始まりは何度でもある
8 at Capricornus
次代のパン卿候補達がアクアリウスで面接を受けている頃、渦中のカプリコルヌスでは隣国の人馬都市サギタリウスから訪問を受けていた。
しかし、現パン卿の縁は青灰色の縮れ毛をしきりに掻き揚げながら書き物に没頭していて、背後に歩み寄った気配に顔も上げなかった。
「今は手が離せん」
「終わるまで待っています」
そう言って、敬は籐で編まれた椅子に腰を下ろした。
開放的な室内を吹き抜けるそよ風と、縁がさらさらと筆を滑らせる音だけが絶え間なく聞こえる。
縁の背中を見つめながら、敬はいまだ信じられない事実に唇を噛み締めた。
この人が去ってしまう。
騎士の交替はよくあることだ。敬がケイロン卿に就任した二年後には、遠く離れた金牛都市タウルスでエウロペ卿が交替した。今から四年前には巨蟹都市カンケルで仁が就任し、去年は白羊都市アリエスで郭がフリクソス卿になったばかり。自分だって、いつ任期を終えることになるかわからない。
でも、縁は特別だった。
――――万が一、次のガイア卿を選べって言われたら、絶対に無理です。その時はきっと神を怨むでしょうね。
カンケルを去る時に仁が呟いた言葉は、そのまま敬の気持ちだった。
彼女にとってガイア卿が恩人であるように、敬にとっても縁は掛け替えのない人だった。九年前に敬の就任に力を貸し、その後もずっと導いてくれた。取り付く島も無い態度をよく見せるけれども、決して冷たい人ではない。具体的に悩みを打ち開けなくても、察していながら何も気付いていないふりをして、いつも通りに接してくれた。それが彼なりの優しさなのだと思う。
その彼の替わりを選定しなければならない。それが今回、ケイロン卿としての自分に与えられた職務。頭では理解していても、残酷な運命に敬はまだ戸惑っていた。
と、部屋の外に気配を感じた。
そっと横目で様子を見ると、扉の無い入り口の端からおずおずとこちらを伺っている顔があった。見覚えがある顔だった。縁が誰でも良いからと呼び付けると、いつも真っ先に駆け付ける巫子だ。
敬は物音を立てないように立ち上がって、そっと入り口まで歩み寄った。
「あ、あの……ケイロン卿にはご機嫌麗しく」
彼女は頭をペコンと下げた。
その手には大きな盆を抱えていた。そこには冷たい飲み物が入っているらしいガラス瓶と丸い壷、そしてグラスが二つ、腕には布巾をかけた籠をぶら下げている。
しかし、中に入らずに出入り口で躊躇していたことからして、縁が敬をもてなすために持って来させたわけではないようだった。
「よろしければ、僕からパン卿に渡します」
敬の申し出に、彼女の顔がぱあっと明るくなった。
「あっ、ありがとうございます。あの……二回目に鐘がなった日から、縁様はほとんど何も召し上がって下さらないし、ずっとお仕事をしていらして、あまり眠ってもいらっしゃらないようですし、私達どうしたら良いのかと……」
彼女は涙声になるのを堪えて、お盆と籠を敬に押し付けるように渡すと、「よろしくお願いいたします」と一礼して、走り去った。
そんなやりとりが聞こえていたはずなのに、縁は一向に振り向こうとしない。
「あなたも意外に罪な人ですね」
「……馬鹿が」
執務机の脇に受け取った物を並べる敬に、縁は視線を紙から上げないまま、言葉だけで凄んだ。
「ここの巫子達は随分とあなたに尽くしてくれているのに、彼女達にまでそのような態度をとらなくても――」
「巫子が騎士のために働くのは当然のことだ」
縁がジロリと視線を上げた機を捕らえて、敬はお盆に乗っていた濡れタオルを突き付けた。
「休憩にしませんか?」
少し睨みあってから、縁は舌打ちをして羽根ペンを置き、インクで汚れた手をタオルで拭った。
飲み物は香草入りの炭酸水。栓を開けると、シュワシュワという軽やかな音と共にミントの爽やかな香りが広がる。壷はレモンを漬けたシロップで満たされていた。
縁は小ぶりの柄杓を手にすると、慣れた手付きでレモネードを二つ作り、片方を敬に突き出した。
「ありがとうございます」
礼を言う敬から無言で目をそらして、縁は籠の布巾を乱暴にまくった。色とりどりのサンドイッチや、ジャムやらクリームやらを添えたスコーンがぎっしり詰まっている。端っこのスペースに水色の朝顔が飾ってあるのは、先ほどの巫子の心遣いだろうか。
縁は花に一瞬目を留めたようだが、何も言わなかった。無造作に籠に手を突っ込むと、青黴チーズと林檎のサンドイッチを口に放り込んだ。パン生地が緑色だ。ほうれん草でも練りこんでいるのだろう。食事をまともに摂らなくなった主のために、巫子達が心を砕いている様子が見て取れた。
それに気付かない縁ではない。しかし、彼にはもう時間も余裕も無かった。
「この法案だけは、何としてでも上げる」
縁の視線の先には書きかけの羊皮紙があった。隣りに椅子を運んで来た敬は、その文言をちらっと見やり、眉をひそめた。
自然保護法案の再改訂。これまでに増して開発や出店を厳しく取締り、現行では地方行政に任せている監視役を国から直接派遣した者に替えるという提案だった。
厳しすぎる。議会で審議し、仮にすんなりと法案として認められたとしても、具体的な要綱を煮詰める時間は彼には残されていない。
「次の騎士が反対すれば白紙になりますよ」
「お前達がそういう者を選ぶなら仕方がない。だが、俺の筋は通させてもらう」
縁の目は本気だった。悪あがきでやろうとしているわけではない。彼の意志を、そして彼を選んだこの国の民の意志を次代に託そうとしている。
もし次の騎士が縁とは異なる政策を打ち出そうとしても、二十三年もの長きに渡って務めた縁の置き土産を完全に無視することは難しいだろう。とりあえずのつもりで縁の意志を政策として実行してしまえば、それは次期パン卿にとって半永久的な呪縛となる。自分の考えを通そうとしても、縁のやり方を受け継いだ最初の実績に縛られかねない。
しかも、危険すぎる賭けだった。国民の失望は次代だけでなく、その楔を打ち込んだ縁自身にも向けられるだろう。これから一市民として生きていかなければならない縁にとって、賢いとは言い難い選択だ。
「あなたも怨まれます」
「覚悟の上だ」
縁はスコーンに濃厚なクリームをたっぷりと付けて、ガブリと噛み付いた。まだ口の中に入っているのにもう一つ、今度は黄色い南瓜のスコーンをつまんで、蜂蜜を塗りたくる。自分で食べるのかと思いきや、言葉を捜して半開きになっていた敬の口に押し込んだ。
「お前が気を回すことじゃない」
その声は恐ろしく静かだった。
「と言うより、余計なお世話だ。自分の職務に手一杯の奴が、余計なことまで考えるな」
ほら、ぶっきらぼうなふりをして、こんなにも優しい。敬が何に悩んでいるのか、すべてお見通しで、その上で突き放す。
詰め込まれたスコーンに咽たふりをして、敬は滲む涙を拭った。
「俺の置き土産を乗り越えられるかどうかは、次の奴の度量次第だ。俺が二十三年かけて築いた壁を崩せない程度なら、そいつの任期も大して持たない」
目を細めて、敬を見やる。
「お前の先代のように」
敬はぐっと息を詰まらせた。
縁の言っていることは事実だった。敬の先代は、その前のケイロン卿の八十九年に渡る治世を引き継いだものの、前任者と比べられる日々に早々に精神を擦り減らし、更に他国の騎士からも孤立して、黄道十二宮国家連合外に救いを求めた。そのことが敬への交替のきっかけになった。
そういう経緯もあって、敬は自分への代替わりの話をされるのが苦手だった。別に敬のせいではないが、先代の退位には少なからず負い目がある。
その場に立ち会った翻や豪は、いつも気を遣ってくれて極力当時のことは口にしないし、万が一その話題になれば、翻はさりげなく、豪はわざとらしく話を反らしてくれる。交替劇を企画して陰に日向に暗躍していたであろう長老3人も、当時のことは一切口にしない。敬からも話を持ちかけることはできず、自分自身への交替の全容を未だに知れずにいる。
「何だ、まだ自分の就任に納得がいかないのか」
だが、縁は容赦なかった。
「先代の影を気にする奴は必ず潰れる。俺は何度も忠告したはずだ」
「わかっています。それでも、間接的にでも彼女の命を奪ってしまったのは僕ですから」
「違うな。感傷的になるのもいいかげんにしろ。いつまで一学生の甘っちょろい気分でいるつもりだ」
「そんなつもりは……」
ない、と言い切りたかったのに言葉にならず、敬は俯いてしまった。
縁は長い人指し指に付いた蜂蜜をペロリと舐めとると、その第二関節で敬の顎を押し上げた。
「お前はサギタリウスを任されたケイロン卿だ。お前が潰れれば国が迷惑を被る。それを自覚できないから、お前の先代は滅びた。その二の舞を踏んで、また民に要らぬ苦労をかける気か?」
縁の切れ長の目に睨みつけられて、敬は一瞬たりとも視線を逸らせなかった。
厳しい意見だけれど、彼の言うことは正しい。
いつでもそうだ。縁は誰に対しても厳格で、常に正しいことを言う。大事なものを守ることが彼の正義であり、目的のためなら手段を選ばないし、他人を傷付けることも厭わない。
その真面目すぎる厳しさが自らの首切りに繋がったことを、縁は気付いているのだろうか。
「すみません。以後、気を付けます」
敬は縁から目を反らした。
聡いこの人が自分の状況に気付いていないはずがない。それでも自分でも止めることはできなかったのだろう。民からの信用を失くし、非難され怨まれても、彼自身の正義を貫くしかできなかった。
もし過去の自分が縁の置かれていた立場を理解して、押し留めることができたら良かったのに、と切実に思う。しかし、逆に支えてもらうばかりだった自分に一体何ができただろうか。せめて他の騎士が、特に縁より先輩格の4国の騎士達が動いてくれれば、事態は違っていたかもしれないのに。
縁は敬の顎から指を離し、視線も外した。
「悪いな。俺はもう、お前にこんな偉そうなことを言える立場じゃないのに」
「何を言ってるんですか。こういうことを真っ直ぐに伝えてくれたのは、あなただけです。本当に感謝して……」
その先が言葉にならなかった。堪えていた涙が止まらなくなった。
「あ、あの……す、すみ……ま、せん」
自分の体なのに言うことを聞いてくれない。涙も嗚咽も止まってくれない。
思わず顔を背けようとしたが、肩を強く抱かれた。そして、眼鏡が奪われた。
「相変わらずだな、お前の泣き虫も」
ほら、あんなに厳しいのに、こんなにも優しい。
縁の肩にもたれ掛かりながら、敬は静かに咽び泣いた。
でも、縁は誤解している。敬が泣くことができるのは、縁の前でだけ。他の騎士は敬にまともな喜怒哀楽があることすら疑っているだろう。
――――万が一、次のガイア卿を選べって言われたら、絶対に無理です。その時はきっと神を怨むでしょうね。
仁の声が頭の中で何度もリフレインする。
騎士が騎士を選ぶ。敬愛する先輩を退ける後任を選ばなければならないシステム。あまりに残酷すぎる。
敬の背を摩りながら、縁は静かに囁いた。
「そう気負うな。お前は俺を殺すわけでも、辞めさせるわけでもない。この国のためにちょっと手伝いをしてやるだけだ。重荷に思うなら、自分が面倒を看やすそうな奴を選ぶんだな」
それは適当すぎではないだろうか。
困惑の表情を浮かべる敬を見て、縁は人の悪い笑みを浮かべた。
「自分を買いかぶるな。自分の国のことで精一杯のくせに、他の国のことにかまけている余裕があるのか?」
「い、意地悪ですね」
こういう彼の傍にいると、何故か心が楽になる。生真面目に苦しんでいたことが溶解する。
これは甘えだ。未熟な自分を支えてくれる。
だが、それももう終わり。これからは敬が新しいパン卿を支える番だった。
騎士が騎士を選ぶなんて、理不尽で残酷だと思う。しかし、大事な仕組みなのかもしれない。
騎士の仕事に引継ぎ期間は無い。新しい騎士が決まれば、先代は神殿をすぐに神殿を出て行かなければならない。だから他国の騎士の助けが、支えが必要なのだ。それを得られない騎士は、就任しても在位は短い。たった13人の騎士の中で孤立すれば、たとえ国内で支持されても、騎士で居続けることはできない。
敬ができることは、これからのカプリコルヌスを担うに相応しい人物を選び、黄道十二宮国家連合の一国家を担う人材として支えることだ。縁が敬を導いてくれたように。
それがせめてもの恩返しになる。
「……もう少しだけ、良いですか?」
縁は何も言わず、肩を貸してくれた。
別れの時は近い。縁の残された僅かな時間を削って、仕事の邪魔していることはわかっていたけれど、もう少しだけ時を共有していたかった。
不老という、騎士にしか適用されない孤独な時間を。
Copyright (c) 2010 Yuuhi All rights reserved.