月と太陽のめぐり
2 日常
人類が地球を離れ、惑星ガイアを新たな母星とした頃から、星一つや星群を単位とした国家が次々に誕生してきた。地球時代よりも国と国との距離は長くなったが、お互いに直接外交員を派遣して、国同士の親交を深めることは地球時代同様に重要視されてきた。
大国ガイアからは毎年数組の外交使節団が派遣される。その内の一組は遠方友好国との親善交流を目的としていた。相手が遠方国であるため、任期は数ヶ月を要する。
任務は交流目的であり、それほど難しくはない。厄介なのはメンバー構成である。
たった数人だけの派遣メンバーには上位校の在学生が選ばれることが多いのだが、馬鹿高いプライドや偏見のせいで、同僚間の諍いが絶えない。そのせいで、国際交流に託けた集団生活訓練とも言われていた。
しかし今回の派遣メンバーは、若い男性ばかりが五人という構成にも関わらず、つまらない諍いがなかった。少なくとも本国ガイアには、喧嘩による器物破損や任務続行不可の報告が届いていなかった。
しかし報告がないからと言って、何一つ騒動がないわけではない。
居住区に響く獣のような咆哮。それに重なる笑い声。
通りかかったミカは無意識に立ち止まり、そのまま回れ右。
曲がり角に身を隠して様子を窺っていると、予想通り、開いた扉からは金髪の青年がひょいっと滑り出て来た。風のように軽快に走り去る姿に、毎度のことながら苦笑するしかない。
「廊下は走るな、とでも書いて貼っておこうかな」
最近は慣れたからいいものの、飛び出して来た彼と衝突した被害回数は、ミカが今までに負っただけで両手の指に余る。
それはそうと、部屋の主が心配である。呻く声が聞こえるのはいつもことなのだが、放っておけない事態だろう。
個室に足を踏み入れると、やはりいつも通りなのだが、異変に気づいた。神経質なくらい綺麗に片付いているはずの部屋には、書類やディスクケース等々が足の踏み場もないくらいに散乱している。
そして荒れ果てた床の中央では、長身を哀れなまでに曲げて呻く部屋の主がいた。
「無事か、リオエルド?」
「愚問だ。無事に見えるのか?」
声には普段の張りがない。顔すら上げられず、床に這いつくばったまま起き上がれない……
ミカは手にした荷物をぐちゃぐちゃの机に置くと、自らも床に屈む。
「またぎっくり腰か」
この診断を一体何度繰り返しただろうか。
原因は先程逃げ出した彼で間違いない。どうせ、売り言葉に買い言葉をふざけた取っ組み合いに発展させて、わざとリオエルドの腰を狙って攻撃を繰り出したのだろう。リオエルドが腰痛持ちなのを見越しての、あくどい悪戯である。
何度も同じ状況に遭遇しすぎて、もうため息も出て来ない。ミカは壁まで歩み寄り、通信機を取り上げた。
「エフゲニー・シェスタコフ。今すぐ医務室から湿布を持って、リオエルドの部屋まで戻って来るように。これは艦長命令だ」
「呼ばんでいい!」
大男がぎゃんぎゃんと喚く姿は何とも面妖である。ミカは口元を覆い、笑いを隠した。
つい一ヶ月前まではこんな騒動は皆無だった。五人のメンバーが互いに距離をとって、他人行儀に接していたからだ。
それにはメンバーの一人の社会的地位が関係していた。問題のエフゲニーである。何せ宇宙一の大国ガイアを牛耳る名門家の一つ、シェスタコフ家現当主のご嫡男。次期当主となり、世界の中枢となることが確実視されている。
世間の噂に違わず、威厳と適度な社交性を持ち合わせ、冷静で少し老衰した青年だった。他のメンバーは「触らぬ御曹司に祟り無し」とばかりに、彼に対しては特に距離を置いていた。それで上手く行っていた。
ところが、お行儀の良い均衡を破ったのはエフゲニー自身である。
つい最近になって彼は豹変した。と言うより本性を現した。
世間で噂される完璧な人物像は、完璧な演技であったらしい。その演技を続ける必要はない、と言うかつまらないと判断した結果、今日の彼に至る。悪戯好きな子供の本性を現した矛先は、ほとんどの場合が何故かリオエルドだった。
ミカは軽く触診して、やれやれと手を叩いた。
「しばらくは絶対安静だ。部屋の片付けは散らかした本人にやらせるんだな」
「これ以上の廃墟にする気か?」
「そこまでは責任が持てない。第一、僕はただの通りがかりだ。問題は本人同士で解決して欲しい」
「搭乗員の躾も艦長の仕事だ」
「謹んで辞退する。今のところ、彼の標的になっているのは君だけだからね」
リオエルドは絶望的な唸り声を返した。
その姿には同情を禁じえないが、立場を代わってやるほどミカはお人好しではない。
「ミカ、持って来たけど」
開きっぱなしの扉の向こうから、こちらを覗く顔が二つ。いずれもさっき逃げ出した彼とは異なる。
「おやおや。僕はエフゲニーに来るように言ったのだけれど、どうしてタカヒロとブラッドが来るんだ?」
「そのエフゲニーにお願いされてね。怖い艦長と鉢合わせしたくないんだって」
「失礼な。誰が怖い艦長だ」
鼻に皺を寄せたミカに、隆弘は湿布薬を投げて寄越した。
続いて軍服に身を包んだブラッドが、苦笑しながら入って来る。
「また腰か。リオ、御歳お幾つで?」
「俺とお前は同い年だっ!」
「本当に? 怪しいさ」
ブラッドは床に倒れたままのリオエルドの横に立つと、その細身で長身をひょいっと持ち上げた。鮮やかなくらい軽々と、リオエルドを寝台に横たわらせる。
「まったく、毎回毎回よくやるさ」
「喜んで代わってやる」
「結構です。エフゲニーのお守りはリオエルド。この船の鉄則さ」
「……いつからそうなった」
しゃあしゃあと言ってのけるブラッドを、空色の瞳がきつく睨む。
その脇で床に散らばったディスクケースを拾い上げていた隆弘だったが、あららと頭を掻いた。
「リオ、やられたな。ほら」
ケースを見せられて、リオエルドの顔から血の気が引いた。記入済みディスクが見事に割られている。
「前寄港地での交流記録だよ。悪質だな」
さすがにミカの表情が歪む。
「個人記録ならともかく、任務自体のレポートだと困る」
「違うな。リオ個人の提出物だ」
「俺の航海日誌なら構わないとでも?」
リオエルドの眉間の皺が一本二本と増えていく。
手際良く湿布を貼りながら、ミカは大きく頷いた。
「日誌は個人提出だけど、任務記録は艦長がまとめて提出しなければならないからね」
「もういい。皆、大嫌いだ」
リオエルドは完全に拗ねてしまった。
結局のところ、ミカも隆弘もブラッドも、あの金髪悪魔の扱いには手を焼いているのだ。突然の豹変についていけないのも一因だが、下手に関わり合いたくないという意識も強い。エフゲニーもそれを感じ取って、彼ら三人に悪戯を仕掛けることはあまりなかった。
残念ながら、リオエルドはそのメンバーに加われなかった。エフゲニーに気に入られてしまったのが運の尽きである。
ぶつぶつと嘆くリオエルドを放っておいて、三人は廊下に出た。そして顔を見合わせて、苦笑いを浮かべる。
「今回は一段と手が込んでるさ」
ブラッドの観察結果は正しかった。
日に日にレベルが上がっていく悪戯は、任務全体には支障を来たさないギリギリの範囲に抑えられている。エフゲニーの行動は用意周到、驚くほど正確に計算されて尽くしているのだ。
その明晰な頭脳を全力で駆使してからかう価値が、リオエルドにはあるらしかった。
「愛されてるんだな」
リオエルドが聞いたら卒倒しそうな台詞を、隆弘はしみじみと吐いた。
同意して笑いながら、ミカは心にチクッと痛みを感じた。
……愛されている。
誰かの声が聞こえる。眩暈がする。
……私は独りなのに、どうして彼女だけが。
隆弘とブラッドの背中が少し遠く見える。
意識が薄れる。
……ずるい。許せない、ア……テミ……
「ミカ、どうしたんさ?」
ブラッドの声が間近で聞こえて、ミカは我に返った。
「な、何でもない」
「顔色が悪いな。大丈夫か?」
隆弘も心配そうに覗き込む。
ミカはすぐ笑顔を取り戻した。
「そう? 実は少し寝不足なんだ」
嘘だった。むしろ眠り過ぎているくらいだ。異常なほど、体が睡眠を求めている。理由は一つしか思い当たらない。
――セレネが……出て来る……
冷や汗が頬を伝う。
誰にも知られるわけにはいかない。
そう言えば、今日はまだ薬を飲んでいなかった。早くしなければ、取り返しのつかないことになるかもしれない。
ブラッドが親切に支えてくれるのを有難く受けて、ミカは自室へと足を速めた。
三人が去った後の廊下に、こっそりと現れた長身の影。スキップしながら、リオエルドの部屋に意気揚々と入室する。
「やっほー、元気?」
「失せろ」
つれない反応などお構いなく、エフゲニーは舞うような仕草でベッドに腰掛けた。
「なんだよ、折角お見舞いに来てあげたのに」
「誰のせいでこうなったと思っている」
「僕」
親指でトンっと自分の胸を叩いた。
特大のため息をつき、リオエルドは苦労して寝返りを打った。サイドボートに置かれたディスクケースをエフゲニーに投げ付ける。
「何コレ?」
「俺の航海日誌だ。お前、踏んだだろう?」
「あー、そうだっけ? 気づかなかった」
小悪魔は菫色の瞳を神妙に瞬かせた。
「データは取ってないの?」
「ないっ」
少し考えて、エフゲニーは机に向かった。
「あれ、これミカの薬じゃないの?」
長い指が机から取り上げたのは銀色のピルケース。持病の薬が入っているらしく、ミカが常に持ち歩いている物だった。シンプルなデザインだが、目立つ錠前が付いているので、一目で彼の所有物とわかる。他者の誤飲防止のためらしい。
「届けないとね」
その前に、とエフゲニーはピルケースを官服の胸ポケットに入れて、部屋備え付けのコンピュータを起動させた。
「適当に書いて良い?」
「事実に相違なく書け」
「面倒臭いなあ」
そう言いながらも、レポート様式を呼び出し、あっと言う間に文字で埋めていく。数日前の詳細記録など、彼の記憶力にかかればお茶の子さいさいだった。
家柄ばかりが噂されがちだが、エフゲニーはかなりの逸材だった。傍迷惑な悪戯を仕掛けては来るが、自分で後始末できる範囲でしかやらない辺り、彼の優秀さを示している。
「ほら、もうすぐ完成。僕って天才?」
「俺よりは速い」
「わぁお、リオが僕を褒めてるよ。珍しいねえ。雨降るかも」
「どこにだ? 船の中にか? それ以前に褒めてない」
「あはは、細かい奴」
無駄口を叩きながらも、エフゲニーの指は止まらない。本性を現したところで、彼が優秀な御曹司であることは変わりないのだ。
この任務が終われば、エフゲニーはまた老衰した青年に戻るのだろう。冷たい人形のような風貌に、厭世的な笑みを浮かべて。
老婆心ながら、リオエルドはエフゲニーを心配している。だから、多少では済まないほど迷惑ではあるが、この短い生活を楽しませてやりたかった。
「終わった! ねえ、ご褒美ちょうだい」
「……お前の不祥事を自分で始末したのに、何故褒美が要るんだ?」
顔を引き攣らせるリオエルドに構わず、エフゲニーはたくましい体躯にしな垂れかかった。まばゆい金髪が厚い胸板に広がる。
一人用の寝台がギッと軋んだ。細身なので手足の長さばかりが目立つが、実はエフゲニーもリオエルドに並ぶ長身。二人で横たわるには、この寝台は窮屈すぎる。
そんなことは気にも留めず、甘えるように擦り付けてくる顔を、リオエルドはかなりの力で押し退けた。
「そのノリは勘弁してくれ。そっちの趣味はないっ」
「黙って」
容赦なく唇に押し付けられる生暖かい感触。輝く髪が視界を遮る。
息苦しいほど長く深く。アメジストの瞳が好戦的に煌くのが、間近ではっきりと見える。官能的な音を立てて濡れた唇が離れていくまで、視線を逸らすことができなかった。
「よしっ、ご馳走様」
「お前な……」
何度も繰り返された行為。これ以上先へ進んだことはないが、人様に公言できる関係ではない。
人の咥内を散々蹂躙しておきながら、小悪魔は反省の色一つ見せずに、寝転がったまま器用に肩をすくめた。
「ふぅ、このくらいの楽しみはなくちゃね。僕だって普通はしないよ、男になんてさ。メンバーに女の子がいるなら、絶対にそっちを落とすと思う。でもさ――」
言いよどんで、珍しく落胆の表情を見せる。
「僕、帰ったら結婚しなきゃいけないから。個人的なことを言えば、彼女は全然好みじゃないんだけど」
断れないよ、とまた肩をすくめた。
シェスタコフ家は一族内での後継者争いが激しいことでも有名である。数代前の当主はライバルに魅惑的な女性を送り込まれ、再婚しようとして妻の実家から猛反対を受けた。もう駆け落ちしかないと逃げ出せば、途中で愛人はドロン。当主の座を放棄した者に戻れる場所などなく、そのライバルがまんまと当主の座を射止めた。
そんな家だからこそ、政略結婚は大切にされている。大々的に婚約発表を行い、両家の永久の繋がりを約束し、花嫁の命の保障を契約し――要するに、後継者に愛人の存在は御法度なのである。今回のメンバーに女性が一人も含まれないのは、エフゲニーの浮気防止策としか考えられなかった。
「酷いよね。僕としては、独身生活の最後を花で飾りたいわけ。この際、性別には目を瞑るからさ。ね、一回くらい僕と寝てみる気はない?」
菫色の瞳がキラキラと輝いて、空色の瞳を覗き込む。
「僕、結構巧いよ」
「お前が抱かれるなら、考えてやる」
「えーっ、やだよ、女役なんて」
「俺だって御免だ。馬鹿を言ってないで、さっさとミカに薬を届けに行け」
「ちぇっ、わかりましたよ。リオは僕よりミカのことが心配なんだもんね。しくしくしく」
空々しく嘘泣きをしながら、エフゲニーはベッドから滑り降りた。くるりと振り向いて仁王立ちすると、思いっきり舌を突き出す。
「大っ嫌い!」
言い捨てて、身を翻して部屋を出て行った。
「嫌いで結構」
つぶやいて、リオエルドは大きくため息をついた。
どうせ夜になったら、またここに侵入するのだ。酒を持ち込んで、愚痴を零しまくって、酔い潰れるまで喋ってから、ぐったりと眠ってしまう。そんな馬鹿馬鹿しい夜を何度過ごしたことだろう。
とにかく夜のバトルに備えて、リオエルドは一眠りすることにした。襲われたら堪らない。もっとも、抱く分には考える余地あり、と思っているのだが。
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