロス卿に助けを求めたこと。長老陣との間で話し合いが何度も行われたが、パン卿との折り合いが付かず、決裂したこと。
 最終的には現ガイア卿がパン卿に辞任を促し、パン卿がそれに応じたこと。
 それらが几帳面な字で淡々と記されていた。
「こんなにもカンケルが絡んでいたなんて……当時のヘラ卿と言うと」
「おめーの先々代だな。そいつのことなら俺様が嫌ってほど知ってるわ。あいつ、そんくらいのことは軽くやるぜ。なあ?」
 豪に同意を求められて、翻は苦笑した。
「私は豪ほどには彼女と面識がなかったのでね。それでも気性の激しい人だったことは覚えているよ」
「激しいとか、そんな生易しいもんじゃなかっただろ、あいつは。でも納得したわ、何でおめーが今回のパン卿を選ぶ役になったのか」
「やっぱり関係があるのかしら?」
 仁の目が不安に泳いだ。
 まさか自分が生まれるよりも前の因果で選定役を担うことになったなんて思ってもみなかったのだ。次期パン卿の相談相手にでもなれれば、などと悠長に構えている場合ではないようで、一国を代表する騎士としての責務が突然重く感じられた。
「僕は無関係ではないと思います。パーン神からすれば二十九年前の問い直しなのではないでしょうか」
 敬は仁だけに言っているのではなかった。
 当時の最長老は敬の先々代、そして第三長老は翻の先代だ。そして第二長老だったペルセポネ卿は当時から変わらず陵のまま。選定役に任命された騎士の内、二十九年前の出来事と無関係なのはアクアリウスの騎士だけだが、当時のガニュメディス卿はまだ健在だ。当然、隣国カプリコルヌスに起こったことをすべて知っているだろう。
 仁は頭を抱えてしまった。
「ややこしい因縁ですね」
「そういうこと。だから我々は忠告しに来たわけ。知らないで選定するのも良くないかと思ってね」
「なるほど。お気遣い有難うございます。でも」
 仁は翻を見て、そして敬と豪にも順に視線を合わせた。
「面接が済むまでは昔のことは気にしない、ということではダメでしょうか?」
「おや、まずは人格で選びたいということ?」
「はい。候補から直接カプリコルヌスの現状や国への思いを聞いて、それから歴史を振り返るのでも遅くはないと思うんです。私は当時のヘラ卿ではありませんし、うちは国の指針も随分変わりました。所詮は過去のことですから変な固定観念を持ちたくないんです」
 それを聞いて、敬は元々表情の乏しい顔を少し歪めた。
「ですが、僕達はカプリコルヌスのことだけを考えるわけにもいきません。二十九年前のやりとりを繰り返すのは何が何でも回避すべきです。特にヘラ卿であるあなたは、重大な――」
 珍しく熱く言い募る敬の声を遮って、
「失礼いたします」
と、部屋の扉が開いた。巫子が冷製のスイーツとお茶のお替りを運んで来たのだ。
「おー、旨そう。これ何?」
 豪は議論を完全にほっぽりだして、甘い菓子に喰らい付かんばかり。
「分けますから、ちょっと待って下さい。手で掴まないのっ! こっちがレモンパイ、クリームの中に干し葡萄がたっぷり隠れてるわ。で、こっちはアーモンドに糖蜜を絡めたタルトで、甘さは一応控えめなんですけど」
 ちらっと翻を見やる。
「実に美味しそうだけれど、私は遠慮しておくよ。ニキビが怖いから」
 思った通り、翻は辞退した。そして、思った通り、
「よし、それじゃ俺様がもらってやる」
と、豪が満面の笑みを浮かべて早速パイに取り掛かった。
 結局、豪は計四つのキッシュやらタルトやらを胃袋に収め、満足して眠くなったのかソファにごろりと寝転がってしまった。
 絶対に議論から逃げたな、と仁は心の中で毒づいた。だが、文句は言えない。豪は今回の選定役ではないのだから、本当はこういった話し合いの場にいることも良くはないのである。
 仁は敬に向き直った。
「敬の気持ちはわかります。騎士の頻繁な交代は民を動揺させますし、その国だけでなく連合全体に影響することも理解しています。でも今のカプリコルヌスを救うためには、今のあの国にとって必要な騎士を、民の気持ちを代弁できる者をパン卿に選ぶことの方が私は大事だと思います」
 しばし二人の騎士は目線を戦わせた。
 やがて、敬は自分から視線を逸らした。
「相変わらず頑固ですね」
「放っておいて下さい。この性格は生まれ付きです」
「おやおや、あっさりと根負けかい?」
 仁が敬を軽く睨むと、翻は苦笑して見せた。
「でもね仁、私もこれだけは知っておいて欲しいのだよ。縁は伊達に二十三年もパン卿だったわけじゃない。昔の経緯があるから他の国の騎士も縁には協力してきた。特にリブラは先代の頃から相当な労力をかけて支援をしているし、アリエスも文句は言いつつも協力的だった。スコルピウスでさえ何かと便宜を図っていたようだからね」
「うわ、想像できねーな」
 豪が呻いたが、一同は聞こえないふりを決行した。
「こういった国を差し置いて私達が選定役になったのは、私にも偶然とは思えない。その理由に応えるかどうかは確かに各騎士の自由だから無理強いはできないのだけれど、過去は過去として心に留めておいておくれ」
 仁は少し迷ってから、はっきりと頷いた。
「私が思っていたよりも責任が重いことはわかりました。だから、こうします。面接が終わった後にガイア卿に相談に行きます。彼女は二十九年前のことに直接関わっているようですから」
「そうね、それが一番いいのかもしれない」
 翻は笑顔で同意し、敬も静かに頷いた。
 豪だけは不満そうだった。
「あの女がそう簡単に口を割るか?」
「大事なことはちゃんと話してくれる方です」
 その答えに豪はますます機嫌を損ねたらしく、完全にそっぽを向いてしまった。
「おやおや、仁が自分に構ってくれないから、豪が焼餅を焼いているよ。可愛いものだね」
「おい、てめー。いいかげんにしろよ」
「おや、いいかげんにしないとどうする? 私は何でも構わないよ」
「はあ!? じょ、冗談じゃねーぞ!」
 翻が舌なめずりをしながら立ち上がったので、豪は本気で怯えて飛び上がって執務室から飛び出した。
「逃がすものか。仁、水鏡を閉鎖しておいておくれ」
「はあ」
 仁が間の抜けた返事をすると、翻は実に楽しそうに、かつ優雅に豪を追って歩み去った。
 やがて聖水の間の方から豪の怒号と悲鳴が聞こえてきたので、仁は水鏡に門を開くように念じた。すぐに静かになった。
「あー、なんて騒々しいのかしら」
 眩暈を覚えて、仁は椅子に倒れこんだ。
「大丈夫ですか?」
「ええ、豪がうるさいのはいつものことですから」
「そうですか。それでは僕もお暇します。余計なことを言いに来て申し訳ありませんでした。それと、とても美味しかったです」
「いえいえ。こんな持て成しでよろしければ、いつでも来て下さい」
 礼儀正しく一礼して、敬は出て行こうとする。
 その背中が何だか寂しそうに見えて、仁はふと呼び止めてしまった。
「敬、あなた大丈夫? 今回の選定のことで落ち込んでるんじゃないの?」
「……わかりますか」
 振り向いた敬が見せた顔は本当に寂しげだった。
「まだ信じられないんです。縁は僕を選び、そして導いてくれた掛け替えのない人です。彼を失いその代わりを選ばなければならないなんて、神々がなさることはあまりに残酷だ」
「気持ちはわかるわ。私だって」
 一息吐いて、仁は天井を見上げた。
「万が一、次のガイア卿を選べって言われたら絶対に無理です。その時はきっと神を怨むでしょうね」
 できるわけがない。彼女は仁にとって恩人だ。だから敬の気持ちが痛いほどにわかった。
 敬は少し微笑んだ。黙礼すると部屋を出て行った。
 騎士が騎士を選ぶ。
 一体何のための仕組みなのだろうと、仁はため息を吐いた。守護神が他の神と相談でもした上で名指ししてしまえば、それで済む話なのに、何故わざわざ騎士に選ばせるのか。仁には納得がいかなかった。
 だが考えていても仕方がない。お皿を片付けながら、仁は一人笑った。
 ガイア卿に尋ねることがまた一つ出てきた。
 パン卿候補の面接が終わったら、彼女に会いに行こう。その時は勿論、できたてのお料理と一緒に。
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