スカーレットメトロポリス

   〜緋色の虚空都市〜

Act.3 ある学生達への贈り物


 それで終わりだった。どこを探しても、それがすべてだった。
 いや、こんな中途半端なところで報告書が終わっているはずがない。と言うことは、この部屋の主である教授が、文献の一部しか入手しなかったのか。あるいは続きを紛失したのか。
 いやいや、そういう訳でもなさそうだ。続きが別のディスクに分かれているのならば、この資料の文末にそれなりの指示があるはずだが、それがない。何度スクロールしても、それらしき表示は確認できない。
 訝しげに画面と睨めっこしていると、ふいに視界を遮られた。
「私の入室にも気づかずにラブレターにでも喰いついているのかと思えば、何だ、くだらないレポートか」
 こんな喋り方をする人間を、エーリヒは一人しか知らない。いや、一人だけで十分だと思う。
「……ラルフ、僕が私用のメールを、しかも他学部の教授の部屋で読んでいると思うのか?」
「冗談に決まっているだろうが。お前にそんなものが来るはずもない」
 そんなことはない、と言いかけて、口を噤む。
 ラルフが星の数ほど受け取ってきた量に比べれば、エーリヒが受け取った恋文など、物の数にも入りはしないのだろう。類希な美形と表向きの性格の良さに騙されて、この性悪男のファンになる女性は数知れないのだ。
「それで、何を読んでいたんだ?」
 エーリヒの心中など気にもせず、この部屋の主である連邦中央大学法学部の高名教授の愛弟子にして、エーリヒの幼馴染かつ悲しき腐れ縁の親友は、ディスクのケースに手を伸ばした。題名と著者を一瞥して、視線をエーリヒに戻す。
「こんな出来損ないの報告書を読んでどうする気だ?」
「出来損ないの報告書?」
 思わず訊き返すと、ラルフは顎で棚の片隅を示した。
「あの辺りにあるのが、実際に提出された報告書だ」
 言うだけ言って、取ってはくれないらしい。そんなことは長年の経験で身に染みている。
 ラルフの言った位置を漁ると、雪崩の起きたディスクの山の中腹から、【Warise AL-UPE Group】と表記された一枚のディスクを発見できた。しかし、その題名と説明書きは、先ほどまで読んでいたものとは全く違う物だった。
「読めばわかるが、内容も似ても似つかない」
 そう言いながら、ラルフの視線はディスクの山のずっと横、コーヒーメーカーに注がれている。
 淹れて欲しいんだな、と長年の勘で気づく。無視すると絶対に怒るので、エーリヒはディスクを元の場所に置いた。
「それで、理工学部のお前が何故エルフ族についての論文を? ああ、待て。当ててやろう」
 答えかけたエーリヒを軽く無視して、ラルフは脚を組む。
「一般教養のレポートのために、わざわざここに調べに来るはずがない。資料室で十分だ。お前の場合、専門は全然関係ないから、大学の授業とは関係のないことだな。ワリス アラップの著作ではなく、エルフ族に関して調べているのは明白だ。種族に関する社会法関係なら、上の階の連中が専門だからな」
 勝手に言っていろ、という言葉を辛うじて呑み込んで、エーリヒはレトロな手動コーヒー挽きに豆を入れた。
「お前がエルフ族ごときに興味を持ったのは、昨日の航宙産業局の発表がきっかけだ」
 手が止まる。
 視線が合って、ラルフの口元が吊り上った。お前のことなどお見通しだ、とでも言うように。
「昨日、2011年のWINDシリーズ搭乗メンバーが公式発表された。その一人にエルフ族の子供が入っていた。確か、十二歳だったか」
「正解だ」
 ガリガリと音を立てながら、エーリヒは感心する。さすがに早二十年、自分の親友をやっているだけはある。
 ラルフは胸を逸らせて、更に続けた。
「知能の低いエルフ族の子供がWINDの船に乗るくらいなら、自分が乗りたいと、お前は思った」
「……」
「何だ、違うのか?」
 この男は一体何年自分の親友をやっているのだろう。
 将来が約束されたも同然のWIND任務に、できることなら就きたいと思う人間が数多いるのは確かだが、エーリヒの考えたことはそんなことではない。
「僕はただ、そのエルフ族の子供がどういう社会で生きてきたのかに興味を持っただけだ」
 エーリヒのため息に、ラルフは首をすくめる。
「ああ、確かに気になることだ。特別な教育を扱いを受けてきたのでなければ、エルフ族が我々常人を差し置いて、上級任務に就けるはずがないからな」
 この男の専門は本当に人権法学で正しかったのかと、エーリヒは本当に心配になってきた。
 そんなことを考えながら淹れているせいか、コーヒーがいつもよりどす黒く抽出されていく気がする。
「世界の未来は暗いな」
「エーリヒ、何か言ったか?」
 口の中で呟いたつもりの独り言は、ちゃんとラルフにも聞こえていたらしい。冷たい視線を注いでくる。
 黙って、コーヒーを差し出した。
 一口啜ってから、ラルフは窓の向こうに視線を飛ばした。
「一つ教えてやろう。WIND任務に選抜されたその少女は、普通のエルフ族ではない。常人とのハーフだ」
 口をつけかけたカップを戻す。エーリヒには初耳だった。
「エルフ族と普通の人間との間に子供が? 混血児など存在するのか?」
「詳しくは知らないが、生物学的に不可能ではないらしい。ただ、数はいない上に、異端児としてエルフ族社会の中では忌み嫌われる存在だそうだ」
 そう言えば、と突然言葉が切れる。
 何事かとエーリヒが目を見張っている内に、ラルフはコーヒーを持ったまま立ち上がって、部屋の壁に取り付けられたパネルを操作し始める。キーワードを入れたり、網膜チェックをしたりして、あっと言う間に壁の向こうの収納スペースを開いた。
 さすが一番の愛弟子、教授の部屋を勝手に弄繰り回す許可を得ているらしい。
「私は優秀だからな」
 ウインク一つ。またラルフはエーリヒの思考を読んでいた。
 ラルフがこの部屋の主の絶対的な信頼を勝ち取っているのは間違いない。何せ、エーリヒが資料を見せて欲しいと頼みに行くと、ラルフの親友というだけの理由で、あっさりと来客用のカードキーを渡された。
 この男の真の姿を知るのは、何十万人もが在籍する連邦中央大学において自分一人なのだと思うと、エーリヒは何だか泣けてきた。
「さて、この辺だったか」
 どんよりと曇っているエーリヒを無視して、ラルフは収納棚の一角を漁っている。数分でお目当てのディスクを見つけたらしく、エーリヒに投げて寄越した。
 投げるな、と口を開く前に、ラルフの声が飛んできた。
「お前がさっき読んでいた報告書の続きと言うか、取材時の音声記録の一部だ」
「何だって? よくそんなものが残っていたな」
 下書きが残っていることも不思議だが、正式文書にもならなかった報告書の取材記録が今だ存在することなど、奇跡に近い。
 ディスクを取り出してみる。それは取材の記録には適さない、情報を保管するタイプの物だ。マスターレコードではなく、コピーなのだろう。
「まあ聞いてみたらどうだ?」
 返事も聞かずに、ラルフはソファに深く腰掛けて目を閉じた。エーリヒの用が終わるまで待っているつもりらしい。
「ラルフ、いいのか?」
「何がぁ?」
 ラルフの寝つきは最高にいい。既に半分夢の中。
「何がって、これはちょっと……」
 勝手に聴くのは憚られた。厳重な保管庫に入れているのだから、さぞ貴重な代物のはず。おそらくは大枚をはたいて買い取ったのだろう。
「それ、タダだったらしいぞ」
 顔を上げた時には、完全熟睡状態のラルフの姿がそこにあった。寝る寸前まで、人の思考を読んでいたらしい。
 ハンガーから外套を外してラルフに掛けてやってから、エーリヒはディスクをドライブにセットした。
 深みのあるハスキー・ヴォイスで、記録が甦っていく――。


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