始まりは何度でもある

モドル | ススム | モクジ

  9 at Pisces  

 宝瓶都市アクアリウスから双魚都市ピスケスへ。次期パン卿候補達はその道を進んでいた。
 道、という表現は正確ではないかもしれない。アクアリウスの端で馬車を降ろされた彼ら五人を待ち受けていたのは、十二宮流の表面に口を開けているトンネルだった。青い光に包まれたその空間は、大小様々な泡に包まれ、不規則な反射を交わしている。
「ねえ、ここを通るの?」
 待ち受ける穴を覗き込み、へレンが怯えた声を上げる。
 カミーラも内心、同じ思いを叫んでいた。だって、十二宮流はすべての物質を溶かしてしまう全能の溶媒なのだ。いくら神の加護を受けた光で守られているとは言え、生身で飛び込むのはかなり怖い。
「うーん、行くしかねえよな」
「そうだな、仕方あるまい」
 タズーとライサが頷き合い、ようやく五人はおそるおそる泡に包まれた光の回廊を歩き出した。
 最初は怖くてきょろきょろとしていたカミーラだったが、次第に恐怖を忘れた。
「川の中って、こんなに綺麗なんだ……」
 恐怖の対象である十二宮流。しかし、どこまでも透き通った流れは澱むことを知らない。想像で描かれた絵画などでは見たことはあったけれど、実際には初めて見る光景だった
「なんか、怖いね」
「え?」
 振り向くと、セディが切なげな目で半透明の泡の彼方を見つめていた。
「何もいないなんて、おいら、ちょっと怖い」
「そ、そうかな? 私はこれはこれで綺麗だと思うけど」
 そう応えながら、改めて見てみる。
 いかなる生命も住めない無機質な美しさ。綺麗だ、とてつもなく綺麗だ。すべてが崇高に見えてくる。まるで神の国に近付いたような……
「なんかさ、さっきの神殿に居た時みたいな気分なんだよね」
「あ、確かに」
 セディの言わんとしている感覚に、カミーラも思い至った。
 アクアリウスの無機質な水晶の神殿、人形のようなガニュメディス卿。美しいけれど冷ややかで、そして悲しげだった。
「……ねえ、セディ。さっき、ごめんね」
「へ?」
 突然謝るカミーラに、セディは切なげに細めていた目をきょとんと開いた。
「ほら、さっきセディがガニュメディス卿にした質問に、私、文句を言っちゃったじゃない。本当は私も疑問に思ったことだったし、皆の前で恥じかかせるみたいな、あんな非難の仕方することなかったなって、自分ですぐに反省したんだけど……とにかく、ごめんなさい」
 カミーラが勢い良く頭を下げると、セディは側頭部をポリポリ掻いた。
「ああ、別に謝られることじゃ。失礼な質問だって教えて貰ったようなもんだし、はっきり言ってくれて逆に良かったんだけど」
 それから、セディはにっこり笑った。
「カミーラって、意外に他人の気持ちを気にするんだ」
「意外にって、どういう意味よぉ」
 ちょっと喰い掛かってみるが、セディはヘラヘラ笑って答えてくれなかった。
 光の色が青からだんだん白へと変わって行く。
 白はピスケスの色だ。白真珠を国宝石とするピスケスは、国全体が十二宮流の流れの底に存在する。大きな泡に包まれて水底に沈む、他には例の少ない都市国家である。
 目映い白い光が少しずつ弱まって、いつの間にか歩いている道が石畳に変わっていた。
 そして、光が消えるギリギリの所にたくさんの人影が彼らを待ち受けている。
「おいおい、すごい数の迎えだな」
 タズーが呟く通り、ものすごい人数のように見えた。十人や二十人ではない。五、六十人、もっと居るかもしれない。
 近付くにつれて、カミーラは中心に立つ青年の姿に目を奪われた。緩くウエーブのかかった豊かな金色の髪、物憂げに煙る灰色の眼差し、鼻筋の通った顔立ち。周りを囲む少年達も充分に美しいのだが、彼と比べるとはっきりと見劣りしてしまう。
「ようこそ、我がピスケスへ」
 優雅に微笑む薄桃色の唇が、官能的な挨拶を投げかける。
「待っていたのだよ。さぞ疲れただろう? 神殿に用意をさせているから、まずはゆっくり休むと良い」
 その言葉に、カミーラはハッと気が付いた。
 この白皙の美青年はピスケスの騎士、アフロディテ=エロス卿なのだ。騎士自ら、候補達を迎えに来てくれるなんて。
「よ、よろしくお願いいたします」
 カミーラは頭を下げ、他の四人も慌ててそれに続いた。珍しくライサの行動が遅かったが、多分、アフロディテ=エロス卿の美しさに見とれてしまっていたのだろう。
 神殿は遠くない所にあるらしく、五人の候補は数多の美少年に囲まれたまま、ぎこちなく行進した。
 そんな彼らを、あちこちの建物の陰からちらっちらっと見やっている気配が感じられる。とても物珍しげな視線だった。
 カミーラは授業で得た知識を頭の隅から引っ張り出した。
 ピスケスは黄道都市の中でも閉鎖的な国の一つだと言う。国土そのものが水底に沈んでいて、他国以上に国交手段が不自由だったため、自然とそういう文化が育ったらしい。
 アクアリウスとの違いがカミーラには新鮮だった。アクアリウスのは巡礼や観光、何だかんだで他国の人々が来ている雰囲気があった。しかし、カプリコルヌスのように観光産業を起こすわけではなく、あくまで自分達の生活を淡々と守っている感じだった。
 一方、ピスケスは他国の人間が来ること自体が珍しいのだろう。確か、もう一つの閉鎖的な都市国家である天蠍都市スコルピウスが国策として出入国を制限しているのに対し、ピスケスの民にはそもそも外へ出て行く雰囲気がないと聞いた覚えがある。
 やがて白亜の神殿が目の前に現れ、これまた美しい少年達が恭しくカミーラ達を迎え入れてくれた。
「着いたよ。我がアフロディテ=エロス神殿へようこそ。大いに歓迎させてもらうよ」
 振り向いて優雅な微笑を浮かべるアフロディテ=エロス卿に、カミーラはドキッとさせられた。
 間違いなく彼は男性だ。声も低い。でも、その美貌は男とも女とも分けられない妖しい魅力を孕んでいる。
「そうだ、自己紹介がまだだったね。私の名はほん、この国のアフロディテ=エロス卿を務める者。どうぞお見知りおきを」
 茶目っ気たっぷりに笑った顔もまた壮絶な美貌だった。
 導かれるままに大きな部屋に通されて、カミーラ達はまず咽るような甘い匂いに圧倒された。天井からぶら下がる籠に盛られた花の匂いかと思ったが、それだけではなく香炉が盛んに焚かれているせいらしい。
 白い床にはクッションや座卓があちらこちらに置かれている。床も柱もよく見れば白い大理石のようだった。よく磨かれていて踏み入れるのに気後れするくらいに美しい。
「どこでも好きな所に座っておくれ」
 そう言いながら、アフロディテ=エロス卿は何故かセディとライサの腕を取り、部屋の奥、一際大きな乳白色のクッションに陣取り、左右に二人を座らせた。そして、タズーに向かって手招きし、ライサの横に座るよう指示する。しかし、カミーラには何の反応も示さなかった。
 仕方なくカミーラは少し離れた場所に所在無く腰掛ける。ヘレンの姿を探して、見当たらなくて首を傾げていたら、しばらくして入り口に姿を見せた。お手洗いでも借りていたのだろうか。カミーラの姿を見つけて、横に寄って来る。
「さあ、持って来ておくれ」
 アフロディテ=エロス卿の声を合図に、美少年達が酒壷や食べ物をどんどん運んで来た。あっと言う間に座卓の上が一杯になる。
「お酒と果実水、どちらがよろしいですか?」
 雀斑だらけの顔がまだ可愛らしい少年に訊かれて、ぼおっとしていたカミーラは我に返った。
 カミーラは酒を飲めなくはない。と言うより、結構好きな方だ。父の晩酌にちょっと付き合ったこともある。
 しかし、カプリコルヌスの法律では青年期まで、つまり二十四歳以下の飲酒喫煙は禁じられている。昔はそんな決まりはなかったらしいのだが、観光産業に従事する青少年にアルコール依存症が多発し、ずっと以前の騎士によって法律が制定されたらしい。カミーラはそれが正しいと思っている。酒や煙草の悪影響はまだ身体の未熟な子供の方が受けやすいと聞いている。大人と一緒に仕事をする機会が多いカプリコルヌスだからこそ、そういう規制は必要だと思う。
 そう言えば、当代のえんは未成年の飲酒喫煙の規制についても特に厳罰化を布いていて、本人も絶対に嗜まないという噂だった。実年齢では確か四十歳前後になっているのにも関わらずだ。
「えっとね、私はまだ十六歳なんだけど」
「我が国では十五を過ぎればお酒を飲んでも良いですよ」
 言われて見回してみると、カミーラと同い年のライサは問答無用で酒を注がれていた。だが、カミーラの横に座ったヘレンは酒を断ったらしく、別の飲み物をもらっている。苦手なのだろうか。
 とにかく飲んでも良いなら話は別だ。カミーラも有り難くぶどう酒を注いでもらう。
 少年達も含めて全員に飲み物が行き渡ったところで、アフロディテ=エロス卿が杯を掲げた。
「それでは、我らの出逢いとそなた達の門出を祝して」
「乾杯!」
 一口飲んで、うっとりした。そのぶどう酒はカミーラが今までに口にしたどの酒よりも美味だった。上等な品に違いない。
「これ、すごく美味しいわ」
 ヘレンも貰った飲み物が気に入ったらしく、注いでくれた少年にニッコリ微笑みかけていた。こうして見ると、美女であるへレンはこの空間に馴染んでいる気がする。カミーラは何となく自分が居た堪れなくなった。
 気にしていないふりをして、ヘレンに話しかける。
「お酒も結構美味しいよ。ヘレンは飲めないのね」
「ううん、それなりに好きなんだけど、ほら、私、今アレだから」
 小声で言われた意味がわからなくて聞き返しそうになったが、すぐにヘレンが生理中であることを思い出した。
「あ、ああ、そうだった。ごめん、忘れてた」
「やだ、謝らないでよ。忘れて当たり前じゃない」
 ケラケラと笑って、ヘレンは座卓の食べ物に手を伸ばした。どうやら食欲は戻って来ているらしい。
 こちらは一安心として、さて、とカミーラは部屋の奥手を見やった。
 翻と名乗った美青年は何故かセディを膝に乗せんばかりに引き寄せて、それでいてライサに絶え間なく話しかけていた。ギョロギョロした目を白黒させて、かなり嫌そうな表情を隠そうともせずに逃げようと試みては失敗しているセディと、見るからに動揺しているライサの様子がちょっと可笑しい。更に翻はタズーにもあれやこれやと酒を勧めて、しきりに構っていた。若干引き気味ではあるものの、その調子に巻き込まれずに談笑しているタズーの落ち着きようは本当に大したものだ。そして、翻はカミーラやヘレンには一切関心を持っていない。
 噂はどうやら本当だったらしい、とカミーラはあからさまに溜息をついた。
 カプリコルヌスの実家を旅立つ前に、妹が神妙な顔でカミーラに告げたことを思い出した。彼女曰く、「今のアフロディテ=エロス卿は男の人にしか興味がないって話だよ」とのこと。同性愛者だとか何とかの噂はカミーラも耳にしていたので、頭に来るよりも妙に冷静に納得してしまった。事実、この神殿には女性は影も形もない。
 だが、騎士選びについては公平にしてもらわなければ困る。去年選ばれた白羊都市アリエスのフリクソス卿は、カミーラよりも年下の少女だと聞いている。妹情報に寄れば、現フリクソス卿はアフロディテ=エロス卿とは懇意にしているとのことなので、女だから支持してもらえないということはないと信じたかったが、こうも見事に無視されると心配になる。
 翻はカミーラの非難を帯びた視線に気付いたらしかった。スッと顔を向けて、灰色の瞳がカミーラを射抜く。その目はカミーラの心中を見透かしたようだった。花の綻びのようだった微笑が崩れて、ニヤリと笑う。
 それすらも壮絶に綺麗だった。自分よりは絶対美人だし、ヘレンより綺麗かもしれない。ヘレンが纏う少し頼りなさそうな雰囲気がアフロディテ=エロス卿にはまったくない。自分への自信に満ちた笑顔と態度が何よりも魅惑的で、羨ましくて、そして妬ましい。
 まただ、自己嫌悪。他人と比べたってどうしようもないのに。
 カミーラは翻の顔を見ていられなくて、下を向いてしまった。
「しかし、そなた達も大変な時に候補になってしまったものだねえ」
 アフロディテ=エロス卿は殊更明るい声で言った。
「私はカプリコルヌスの情勢や今までの経緯に明るいわけではないのだけれど、噂では聞いているよ。そなた達の誰がパン卿になっても、民の信頼を取り戻すのは容易ではないのだろうね」
「アフロディテ=エロス卿もそう思われますか」
 タズーが相槌を打つと、アフロディテ=エロス卿は一層妖艶に笑って見せた。
「そんな堅苦しい呼び方はやめておくれ。翻と呼んでくれれば良い」
「あ、はい、翻様」
 真正面から微笑まれて、さすがのタズーも顔を赤らめた。
 その前に身を乗り出すようにして、ライサが食ってかかった。
「あなたは縁様が我が国の民から信用されていないと仰るのですか?」
 ライサは既に相当酔っ払っている様子で、目が据わっている。
 アフロディテ=エロス卿は咎めるでもなく、面白そうに口角を上げた。
「おや、そなたの意見は違うようだね」
「縁様がやって来たことは筋が通っています。縁様より以前の騎士が蔑ろにして来た、我が国の貴重な自然を守るために規制を設け、実際に成果を上げています。それは他の国からも評価を得ていることです。厳しすぎる点はあったかもしれませんが、方向性は間違ったものではありません」
「そのために民の生活を犠牲にしても?」
 アフロディテ=エロス卿の皮肉げな言い方にも、ライサの強い口調は変わらなかった。
「何かを犠牲にしなければ守れないものもあります」
「……けど」
 自分が声を出したことに、カミーラは一瞬気が付かなかった。ライサの剣呑な視線が向けられて吃驚して、次いでアフロディテ=エロス卿が促すように首を傾げたので余計に焦った。
 何が言いたかったのか、自分でもよくわからなくて頭が真っ白になっている。でも、ライサの意見の何かに引っ掛かったことは確かだ。基本的にライサの言い分には同意できる部分も多いはずなのだが、どこかに反対したい部分があった。
 必死に考えているものの言葉が見つからなくて、カミーラは混乱しながら視線を彷徨わせた。すると、アフロディテ=エロス卿の腕の中でもがいているセディと目が合ってしまった。本気で困っている。「何とかしてよー」と口パクで助けを求められて、思わず噴き出してしまった。
「おや、どうかしたのだろうか?」
 セディがもがく元凶は首を傾げるばかり。絶対にわかってやっている。アフロディテ=エロス卿は明らかにセディの反応を楽しんでいる様子だった。
「いえ、何でもないです」
 敢えてセディのSOSを無視して、カミーラは笑顔を返した。
 ちょっと冷静になれた。セディには悪いが、落ち着かせてくれて感謝だ。
 隣りのへレンもセディの様子に笑いながら、話に加わった。
「ライサの言うことは確かに納得できるんですけど、実際に生活している人のことを考えないと――」
「それは騎士ではなく行政の役目だ」
 ライサが思いっきり遮ったので、カミーラはムッとした表情を出してしまい、慌てて引っ込めた。アフロディテ=エロス卿にはばっちり見られてしまっただろうけれど。
 酒癖が悪いにも程がある。人に絡むくらいなら、飲まなければいいのに。こうやって議論で人をコテンパンにやっつけようとするのがライサの本性なのだろう。彼がどんな思いでパン卿を目指しているにしても、どうにも好きになれない。
 ヘレンも黙ってしまい、ちょっと沈黙の間が空いたが、タズーが静かに切り出した。
「今の議会とか行政とかには、縁様が築いた仕組みがまかり通ってるんだぜ。縁様のせいじゃねえとは言い切れねえよ」
 タズーが怒りを押し殺しているのが感じられた。お酒が入って、カミーラの脳は妙に感受性が良くなっているのかもしれなかった。
 ライサの言い分は正論だ。でもタズーは現実に困っていて、早急に解決策を求めている。どちらも間違っていない。どちらも真実だ。
 自分はどちらの立場なのだろうかと、カミーラは他人事のように考えていた。
「では、内政のすべてを騎士が見ろと? 縁様は民を苦しめたくて今までの政策を進めて来たわけではない。政策の意図を汲みながら、民の生活に合わせて実践策を考えるのが行政の務めのはずだ。そして民も政治行政に任せっきりにするのではなく、自らの生活を向上させる術を考えるべきだ」
「ライサ、お前の言ってることは確かに正しい。けど、正しいだけじゃ実現しねえんだよ。俺達は正しい政策が欲しいんじゃなくて、確実に生きていける社会が欲しいんだ」
「では、国民の一人として何か行動を起こしたことがあるのか? 日々の生活や目先の利益ばかりを考えた結果が数十年前までの自然破壊だ。我が国の国土は人間だけのものではない。生活水準の低下は仕方ない」
「その低下がもう我慢できねえところまで来てるんだよ! 人間が死んででも、自然を守れって言うのか?」
 初めて聞く、タズーの怒鳴り声だった。
 カミーラはタズーの方をそっと盗み見た。実は相当酔っているのではないだろうか。
 ヘレンも同じことを思ったらしい。いつの間にか立ち上がっていて、その両手には水の入ったグラスが握られていた。
「ねえ、やめなさいよ。アフロディテ=エロス卿の御前なのよ」
 ヘレンはそう窘めると、わざわざ歩み寄ってタズーとライサにグラスを渡した。
「悪い。つい、カッとなった」
 謝るタズーと対照的に、ライサはムスッとしたまま下を向いて、でも水の礼は言ったようだった。そしてアフロディテ=エロス卿に向き直る。
「お見苦しいところを見せてしまい、申し訳ありません」
「いや、何も気にしてはいないよ」
 アフロディテ=エロス卿はゆったりと構えて、ぶどう酒を口に運んでいた。
 その左腕の中でセディは未だに脱出に成功していない。ジタバタと無言の抗議をしている。
「おや、そなたも何か思うところがあるようだね」
「へ?」
 アフロディテ=エロス卿にピントの外れた問いを投げかけられ、セディは更に困ってしまった様子だった。
「えーっと、うーんと」
 頑張れ、とカミーラは心の中で応援してあげた。だって、完全に他人事なのだ。アフロディテ=エロス卿はカミーラに全然興味を持っていない。とても悔しいことだけど、空気で感じられる。
 ため息を誤魔化すためにぶどう酒の杯をゆっくり傾けていると、セディがひょいっと顔を上げてカミーラを見た。
「カミーラはどう思う?」
 突然のむちゃ振りに、カミーラはあやうくぶどう酒の噴水になるところだった。そんな話の振り方があるか、とセディを睨みたくなったが、彼の向こうにはアフロディテ=エロス卿がいる。おかしな真似は出来ない。
 アフロディテ=エロス卿は相変わらずカミーラに興味を示している様子はなかったが、一応こっちの方を見ている。何か応えないと絶対にまずい。
 カミーラは今までの話の流れを必死に反芻してみた。しかし、上手く言い表す言葉を見つけられずにまごまごしている間に、アフロディテ=エロス卿はまたライサ達の方を向いてしまった。
「私には他人事にしか考えられないけれど、難しい状況なのだろうね。そなた達の国は縁のやり方で二十年以上も続いてきて、その民が縁を拒否するようになった。誰が悪いと言うわけでもない状況を解決するのが一番難しいのだろうに」
 カミーラは居た堪れなくなって、そっと席を立った。わざとらしく少年達の一人にお手洗いの場所を聞いて、さっと部屋を出る。セディがおろおろとしているのを視界の端で捕らえたが、彼の気遣いに応える心の余裕がカミーラにはなかった。
 ちゃんと聞いていたはずだし思うところもあったはずなのに、何故上手く言葉にできないのだろう。人前で話すことは苦手ではないし、むしろ注目を集めるのは好きなくらいだ。それなのにどうして咄嗟に説明することができないのか。
 自分がもどかしい。ライサのように理路整然と説明できたら、タズーのように穏やかに時には熱く語れたら、ヘレンのように場の雰囲気を和ませることができたら、セディのようにいつも自然体で居られたら。
 無いものねだりなのは充分にわかっている。でも、妬ましい。
 お手洗いの鏡に自分の姿を映して、カミーラはその情け無い顔にため息を漏らした。
 卑屈な顔だ。自信の持てない、頼りない姿だ。こんな人間が騎士として求められるわけがないのに。
「馬鹿じゃないの」
 一瞬、自分の独り言だと思った。
 だが、声が全然違った。ハッとして顔を上げると、鏡の端に見たことの無い少女の顔があった。雀斑だらけの顔はカミーラより少し下に見える。燃えるように赤い癖毛。その髪によく似合う松葉色の瞳が、鏡の中のカミーラを睨んでいた。
 いきなり声をかけられて吃驚したカミーラだったが、自分が馬鹿と言われたことに気が付いて、勢いよく振り返った。だが、抗議する前に少女に捲くし立てられた。
「あんたねえ、言いたいことがあるなら、さっさと言いなさいよ。良い子ぶって、もじもじして、あんたみたいなの見てるとすっごく不愉快なのよ!」
「い、良い子ぶってなんかない!」
 頭が焦りまくっていて、そう言い返すのが精一杯だった。初対面の、しかも多分自分より年下の少女に突然辛辣な言葉を投げつけられて、動揺が抑えられない。
「私だって色々考えてるわ。言いたいことがあって、だけど上手く説明できなかっただけ」
 少女はフンと鼻を鳴らした。
「どうせ、あの優等生男みたいに筋道立てて話そうとして、言葉が浮かばないで黙ってたんでしょ。無理よ、あんたには無理」
「……」
 泣かないように歯を食い縛って、カミーラは少女を睨んだ。
「やめてよね、無いものねだり」
 少女はカミーラの心を完全に読んでいた。カミーラから視線を逸らし、飾ってある美しい花に突き刺すような視線を向けた。
「羨ましいなんて思ったってどうしようもないんだし、それで黙ってたって何も考えてないって思われるのがオチ。だいたいね、翻がまともに意見を求めてると思う? あんな何もわからない風に装ってるけど、翻はもう十年以上もアフロディテ=エロス卿を拝命してる。たかが十年か二十年、一般人として生きて来たあんたが何を考えて何を言おうと、大したことじゃないの。大した意見でもないのに付け焼刃で飾り立てて、いかにも立派なこと考えてますって言ったって、信用できないだけなんだから」
 カミーラはポカンと口を空けて、早口で言い切った少女を凝視した。
 確かに彼女の言うことに一理あった。具体的な政策を急いで考え出したって、所詮はその場凌ぎの産物に過ぎない。
 でも、他の候補はどうだろう。ライサは法律を学んでいて国を動かす方法を少しは知っている。タズーとヘレンは働いている経験から、社会のことを自分なりに考えている。セディはよくわからないけれど。
 ふいに浮かんだ涙を見せまいと、カミーラはまた下を向いた。
 自分には何も無い。他の候補と自分を比較すればするほど、あれこれ考えていたことが全部子供騙しに思えて来る。
 いや、これが初めてではない。今までもずっとそうだった。自分が考え付いたアイデアに有頂天になって、張り切って発表しようとして、もっと良い意見に先を越されて、口を噤んでしまって……
「言えばいいのよ」
 少女はポツリと言った。
「上手く言えなくたっていいんだから。上手な説明なんて、誰も求めてない」
「で、でも、私……自信、ないから」
 反論されたら、あるいは無視されたらどうしようかと不安がよぎる。馬鹿なことしか言えないのだと、烙印を押されるのが怖い。
「馬鹿じゃないの」
 最初と同じ台詞を少女はまた呟いた。今度は少し切ない感じだった。
「自信? そのくらい、自分で掻き集めればいいのよ。候補に選ばれたんだから、そのくらい持ってて当たり前。他の人だって、あんたと立場は何も変わんないんだから」
 それだけ言って、少女はくるりと後ろを向いた。
「ここでいじけてたって、誰も評価してくれない」
 カミーラは手の甲で溢れる涙を拭った。
 彼女の言う通りだ。黙っていたって、誰も何もわかってくれない。
「でも、他の人の意見を聞けるっていうのは良いことだから」
 今までで一番静かな声で少女は言った。カミーラに背を向けているので表情はわからないけれど、さっきまでの刺々しい感じでは無いような気がした。
「それは大事にしていいと思うし、むしろ聞いてるってことをアピールしてもいいくらい」
 それだけ言い捨てて、少女はパタパタと洗面台を出て行った。
 カミーラは唖然をして、彼女の後姿を見送った。
 何故あんな助言をしてくれたのだろう。と言うか、そもそも彼女は何者なのだろうか。ここにいるということは当然ピスケスの人なのだと思っていたけれど、さっきからこの神殿には男性しか見かけなかったはずだ。それに彼女はアフロディテ=エロス卿のことを「翻」と呼び捨てにしていた。
「……まさか!?」
 カミーラが息を呑んだのとほぼ同時に、足音が戻って来るのが聞こえて、さっきの少女がひょいっと顔を出した。
「忘れてた。あたし、本当はここにいちゃいけないから。あたしに逢ったこと、誰にも言わないでよね。翻に無理を言って隠れて聞かせて貰ってたこと、ばれたら大目玉だわ」
 その耳に着けられた優しい赤色のピアス。珊瑚の色だ。珊瑚を国宝石にする国、それはピスケスの隣国である白羊都市アリエス。その騎士は去年就任したばかりの、カミーラよりも年下の騎士。
「フリクソス卿ですか?」
 少女は雀斑だらけの鼻に皺を寄せただけで返事をせず、きびすを返そうとした。
「待って下さい、フリクソス卿」
 カミーラは慌てて追い駆けた。が、洗面所を出た所で勢いよく振り向いたフリクソス卿にぶつかりそうになった。
「おっきな声で呼ばないでよ! ばれたらマズイんだから」
「す、すみません」
 カミーラは今更慌てて口に手を当てた。
「で、何?」
「ええっと、あの」
「早くしてよ。ここの巫子に見つかったら、誤魔化すのが面倒なんだから」
 本当にせっかちな少女だ。この子が面接役でなくて良かったと、カミーラは心底思った。
 それはともかく、どうしても聞きたいことがある。
「あ、あの、何でわざわざ私に言いに来てくれたんですか?」
 フリクソス卿はまた鼻に皺を寄せた。それはどうやら彼女が面倒臭いと感じている時の癖のようだった。
「別に」
 ぷいっと横を向いて、彼女はカミーラからその表情を隠した。
 これ以上訊いても答えてくれそうになかった。
「ありがとうございました」
 深く一礼してカミーラはフリクソス卿に背を向けると、先刻の部屋へ向かって歩き出した。
「……似てるのよ、あんた」
 唐突にフリクソス卿が呟いて、カミーラは足を止めた。
「あたしに似てる。だから、見ててイライラする。それだけよ」
 フリクソス卿が言っている意味が充分すぎるくらい理解できた。
 彼女の感情は自分が抱いている自己嫌悪と同じだ。カミーラが自分の不甲斐なさを憎んだように、フリクソス卿はカミーラの様子を我がことのように情けなく思ったのだろう。
 カミーラは振り向かなかった。一度止めた足をそのまま進め、少ししてからそっと振り向くと、もうフリクソス卿の姿は無かった。
「――ったく、言いたい放題の間違いなくお子ちゃまだわ」
 肩にこもっていた力を抜いて、カミーラはふうっとわざとらしく息を吐いた。
 フリクソス卿の指摘は正しい。正しいすぎるくらいに正しい。だからと言って、心から感謝する気にはなれない。正しいことを言っているからって、あんなに高飛車に正そうとするなんて、ちょっと酷すぎる。自分がカミーラと似ていると言うのなら、言われたカミーラがどう感じるかも想像してくれればいいのに。
 そこまで考えて、カミーラは自分への嘲笑がこみ上げてくるのを感じた。
 何てことは無い。自分が周囲から言われてきたことだ。自分の意見が正しいと、つい強気になってしまうのがカミーラの悪い癖だと。相手が何も言わなくなるまで言い募って、納得させたのだと良い気分になってしまう。 そんな自分に何度自己嫌悪してきたことか。何も反論されなくなったことで勝ったつもりになって、気付けば友達は離れていった。 単に面倒臭い人間だと思われただけなのに。
 カミーラはフリクソス卿の消えた廊下をもう一度眺めた。
「騎士、か……」
 青年にしか就任の可能性が無い地位。その中でもフリクソス卿は特に年齢が低い。彼女はきっと思春期の挫折感を知らない。知らないまま騎士になって、そして騎士である限りは子供で居続けることができる。だから、あんなにも真っ直ぐでいられる。
 カミーラも今ならまだ間に合うのだろうか。騎士になれば許されるのだろうか。
 フリクソス卿が受け入れられているように、カミーラも騎士になれば、言いたいことを正面から言って、相手はそれを真っ直ぐに受け止めてくれるようになるのだろうか。半永久的に真っ直ぐなまま、妥協に逃げることなく、誤魔化すことも無く、自分の信念に嘘を吐くことも無い。
「でもねえ」
 独り呟いて、カミーラはまた歩き出す、
 フリクソス卿が子供のままでいられるのは、孤児の国であるアリエスの騎士だからのようにも思える。行政問題が山済みのカプリコルヌスで、彼女のような純粋さがどこまで必要とされるのか。
 いや、むしろこれからは不要とされるだろう。自然復興の名の下に縁が推し進めた政策は国民の生活を圧迫しすぎている。次代のパン卿に求められるのは“大人の対処法”だ。生活を守り、国を発展させるための方策を産み出すこと。自然と生活の共存を導いていけることだ。
 頭が痛んできた。自分のことさえコントロールできていないのに、何でこんな難しい役目の候補になってしまったのだろうか。
 悩みながら歩いたせいか、気が付くとカミーラは見知らぬ回廊に出て来てしまっていた。どうやら曲がるところを間違ってしまったらしい。慌てて引き返そうとして、ふと回廊の壁にかけられた絵に気が付いた。
 輝くばかりに磨き上げられた白い壁には幾つもの人物画が掛けられている。大きさはまちまちで、肩上だけの絵が小さな絵が多いのだが、上半身が描かれていたり、数点だけだが全身が描かれているものもあった。共通しているのは一人ずつしか描かれていないこと。描かれているのはいずれも若い者ばかり、しかも男も女もやたらと目力の強い美形ばかりだった。
 その美人達に一斉に見下ろされて、カミーラは無性に居心地が悪くなった。だが、絵を相手に負けていられない。虚勢を張って睨み返してみる。
 すると、絵の一つの表情が少し変わった気がした。薔薇色とも言えるような派手な赤毛の美女が、きつい視線を少し和らげたような気がしたのだ。そんな馬鹿な、と思ってパチパチ瞬きをすると、やはり気のせいだったのか、絵の女は元の冷たい微笑を浮かべていた。
 その絵をじっと見ていて、カミーラは絵の端に文字が書いてあることに気が付いた。普通の文字じゃない、神聖文字だ。神聖文字が使われる用途はただ一つ、騎士の名前だけだ。と言うことは、この絵の人物は……
「先代のアフロディテ=エロス卿です」
「きゃっ」
 突然後ろから声を掛けられて、カミーラは悲鳴と共に飛び上がった。
 いつから居たのか、長い髪を無造作に束ねた男がカミーラの斜め後ろに立っていた。目尻には幾つもの皺が入り、肌も黄色くくすんでいる。目の下には薄っすらと隈。この神殿に来て初めて見る大人の姿だ。
 しかし、顔立ちはすこぶる良かった。若い頃はきっと目を惹く美形だったことだろう。
「すみません、突然お声掛けしてしまって。パン卿候補の方ですよね?」
 カミーラはコクコクと頷いた。勝手にこんな所に入り込んでしまって怒られないか、目下のところそれだけが心配だった。
 彼は怒ってはいないらしく、ニッコリ笑った。笑うと目尻の皺が目立つ。
「失礼、驚かせてしまいましたね。私はこの神殿に仕えている者です」
「み、巫子ってことですか?」
 訊いてから、愚問だったなと後悔した。神殿に仕えているのは神事を扱う巫子だけではないはずだ。さっきカミーラ達に給仕してくれていた少年達が巫子なのかどうかわからないが、衛兵や料理人、雑用のための要員もいるだろう。
 しかし、彼は静かに頷いた。
「かつてはその地位にありました。あの方に選ばれて、とても幸せでした」
 彼の言うあの方とは、薔薇色の髪の美女のことだろうか。
 カミーラの内心の疑問が聞こえたかのように、彼は今度は首を横に振った。
「先代ではありません。私を巫子に引き立てたのは翻様です」
 カミーラは目を真ん丸くした。
「えっと、今のアフロディテ=エロス卿の時に巫子になって、今はもう違うんですか?」
「ええ。今はこの絵を管理する役目を仰せつかっていますが、まあ居候のようなものです」
 彼は自嘲するようにくすりと笑った。
「本来なら巫子を辞した時にこの神殿からも出て行くべきだったのですが、私にはできませんでした。翻様を独りにしてしまうことは……だから恥を晒してまで、ここに居るのです」
「……独り?」
「ええ、そうです。あの方は孤独です。何ができるわけでもなく、若さも失った私ですが、それでもあの方を置いて遠くへ行くことはできませんでした」
 話が唐突過ぎる。カミーラは頭を抱えたくなった。
 どうやらこの男性は若く美しい時代に翻に仕える巫子として見出され、歳をとったことを理由に巫子を辞めたが、アフロディテ=エロス卿を独りにしたくないので神殿に残っている、らしい。
「でも、アフロディテ=エロス卿はあんなに沢山の人達に囲まれているじゃないですか。その、すごくお綺麗な人達に」
 あの少年達をなんとも形容しがたくて微妙な表現になってしまったが、彼には伝わったらしい。彼は悲しそうに下を向いた。
「あの若者達は翻様によく尽くしていると思います。でも、翻様は孤独です。艶やかな笑みの裏で、いつも寂しさに耐えていらっしゃる。あんな子供達に翻様の本心を癒すことなどできない!」
 彼は歳若い少年達への嫌悪感も露わに吐き捨てて、ハッとしたようにカミーラを見た。
「失礼。詮無いことを申し上げてしまった。お忘れください」
「いえ、あの、そんな……」
 孤独。
 あのアフロディテ=エロス卿を見る限り、騎士にその言葉は相応しくない。
 しかし、カミーラの脳裏にはガニュメディス卿の姿が浮かんでいた。騎士になる運命から逃れられなかった少女。多くの巫子達にかしずかれながら、一歩も神殿の外に出ることなく三十二年もの時を過ごしてきた騎士。
 それに、現パン卿だって孤独と言えば孤独だ。カミーラの父が愚痴を言っていたことが正しいのならば、縁はすべてを自分で確認しなければ気が済まない人で、「他人をまったく信用していない」らしい。自業自得と言ってしまえばそれまでだが、もしかしたら最初からそんな性質だったのではなくて、騎士の重責ゆえの孤独が彼をそうさせてしまっているのかもしれない。
「孤独、なんですね、騎士って」
「ええ、とても。でも、私には翻様が壊れていくのを黙って遠くから見ていることしかできない。とても歯痒いです」
――――壊れる?
 彼の言葉にはカミーラに理解できない表現が頻繁に出てくるが、いちいち質問するのも面倒になっていた。彼の話を聞いていると、パン卿になりたいという気持ちが殺がれてしまいそうで怖くもあった。
「私、戻らないと」
 精一杯自然に言ったつもりだったが、内心を気取られなかっただろうか。
 幸い、彼はまたハッとした表情をして、
「そうでしたね。お引き留めしてしまって申し訳ありません」
と、言ってくれた。そして、カミーラを促して最初に通された部屋へと案内してくれる。
 横に並んだ彼をカミーラは斜め下から盗み見た。間近で見ると本当に整った顔立ちだ。所々白い毛が目立つ髪は昔は豊かな黒髪だったのだろう。年齢は四十くらいに見えるけれど、やっぱり綺麗な人だ。若い頃はさぞかしアフロディテ=エロス卿のお気に入りだったことだろう。
 カミーラの視線に気付いたのか、彼もカミーラを見た。
「あ……すみません。あの、その……すごくお綺麗だと思います、今でも」
 口にしてしまってから、何を言っているんだ、と自分にツッコミを入れたくなった。
 だが、彼はとても嬉しそうにニッコリした。
「有難うございます。あなたのような若い人にそう言っていただけると、本当に嬉しいです」
 そして、彼はまた憂いのある表情に戻った。
「こうしてお話しできたのも何かのご縁でしょう。もしあなたがパン卿になられたら」
 彼は歩みを止めた。カミーラがつられて立ち止まると、彼はカミーラに向かって深々と頭を下げた。
「その時は翻様のことをよろしくお願いいたします」
 カミーラは彼の白髪交じりの頭を呆気にとられて見つめた。
 そんなことをお願いされても困る。そんなことは他国の騎士、になるかもしれない人間よりも自分の国の信頼できる人に頼んで欲しい。
 困惑するカミーラに、彼は自分の手を差し出して見せた。茶色くただれて、老人でもこうはならないだろうというくらい皺々になった手の平。病気なのだろうか。
「毒です」
「え?」
 彼の視線がちらっと通路の隅にやられる。カミーラが反射的にそちらの方を見やると、誰かが曲がり角に隠れたように見えた。まさか彼を見張っていたのだろうか。
 何事もなかったかのように、彼はカミーラの背を押して歩き出す。
「あれ一人だけではありません。翻様の寵愛を享けたい者にとって、私のような過去の者ですら邪魔なのです。気をつけてはいますが、長くは持たないでしょう」
「そんな……それじゃ、早くこの神殿を出た方が」
 言いかけた言葉は、彼の笑顔の前に消えてしまった。
 そんなことは彼が一番承知しているのだ。命を削ることになっても翻の傍に居ることを、この人は望んだのだ。孤独だというアフロディテ=エロス卿のために。
「なんで、そこまでして?」
 カミーラが問いかけると同時に、二人は客間へ到着してしまった。
「カミーラ、遅かったじゃないか。迷ったのか?」
 タズーのからかうような軽口が迎えてくれる。妙に懐かしかった。
「翻様、パン卿候補の方をお連れしました」
 アフロディテ=エロス卿の視線がカミーラに、いやその背後に立つ男に一瞬向けられた。だが、それはすぐに反らされた。ご苦労、の一言もなかった。
 カミーラは憤慨しそうになった。身の危険があっても尚、自分のために尽くそうとしている者に対して、何て冷たい態度だろう。だが、給仕をする少年達の敵意に満ちた視線に気付いて、慌てて何も思わなかったふりをした。
 これだけ近くにいて、アフロディテ=エロス卿がこの雰囲気に気付かないはずがない。わかっていて、敢えてあんな冷たい態度を取っているに違いない。そう願いたい。
「有難うございました。とても助かりました」
 カミーラはこの上なく丁寧に頭を下げると、彼はまたニッコリ笑って、来た道を引き返して行った。彼の体がこれ以上害されることがありませんように。カミーラには去っていく背中に向かって祈るしかなかった。
 気を取り直して客間へ向き直る。途端に、冷凍光線のような視線が部屋のあちこちから突き刺さった。
 美しい少年達は、ある者は明らかに顔を歪めて、ある者は花のような微笑を浮かべたまま視線を凍りつかせて、一斉にカミーラを睨んでいた。気のせいではなく、メラメラと嫉妬の炎が見える。その迫力に負けて、カミーラは思わず二歩、三歩と後ずさった。
 と、チンとグラスを叩く澄んだ音が響いた。
「おやめ」
 アフロディテ=エロス卿だった。凛とした声にたしなめられて、少年達はふっとカミーラから視線をずらす。
 カミーラは心底ホッとした。思わず安堵の涙が零れる程だった。
 睨まれなくなったからではない。元巫子のあの男性のことを、アフロディテ=エロス卿はわかっている。彼の境遇も、我が身を犠牲にしても神殿に残り続ける理由も何もかもわかった上で、表面上は親しく言葉を交わすこともなく、そっけなく接している。そのことをあの男性も十分に判っているに違いなかった。
「カミーラ?」
 ヘレンの呼びかける声に我に返る。カミーラは何でもないという風に元気に笑って見せ、彼女の隣りに落ち着いた。
 横目でアフロディテ=エロス卿を見遣ると、彼は何事もなかったかのようにタズーとセディを構っている。タズーはアフロディテ=エロス卿の取り扱いを早くも心得たらしく、そつない応対ができるようになっていた。その横でライサは舟を漕ぎかけている。必死に目を開いている様子が少し滑稽だ。
 セディはアフロディテ=エロス卿の腕から逃れるのは諦めたらしく、大人しく肩を抱かれたまま、モギュモギュとご馳走を胃袋に納めていた。鶏の腿焼を咥えたかと思えば、豚のパテをバケットの薄切りにたっぷり塗って齧り付き、タコとアボカドのサラダを口に吸い込む。ごくっと呑み込むと、羊乳をぐびぐび。フルーツトマトの蜂蜜がけを幸せそうに丸かじりしたところで、カミーラの呆れた視線に気がついたらしい。
「ん?」
「何でもない。良い食べっぷりね」
「どうもどうも」
 誉めてないわよ、と付け足したのは聞かなかったらしい。オイル漬けオリーブをムシャムシャ食べ出した。
「すごいわよね。見ていて飽きないわ」
 ヘレンも手持ち無沙汰らしく、セディの食べっぷりを見ることで暇潰しをしているらしかった。
「まったくだわ。私も見習おうかしら」
 ほっとして、途端にお腹が空いてきたのも事実。手近にあった白イチジクに手を伸ばす。
 と、同時に妙な感覚に襲われた。イチジクが緑色に光ったのだ。いや、白いイチジクが光ったのではない。空間全体がぽわぽわと緑色に点滅している。
「何、これ?」
 ヘレンの囁きで、カミーラはその光が自分の錯覚ではないことを悟った。タズーも、一応セディも周囲を見回している。
 ぼわっ、もわっ。ふんわりとした緑色がほわほわと光を放っては消えていく。
 美しい少年巫子達もまた不安そうに顔を見合わせた。一人がアフロディテ=エロス卿の御前に膝間付く。
「翻様」
「わかっているよ」
 アフロディテ=エロス卿は美しい眉をひそめていた。
「そうか。あまり時間がないようだね。残念なことだけど」
 誰に言うとも無く呟いて、彼は足を優雅に組み直した。そして、にっこり微笑んだ。
 嫌な予感。カミーラはイチジクを皿に戻した。
「すまないけど、そなた達には取り急ぎ次の地に行ってもらわなければならなくなった」
 何かあったらしい、とカミーラは納得したが、次の言葉にぽかんと口を開けてしまった。
「まあ、面接は十分したのでね。問題は無いだろう」
 いつ、誰が、どこで十分な面接をしたと言うのか。カミーラは頭が痛くなった。本当に最初からカミーラやヘレンのことなど頭に無いのだろうか。
 それも仕方ない、とこっそりため息をついていると、
「ああ、そうそう、カミュロリエ」
と、名指しされて、思わず皿を蹴飛ばしてしまった。
「あ、えっと、ごめんなさい……」
 美少年がさっと片付けてくれるのを申し訳ない思いで見ながら、元凶たるアフロディテ=エロス卿に向き直った。
「あの、はい、何でしょうか?」
「そなたはこの先どうする?」
「え?」
 何を聞かれているのかわからず、カミーラは助けを求めるようにヘレンに視線を送ったが、ヘレンは少し唇を噛んで下を向いている。タズーもだ。何とか意識は保っているらしいライサも視線を横にずらしている。セディでさえ、口の中をもごもごさせながら少し神妙な顔をしていた。
「あの、すみません、ご質問の意味がわからないのですが」
「パン卿に選ばれなかったら、そなたはどう生きていく」
 カッと顔が熱くなった。パン卿になれた時の事ではなく、なれなかった時のことを聞いて来るなんて。パン卿に相応しくないとでも言うつもりなのか。
「勘違いしないでおくれ。これは全員に聞いた事」
 カミーラの内心などお見通しらしく、アフロディテ=エロス卿は静かに続けた。
「もっと言えば、歴代の候補のほとんどに、私は同じ質問をしている」
 物憂げな灰色の目が真っ直ぐにカミーラに向けられていた。とても静かで、そして何故か悲しそうな瞳。
 カミーラは少し冷静になって考えた。話しながら考えた
「えっと、私が騎士になれなかったら……なれなかったら、高等学校に戻って……」
「それで?」
 促すアフロディテ=エロス卿の声が心に刺さるように痛い。
「学校を卒業して、それから就職することになります。見つかれば、ですけど」
 見つかるだろうか。考えたくなった現実が押し寄せてくる。
 仕事が見つかっても、続けられるとは限らない。そう、ルカのように……彼女の死が事故ではないかもしれないと父親から聞いた時、カミーラの全身から血の気が引いた。解雇されたことへのショックで荷馬車の前に身を投げ出したのだと、実しやかに噂されていた。
 そんなはずはない。ルカは自分の意見を持っていて、いつでも堂々としていた。周囲に流されること無く、他人に何かされたくらいで自分の人生を投げ出してしまうような弱い人間じゃない。そう信じたい。似ているから。彼女は、カミーラに似ている。
「今のカプリコルヌスでは、仕事を探すのは尚更難しいのだろうね」
「……はい」
 アフロディテ=エロス卿は嫌なところを突いて来る。カミーラはギュッと唇を噛み締めた。
 好景気の時であっても、果たしてカミーラを雇ってくれるところがあるのか、自信は無い。そんなことは今、考えたくも無い。
「では、他の仕事ではなく騎士を選んだ理由は? 他の仕事でも良いのでは?」
 落ち込む不安に負けないように、ぐっと視線を上げて、アフロディテ=エロス卿を見つめ返した。
「私は、私だけでなくカプリコルヌスの人達すべてに仕事が必要だと思っています。だから今のままではダメなんです。別に縁様を全部否定してるんじゃなくて、縁様が自然を保護されてきたことは、すっごく大事なことだと思います。だから、それはやめちゃいけないんですけど、全部やめるんじゃなくて保護も続けながら、観光地の新しい開発とか国民の仕事先を増やす政策を打ち出して行きたいって思ったんです。そのためにも新しい観光産業が必要なんです。だから、パン卿になって新しい政策を考えて、働ける場を一つでも増やしたいです」
「自分の為にも?」
 アフロディテ=エロス卿の意地悪な問いにも、カミーラは屈しなかった。
「自分の為にも他人の為にも、です。」
 嘘ではない。自分やルカのような人間にとって、今のカプリコルヌス社会は尚更生き辛い。
 アフロディテ=エロス卿はしばらく黙っていた。やがて、灰色に煙る瞳をそっと伏せた。
「カミュロリエ、それはそなたにしかできないことか?」
 うっ、とカミーラは答えに詰まった。
 自分以外にも同じようなことを考えている人間は五万といるだろう。候補の中だけを見てもタズーやヘレンはカミーラと意見が近い。ライサのように明確な意見を持っていたり、自分にしかできないことがなければ騎士になれないなんていう基準なら、最初から自分をパン卿候補になんか選ばなければいいのに……
「そなた、何か勘違いしているようだが」
 アフロディテ=エロス卿はとても静かな微笑をたたえていた。
「そなたに何が出来るのかは知らぬ。しかし、そなたの人生を犠牲にしてまで、そなたがやらねばならぬことかどうか、よく考えるが良い」
 意外なことを言われて、カミーラは思わず瞬きを繰り返した。その拍子に堪えていた涙が一筋スッと流れた。
「私の人生、ですか?」
「そう、一度きりしかない人生の一部、あるいはすべてになるかもしれない時間を奉げてまで、カプリコルヌスの為に働きたいか?」
 そんな風に考えたことは一度もなかった。しみったれた田舎町、やる気の無い教師と同級生、決してエリートとは言えない自分の現状、展望の見えない未来。そこから抜け出すには騎士になるのが一番良い方法だと思ってきた。
 でも、アフロディテ=エロス卿は否定する。
 カミーラは内心で憤慨していた。きっとこの人は昔から美しく才能があり恵まれた環境にいた人なのだろう。だから騎士になる前の自分を懐かしがって、こんなことを言っているのだ。この人にはカミーラが抱いてきた気持ちなんか絶対にわからない。
「働きたいです」
 カミーラは力強く言い切った。
「パン卿として国を守る。それが私の夢であり目標です」
 アフロディテ=エロス卿はゆっくり首を横に振った。
「そなたの夢とやら、別にパン卿でなくてもできることであろう」
「そ、それは……」
 そう言われてしまうと、元も子も無かった。
「皆にも同じことを聞いた。私には理解できぬのだよ。普通の身のままでもできることを、何故騎士になってやろうとするのか」
 皆はどう答えたのだろうか。ライサは苦虫を噛み潰したような顔で床を睨んでいた。まったく言い返せなかったのだろう。タズーとヘレンも同様らしく、二人とも黙って肩を竦めて見せた。
 セディはどうだろうか。ガニュメディス卿に向かって「パン卿になりたいなんて思ったことはない」と言い放った彼は、アフロディテ=エロス卿にも同じことを答えたのだろうか。
 カミーラはいやいやと首を振った。他人は他人、自分は自分。
「それは、騎士じゃなきゃ出来ないからです。縁様の政策だってパン卿という権力があったからこそ出来たことだと思います。普通に、例えば公務員として何かやろうとしたら、何十年も時間がかかってしまいます」
「良いではないか、時間がかかったとしても」
「良くないです! カプリコルヌスの現状を変えるためには、一刻の猶予もないんです」
「本当に?」
「た、多分!」
 勢いよく言ってから、カミーラは自分で「あたし、バカ?」と突っ込みそうになった。だが、アフロディテ=エロス卿にはそれがツボにはまったらしい。
「ん? ……あ、あははははは。そなた正直者よのお」
 アフロディテ=エロス卿は大声で笑い出した。ものすごく馬鹿にされている気がするが、矢継ぎ早に意地悪な質問をされるよりはマシか。それでもムスッとした表情を隠せないカミーラに、アフロディテ=エロス卿は困ったように微笑んで見せた。
「失礼、気を悪くしないでおくれ」
 そう言ってから、彼は給仕の少年達に向かって微笑んだ。
「皆、悪いけど、少し外に出ていておくれ。後でまた呼ぶよ」
「はい、翻様」
 数十人の少年達が少し訝しげな顔で出て行き、扉が閉められる。
 大理石の部屋には静寂が訪れた。次代パン卿候補五人とアフロディテ=エロス卿、たった六人だけが取り残される。
 アフロディテ=エロス卿はしばらく黙っていた。灰色の瞳は瞼で覆い隠され、長い指は美しいクリスタルのグラスを弄んでいる。固く結ばれた唇には、先ほどまで浮かび続けた微笑の欠片も無い。
 パン卿候補五人は居心地が悪くなって、お互いに顔を見合わせた。否、セディだけはアフロディテ=エロス卿が何もちょっかいを出して来ないのを幸いに、 まだモキュモキュとご馳走を口に詰め込んでいる。空気を読めないのか、敢えて読まないのか、いずれにしても大した度胸だ。
 たっぷり時間が経ってから、アフロディテ=エロス卿はゆっくり顔を上げた。
「カミュロリエ、そして皆も、そなたらが失敗を恐れていないことはよくわかった。何の見返りもなく重圧を負うだけの価値をパン卿という地位に見出していて、カプリコルヌスのことを真に案じていること真実であろう。そなたらの誰が騎士になろうとも、心の強い騎士を得られることは喜ばしい。でも」
 すっと薄く開かれた瞼の向こうに、灰色に煙る瞳がかすかに見えた。
「よく考えるが良い。本当に騎士になりたいのか。騎士になりたいとしても、それはパン卿にならねばできないことなのか」
 五人をゆっくり見回した彼の目は本当に悲しそうだった。
「本当によく考えておくれ。一度しか人生を奉げるということを、若く美しく、最も成長できる時間を浪費することになるということを」
「……後悔してるんですか?」
 カミーラは飛び上がりそうな気持ちで、発言者を見つめた。セディだ。言うまでに間が空いたのは、烏賊を呑み込むのに時間がかかったかららしい。
 セディは真っ直ぐにアフロディテ=エロス卿を見つめていた。
「おいら、ガニュメディス卿にも似たようなことを聞きました。そうしたら、あの人はすごく悲しそうな顔をしてました。今のあなたみたいに」
 アフロディテ=エロス卿は答えなかった。無表情にセディを見つめている。
「おいらは逆に知りたいです。後悔するくらいなら、何で騎士に―――」
「セディ!」
 カミーラは思わず叫んだ。同時にタズーが力尽くで止めようと腰を浮かしかけていた。ヘレンも声には出さなかったが、止めようとはしたらしい。
 セディはカミーラを見やり、次いでタズーを見た。失礼な発言だとは悟っているらしい。でも、唇の端を歪めただけで失言を撤回しようとはしなかった。言わずにはいられないという風だった。
 アフロディテ=エロス卿は良い、と言うように手を振って見せた。
「後悔はしているわけではないよ。私が一つだけ忠告できるのは、騎士になる前の自分となった後の自分は異質になるかもしれないということ」
「異質というのは、具体的はどういうことですか?」
 酔っ払った頭で急展開に着いていけていなかったライサがようやく口を開いた。まだ顔が赤い。
「同じ自分では居られない、ということだよ。今、そなたらが強く望んでいることをずっと望み続けられるとは限らない。現にこの私も変わってしまった……」
 彼は静かに瞼を伏せた。
「変わった自分を嫌いではないよ。これも私なのだとわかっている。騎士になった時から。でも、時折思うのだよ。アフロディテ=エロス卿になっていなかったら、どんな人生があったのかと」
 カミーラは先刻の元巫子のことをふと思い出した。そして合点がいった。あの人は恐らく、アフロディテ=エロス卿になる前の「彼」のことを知っているのだ。「彼」が騎士になった時に巫子になったと言っていたし、若い巫子達には「彼」の心を癒せないとも断言していた。だから「彼」を独りにできない、自分を犠牲にしてでも傍にいたい、と。
 また涙が出てきた。不審に思われたくなくて、前髪を掻き分けるふりをして、そっと拭った。
「でも、もしかするとそなた達には不要な心配かもしれない」
 彼は静かに微笑んでいた。凄みのある艶めいた顔ではない。穏やかな微笑だった。
「そなたらは皆、心が強い。自分の国を愛しているし、何とかしたいという思いを持っている。だから、私やガニュメディス卿のようにはならないかもしれない。そういう意味では次に行くカンケルのヘラ卿、彼女の方が話が合うかもしれないね」
 アフロディテ=エロス卿はすっと立ち上がった。
「先ほど緑に光ったであろう。あれはゲミニの騎士からの連絡。南側の戦況が芳しくないようだね。
 そなたらには急いでカンケルに向かってもらわねばならない。戦闘でヘラ卿が忙しくならない内にね」
 南側の戦況。パン卿候補達はギョッとして、一同に立ち上がった。
 黄道都市に対して、敵国の戦闘がまた仕掛けられたらしかった。直接戦闘に加わらないカプリコルヌスに居ると、後で戦闘があったことを噂で聞くことがほとんどなので、リアルタイムに戦況を告げられるとあたふたとしてしまう。
 あっと言う間に広間を突っ切ったアフロディテ=エロス卿が扉に手を掛ける前に、気配を察したのか、外に控えていた少年達がさっと扉を開いた。
「ありがとう。私は彼らをカンケルに送ってくるよ。すぐに戻る」
「はい、翻様。どうぞお気をつけて」
 アフロディテ=エロス卿は振り返ることなく広間を出て行く。五人も慌てて彼の後を追った。
 素晴らしく脚の長いアフロディテ=エロス卿の早足に着いて行くために、小柄なカミーラは小走りになる必要があった。
 目線でヘレンに大丈夫か?と尋ねたが、笑顔で頷いたところを見ると体調は問題ないらしい。
 後ろを歩くタズーとセディ、二人に肩を組まれてフラフラ歩くライサの会話が聞こえる。
「まったく。ライサには金輪際、酒は飲ませないことにしようぜ」
「そうだね。ライサー、しゃんとしろ! 引き摺るぞー」
「んー、面目ない。どこに行くんだ?」
 タズーの大きなため息が聞こえていた。
「話は聞こえてるだけかよ。カンケルだ。あっちの方でまた襲撃があったらしくて、緊急で移動するんだってよ」
「おいら、それがよくわかんないんだけどさ。カンケルって今は非戦闘国家じゃないの?」
「らしい。でも、あそこは海産資源の宝庫だからな。タウルスの作物ほどは狙われないかもしれねえけど、奪いに来る奴らはいるのかもしれねえな」
「おいら、やだな。戦闘で傷付いた人って本当に辛そうなんだ。体の方が治っても心の方が治んないで、折角助かったのに命を粗末にしちゃう人とか、本当に辛いよ。そういう国民が増えるのは敵さんだって同じだろうにさ、何で戦争なんかするかな」
「敵国のお偉いさんの意識に文句言ったって仕方ないぜ。民にとっちゃ、そういうアホなお偉方がいる国に生まれたことが不幸なんだろうな」
 カミーラは首だけ振り向いて、議論に加わった。
「本末転倒よね。そうやって自分の国の人を傷付けていたら、その内に国の力自体が落ちるだけよ」
「だから、奪うんだ」
 ライサがボソッと呟く。
「自分の民が国が傷付いても、他国から資源を奪う。それで奴らはバランスをとっているんだ」
「嫌ね。もっと穏やかに、普通に生きることに満足できないのかしら」
 そう言いながら、へレンが立ち止まった。
「わっ! ヘレン、いきなり止まらないでよ!」
「ごめんなさい、カミーラ。でも、ここって……」
 五人の行く先にあるのは十二宮流だった。潤沢な流れが緩やかに渦を巻いている。
 カミーラは前を見た。アフロディテ=エロス卿は躊躇する事無く歩き続けている。
「これ、さっきと同じで回廊なんだわ。きっと色の無い水晶か何かで作られているのよ。通っても大丈夫なんだろうけど」
「そうね。でもわかっていても怖いわね、これは」
 先刻アクアリウスからピスケスに移動した時の泡に包まれた青い光と白い光の回廊も驚いたが、ここ完全に透明だ。水晶に亀裂が入って水漏れでもしたら一巻の終わりだ。皆、跡形も無く溶けてしまう。
「早くおいで」
 もう随分先に行ってしまったアフロディテ=エロス卿が叫んだ。
「行こうぜ、待たせたら悪い」
「そうね」
 タズーに頷くと、カミーラは観念して走り出した。ヘレンは器用にも目を瞑って併走する。タズーとセディはライサを引き摺りながら、小走りで走っているらしく、時々ガンガンとライサの脚が水晶の床にぶつかる音が聞こえてきた。
 結構長いこと走り続けた先には、透明な水晶の門が現れた。それも潜り抜けると、その奥にはやはり水晶で築かれた丸い池があり、その脇でアフロディテ=エロス卿が待っていた。
 タズーはさすがに重かったのかライサを放り出すと、池の傍に走り寄った。
「これは……確か、都市間を移動できるという騎士専用の池ですよね」
「おや、よく知っているね。本当は船を使って十二宮流を下ってもらうつもりであったのだけど、状況が悪くなりそうなのでね。今回は特別にこの水鏡を使ってカンケルへ行ってもらうよ」
「あの、そのことなんですが」
 ヘレンはおずおずと進み出た。
「そんなお忙しい時に、私達が訪問してよろしいのでしょうか? その……ご自分の国のことより、他の国の騎士のことを優先してもらうのが問題ないのか、少し気になって」
 確かにヘレンの言うとおりだと、カミーラは思った。迷惑がかかるのではないかという心配もあるし、いいかげんな選考をされるのはこちらとしても困る。
 アフロディテ=エロス卿は首を竦めた。
「そなたらが気にせずとも良い。他の国のこととは言え、我らは同じ黄道十二都市の騎士。その選考は国の動向にも勝るとも劣らぬほど大切なのだよ」
「そうですか。余計なことを失礼しました」
「良い。パン卿に選ばれれば、そなたらにもわかる。たった十二の国、たった13人しか居らぬ騎士なのだから」
 アフロディテ=エロス卿の返事に、カミーラは感嘆した。
 ガニュメディス卿は非親密そうな態度だったが、少なくともアフロディテ=エロス卿は他国の騎士との繋がりを求めてくれている。そういう気遣いがあるからこそ、フリクソス卿が彼を頼って面接現場に潜んでいたのだろう。もしパン卿に選ばれたら、彼はきっと心強い味方になる。
「選ばれそうに無いけどね」
「ん? カミーラ、何か言った?」
 愚痴が思わず声に出てしまった。訝しむセディに何でもないと首を振って見せる。
 アフロディテ=エロス卿は池の間際に立った。祈るような表情で水面を見つめている。
じん、用意はいいね?」
 彼の声に応えるように、水面から赤い光が放たれる。池の周囲に嵌められた宝石の内の一つ、ルビーが真っ赤な炎の如き輝きを見せ始めた。
「さあ、水鏡へお入り。大丈夫、濡れないから」
 水の中に入るのか、と少々ギョッとした面々を安心させるように、アフロディテ=エロス卿は言った。
 まずタズーが戸惑いながらも足を踏み入れ、次に入ろうとするヘレンに手を貸す。深さはタズーの膝上くらいなので、カミーラが入っても沈んでしまうことはなさそうだった。
「カミーラ、先に入って。で、タズー、ライサを受け取ってよ」
「いや、問題ない。自分で入れる」
 最後まで醜態を晒すのは回避したいらしい。ライサは何とか自分の足で池に入り、倒れる事無く背筋を伸ばした。
 やれやれと思いながら、カミーラも水の中に入る。
 不思議な感覚だった。確かに水の中に入っているのに、感触がとても軽い。アフロディテ=エロス卿が言った通り、全然濡れている感じが無かった。
 最後にセディが入ったのを確認すると、アフロディテ=エロス卿は再度水面に話しかけた。
「ではお送りしよう。よろしく頼むよ」
 彼が言い終わるや否や、赤い光が強さを増し、カミーラ達を包んだ。眩しくは無いが、身を清められるような感覚に囚われ、カミーラは思わず目を固く瞑る。
「そなたらにパーン神の加護があらんことを」
 アフロディテ=エロス卿の声が聞こえて、何とか薄く瞼を開けるが、光に遮られて彼の顔を見ることは叶わなかった。
 彼と、そしてあの元巫子の彼にも女神アフロディーテと天使エロスのご加護があるようにと、カミーラは心密かに祈りを奉げた。
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