2008年お年玉企画C 忍壁皇子 / Copyright (c) 2008 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.

リクエストして下さった方 : 賀茂皇姫様(碧羽恋夏様)

真実を胸に秘め 忍壁皇子(おさかべのみこ)

忍壁皇子は刑部皇子とも書かれます。あるいは忍坂部皇子。
大海人皇子の第九皇子とされていますが、それは母親の身分を考慮した序列において。
実際には次男とも、四男とも言われます。
そんな彼の経歴を知る為には家系図と年表!といういつものパターンですが、
それに加えて重要なのが、葛城皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)関連の結婚表です。まずは、これ。

《結婚表》
大海人皇子(天武天皇)の子ども   葛城皇子(天智天皇)の子ども
本人の名前 母親の名前   本人の名前 母親の名前
大海人皇子
(本人ですが)
宝女王 × 大田皇女 遠智娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘)
鵜野讃良皇女 遠智娘
大江皇女 忍海造色夫古娘
新田部皇女 橘娘(孝徳天皇妃の小足媛の妹)
十市皇女 額田女王 × 大友皇子 宅子娘(伊賀の采女)
高市皇子 尼子娘(九州豪族の娘) × 御名部皇女 姪娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘)
草壁皇子 鵜野讃良皇女 × 阿閇皇女 姪娘
大津皇子 大田皇女 × 山辺皇女 常陸娘(蘇我赤兄の娘)
忍壁皇子 穀媛娘(宍戸臣大麻呂の娘) × 明日香皇女 橘娘
泊瀬部皇女 穀媛娘 × 川嶋皇子 忍海造色夫古娘
託基皇女 穀媛娘
× 志貴皇子 越道君伊羅都売
※ 忍壁の母の名は「かぢ(木へん+穀)媛娘」ですが、表示されにくいので「穀媛娘」と書いておきます。

えいやっと、家系図。
異母兄弟姉妹が多過ぎて、家系図好きの私もさすがに嫌になりかける(苦笑)
結果、実兄弟姉妹のみをきょうだい扱いにしています。親を知りたい場合は、上の結婚表を見て下さい。
《家系図》
 _____                
|      |               《天武》
|    大江皇女=========大
|           |           海=====穀媛娘
|  ___  弓削皇子、長皇子    人  |
| |   |                 皇  |
| |  新田部皇女======= 子  |__________________
| |             |          |      |           |    |
| |          舎人皇子         |   託基皇女=志貴皇子  |  磯城皇子
| |                         |                   |
| 明日香皇女============
忍壁皇子              |
|                                              |
川嶋皇子=========================泊瀬部皇女

           遠智娘===葛城皇子《天智》======姪娘
            ____|             |
           |      |             |
         大田皇女   鵜野讃良皇女《持統》 |_____
           |      |             |       |
山辺皇女==大津皇子  草壁皇子====阿閇皇女  御名部皇女==高市皇子
               _____|_____   《元明》         |
              |       |    |                |
           氷高皇女  珂瑠皇子  吉備皇女=======長屋王
           《元正》     《文武》

また、忍壁は生年が不詳です。故に、異母兄弟達の年齢を頼りに年表を作ります。
【 】は父・大海人皇子から見た順番、主語がないものは忍壁自身の履歴です。
拙作の小説では草壁と大津に振り回されて欲しいという勝手な妄想から、四男説を採用おります(笑)
が、実際には次男であった可能性が高いです。という訳で、この考察内では次男説を採用します。

《年表》
654年頃 高市皇子誕生【長男】
657年   川嶋皇子誕生(父は葛城皇子)
660年頃 誕生【次男】 1歳
661年  大王・宝女王(斉明天皇)崩御→葛城皇子称制 
662年  草壁皇子誕生【三男】
663年  大津皇子誕生【四男】
668年  近江遷都→葛城皇子即位(天智天皇)
      この頃、志貴皇子誕生(父は葛城皇子)
671年  父・大海人皇子は正妃・鵜野讃良皇女ら数名と共に吉野へ辞す 12歳
        ※ 子供達の内、嫡男の草壁皇子となぜか忍壁皇子のみが同行
672年  高市皇子と大津皇子(+大伯皇女)が近江を脱出し、伊勢で大海人皇子らに合流
      壬申の乱
673年  大海人皇子即位(天武天皇) 14歳
674年  石上神社に派遣される 15歳
679年  吉野にて六皇子の誓約(高市、草壁、大津、忍壁、川嶋、志貴) 20歳
681年  草壁皇子、立太子(当時、20歳)
      川島皇子、三野王らと共に「帝記」等の記録編纂を命じられる 22歳
        ※ 日嗣皇子となった草壁皇子は律令と歴史書の編纂を命じられる
685年  冠位改訂により、位が授けられる。
        草壁  浄広壱位 22歳
        大津  浄大弐位 21歳
        高市  浄広弐位 31歳
        忍壁  浄大参位 26歳
686年  飛鳥浄御原宮の一部が焼け落ちる(忍壁皇子の屋敷から出火か?) 27歳
      大海人皇子崩御、 大津皇子賜死
--------------------
689年  草壁皇子薨去 29歳
690年  鵜野讃良皇女即位(持統天皇)、高市皇子が太政大臣に 31歳
696年  高市皇子急死 37歳
697年  鵜野讃良皇女譲位、珂瑠皇子即位(文武天皇) 38歳
--------------------
700年  大宝律令選定を指揮(701年完成) 41歳
702年  鵜野讃良皇女(太政天皇)崩御 43歳
703年  知太政官事に就任 44歳
705年  死去 46歳

(--------------------で挟まれた期間を、後で重点的に考察します)

まず、何で四男ではなく次男説を採用したのかを説明します。
671年に大海人皇子は実兄である大王・葛城皇子のもとを離れて、吉野へと逃亡します。
この時に家族として同行したのが、正妃である鵜野讃良皇女と嫡男である草壁皇子ですが、
二人に加えて何故か忍壁も一緒に下向しています。
彼の母親である穀媛娘(かぢひめのいらつめ)は宍戸臣大麻呂というさほど身分の高くない臣下の娘なので、
嫡男の次に身分の高い、とか言う理由ではありえません。
実際、草壁の次に身分の高い息子である大津皇子は、近江に遷都してからは葛城皇子のもとで育てられており、
実姉の大伯皇女と共に近江宮に留め置かれます。
また長兄であり、母親の身分は低いものの、唯一成人年齢に近い息子である高市皇子も、
大海人側の戦力となることを警戒されて近江宮を出ることができませんでした。
そんな中、忍壁が吉野へと出て行くことができたのは何故なのか。
まずは、高市と違って
戦力にならない年齢だったという点です。
高市ですら20歳になる前。高校生くらいですかね。
それより若いということだと、まだ中学生か小学校高学年くらい。戦力外なら近江側も安心。
また、もう一つ高市と違うのは、
実の兄弟姉妹が大勢いるという点です。四人もいます!
お母さんはよほど大海人皇子に愛されていたらしいですね。
大海人は近江を去るという時に、おそらくご寵愛の穀媛娘は一緒に連れて行きたかったことでしょう。
でも、できなかったのです。幼い子供がいたか、あるいはちょうど身篭っていたのか。
身を切られる想いの大海人に、穀媛娘は言います。「私の代わりに、私達の息子を連れて行って下さい」、と。
忍壁は12〜15歳頃と思われます。
戦力外ではあっても、逃避行の足手纏いにはならない程度。
むしろ、まだ10歳の草壁の方が足手纏いになりかねないのですが、それは仕方ないとして。
こうして忍壁は吉野へと同行しました。
四男だったら当時の大津(9歳)より年下ということになり、確実に足手纏いです。だから、次男。
また674年〜681年に相次いで政治的な任務や儀式に立ち会っていることから、
草壁&大津より年下だと、「何で身分の低い、しかもお子ちゃまが参加してんのよ?」的な話になります。よって、次男。

さて、吉野行きの忍壁くん。ママや幼いきょうだいと離れて、パパの正妃やその息子と行動するなんて、本当は寂しい。
ママにベタ惚れの父親と一緒にはいられるけれども、やっぱり自分の身分が低いことには変わりないし、
自分一人がのけ者なのではないかと心配していた……のは最初のうちだけ。
吉野で身を寄せ合うように暮らす中で、あることが気にかかります。
それは、異母弟・草壁の態度でした。
なんとなく実母の鵜野讃良皇女とすら距離をとっている感じ。いわんや、大海人をや。
(草壁は飛鳥に居た頃、実親から引き離されて育っています。
葛城皇子が人質同然に岡本宮へ連れて行ったからです。参考 草壁皇子 死の真相
近江にいた頃はあっさりと取り繕っていたことでしょうけれど、吉野で身を寄せて生活するようになって、
その粗がはっきりと見えて来ました。何かよそよそしい。
優しいママときょうだい達と偶にやって来るパパに囲まれて、温かな家庭で育った忍壁から見ると、
「一体全体なんなんだ、この擬似家族は!?」と顔をしかめたくなる代物でした。

   ※ 大好きな実兄を敵に回してしまった大海人は、心から"家族""息子"と呼べる存在である忍壁を
   ※ 精神的な支えとして自分の傍に置いておきたかった。という可能性も有りだと思います。
   ※ 唯一自分の片腕となりそうな年頃の長男・高市を連れて来られなくて、
   ※ 幼い頃に嫡男として遇して来た大津は近江側に連れて行かれ、
   ※ 新たに嫡男となった草壁は幼少期の経験のせいなのか、どこか頑なで、心を開いていない感じがする。
   ※ 勿論、草壁に万が一のことがあって、高市や大津も命を落とした場合に
   ※ 忍壁に"嫡男"の資格を与えるということも有り得なくはなかった……のかなぁ? これは不明。

そんな擬似家族状態があろうとなかろうと、敵は近江方。
内輪の問題なんて、大海人も鵜野讃良も構っていられないのです。
でも、多少の解決はしたいところ。そこで鵜野讃良は動きました
突然、忍壁に向かって「あなた、下にきょうだいがいるんだから、
年下の扱いには慣れてるわよね。じゃ、草壁をヨロシクね
と言って、忍壁が訊き返す間を与えずに、草壁を押し付けてしまうのでありました。
鵜野讃良にしてもこの気の張り詰めた状況で、正妃として夫を勇気付け、
来るべき戦いに備えて気を配らなければならず、息子のことに心を裂く暇がなかったのでしょう。
という訳で、訳もわからずして巻き込まれた忍壁でしたが、実きょうだいの中では長男な彼。
お兄ちゃん気質が沸き起こります。不思議な異母弟を放っておくわけにもいかず、渋々引き受ける羽目に。
これが忍壁と草壁の腐れ縁の始まりでした。


時は過ぎて673年、所も変わって飛鳥浄御ヶ原。大海人皇子の御世です。皇后は正妃・鵜野讃良皇女。
じゃあ、皇太子は誰でしょう? ……決まっていません、厄介なことに。
正妃の子である草壁が有力ですが、旧近江朝の人々は葛城皇子が可愛がっていた大津皇子の即位を望みます。
また、壬申の乱での功績から高市皇子を押す声もちらほら。
そんな義理の兄弟達とは違い、忍壁を皇太子に、という声は聞かれません。
確かにママはパパに愛されていますが、身分の低さはどうしようもない。
異母兄の高市のように戦いで活躍したわけでもないので、群臣からの人気が高いというわけでもない。
一生身分の低い一介の皇子で終わるのが、彼の宿命でした。が、、そうはならなかったのであります
忍壁は単に"身分の低い皇子"というわけではなく、彼の存在は大切にされていたと見るべきなのです。
その前に確認。高市はその能力の高さや人気も相まって、より優遇されています。
草壁皇子の正妃・阿閇皇女の実姉である御名部皇女と結婚していることからも、そのことがわかります。

ですが、
忍壁だって随分と優遇されているのです。家系図と結婚表をご覧下さい
まず、忍壁皇子本人は葛城皇子の娘・明日香(あすか)皇女と結婚しています。
明日香皇女の母親はかつての重臣・阿倍内麻呂の娘ですし、有間皇子の母・小足媛(おたらしひめ)は伯母に当たります。
葛城皇子の数いる娘の中でも、蘇我倉系の孫娘達(鵜野讃良皇女、山辺皇女など)と同等の身分と言えます。
男であれば皇位を狙える明日香皇女と、次男でありながら皇位からは程遠い忍壁の組み合わせ
何やら奇異に感じられませんか?
それだけではありません。もう一度家系図&結婚表をご覧下さいませ。
忍壁の実姉妹・泊瀬部(はつせべ)と託基(たき)は二人とも葛城皇子の数少ない息子である川嶋皇子と志貴皇子と結婚しています。
ちなみに川嶋皇子の実姉・大江皇女も大海人と結婚して、二人の皇子をもうけています。
大海人皇子が葛城皇子の子供達をがんじがらめに取り込んでいく様子が窺われますね。
その方策に、忍壁皇子とその姉妹達が一役買っているわけです。
単なる結婚じゃん、と思われるかもしれませんが、実はこれはとても重要な役目なのですよ。
折りしも当時、悲しい裏切りと戦乱を目の当たりにしてきた鵜野讃良によって、長子相続の固定化が検討されていました。
正妃である自分の息子・草壁を皇太子とすることで、争いを起こしやすい兄弟相続を否定し、
また卑母(という言い方は好きではありませんが)の子を皇位からは排除することで、
豪族が中央政治を乗っ取る危険性をを避けようとしました。天皇への権力一極集中です。
そんな中で
繰り返される葛城系と大海人系の結婚は、敵方を取り込んで大海人系に同化させる意味を持っていました。
その作戦を上手く行かせる為には、
大海人系の皇子皇女が決して皇太子を裏切らないことが条件です。
というのも、
葛城系×大海人系の間に生まれた子が皇位を狙う、なんてことは万が一にも合ってはならないからです。
大海人皇子の次が草壁皇子ならば、その次は草壁皇子の息子でなければならないのです。
そんな鵜野讃良の作戦に、忍壁達は準じて結婚しました。大事な役目でしょう?

はてさて、どうしてこんなに忍壁は信頼されているのか。
それこそが異母弟・草壁皇子との繋がりにあると私は考えています。
と書いてしまうと、「草壁ってそんなに権力あったっけ?」と疑問に思われることでしょう。
結論、ありません。正確には、草壁自身ではなく
鵜野讃良皇女の信頼を買ったというべきでしょう。
つらい吉野時代を共に過ごしたことがきっかけなのか、はたまた彼の能力を買ってのことなのか、
詳細はわかりませんが、とにかく彼は鵜野讃良に気に入られていたみたいですね。
(当時、大海人が大王でしたが、実際の政治的には大海人と鵜野讃良の共同統治であったと考えられます。)
大海人即位の翌年674年には、"大和政権の武器庫"という怖いあだ名のある石上神社に派遣されるなど、重要任務にも就いています。
ちなみに、同年に異母妹・大伯皇女が伊勢神宮へ斎宮として派遣され、
翌年には十市皇女と阿閇皇女が伊勢へ大伯皇女を訪ねるというイベントもありました。(参照 十市皇女 ただ私らしく
これらのイベントには、
大海人皇子を現人神(あらひとがみ)と讃えることで安定政権を築こうとする鵜野讃良の執念が見受けられます。
忍壁の石上神社訪問も鵜野讃良が描くシナリオの一環だったのです。

   ※ 一般的には、忍壁皇子は鵜野讃良皇女に敵視されていたとされています。
   ※ 私はあえて逆の説を掲げています。

が、この鵜野讃良の作戦には重大な欠陥がありました。
要因はやる気のない息子・草壁皇子です。まあ適材適所ではないです。少なくとも、現人神になるような器ではない。
むしろ、控えめだけれど実力がある高市様の方が、いや同等の血筋の大津様こそ!という声は当然上がります。
と、如何に不適材適所を周囲が囁いたところで、鵜野讃良様の計画に変更はない。
本人が政治を行わないのであれば、周囲がやれば良し。
でも、
高市や大津だけでは草壁に取って代わってしまう可能性があり、それは戦乱の元
そこで鵜野讃良が目を付けたのは、やはり忍壁です。
679年に六皇子誓約に身分の低い忍壁をあえて参加させ、681年に草壁が皇太子になると、
忍壁と川嶋皇子達に「帝記」など、大海人皇子の血筋を正統化する為の記録を編纂させます。
更に685年、皇太子である草壁を含めて、大王の臣下の証である冠位が授けられます。
一番トップに草壁、二番目に大津、三番目に高市、そして四番目に忍壁。
「草壁を任せたわよっ!」と、鵜野讃良の信頼っぷりが目に浮かぶようです。
そんなこんなで常に草壁と一緒にいる羽目になる忍壁。腐れ縁以外の何物でもないような……
二人の仲が良かったのかどうか、これはもう資料も何にもありませんが、
吉野時代から仲睦まじかったと考えるも良し、単なる腐れ縁と考えるも楽し(笑)
やる気のない草壁を政治の場まで引きずり出すのは、忍壁の役目だったような気がしてならない……いえ、妄想ですが。
草壁は普段は優しげだけれど、鵜野讃良に似て割と頑固なところがあったと思います。
平和を願う母の気持ちが頭では理解していても、「高市兄上や大津で良いじゃないか。大王とかやりたそうだし」と
心の中ではグチグチ言っていたに違いない!と勝手に確信。ちょっと態度にも出ていたり。
そんなプチ不良皇太子をなだめすかすのが、腐れ縁のお兄ちゃんの役割であって欲しい!(←なんて不幸な…)

そんな彼ら(?)を不審な出来事が襲います。
まずは686年、忍壁の家が火事に遭います。そこから飛び火して、宮殿も一部が焼けてしまいました。
ただの火の不始末なら、良くはないですが、今後気をつけましょう、と厳重注意で済みます。
ですが、この火事、原因不明なのであります。って、放火!? 誰が、何の為に??
この数ヵ月後、大海人は崩御し、大津の裏切りが発覚して彼は死を命じられます。
大津が大王になろうとしていることを告げたのは、大津の親友で、忍壁にとっては実姉妹の夫である川嶋皇子でした。
これらの出来事を総合すると、この686年に何があったのかが見えて来ます。
まず、
忍壁は草壁側の人間と見られていました。(実際に大津と仲が良かったかどうかには関係がありません。)
大津を大王の位に就けて、自分達が政治の実権を握ろうとする若い王族&豪族達と旧近江朝勢力は
不戦布告のように忍壁の家に放火します。
大海人が体調を崩して寝込んでいる今、
殺らねば殺られる、と血気盛んに行動したわけです。
しかし、それに乗るような鵜野讃良ではなく、草壁に至っては見事なまでに無関心。
高市皇子も大きく動いた形跡がなく、大津を囲む人々の気持ちがより焦っただけです。
そして、大海人皇子が亡くなると、川嶋皇子はすぐさま密告へと走りました。
自ら裏切ったのか、何らかの大津が命じたのか、鵜野讃良皇女の圧力に負けたのか、事実は不明です。
これらに加えて私が考えているのは、
忍壁が川嶋を裏切らせた可能性です。
川嶋は忍壁の実姉妹・泊瀬部皇女と結婚しています。川嶋を大海人系に引きずり込む為の政略結婚です。
また、忍壁と川嶋は帝記編纂に共に携わった仲でもありました。
そんな川嶋が大津と謀反協定を結んだと知るや否や、忍壁は川嶋を説得しに自ら出向いたのではないでしょうか。
この時代は通い婚。同母きょうだいの忍壁と泊瀬部は一緒に住んでいたか、同じ敷地内で暮らしていた可能性があります。
謀反の志を胸に正妃・泊瀬部を訪ねて来た川嶋を、忍壁は懇々と諭したのではないでしょうか。
別に鵜野讃良の意向を受けて、とかではないと思います。
忍壁は彼なりに大津を心配していて、大津がバカなことを仕出かさないかヤキモキしている草壁も心配していて、
政治的立場と兄弟の義理で揺れ動く高市も心配していて、理想の為に鬼になろうとする鵜野讃良のことも心配していて……
心配の塊のような男ですね、ハイ。
とにかく、身分の低さから表舞台の中心にはならない自分が陰でこっそり動いて、
平和的に収められるのであればそれで良し、と考えていたのではないでしょうか。
結果的に大津はわざと捕まるような謎の行動をとります。そして、賜死。忍壁の心配も水の泡。
(参考:大津皇子 許されざる皇位


この年を境に、忍壁皇子の記事はしばらく途切れます。
大津の死の翌年である689年から699年までの11年間、突然彼の消息は絶たれるのです。
次に忍壁が正史に登場するのは700年のこと。時は珂瑠皇子(文武天皇)の御世のことです。
この空白の時期のほとんどが鵜野讃良皇女(持統天皇)の御世に当たる為、
一般的には"忍壁は大津に味方していて、この事件をきっかけに失脚した"とされていますが、これが正しくありません。
本当に忍壁が大津の味方をしていたのならば、返り咲きなど不可能だったからです。
実際、上記の川嶋皇子は謀反人の共謀者かつ親友を裏切った卑怯者として、
政権からも世間からも目を背けられて不遇な人生を送り、そんなに長生きはしなかったようです。
忍壁も一時期は政権から姿を消しますが、突然の返り咲きを果たしています。
この一見奇妙な立ち回りは政権や世間の思惑どうこうではなく、彼自身の意志だったのではないでしょうか。

何が忍壁の心をを政権から遠ざけたのか。
最初の要因としては、大津の死が大きかったことでしょう。壬申の乱に続き、骨肉の争いを体験したわけです。
続いて、同じく大津の死にショックを受けた草壁が精神を病み衰えていく姿を目の当たりにします。
一方で、狂ったように政治に打ち込んでいく異母兄・高市の姿もあったわけです。(690年には太政大臣になります)
鵜野讃良も草壁が頼りにならない分、高市を頼りにしたことでしょうしね。
勿論、鵜野讃良は忍壁が無理にでも草壁を引っ張り出してくれることを望んだことでしょうが、
草壁にこれ以上の無理をさせることは、忍壁兄ちゃんにはできませんでした。
そして、自分が裏切らせた川嶋皇子の不遇。正妃である同母姉妹の泊瀬部もつらい想いをすることに。
更に689年、草壁が皇太子のまま薨去(私は自殺だと思っています)すると、忍壁は引退を決め込みます。
仮に(勝手に)草壁の死因を自殺だとすると、忍壁はその理由を知っていたはずだと思います。
草壁の周囲には実母・鵜野讃良、正妃の阿閇皇女と子供たち、異母兄・高市皇子などなどの"家族"がいましたが、
誰も彼の心に積もった悲しみを理解することは出来ませんでした。
ただ幼い頃から草壁の苦悩を知っていた忍壁だけが、草壁の心の闇を完璧に理解していたことでしょう。
そして草壁が何らかの形で死を望んだ時、それを見て見ぬふりをしたか、あるいは……幇助した可能性も。
魂の抜け殻のようになった草壁を楽にしてやりたい。それが優しい兄にできる最後の務めだったのかもしれません。

それはともかくとして、翌年即位した鵜野讃良としては、
草壁の遺児・珂瑠皇子のことを、信頼する高市と忍壁に守って欲しかったことでしょう。
信頼できる男性皇族は、この二人しかいませんでしたからね。
鵜野讃良は長子相続を決定付けることで、二度と壬申の乱のような"家族の争い"を起こさないことを目論んでいました。
同じ体験をした高市と忍壁ならば、自分の気持ちをわかってくれるはずだと彼女は信じていたのです。
高市は鵜野讃良の心に応えました。応えて、政治に打ち込みました。
でも、忍壁は否定しました。いえ、否定という言い方は正しくないですね。
忍壁は鵜野讃良に対し、こう言いたかったのだと思います。
「誰もがあなたのように強いわけではないのですよ」、と
心の強さは鵜野讃良の偉業を可能にしましたが、彼女は他人に対しても同じような強さを求めたのだと思います。
その厳しさが草壁の心を殺し、まだ若く旧近江朝勢力などの抵抗勢力に利用された大津を救うこともせず、
同じく心の強い高市は留まったものの、優しさと思いやりに長けた忍壁は背を向けた。
これが忍壁の空白期間の真実だと思います。おそらく、高市が何度も呼び戻そうとしたことでしょうが、忍壁は見向きもしない。
そんな彼を動かしたのは、696年の高市の急死でした。
この時、皇太子・珂瑠皇子はまだ若く、一方の大王・鵜野讃良はもう老齢。
政治的補佐として有能な田辺史(たなべのふひと。後の藤原不比等)はいましたが、身分の低さは否めない。
皇族で信頼の置けるものが珂瑠皇子を補佐しなければ、
鵜野讃良が理想とする"天皇とそれを補佐する家族でよる平和な政権"は保たれない。
そこで鵜野讃良は、長い間そっとしておいた忍壁に再度ラブコールを送ります。
「草壁の息子を守って欲しいの。あなたならできるでしょう。ヨロシクね」、と。吉野の時と同じ作戦ですね(笑)
根がお兄ちゃん気質の忍壁はこう言われると弱い。しかも、相手は草壁は遺児ですものね。
長いブランクを経て、忍壁は政界に復帰します。
705年に亡くなるまでの短い間ではありましたが、皇族の長老的立場で活躍したようです。

忍壁の人生は鵜野讃良に翻弄された、と言うのが一番正しいでしょう。
逆に言えば、
それだけ鵜野讃良に信頼されていたということ。
大津の死後、政界から逃げ出しても何も罰せられず放っておかれたのだって、信頼あればこそです。
そして異母兄弟たち。高市、草壁、大津といったくせのある連中に絡まれて、
「私って超不幸」と思い悩んだこともあるかもしれませんが、それだけ
好かれていたってこと。
同じ身分の同母弟・磯城皇子には全然そんな気配がありませんので、環境要因というだけでなく、
忍壁の人徳(お人よし?)が大いに影響していたのだと思います。

(忍壁皇子 おわり)2008.12.21


参考:魔女ノ安息地>創作部屋>小説>歴史もの>失われていくもの

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