2008年お年玉企画D 蘇我蝦夷 / Copyright (c) 2008 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.

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砂の城砦 蘇我蝦夷(そがのえみし)

ラストを飾るのは蘇我蝦夷です。既に今まで中臣鎌足や宝女王考察、そして飛鳥紀行などでちょくちょく顔を出しています。
でも、その姿はもう晩年と言っても良い頃です。
今回は彼の生い立ちにスポットを当て、実像に迫っていきたいと思います。


中臣鎌足が興し、藤原不比等が確立し、その後は手を換え品を換えて天皇家に巣食って来た藤原氏。
その最初の餌食となったのが蘇我氏でした。
そもそも蘇我氏も、大王の血筋に巣食うことで一挙に権力を手に入れました。
その絶頂と凋落の両方を知るのが、蘇我総本家の実質三代目である蝦夷です。

《家系図》
   物部御輿               稲目
      |______          |__________________________________
      |        |         |    |                    |            |          |
物部弓削大連守屋  布都媛====馬子  堅塩媛                小姉君     (境部臣)摩利勢      石寸名
                     |    |  【欽明妃】              【欽明妃】                    【用明妃】
                     |    |    |                   |                        |
他田皇子【敏達】          |    |  大兄皇子【用明】          穴穂部間人皇女【用明皇后】       田目皇子
  |                  |    |  額田部皇女【敏達皇后・推古】  泊瀬部皇子【崇俊】
押坂彦人皇子    _____|    |________________
  |         |        |    |         |      |     |
田村王===法提郎女     
蝦夷  刀自古郎女   倉麻呂  河上郎女  善徳
【舒明】  |         ___|  【厩戸皇子妃】    |    【崇俊妃】
       |        |     |     |        |_______________
 古人大兄皇子   物部大臣  入鹿   山背大兄王    |    |      |         |
      |             (鞍作)          石川麻呂  日向    赤兄       連子
     倭女王                            |            ↓         ↓
   【後の天智皇后】                 遠智郎女【天智妃】  常陸郎女【天智妃】  娼子【後の藤原不比等正妻】
                                    ↓           ↓           ↓
                              鵜野讃良皇女       山辺皇女      武智麻呂、房前、宇合
                             【後の天武皇后】    【後の大津皇子妃】

 ※ 刀自古郎女の母は物部氏の女という記述もあり、蝦夷の同母姉妹の可能性がありますが、
    この考察では異母きょうだい説を採用しています。

見れば判るとおり、女性はぼ全員が天皇か実質的な権力者と婚姻を結んでいます。
「汝、結婚せよ」は15世紀のハプスブルク家の名台詞ですが、
日本ではそれより1000年近く前から結婚が政治的な有効手段として用いられていたわけです。

そんなこんなで今回の主人公、蝦夷に着目いたしましょう。
生年不明、まったくの不明。探るのも嫌だわさ。悪人扱いなので、情報が残っていないのです。
没年は645年。これは悲しいまでに明確。乙巳の変で息子の入鹿が殺され、蝦夷は一族と共に自害したと伝えられています。
(参考:飛鳥紀A 飛鳥寺 ツワモノ共が 夢の跡
父・馬子の時代には並ぶ者がないほどに栄華を誇った蘇我氏が、何ゆえに一日にして滅びたのか。
それは一族が肥大になり過ぎたが為に起きた、内部紛争の結果でした。

その悲劇の一旦は、蝦夷自身の出生に関わるものでした。
系図で蝦夷の母をご覧下さい。蘇我馬子の政敵・物部守屋の妹が馬子の正妻でした。(一説には守屋の姪とも)
馬子の父・稲目は物部氏の先代・御輿との間で宗教政策を争いましたが、結果は御輿が推す日本古来の神道の勝ち。
稲目が主張した仏教による国作りは否定され、稲目は不遇のままでこの世を去ります。
その息子達の時代に一時的に雪解けがあったようで、両家の間に縁戚関係が生まれます。
馬子には既に善徳という名の長男がいましたが、彼を押さえて蝦夷が嫡男となったのは、
善徳の母の身分が低かったのであろうということと、おそらく蝦夷の方が政治的手腕があると見込まれたから。
そして何よりも、蝦夷の母が物部氏の財産相続人であったという点が大きいです。
物部氏は神道と軍事を扱う一族でしたが、同時に生駒山から難波にかけての広大で肥沃な土地を所有する大金持ちでもありました。
蘇我氏も朝鮮半島との貿易で富を築いていましたが、その利益は安定しないもの。
物部氏の所領を奪うことができれば、国内生産と国外貿易との両方で莫大な富を蓄えることができます。
こうして起きたのが、物部氏と蘇我氏の直接対決。
表向きは物部氏が押坂彦人大兄皇子(他田皇子の長子だったが、皇后だった母・広姫が早世後は不遇)を旗印に、
一方の蘇我氏は亡き他田皇子(敏達天皇)の二番目の皇后(広姫亡き後)である額田部皇女を後ろ盾にして、
更に亡き大兄皇子(用明天皇)の嫡男・厩戸皇子をはじめとした蘇我系の皇子が軍を率いる形で参戦。
実質は豪族同士の争いでありながら、表向きは皇位継承争いの形をとります。
その後、泊瀬部皇子(後に馬子によって暗殺される)の即位を経て、額田部皇女が初の女帝となります。
摂政の厩戸皇子は蘇我系の大兄皇子(用明天皇)×同じく蘇我系の穴穂部間人皇女の息子。
大兄皇子と額田部皇女は実兄妹なので、額田部皇女にとって厩戸皇子は実の甥。
更に、蘇我馬子は母の弟なので叔父ということになります。
彼女は叔父と甥の力を借りながら、長く安定した治世を保ちました。
という訳で、この時代の馬子の権力は非常に大きなものでした。
政治面は勿論ですし、物部氏の領地は妻(便宜上、物部夫人と呼びます)が引き継いだ為、実質は馬子の配下に。
海外との貿易でお金も溜まるし、仏教文化を次々と持ち帰らせてカルチャーリーダーに。

ですが、その権力は蘇我氏全体ではなく、あくまで馬子個人のものでした。
その馬子には数人の息子がいましたが、この時代、母親の身分の違いはとても大きいので、
蝦夷が馬子の嫡男であるという点は問題がなかったのでしょう。
問題は叔父(馬子の異母弟か?)の境部臣摩利勢(さかいべのおみのまりせ)という人物でした。
この時代、父から子への地位継承よりもむしろ兄弟間相続がポピュラーでした。
寿命が短かったので、息子が育つのを待っていられなかったわけですね。
馬子の権力が強くなればなるほど、摩利勢は馬子の地位と財産を狙います。
ですが、馬子は長生きタイプでかくしゃくとしていて、一向にくたばらない。
更に、
大きな財産である物部氏の領地については物部夫人の領地であるため、彼女の子だけが相続すべきもの。
つまり
蝦夷とその実きょうだいだけが受け継ぐべきものでした。摩利勢など出る幕も無いはず。
ところが、摩利勢はしつこかった。おかげで、蝦夷の人生は大変なものになりました。

馬子が亡くなり、同じ頃に女帝・額田部皇女も崩御すると、皇位は押坂彦人皇子の忘れ形見・田村王に移ります。
その田村王の即位に尽力したのが、蝦夷なのです。(
やっと主人公についての記述が……
あれれ、なんでいきなり田村王? 妙な話だとは思いませんか?
思わないと感じるアナタ、下の家系図をじっくり見てちょうだいな。

       石姫皇女==【欽明】=======蘇我堅塩媛      蘇我小姉君【欽明妃】
              |           |_______         |
              |           |          |        |
広姫======他田皇子【敏達】==額田部皇女  大兄皇子==穴穂部間人皇女  _____
   |         |         |  【推古】    【用明】  |            |       |
押坂彦人皇子==糠手姫皇女    |                厩戸皇子==蘇我刀自古郎女   
蘇我蝦夷
          |            |               【推古摂政】 |
         
田村王=====田眼皇女                 山背大兄王
         【舒明】      (田村王即位前に死去)

見たそのまんまです。蝦夷には異母姉妹の刀自古郎女(とじこのいらつめ)が厩戸皇子との間に産んだ
山背大兄王という甥がいるにも関わらず、なぜがまったく蘇我の血を引かない田村王を推薦したのです。
勿論、彼だけでなく額田部皇女も娘婿である田村王を自分の後継者としていたようです。
確かに田村王はかつて大兄(皇太子)であった押坂彦人皇子の遺児であり、血筋は十分。
ですが、
敢えてまったく蘇我の血を引かない彼に白羽の矢が立ったのは何故なのか。
実はこれが摩利勢のせいなのです。
摩利勢は自分が馬子の後を継ぎたいが為に、姪の刀自古郎女が産んだ山背王に近付きます。
そして、生前人気を集めた厩戸皇子の嫡男であることを理由に、しきりに
皇位継承を勧めるのです。
飛鳥の地ではなくかなり離れた斑鳩に住み、政治的には何の役も立っていない山背王ですが、
言葉巧みに勧められばその気になります。
まして、彼にはあの厩戸皇子の息子であるというプライドがあります。その気持ちを摩利勢は利用したのです。

一方の蝦夷は、父が肥大化させた権力の大きさに困ります。
その全てが嫡男である自分に託されてしまい、叔父の摩利勢はやかましい。
祖父・稲目の時代からだけを数えても、蘇我氏自体も人数は膨れ上がる一方だし、
蘇我氏の血を引いているいうだけで大王の座を夢見る勘違い皇族もいたことでしょう。
無駄な諍いや流血沙汰を避けるためにも、一度リセットして、
総本家の地位を確立する必要があったのです。
(ずっと後に鵜野讃良が嫡子相続を推し進めようとしたのと、同じケースです)
そこで、蝦夷は即位前の田村王に自分の実妹・法提郎女を娶わせ、二人の間にはさっそく息子が生まれます。
それが古人大兄皇子で、彼が帝位に就けば蘇我×物部という血筋を引く皇族への皇位継承となり、
その血筋こそが相続の条件となっていくことでしょう。
蘇我氏自体も馬子から蝦夷へ、そして入鹿へという血筋になっていくはず。

祖父・稲目や父・馬子に倣って政略結婚によって権力を確立し、武力闘争を避けようとした蝦夷でしたが、
諸要因もあり、まったく上手くいきませんでした。
一つは額田部皇女の娘で皇后候補だった田眼皇女が早くに亡くなった為、
彼女を通じて田村王の治世で権力をふるう、という協力関係がなくなってしまったこと。
代わりとして、田村王の兄弟の娘である宝女王が皇后となりますが、蝦夷とはあまり上手くいっていなかった様子。
(参照 宝女王 この世はわらわのためにある(上) (下)
もう一つは、馬子の時代にいっきに勢力を拡大してしまった為、他の豪族から妬みを勝ってしまっていたこと。
蘇我氏が内部分裂してくれるなら万々歳!と思っている輩がたくさんいたわけです。
おかげで、蝦夷は四面楚歌状態でした。
頼みの綱は法提郎女が産んだ古人大兄皇子ですが、いくらなんでも若すぎます。
また皇后である宝女王は葛城皇子や大海人皇子を産み、宝女王の実弟・軽皇子までが皇位に食指を動かす状況。
更に山背大兄皇子もいるしで、やっぱり四面楚歌ですね。
何とか摩利勢は武力を以って倒したものの、そのことで非難されるし、
おまけに息子の入鹿が宝女王にすっかり丸め込まれて勝手なことをし出したとなれば、一体どうしろと言うのだ……
そこを上手く乗り切ることができなかったがゆえに、後に乙巳の変で蝦夷は命を落とします。

でも、蝦夷がしたことは彼考えることができた、最良で最善の道でした。
完璧でも強固でもないことは、自分でもわかっていたと思います。
馬子の時代と違って、物部氏のような強大な敵はいませんが、こうるさい一族の数は増えていますし、
突然の田村王の即位を面白く思わない皇族だって、山背王以外にもいたはずです。
特に蘇我氏の血を引く皇族・王族にしてみれば、
蝦夷の行為は裏切り以外のなにものでもありません
それでも尚、蝦夷は孤独な道を突き進みます。そうするしかなかったのでしょうね。
権力も財力もあるけれど、
強大になってしまったそれを上手く動かす為にはサポートが必要で、
それを上手く得ることができずに戸惑っている間に周囲は敵だらけ。必死にあがいていたのでしょうね。
やり手の父と息子に挟まれて、それだけでも大変な人生だったことでしょうし。
何となく、浜辺で砂の城を作っている感じに思えます。
必死に盛り上げても、意地悪な波が潰してしまい、やがて満ち潮に飲み込まれて。
最後の満ち潮は、中臣鎌足のせいです。奴が一族分裂に拍車を駆けさせました。
蝦夷の異母弟・倉麻呂の息子である石川麻呂は鎌足の口車に乗せられて、
入鹿と蝦夷を滅ぼして自分が蘇我氏総本家を乗っ取ることを夢に見ます。
後に、その石川麻呂も異母弟・日向の讒言(これも鎌足の策略)で自害に追い込まれ、
別の異母弟・赤兄は鎌足の配下となることで生き延びます(その為に有間皇子という犠牲が発生するわけですが)。
ですが、山辺皇女が背負った家系も、その命運を懸けた夫・大津皇子の自害によって断たれます。
(参照:大津皇子 許されざる皇位
藤原氏と結びついた蘇我連子(むらじこ)の血筋だけが、苗字を変えて表舞台に立つことになります。
一族内で内紛など起こさずに協力し合っていたのなら、外部(鎌足)に付け入られることもなく、
藤原氏ではなく蘇我氏が歴史上に残りつづけていたかもしれないのです。
逆に言えば、
蘇我氏の有様を教訓にして、藤原氏は内部分裂を繰り返しながらも、しぶとく生き残った訳ですね。


そんな勉強材料にされてしまった蝦夷ですが、彼なりに乗り切ろうとした様子は垣間見られます。
藤原氏によって悪人扱いされている彼ですが、単に要領が悪いと言うか、詰めが甘いと言いますか、
とりあえず悪人とは程遠い人物像のように思います。
今、私達が見ることができる資料のほとんどは藤原氏の、いや藤原不比等の息がかかったもので、
ほとんどの場合は藤原氏に都合の良いことが書かれていると考えた方が良いでしょう。
最も歪められた人の一人として、今回の蘇我蝦夷が存在するわけです。
正史とは、所詮は誰かの都合で作られたもの。
私達は"通説"に惑わされずに、真実を見抜けるようにすることが必要なのではないでしょうか。
正史に隠された歴史の足跡に、これからも眼を光らせていたいものです。

(蘇我蝦夷 おわり 2009.2.21)
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