光さす方へ

――――憎い。お前が憎い。殺してやりたい!

 中大兄皇子は息を飲むと同時に覚醒した。
 全開にした目に映ったのは急ごしらえの天蓋。次いで目だけで左右を伺ったが、何も異変はなかった。
 整わない呼吸を抑えつけて、中大兄は体を起こした。急に息を吸い込みすぎたせいで気管支が痛い。顔中が冷たいのは寝汗のせいだ。
 と、背を向けて同衾する女が、こちらを振り向きもせずに声を掛けてきた。
「うなされておいででした」
 抑揚のない声。
 中大兄は眉を潜めて女の背を睨んだが、女は闇の中で動く気配がなかった。
 この女はいつもこうだ。中大兄を憎んでも憎みきれないはずなのに、恨み言の一つも言わず、怒りや悲しみを顔に浮かべるでもなく、そして許しの言葉を掛けるでもなく、人形にような表情でただ淡々とその場に居る。
 中大兄は唇を皮肉げに吊り上げた。
「……そうか。嫌な夢を見たのでな」
 少し間があってから、女が身じろぎをした。
「どのような夢を?」
「そなたの父の夢だ」
 女はゆっくりと体をこちらに向けた。暗がりの中でも、異様に大きな瞳が中大兄をじっとりと見つめているのがわかった。
「そなたの父が恨みがましく私を非難する夢だ、倭姫よ」
 もう一度言い聞かせるように言ってみたが、倭姫王の感情には触れなかったらしい。彼女は「そうですか」と呟いたきり、また中大兄に背を向けて、それきり動かなくなった。
 舌打ちをして、中大兄は乱暴に寝具に横たわった。
 倭姫王。何の面白みもない、砂のような女。殺した兄、古人大兄皇子の娘でなければ、そして他に皇后の候補が居さえすれば、こんな女を傍に置かなければならない必然性もないのに。
 外はまだ闇。夜明けはまだ遠い。
 すっかり冴えてしまった目と次第に痛くなる頭に苛立ちながら、中大兄は固く目を閉じた。


 差し出された朝餉に、中大兄は寝不足で不機嫌な顔を更に歪めた。その様子に驚いて、膳を配った宮女が何か粗相があったのではないかと平伏す程だった。
 中大兄は別に宮女や膳に文句があるわけではなかったが、説明するのも面倒で、また舌打ちをしそうになる。
 それを涼やかな声が遮った。
「あら、今日は器が間に合いましたのね」
 朝餉に同席する額田王が、飯を持った陶器を持ち上げた。
「でも、わたくしは昨夜のように葉に盛るのも一興と存じますわ。せっかく外で食べるのですもの。風情がありましたのに」
 宮中の女子供も連れての行幸。昨夜は急ごしらえの仮宮での宴会だったので、すべての料理に器が間に合わず、蒸かした飯は大きな木の葉に盛られていた。幼い大津皇子などは良い香りが飯に移って美味しいと、楽しげに騒いでいた。
 中大兄もそれを微笑ましく見つめるふりをしていたが、旅路の飯を葉に盛るなどという行為はあの歌を思い出させて、気分が悪かった。
 あれから十年が経った。若い宮女をはじめ、宮中にはあの歌を知らない者も多い。知っていたとしても、気にも留めないかもしれない。気が咎めるのは、あの歌に篭められた憎しみを中大兄が知っているからだ。
 黙り込んでいる中大兄に、額田は流し目で「ねえ、そう思いませんこと?」と同意を求めてくる。
 こいつ、わかってやっているな、と中大兄は憮然として額田をにらんだが、彼女はどこ吹く風だ。あの青年と親交の深かった額田が、奴の最期の歌を思い出さないはずが無い。
 大王と才女の間に吹き荒れる見えない嵐の存在など知る由も無く、宮女は恐縮しきってますます額を草地に擦り付けた。
「申し訳ございません。今朝、大后様が突然おいでになって、木の葉などに盛って食べるのは嫌だと仰せになりまして」
「まあ、風雅を理解できない娘ね」
 額田の明け透けな言い方に、周囲の者達が一斉に頷いた。
 飾りだけの大后である倭姫より、宮廷文化の花である額田の方に誰もが好意を持っている。そもそも自分勝手な行動の多い倭姫を、宮中の者達は受け入れていない。
 中大兄は周囲を見渡した。今朝の朝餉の場にも、器に文句を言ったという肝心の倭姫の姿がない。
「大后はどうした?」
 宮女達は困ったように顔を見合わせ、幾らか年老いた宮女が恐る恐る進み出た。
「それが、今は気分が悪いので水辺を散策してくると」
 最後までは言わせず、中大兄はすっと立ち上がった。
「皆、先に食べていてくれ」
「あら、迎えに行かれるのですか? お優しいこと」
 どういう風の吹き回しかしら、と額田が言外に皮肉を浮かべていたが、中大兄は取り合わなかった。身を翻し、丘を下った水辺の方へと向かう。
 倭姫はすぐに見つかった。彼女は大きな岩にぺたんと座って、さらさらと流れる水をじっと見つめていた。中大兄が近付いても、気付いてはいるのだろうが振り向きもしない。
 警備の舎人達を遠ざけてから、中大兄は倭姫の横に黙って腰を掛けた。
 風が水を渡って二人に吹き付ける。
 唐突に中大兄は声を掛けた。
「ありがとう」
 しばらく間を置いて、倭姫はきょとんとした顔で夫の横顔を見やった。
「私も木の葉などに飯を盛るのは好かない。先に言ってくれて助かった」
「……いえ」
 倭姫は恥ずかしそうに視線を反らした。
 中大兄は確信した。倭姫は中大兄がうなされた理由に気が付いている。古人大兄皇子の夢を見たと言うのは、誤魔化しに過ぎないことも。
「優しいんだな」
 ますます困惑した顔で、倭姫は下を向いた。しばらくして「私は父を覚えていませんが」と切り出した。
「父は優しい人だったそうです。誰かを憎み続けることなどできない、と亡くなった母が申していました」
「ああ、そうだった。兄上は優しかったよ」
 夢の話とは言え、どうして彼が恨みがましく非難したなどと、有り得ない嘘を吐いてしまったのだろう。あの人は最期まで優しかった。異母弟が刃を突きつけた時でさえも。
「すまなかった。そなたに八つ当たりしてしまった」
 許してほしい、と中大兄は倭姫の肩をそっと抱いた。
 突然のことに倭姫は身を固くして、おずおずと中大兄の表情を伺った。
 妻の華奢な肩口に鼻を埋めて、中大兄は呟いた。
「本当は有間皇子の夢を見たのだ」
 倭姫は驚かなかった。中大兄を苦しめたのが有間の幻影であり、悪夢を誘発したのが夕餉の飯を持った葉であったと気付いていなければ、わざわざ朝餉の器に文句などつけないだろう。ほとんどのことに彼女は無関心なのだから。
 彼女があの歌を気に留めていたことの方が中大兄には驚きだったが、父親と同様に謀反の濡れ衣を着せられて殺された有間に対し、同情する気持ちがあるのかもしれない。
 それでも、倭姫は憎しみを見せない。過ぎてしまったことを今更どういっても仕方の無いことと、すべてを水のように流して、ふわふわと生きている。
 この不器用な娘を、中大兄は愛せる気がした。多くの恨みを買うこの身を守るために、亡き兄が遣わしてくれたのかもしれない。
 そんな虫の良い話があるわけがないのに、今はそう信じたくなった。
「父は優しい人でした。多分」
 倭姫がもう一度言った。秋の虫が鳴くような、かすかな囁きだった。
「そうだな。二度と忘れない」
 中大兄は強く誓った。大切なものを逃さないように、彼女を抱きしめる力を強めた。
 夫の甘えるような仕草に、倭姫はくすぐったそうに身をよじった。その表情の乏しい横顔には、少しだけ微笑が浮かんでいるように見えた。

家にあれば 笥(け)に盛る飯(いい)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
          ――――万葉集より 有間皇子の歌

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(後書き)
2014.09.20に明日香村の劇団時空さんの「別れ歌〜有間皇子悲話〜」を見てきました。
歴史街道・紀行文「2014年 明日香村彼岸花祭り
有間皇子と鵜野讃良皇女の悲恋が主軸なのですが、中大兄皇子(葛城皇子)が印象に残りました。
途中で中大兄皇子が自分の苦しめた人達(古人皇子、間人皇女、蘇我石川麻呂、越智娘)の幻影に苦しめられるシーンがあり、本当に中大兄皇子が自戒の念に苦しんでいて、とても胸が痛みました。
中大兄皇子さん、超悪役だけど格好良かったです。(普段は郵便局にお勤めなのだそうですよ!)
有間皇子もはっきりと中大兄皇子を憎んでいましたね。男らしかったなあ。

観劇後、考え付いた話がコレです。拙作の「翡翠」とリンクしています。
ちなみに、うちの額田王は中大兄皇子の妃でも恋人でもありません。宮廷歌人であり気の置けない友人という関係です。

 (C) 2014.09.21 Yuuhi