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リクエストして下さった方 : 翠蓮様

ただ私らしく 十市皇女(とおちのひめみこ)

2008年お年玉企画のトップバッターには、十市皇女に登場していただきましょう。
まずはお約束の系図と年表から。
(系図書きのなんと楽なこと! 父方と母方が交ざらない家系図万歳☆)

【系図】        ____
           |    |
額田女王=大海人皇子 葛城皇子=伊賀宅子郎女
      |               |
     十市皇女======大友皇子
               |
             葛野王

【年表概略】(皇女・女王の敬称はその当時の立場で表記)
648年 十市女王誕生(654年前後説有り)、大友王誕生 
1歳
654年頃 異母弟・高市王誕生 6歳
661年 大王・宝女王(斉明天皇)崩御→葛城皇子称制 14歳
668年 近江遷都→葛城皇子即位(天智天皇) 21歳
670年頃 大友皇子の正妃として、第一子・葛野王を出産 23歳
671年 父・大海人皇子は正妃・鵜野讃良皇女ら数名と共に吉野へ辞す 24歳
     葛城皇子崩御→大友皇子即位に伴い立后か?
672年 壬申の乱→大友皇子自尽 25歳
673年 大海人皇子即位(天武天皇) 26歳
675年 阿閉皇女と共に、伊勢斎宮である異母妹・大伯皇女を訪ねる 28歳
678年 泊瀬倉梯宮の斎宮として出立する直前に薨去 31歳

だいたいの概略は上記の通りですが、十市にまつわる逸話はたくさんあります。
曰く、「壬申の乱では父と夫が戦い、非常に辛い立場に立たされた」説。
曰く、「実は異母弟・高市と愛し合っていた」説。
曰く、「突然の死は自殺だった」説。
私もこれらの説を元に、彼女の考察を始めたいと思います。
ところで、このような説からどんな女性を思い描かれますか?
もしも「可哀想な悲劇の皇女に違いない!」と思ったアナタ。ここから先は読まない方が懸命です。

・ まずは生い立ち
母である額田女王(額田王とか額田姫王とも書かれる)は超有名な万葉女流歌人です。
鏡王の娘だとか中臣鎌足の正妻・鏡女王の妹だとか、いろいろな説がありますが、正体不明。
"女王(王、姫王)"という称号から、王族であることは間違いないようです。
額田は宝女王の御世から宮中に仕えていて、やがて宝女王の末息子・大海人皇子と恋に落ちます。
当時の大海人は、皇太子・葛城皇子の実弟ではありましたが、まだまだ若くて気楽な身分。
額田も同じくらいのお年頃。血生臭い政略の気配は感じていても、自分には関係ない。
気楽な恋人達の間に、若き愛の証として誕生したのが長女・十市皇女(当時は女王)です。

そんな明るい恋人達の仲は、しかし永遠ではありませんでした。
母は宮中の歌い手として奔放な恋に生き、父は皇子として次々に妻を娶ります。
別れる・別れないのイザコザも無く、いつの間にやら恋愛関係は自然消滅。
おそらく、皇族の娘達が大海人の正式な妻になっていく中で、額田が身を引いたのでしょう。
寵を争ったところで、身分の低い彼女には勝ち目がない。
そんなつまらない諍い人生を無駄にするなんて、なんと馬鹿馬鹿しい!
対等な立場でない恋愛なんて、真っ平ゴメンだったわけです。
こうして額田は身を引く、と言うより、春風のようにきゃらきゃら笑って飛び去ってしまいました。
大海人も額田の奔放さをよく知っていたので、「ま、しゃーないか」と追い駆けなかったんでしょうね。
大人同士はそれでいいとして、生まれていた娘はどうしましょうか?
子供は普通母方で養育されるのですが、問題は額田が宮中勤めだったということ。
王族出身とは言え、彼女の実家は経済的にも社会的にも大した家柄ではないと考えられます。
そうなると、仮にも皇子の娘なのだから、大海人のもとで育てられたという可能性も有り得ます。
大海人と額田も別に仲違いしたわけじゃないので、
 額田「ねえねえ、明日は非番なのよ。久々に十市に会いに行っても良いかしら?」
 大海人「おお、わかった。屋敷の者に伝えておくよ」
なんていう会話が宮中の廊下でなされていたのかもしれませんね。
逆に額田のもとで育っていたとしても、大海人が「おーい、元気か?」と見に来たりしたかも。


・ 歌詠みの力量
十市の歌は一首も残されていません。
ですが、そこは万葉歌人として名高い額田の娘。小さい頃から歌には慣れ親しんでいたはずです。
母の才能を多少なりとも十市が受け継いでいたとしたら、ちょっとした歌詠みはお手の物。
話は飛びますが、異母弟の高市皇子が十市の死に際し、情熱的な挽歌を詠んだことは有名です。
高市が本当に十市に惚れていたとしたら、それは
幼い頃からの思慕だったのではないでしょうか。
宮中の才女を母に持つ異母姉に淡い恋心を募らせていたわけですね。そして、ラブレターなんぞ出してみる。
私は短歌も和歌も不得手なので、その辺の創作はできません。よって、意味だけ想像してみました。
 高市「ねえ、美しいお姉ちゃん。私が大人になったら、私の恋人になってくれますか?」
幼い異母弟からこんなラブレターを貰った十市は、こんな風に返したのかもしれません。
 十市「そうね、アナタがイイ男になっていたら考えてあげるわ」
こうして高市はイイ男になることを固く決心するのであった。(←おいおい…)
一方の十市はと言えば、「高市ったら、初心ねえ」と笑っていたような気がします。
そもそも憧れとしての初恋のトキメキというものは、通常年上に対して向くものであります。
恋心が年下に向くのは、ある程度の心のトキメキを経験した上でのこと。
娘時代の十市の恋心が、高市に向いていたという事実はおそらく無いでしょうね。


・ 大王の息子との結婚
さて、母の額田女王は若くして大海人の恋人となり、その後もそれなりに自由な恋に生きたと思われます。
一方、皇族として生まれた十市にはその自由は有りませんでした。
結婚適齢期に近付いた十市のもとに、葛城皇子から結婚の申し入れが来たのです。
と言っても、相手は伯父に当たる葛城本人ではなく、その息子の大友皇子です。
何で十市が大友と結婚することになったのかは、諸説が有ります。
曰く、「大友が十市に惚れた」説。
曰く、「大海人の正式な夫人になり損ねた額田の陰謀」説。
曰く、「額田が葛城の妃になったので、娘の十市も一緒に葛城の庇護下に入り、次いで大友の后となった」説。
しかし、この結婚はそんな私的感情の結果で成されたものでは有り得ません。
当時の状況を整理してみましょう。
大王となった葛城とその弟・大海人の仲は険悪さを増していました。
(参照 古代史・大津皇子考察中臣鎌足考察D間人皇女)
彼らは実兄弟ですから、葛城が大王になることで、同じ血筋の大海人にも自動的に皇位継承権が付加されます。
しかも、大海人は豪族連中に人気があり、結婚によって沢山の子女も産まれています。
自分に皇位継承が可能な息子がいないことを気にしていた葛城は、
最初は大海人の次男・草壁を、近江に来てからは次女・大伯と三男・大津を自分の手元に置いてしまいます。
大海人から人質をとらないことには、葛城はどうしても安心できなかったようです。
(参照 紀行文・飛鳥紀行B陸の孤島 岡寺)
そんな大海人封じ込め作戦の一環として取り決められたのが、十市と大友の結婚だったのであります。
大海人に皇位を譲らないとなれば、葛城は自分の息子から後継者を出さなければなりません。
息子達の母は皆身分が低い者ばかりですが、最年長の大友はとても利発な子供でした。
その
大友が皇位を継承するためには、どうしても彼の身分を補完する要素が必要だったのです。
それが、大海人の長女である十市との結婚でした。
十市の皇女としての立場は決して高くは有りませんが、父は皇子で母は王族という強みが有ります。
なんとも将来の皇后候補に相応しいでは有りませんか!
もちろん異母妹の大伯の方が、亡き母は皇女かつ正妃だったので身分は高いのですが、如何せんまだお子様です。
そして、この結婚は大海人にとってもメリットがありました。
実兄に睨まれて命の危険を感じている大海人には、兄の信頼を得られる術が必要でした。
葛城は大海人に娘四人を娶わせ、懐柔しようとした経緯がございます。
今度はその逆。
自分の娘を葛城の息子に娶わせることで、自分の立場を保障することができるのです。

この父親同士での取り決めに本人がどう思ったか。
私は、
十市にはある程度の打算があり、その上でこの話を承諾したのだと思います。
それまでの大王の周囲を見ればわかる通り、
皇族・王族の皆さんは政略結婚じゃない方が珍しいです。
間人皇女と軽王(孝徳天皇)しかり、宝女王(皇極・斉明天皇)と田村王(舒明天皇)しかり。
もっと近い例で言えば、倭女王と葛城皇子(天智天皇)しかり。
母・額田は社会的な立場が弱ったがゆえに、妃にすらなれませんでした(端から諦めていました)。
でも、十市はそんな負け方は真っ平ゴメンでした。
どうせ自由恋愛ができないなら、できるだけ高い所を目指しましょう
大友が大王になれるかどうかは非常に微妙ではありますが、それ以上の結婚相手がいないのも事実。
だって、現時点での皇子で結婚可なのは葛城(現大王)とその息子達だけです。
葛城には既に正妃、つまり皇后の倭女王がいます。
異母弟達はまだこの時点では"皇子"ではなく"王"であり、それに高市以外は年下過ぎました。
高市にしても、母親の身分だけ見れば大友と同じ。父方を見れば大友の方が格上です。
自分に最良でかつ可能な結婚相手として、十市は大友を選んだのです。


・ 大友との夫婦関係
打算の上で婚姻を承諾した十市でしたが、自分の考えが間違っていたことをすぐに悟りました。
夫となった大友皇子は、身分は低いものの、その利発さから葛城に愛されていました。
十市もその評判はよく知っていたのですが、結婚してから気がついた点があります。
それは、大友が単に葛城の意のままに動く人形ではない、ということでした。
大友は最初から葛城自慢の息子だったわけではありません。
彼は幼少時、母の身分の低さから省みられることはなく、日陰の存在でした。
葛城は大海人(と言うか、鵜野讃良)から草壁を預かる際に、
自分には息子がいないので、娘の子を引き取りたい」という理由を挙げているようなのです。(岡寺の逸話)
大友は草壁より年上ですから、もちろん当時生まれていたはずなのに、何と酷い言い草!
皇位継承に身分が足りないという理由で、大友は父親からも冷遇されていたのです。
それでも父に認められる人間になろうと勉学に励み、様々な面で努力を重ねてきた大友は、
若いながらも驕り高ぶることの無い人格者でもありました。
もちろん、葛城に次ぐ有力者の愛娘を妻にしても、その態度は変わることはありません。
終始丁寧な態度で紳士的に接してくる大友に、十市はショックを受けます
十市自身の両親は皇族と王族で、彼女を取り巻く連中もほとんど同類でした。
それ以外の者などダボハゼパセリ同然、と信じていたのに、その価値観はガラガラと崩れたのです。
伯父・葛城の絶対的なカリスマ性や父・大海人の豪胆なオーラとは全然違うものですが、
この人ならば本当に大王になれるかもしれない、と感じさせる何かを大友は持っていました。
最高位の皇女ではない十市だからこそ、大友の良さを感じ取り、見極めることができたのだと思います
「彼となら、やっていける」と、十市は希望と幸せに満ち溢れたことでしょう。


・ 壬申の乱とその後
しかし、その幸福は束の間のものでした。ご存知の通り、葛城の死後に壬申の乱が勃発。
戦ったのは十市の夫である大友皇子と、父である大海人皇子でした。
(正確には、大海人は僧形だったので前線には立てず、長男の高市が戦いました。)
その戦場に大友の正妃・十市の姿はありませんでした。
これは大友の、あるいは先の皇后・倭女王の配慮があったのだと思います。
どちらが勝っても、十市は勝った方の世界で生き残ることができる。負けた方に殉じる必要はない。
息子・葛野王と共に一時的な避難場所に身を置いたのでしょう。
そこは倭女王の息がかかった近江の寺か、額田女王の故郷とも言われる宇治の郷か、
あるいは額田の姉とも言われる鏡女王が守る、山科の中臣氏の領地だったのか。
ともかく、大友にも大海人にも属しない地域で、静かに身を潜めていたのだと思われます。
何故そんなことをしたのか。それは戦況が物語っています。
大友は自分の味方があまりに頼りないことに気がついていました。
葛城と鎌足の最強タッグに屈していた豪族達は、彼らの死後は血族主義に走り、
采女の子に過ぎない大友よりも正統な血筋の大海人を選んだのです。
ある意味で情けなく、ある意味で当たり前の結果でした。
忍び寄る敗戦の気配を感じ取った大友は、后・十市を息子と共に逃がしたのです。
(十市は端から大海人の味方だったという鮒寿司の逸話がありますが、あれは後世の創作です)
そして、瞬く間に追い詰められた大友は自害。勝利した大海人が即位します。
十市は勝った方の皇女として、近江を去り、飛鳥に戻ります。
ですが、この時に息子の葛野王は連れていなかったようです。
葛野が大友の遺児である以上、何らかの理由で処刑される可能性はゼロではありません。
古人大兄皇子や有間皇子の例がありますからね。
そういうことをやった葛城&鎌足コンビはこの世の人では有りませんが、父がやらないとは限らない。
息子の身の安全を確保するために、おそらく葛野は母・額田に預けたのでしょう。
(額田は飛鳥には戻らずに、現在の京都府宇治市辺りに住んだとも言われています。)

こうして十市は独身に戻って、新しい人生をスタートする運びとなりました。
大友を倒した高市から求愛があったかもしれませんが、十市はやんわりと拒みます。
高市は男としての魅力溢れ、才覚も逞しい青年に成長していました。
きっと「女が抱かれたい皇子様ランキング」のNO.1だったに違いない!(笑)
ですが、高市には既に正妃候補がいました。
皇后・鵜野讃良皇女の異母妹、と言っても実妹にほぼ等しい御名部皇女です。
もし十市が高市のプロポーズを受け入れても、絶対に正妻にはなれないのです。
「ママの言っていた通りだわ。対等になれない恋愛なんて私も嫌よっ!」とばかりに、
十市は独り身を通し続けます。
つれなくされた高市ですが、諦めたわけでもなく、かと言って無理強いもしない。
「私はずっと義姉上だけを見て来た。いつかこの心をわかって下さるはずです」と持久戦。
十市の要望どおり、高市は落ち着き払った大人のイイ男に成長していたのですね!(多分)。
なんでこんなことが言えるのかと申しますと、高市皇子の子供の数から推測できます。
高市の正妻は御名部皇女で、二人の間には長屋王(676年誕生?)が生まれています。
他にも母不詳の鈴鹿王と、娘二人がいます。確認されているのは、この四人だけ。
高市は696年に亡くなっていますが、この時に四十歳代後半と思われます。
太政大臣としてかなり高い地位にいて、そこそこの年齢まで生きた割には子供の数は少ないです。
確認されている奥様も、正式には御名部皇女だけですし。
となると、男盛りの20歳代に女性関係があまり派手でなかったと考えられます。
心はひたすら憧れの義姉に向いたままだったのではないでしょうか。
いやはや、見事なまでに初恋を引きずっていますね、彼は。


・ 意外な最期
この長女の取り扱いについて、実はパパ・大海人は結構困っていました。
敵方の妻であった十市に対する目は、決して好意的なものではありませんでしたからね。
娘の自由や幸せを奪ってしまった(と、大海人は一方的に思っている)ことに対する罪悪感もあって、
できれば飛鳥から遠避けてやって、静かな暮らしをさせた方が良いのではないか、という親心。
そうなると、誰の目にもつかない場所でゆっくり生きられる斎宮になるのが適任です。
斎宮というと伊勢神宮が有名ですが、他の場所にも居たことがあります。
(ちなみに、平安時代以降の賀茂神社の場合は"斎院"と呼びます。)
既に伊勢神宮には次女の大伯皇女を行かせていますので、泊瀬倉梯宮に行かせることにしましょう。
高市の持久戦が重荷になっていた(のかどうかは知りません)十市は、これをあっさり承諾します。
さて、ここで皆さんが疑問に思うことが一つ。「斎宮って処女とちゃいますの?」
そうですよね。どうして人妻だった十市が斎宮になる資格があるのでしょうか?
その謎を解く鍵は、675年の出来事に有ります。(年表参照)
675年、十市は阿閉皇女と共に伊勢神宮を尋ね、異母妹・大伯に逢っています。
この阿閉皇女はご存知のように草壁皇子の正妃です。(御名部皇女の実妹でもある)
大王となるはずだった(一説には即位していた)大友の正妃だった十市と、皇太子妃の阿閉。
二人が共に参拝するという形式には、重大な意味がありました。
この時伊勢神宮で行われたのは、皇女三人の姦しいお喋り会ではございません。
十市が皇后(候補)の地位を神に返還し、それを阿閉が受け取るという儀式だったのです。
神の代わりを務めるのは、もちろん斎宮の大伯。

十市は皇后(候補)であった過去を捨てることによって、処女と同じ穢れなき身となった
のです。
そして、667年。泊瀬倉梯宮に斎宮として出発するはずでした。

ところがその直前、十市は突然死を迎えます。なぜ?
一説では言います。「恋仲の高市と引き離されるのが悲しかったゆえの自害」と。
しかし、高市との仲がそこまで深かったわけではありません。
万が一、高市との別れを多少は悲しんでいたとしても、発作的に自害するには理由不足です。
もしかして、斎宮になるのがどうしても嫌だったので、死んで父に反抗して見せたとか?
あるいは、実は夫を倒した父を怨んでいて、斎宮候補が自害することで父の御世を穢そうとしたとか?
うーん、そういう理由なら、泊瀬倉梯宮に着いてから死んだほうが効果的のような気がします。
まあ、泊瀬倉梯宮に入ってしまうと自害しても隠蔽されるから避けた、というのも考えられますが。

ここで考えたいのが、彼女の経歴です。
今まで述べて来た通り、近江朝の皇后(候補)で現在は一皇女という微妙な立場。
旧近江朝側から見ればリーダー・大友を見捨てた裏切り者で、飛鳥方から見れば敵方の元ファーストレディー。
どちらから見られても針のむしろです。
立場的に怨まれたり疑われたりしやすい。
そういう状況下では、どうしても彼女を亡き者にしないと気が済まない輩が出て来ます。
しかし、斎宮として宮に入ってしまえば手出しはできない。
そうなると、飛鳥を出る前が最後のチャンスです。
これからしばらく、もしかしたらずっと逢えないかもしれない十市のもとには、たくさんの来客がありました。
額田女王も孫の葛野王を連れて、母子のお別れをさせに来ます。
そして高市は沈痛な面持ちで、「待っていますから、いつまでも」と伝えました。
この時ばかりは、抑えきれない涙が彼の頬を濡らしていたことでしょう。
さすがに十市も、「悪いコトしたな」と思ったでしょう。でも、「うん、待っててね」なんて言わない。
「私のことなんて忘れてしまいなさいよ」と努めて明るく言う十市に、高市は弱々しく微笑むばかり。
これが姉弟の最後の別れとなりました。
誰もが涙がちに別れを惜しむ中、招かれざる客がやって来ます。
それが十市を亡き者にしようとした本人だったのか、刺客だったのか、はたまた毒だったのか。
死因がわからないので何とも言えませんが、とにかく彼女に死をもたらす何かがやって来ました。
十市はたくさんの人との別れに疲れて、少しぼぉっとしています。
特に、高市の涙に胸が痛みます。
「妻や恋人としてではなくとも、もっと応えてあげれば良かった」と後悔の念がよぎったかもしれません。
頭はそのことばかりで占められて、自分の身の安全管理まで及びません。
うっかり庭に出てしまったか、運ばれて来た飲み物を口にしてしまったか。ここで何かがあったのです。
その何かが彼女の命を奪いました。
彼女の脳裏を最期によぎったのは何だったのでしょうか。
自由に生きた母への憧れか、悲しく死に別れた夫との思い出か、まだ幼い息子を遺す無念か。
それとも……ずっと変わることなく愛し続けてくれた高市への複雑な想いだったのか。


多くの悲劇が飛び交う中で、その時その時を自分らしく生き抜こうとした十市皇女。
その生涯は決して誰かに操られたものではなく、自ら険しい道を選び取った結果でした。
その結果が彼女の命まで奪ってしまったわけですが、それについての後悔はなかったのではないでしょうか。
彼女の生き様は、現代を生きる私達にとっても大きな指針となるように思います。

最後におまけ。
彼女の動物的イメージは"狐"だと私は思います。(参照 紀行文・飛鳥紀行@いざ、甘樫丘へ!)
可愛いキタキツネではなく、神社のお稲荷さんタイプ。目が細くて、含み笑いしているヤツです(笑)
強かに賢くて、ちょっとコケティッシュで、なんだか憎めない愛らしさ。
そんなお稲荷様が十市にはピッタリだと思うのですが、どうでしょうか?

(十市皇女 おわり)2008.1.5
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