月と太陽のめぐり

4 覚醒


「まだ痛むのか?」
「少しね」
 包帯が巻かれた首をさすりながらも、エフゲニーは努めて明るく笑って見せた。
 しばらく失神してはいたが、今のところ外傷も後遺症も見られない。
 一方で目覚めない者もいる。覚醒は近そうだとの隆弘の判断で、エフゲニーとリオエルドは医務室に向かうところだった。
「正直言うとね、ミカに近づくのは少しは怖い」
 訳もわからず殺されかけた身としては、意識がないとは言え、加害者と同じ空間に行くのは勇気と忍耐が必要だった。
「リオ……エフゲニーも来たのか」
 エフゲニーには鬼門となった医務室で出迎えたのは、呼びつけた隆弘だった。
「僕達を呼んだのはタカだろう?」
「いや、そうだけれど、エフゲニーはまだ来られないかと思ってたから」
「僕は前向きなんだよ。どんな時でもね」
 医務室を通り、奥の集中治療室へ。中を覗き込むと、部屋の中央には昏々と眠るミカの姿があった。リオエルドの当て身で意識を失って以来、ブラッドの厳重な監視下で丸三日も眠り続けている。
 彼の姿は変貌していた。正確には正体が暴かれた。
 栗色の髪は染め粉が落とされて銀色に、健康的な小麦色に塗られた肌は無機質な青白さを取り戻し、化粧でぼかした輪郭も本来の美しさを晒している。
 そこに寝ているのは人形のような人間だった。無機質な美しさが、彼が常人ではないことを告げている。
 エフゲニーは入り口で留まったまま、その先へ進もうとしない。遠目でミカを見つめ、ほうっと息を吐いた。
「本当に驚いたよ。まさかミカが月の民セレーネ族だったなんて」
 古代ギリシア神話の月神セレネ。その名を受けた種族「セレーネ族」は、かつて月に植民した人々の子孫であることを示す。
 昔、異星への移住は困難を極めていた。宇宙産業技術が未発達で、各星の環境に適応するためには人体ワクチン投与が多用された。
 そのワクチンの有害性は早期から危険視されてきた。生殖機能の低下、胎児死亡率の上昇、発育不全、原因不明の突然死などの問題が多く報告された。それでもワクチンを使った植民が奨励され続けたのには母星、つまり地球が未来には住めない星になることがわかりきっていたからである。
 セレーネ族の祖先は危険を承知で植民の道を選んだ第一人者だった。非常に危険でお粗末なワクチンを打ち続けて、未来を切り開いた。火星へ移り住んだアレス族、木星の衛星に植民したエウロパ族やイオ族の祖先達も、セレーネ族の後に続いた。
 ワクチンの副作用は大きかった。セレーネ族をはじめとする早期植民者は、ワクチンだけでは適応できなかった異星環境に、世代を重ね、時間をかけることで適合した。外見にも明確な違いが現れ、その子孫達は常人とは少し異なる「異形種」として扱われている。
 セレーネ族の特徴はその容姿にある。細身で手足の長い身体、面長で鼻梁が通った顔。髪は白銀で、絹のような光沢を持つ。瞳は太陽を映したかのように光り、肌は陶器人形のように青白い。微笑む姿は月神セレネとたたえられ、種族名の由縁となった。
 その美しい容姿ゆえに人身売買の対象となった歴史もある。公には消滅したが、今でも誘拐事件は絶えていない。
 危険を回避するために、ミカは自分の姿を偽ってきたのだろう。髪を濃い栗色に染め、瞳にも同色のコンタクトレンズを入れることで、外見的特徴を隠そうとした。
「僕はセレーネ族が絶滅寸前だと聞いたけど、違ったっけ?」
「合ってるよ。年々減ってるみたいだ」
 エフゲニーの質問に、隆弘はダウンロードした情報を壁をスクリーン代わりにして投影して見せた。
 純血のセレーネ族が絶滅寸前である理由はいくつかある。セレーネ族は特殊な遺伝子を持っているため、セレーネ族と他民族との生殖には条件があるのだ。
 初期植民者の子孫であるセレーネ族の遺伝子は、代を重ねて変化していた。それゆえに、現在の一般人種との交雑は不可能である。子を成すためには同時期の植民者の子孫が必要だった。
「最初はセレーネ族同士の結婚が続いて、皆が血縁者になってしまったらしい。だからこそ、交配が可能なアレス族やエウロパ族との婚姻が、子孫を残すためには必要とされてきたんだろう」
 エフゲニーは紫の瞳を丸くした。
「本当に? アレス族とセレーネ族が?」
「両方とも初期植民者の子孫だからね」
 エフゲニーはミカのすぐ傍まで来て、手錠で寝台に繋がれたミカをまじまじと見つめた。
「じゃあ、僕は可能なんだ」
「何がだ?」
 追って来たリオエルドの問いに、エフゲニーは鼻に皺を寄せた。
「話の流れで察してよ。セレーネ族との間に子供を作ることだよ。前例は聞いたことがないけど」
「そうか、シェスタコフ家は元々火星にいた一族だったな。お前はアレス族なのか」
 シェスタコフ家は地球時代で言えばロシア系だが、まずは火星の資源ビジネスで財を成し、ガイアに移ってから更に繁栄を遂げた一族である。エフゲニーはアレス族の遺伝子を持っているのだ。
 長い指が自分の紫の瞳を指差した。
「この目、不自然な色だろ? これは火星の民だった名残だよ」
 そう言えば、と何やら思い出す。
「僕の曾々祖母は金の瞳を持っていたらしいよ。一人だけ肖像画の目の色が違うから、奇妙に思っていたけど、僕達はセレーネ族と共通した遺伝子を持ってるのかもね」
 エフゲニーの容姿も常人離れしたところがある。髪と瞳は絹糸や宝石の如き輝きを持っているし、端正な顔立ちや細い姿形もどこか似ている。その類似に気づかなかったのは、ミカが姿を偽っていたからだけではない。エフゲニーはころころと表情を変えるので、彫刻のような容姿が目立たなかったのである。
「エフゲニー、もしかして君の一族も精神……遺伝子のせいで、その、何か異常を来たすということが、あるんじゃないのか?」
「遺伝子による精神異常? さあ、どうかな。政治闘争に負けて、ってことなら有り得るけど。何でそんなことを訊くの?」
 エフゲニーのいぶかしむ眼差しに、隆弘は慌てて謝罪する。
「ごめん、気を悪くしないで欲しい。セレーネ族にはそういう異常があるという記述を見つけて、つい似てるのかなって」
「気にしてないよ。その記述って?」
 隆弘は二つの文献を壁に映し出した。
 一つは月神セレネの伝説だった。ギリシア神話として知られる物語の一つである。月の女神セレネが美少年エンデュミオンに恋をした。人間であるエンデュミオンがいつか老い衰えることに耐えかねたセレネは、エンデュミオンを不老不死にした。その代償としてエンデュミオンは永遠に眠り続け、セレネは夜毎に彼の元を訪れる。夢の中で交わった二人には五十人の娘が生まれたという。
 もう一つは月の民にまつわる不可思議な言い伝え。月に定住し、やがて地球に見捨てられた民が「晴れの海」と呼ばれたクレーターにセレネの神殿を建て、女神の加護を祈り続けた。そのセレネに選ばれた少年少女が神殿に消え、やがて母親となった少女が子供を連れて出て来る。しかし、少年の方は行方知れずとなったと伝えられる。
 二つの話は酷似していた。ギリシア神話を基に作った物語が後者なのだろうが、それにしては生々し過ぎる。
「この二つ目の伝説、どうやらただの御伽噺じゃなくて、ある程度は史実らしい」
 伝説は無からは生まれない。何らかの事実が基になって、その外枠だけが物語に作り替えられるケースが圧倒的に多い。
「明らかに集団犯罪さ」
「犯罪とか、そういう問題なの?」
 眠気覚ましのコーヒーを流し込むブラッドに、エフゲニーは呆れたように突っ込んだ。
「それで、肝心のミカとの関係は?」
「セレネに選ばれた少年少女、という箇所について、注釈があるんだ。セレネに取り憑かれた少女とエンデュミオンとして選ばれた少年、となっている」
「エンデュミオン、か……」
 リオエルドが唸る。ミカは背後に立った自分に向かって、その名をつぶやいたのだ。何かの期待を持って、目を輝かせて。
「つまり、エフゲニー襲った時、ミカはセレネ神に憑かれた状態だったと?」
「そういうことになる」
「そこだよ」
 エフゲニーが会話に割って入った。
「何で僕だったの? たまたま医務室の前を通ったのが僕だったから?」
「いや、俺はお前の上着に気づく前に、一度医務室のロックを調べている。その時、ミカは俺に対して扉を開けなかった」
 リオエルドの回答に、エフゲニーはこめかみを押さえた。
「じゃあ、やっぱり僕限定か。どうして……」
「その答えは本人に訊くといいさ」
 ブラッドが生体反応モニターの変調を指差した。ピッピッという機械音が小さく響く。
「目覚めるさ」
 見た目にも呼吸がはっきりしてくるのがわかる。白銀の眉が寄せられ、ゆっくりと瞼が上がり、黄金に煌く瞳が現れた。
「……ブラッド?」
 覗き込む顔に、困惑した声がかかる。
 眠っていた時には人形のようだったのに、それが動いて、言葉を紡いで、わずかながら表情を変える。一般の基準をはるかに上回る美しさは、同僚達をむず痒(かゆ)くさせた。
 無理に体を起こしてよろめいたミカを、ブラッドが脇から支えた。
「まだ動かない方がいいさ」
「……ここは集中治療室? どうして……」
 見覚えのある部屋模様を見回し、集まった同僚の存在に気づき、更に自分の手首に付けられた手錠に困惑の表情を見せた。
 その様子に皆が察した。
 ミカは何も憶えていない。セレネに取り憑かれていた間の記憶は、彼にはないのだろうか。
 誰もが口を出しかねている間に、ミカは自分の意識がない間に何があったのか、ヒントを得た。
 天井に付けられた緊急手術用の光源。金物色に光るそれは、鏡のようにミカの姿を映している。
 染め粉を落とされた銀色の髪と、隠しようのない金の瞳。そこにあるのは紛れもなくセレーネ族の姿だった。
 無言で自分の真の姿を見つめ、ミカは悲しげに瞼を閉ざした。
「ミカ、体の具合は?」
 リオエルドは無難な質問を振った。本当に正気に戻っているのか、慎重に確かめなければならない。あの殺人未遂のような事態は二度と御免だった。
 リオエルドの硬い声に、ミカは気丈に微笑んだ。
「愚問だよ。僕が無事に見えるのか?」
 皮肉げにではあるが、いつかのやり取りを蒸し返して見せる。
 これはミカだ。セレネ神ではない。
 ほっと一息ついて、リオエルドはまだ顔を強張らせるエフゲニーを座らせ、自分用にも手近な椅子を引き寄せた。
「それで、これは……」
 ミカは両手首を拘束する手錠を見つめた。
 ブラッドは言い聞かせるようにして尋ねた。
「ミカ、今ここで目覚める前の記憶を教えて欲しいさ」
「ここで目覚める前? 確か、ブラッドと一緒に――」
 リオエルドの部屋を辞した後に気分が悪くなり、ブラッドに自室まで送ってもらった。そして薬を飲もうとしたが、いつものピルケースが見つからず、予備の分を探す内に……ここまでは憶えている。その後のことは何一つ記憶にない。
「その前に声が聞こえた……」
 ミカの独り言に、隆弘は確信を強めて頷いた。
「ミカ、君はセレネ神に取り憑かれてるんだな?」
 ミカの肩がビクッと震えた。
「……どうして、それを?」
「文献に月の民の伝承が載っていたんだ。君はセレーネ族であり、リオをエンデュミオンと間違えたことからも、君がセレネだと推測できる」
 隆弘の論理的説明に、黄金の瞳は丸くなった。
「参ったな。すごい推理力だ」
 長く息を吐き、ミカはゆっくりと体を起こした。
 少し躊躇してから、ブラッドはミカを拘束する手錠を外した。一瞬エフゲニーの顔が引き攣ったが、反対するでもなく、視線を逸らすだけだった。
「セレーネ族は月神セレネに憑かれる。でも、全員じゃない。数十年に一人だけだ。憑依されることを、僕達は月神セレネ降臨アドヴェントと呼ぶ」
「それは人格障害なのか?」
 隆弘の問いを、ミカは少し考えてから否定した。
「一人の人間に複数の人格が存在する点は似ている。でも、多重人格は人格が入れ替わるのに対し、セレネアドヴェントはセレネを名乗っていながらも、自我意識も意思も存在する」
「でも、ミカは憶えてないんだろ? ここで……」
 エフゲニーを殺そうとしたことを、と言いかけて、ブラッドは言いよどむ。今のミカを前にしては、事実であっても言いにくい。
 ブラッドの様子に気づかず、ミカは続けた。
「僕は自分でセレネを抑えることができない。抑制薬を飲むことで、自我を保っていた。ただ、あの日は薬が――」
 ミカの目の前にポンッとピルケースが投げられた。下を向いたまま、エフゲニーがつぶやく。
「リオの部屋に置き忘れてた」
 ミカは突然見つかった命綱に、複雑な苦笑を見せた。
「そうか。ごめん、迷惑をかけて」
 黄金の瞳から、ポトリと涙が落ちる。
「でも違うんだ。僕は薬でセレネを抑制していたけれど、最近セレネの声が頻繁に聞こえるようになっていた。薬だけで抑制しようなんて、土台無理な話だったんだ」
「じゃあ、普段はどうしてたのさ?」
 ブラッドの質問に、ミカの瞳には暗い影が射した。
「……伝承を調べたのなら、君達はエンデュミオンのことも知ってるんだな」
 エンデュミオンとは、元々は月神降臨適合者の生殖に利用された者を指す。相手は同族の場合もあるし、アレス族のような同期植民者の子孫も含む。
「エンデュミオンはセレネの恋人。つまり、僕の恋人の立場を指す。エンデュミオンと一緒にいれば、セレネが意識に現れることはない」
「それは女? それとも男?」
「僕の場合、相手は女性だ。憑かれたのが僕だから、性別が逆なんだ」
「ふーん、女神の愛はすべてを凌駕するのかねぇ」
 エフゲニーの言葉には、多少の嘲笑が混ざっていた。自由恋愛など許されない身の上には、嫌味にしか思えない。
……哀れな女。
「そこまで言わないけどさ」
 言ってから、エフゲニーは皆の目が自分を見つめていることに気づく。
 ブラッドが怪訝けげんな表情で尋ねた。
「自分で言って、何で否定してるのさ?」
「あ、いや」
 誤魔化そうと笑った自分の声に幻聴が重なる。
……哀れなセレネ。エンデュミオンを手放したのはそなた自身であろう。愚かなことをしたものよ。我には理解できぬ。
 誰かが何かを言っている。聞いたことがあるような、ないような声。
「――あのさ、僕ちょっと席を外すね」
 動悸がする。目が回りそう。
「エフゲニー、大丈夫か?」
 立ち上がった拍子によろけたエフゲニーを、リオエルドが慌てて支えた。
「貧血か? 医務室の方で横に」
 ミカに動揺を与えないよう、隆弘は努めて自然に勧める。
 しかし、リオエルドが制した。
「自室へ連れて行く」
 本人の意思も確認せずに、ほとんど引きずるようにして、集中治療室から連れ出した。
 リオエルドはエフゲニーの挙動不審を、ミカへの恐怖心から来たものと推察した。ミカの傍にいない方が懸命だと判断したのである。
 二人が出て行くのをいぶかしげに見送って、ミカはため息をついた。
「僕のせいかな。要らぬ心労をかけてしまった。意識を乗っ取られるくらいなら、最初からこの任務に就くべきじゃなかった」
「それはしょうがないさ。推薦されて断るためには、それ相応の理由が必要なんだし」
「変に疑われて、セレーネ族だとばれるのが嫌だったんだろ?」
 ブラッドと隆弘の口々の慰めに、ミカはますます顔を伏せた。
「それでも、乗るべきじゃなかった」
 唇を噛み締めてもう一度深呼吸をし、同僚達を見回す。
「僕が何をしたのか、詳しく教えて欲しい」
 隆弘とブラッドは顔を見合わせた。二人とも何を話し、何を隠すべきかを迷っていた。
 船体への被害については見ればわかるのだから、隠したところで意味がない。それ以外の、つまりエフゲニーが受けた暴行については少々話しにくいし、二人はその現場にいたわけではないから伝聞でしか話せない。
「俺達がわかる範囲で話そう」
 ブラッドの提案に、隆弘は同意した。
「ミカ、君はライフシステムの解除を図ったんだ」
 隆弘はできるだけ冷静な声で、実際に切られたシステムの名前、船内の被害規模を丁寧に説明していく。
「――ライフシステムを切ろうとしたのは、おそらく緊急の帰航が目的だった」
 ミカは与えられた情報から、自らの行動の意味を推測した。
「エンデュミオンに会うために?」
「そうだ。でも……」
 ミカはその綺麗な顔を歪める。
「でも、僕のエンデュミオンはもういない。別れたんだよ、僕達」
 ブラッドは息を呑んだ。
「じゃあ、ミカが帰還したところで、セレネを抑えられる人はいないのか?」
 ミカは瞳を伏せることで肯定した。
「彼女にはもう、他に好きな人がいる。僕のせいで、彼女の人生を縛るわけにはいかない」
 それで自分が狂ったとしても。
 ミカがこの任務に就いたのは、もう愛していないミカを見捨てられずに苦しむ恋人に、ミカから別れを切り出すチャンスとなった。
 愛する人には幸せになって欲しい。それがミカの意志だった。セレネの思惑など、二人の人生には関係ない。
 絶句する隆弘とブラッドに、ミカは魅惑的な微笑みを向けた。
「僕が与えた被害はそれだけ?」
 有無を言わさぬ話題転換。唖然とする二人に、ミカは更に畳み掛ける。
「エフゲニーの様子がおかしかった。リオエルドも僕に対して距離を置いていた。僕は彼らに何かをしたのでは?」
「鋭いさ」
「ブラッド!」
 早々に白状してしまったブラッドに、隆弘は思わず非難の声を上げた。
「タカ、隠しても仕方ないさ。ミカは気づいてる。謎を解くためにも話すべきさ」
 隆弘はまだ迷っていた。当事者達のいないところで話を進めていいものだろうか。
 しかし、あの時のミカ――セレネの言動について、隆弘も気になることがあった。
「詳しいことはエフゲニー本人に聞いて欲しいんだけど」
と、前置きして、彼が通信機越しに聞いたセレネの台詞を持ち出した。
「セレネはこう言ったんだ。許せない、アルテミスって」
 カシャンと無機質な音。ミカの手から、金属製のピルケースが滑り落ちたのだ。
「アルテミス……僕がそう言ったの?」
 ミカの青白い顔は更に白くそそけ立った。隆弘を凝視する瞳は転げ落ちんばかりに見開かれ、色素の薄い唇が戦慄(わなな)いている。
「僕は誰をアルテミスと呼んだの?」
「誰って、聞いていたのは僕とエフゲニーだったけれど」
「タカじゃないさ。首を絞められた時にもそう呼ばれたって、エフゲニーが――」
「首を絞めた? 僕がエフゲニーを?」
 しまった、とブラッドは口を塞いだ。
「そんな馬鹿な……アルテミス? シェスタコフ一族はアレス族のはずだ。なのに……まさか、セレーネ族の血が……」
「君達は遺伝子が似てるんだろ? それでセレネが何か勘違いしたとかじゃないのか? 共通点もあるみたいだし」
 よく事情はわからないものの、隆弘は状況を整理しようと思いつくままに話してみる。
 ミカが顔を上げた。
「共通点?」
「確か、エフゲニーの先祖には君と同じ黄金の瞳を持った人がいたと」
「――っ!」
 ミカは声にならない悲鳴を上げた。転げ落ちるようにして寝台を飛び下りる。しかし足がもつれ、床に倒れた。
「ミカ、どうしたんさっ!」
 助け起こそうとするブラッドの腕をかいくぐろうとして、また倒れる。
「ミカ、落ち着け!」
 耳元で怒鳴る隆弘にすがって、ミカは金切り声を上げた。
「エフゲニーを……早く彼を保護して……アルテミスに乗っ取られるっ……」
「何を言って……ブラッド、どこへ!」
 隆弘の叫びを背に、ブラッドは集中治療室を飛び出した。目的地は遠く、エフゲニーの個室。
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