『 失われていくもの 』
 もう数え切れないほど、何度もついたため息。
 どんなに悩みを吐き出そうとしても、決して苦しみは消えてくれない。
 草壁皇子は目に見えて疲弊していた。
 妻の心遣いも、可愛い盛りの愛娘と愛息の笑顔も、采女や舎人の気遣いも、何一つ彼の心には届かない。

 大津皇子のせいだ。
 彼の最近の発言は、まるで自らが皇位を欲しているかのような言い方ばかり。
 大津のせいで、草壁はこんなにも苦しんでいる。

 忍壁にはすべてが憎かった。
 元凶である大津本人も、それを止めることができない高市皇子のことも、事情を誰よりも理解しているくせに円満な解決に導こうとしない皇后も、そして死に逝こうとしている父のことさえ。
 誰よりも自分が憎い。
 自分では草壁の苦しみを少しも和らげてやることはできない。

「そんな顔するなよ」

 じっと床を睨んでいた忍壁に、草壁は疲れ果てた、でも優しさを隠せない声で言った。

「お前にまでそんな湿気た顔をされたら、私がもっと暗くなる。へにゃーっと笑っててくれ」
「……義兄上、それではまるで私がいつもへにゃーっとしてるみたいではありませんか」
「してるだろ?」

 してない、と忍壁が言い返す前に、草壁の口からは再びため息が漏れた。
 でも、忍壁にはどうすることもできない。

 草壁にとって、大津は唯一無二の存在だ。
 大津にとっても、草壁は誰よりも大切な人のはず。
 まるで表裏のような二人は互いを何よりも第一に考えて、互いのためを思って行動しているはずなのに、何故こうも食い違ってしまうのだろう。

 本当は大王になんてなりたくない草壁のために、皇位を狙っている大津。
 大津の命を守らんと、大津を取り巻く陰謀の渦から彼を救い出すために皇位を選んだ草壁。

 大津の意図はわかる。
 草壁に皇位は似合わない。優し過ぎて、心を削り取られてしまうから。もっと自由に生きる道が必要だ。

 でも、草壁の願いも同じくらいに理解できる。
 大津を死なせたくない、失いたくない。自分が守れるのなら、何にだってなってやる。

「忍壁、考えたのだが」

 草壁は庭先をぼんやりと見つめていた。その視点はどこにもあっていない。

「何を考えたのですか?」
「出家しようかなって。大王にならなくて済むし、大津の地位も安泰になるだろう?」

 忍壁は目を一瞬見開き、すぐに糸のように細めた。

「またそういうことを言う。そんなことをできる立場ではないことぐらい、自分でご承知のはずでしょう?」
「わかってるよ。わかってるんだ。でも……」

 草壁は視点を彷徨わせている。
 その漆黒の瞳で、一体何を見ているのだろうか。過去か現在か、それとも悲しい予感を秘めた未来なのか。

「正直、つくづく嫌になってきた。父上のため、母上のために大王になることを決めて、高市兄上や大津も、勿論お前も忠誠を誓ってくれて、これで上手くいくと思ったんだ。誰も争わなくて済む、誰も死なせなくて済む、誰にも寂しい思いをさせなくて済むって。それなのにこんなに上手くいかないなんて、何がいけなかったのだろう?」
「何がいけないって話じゃないですよ。ただ大津兄上はあなたのことが大事で――」
「そんなことはわかっている!」

 草壁は珍しく声を荒げ、ハッとしたように視線を忍壁に向けた。

「すまない、怒鳴ったりして」

 優し過ぎる異母兄は、自分の苦悩を人にぶつけることすらできない。
 このままでは、この人は壊れてしまう。
 そう思っても、忍壁はじっと草壁を見つめるしかなかった。

 青い青い快晴の天空。
 草壁は静かに視線を上げて、憎らしいくらいに眩しい空を睨んだ。

「……いっそのこと、死んでしまおうか」
「草壁!」

 あんまりな発言に思わず身体を浮かせた忍壁に、草壁は力なく笑いかけた。

「冗談だよ」
「冗談でもそんなことは言うな! 草壁が死んでしまうなんて、私は絶対に嫌だっ」

 語尾が嗚咽でかすれた。涙が止められなかった。
 草壁は自分のことを全然大切にしない。自分のことは二の次でしかない。それが大津とは違うところだった。
 もし万が一、本格的に大津と皇位継承争いをするようなことになったら、草壁は迷わず自らの命を断ってしまうだろう。

 唇を噛み締める忍壁に、草壁は謝らなかった。
 本当は冗談などではない。そういうことも有り得る。
 草壁が生きている限り、大津は草壁のために皇位を望み続ける。それは草壁が出家したところで、何も変わらない。草壁が皇位に就いても、大津は皇位を狙うことをやめはしないだろう。

 解決の方法はただ一つ。
 どちらかが消えること。

「大津は有能だよ」

 草壁は寂しげに笑った。元々肉付きのよくない頬に、うっすらと陰が見える。

「父上に似て、政治力のある大王になれるだろう。何か間違えても母上がいるし、高市兄上もいる。何も心配はない。少なくとも、人形でしかない私よりはずっとマシだ」
「そんなことはありません。大津兄上がいくら有能だからって、あなたより良い大王になれるとは限りません。二人で生きればいいんですよ。あなた達二人で」

 死ぬな。
 忍壁は心で悲鳴を上げていた。

 このままではどちらかが消えてしまう。
 でも、二人はあまりにもお互いの心に入り込んでいる。依存してしまっている。
 一方が消えたら、もう一方もいずれは消える。そんな気がした。
 いや、きっとそれは限りなく近い未来。

「……今年も暑かったな」

 脈絡なく言って、草壁は目を閉じた。

「義兄上、身体に障ったのでは?」

 心の病は、既に草壁の身体を蝕みつつある。
 忍壁にできるのは、身体に無理をさせないこと。ただそれだけだ。
 だが、草壁は軽く首を横に振った。

「違うよ、そうじゃないんだ。昨年のことを思い出していたんだ。いろいろと忙しくて全然暇がなかったのだけれど、一度だけ大津と二人で……ここにいたんだ。何をするわけでもなく、ただ黙ってここにいたんだ」

 忍壁は部屋を見回した。
 草壁の館である嶋の宮。その一室であるこの場所は、今は訳語田に館を構える大津がかつて自室として使っていた場所だった。
 伊勢へ通じる山が良く見える部屋。館の中では、遠い地にいる大伯皇女に一番近い場所。ここを大津が与えられたのは、草壁と鵜野讃良皇后の配慮だったのだろう。
 草壁はよくこの部屋に来て、大津と共に過ごしていた。自然と忍壁もこの部屋を訪れることが多くなった。時折高市も加わって、異母兄弟で楽しい馬鹿騒ぎをしたのもこの部屋だ。
 大津は訳語田に館を頂戴してからも時折ここへ戻って来ていたようだが、今はそんなことができるはずがない。

 今はただ、草壁だけがこの部屋を訪れる。部屋をそのままにしておく。
 いつ大津が戻って来てもいいように。また皆で仲良く過ごせるように。

 嫌な未来予想図ははっきりと現実味を帯びて来ている。
 大切な人を、草壁は失おうとしている。それなのにどうすることもできない。
 過去の思い出にすがって、希望を作り出すことしかできない。

「今は無理だけれど、またいずれ……」

 涙が一筋、痩せた頬を伝う。
 過去は戻らない。
 ただ美しい思い出だけが遺されて。

「そうですね。またいずれ」

 忍壁は静かに願った。
 誰も傷つかないで欲しいと、心から祈っていた。

 草壁の願いが届くように。
 その心が生きる希望を失わないように。
 残酷な未来が草壁の命を奪ってしまわないように。


                     ―――― 終

(C) 2008 Yuuhi

参考:魔女ノ安息地>歴史街道>古代史>草壁皇子と大津皇子>草壁皇子 死の真相
   :魔女ノ安息地>歴史街道>古代史>2008年 お年玉企画>C真実を胸に秘め 忍壁皇子

後書き

 季節外れなお話。大海人皇子の崩御が秋なので、その直前の晩夏か初秋です。
 お年玉企画で忍壁皇子を書く前に、私の中のイメージを流布しておこうと書いてみたら……
 うーん、草壁メインですね。あれ?