中臣鎌足【なかとみのかまたり】(614 〜 669年) / Copyright (c) 2009-2010 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.


(E 有間皇子)

F 流されて浮かぶ花 倭女王

【家系図】  〈 〉内は母親
                   _____
蝦夷               |      |
 |___           |    茅淳王==吉備女王
 |    |          |         |
入鹿  法提郎女====田村王====宝女王
            |         |_____
         古人皇子        |       |
            |         |       |
          倭女王====葛城皇子   大海人皇子
              _____|        |_________________
             |       |        |        |       |       |
           山辺皇女   大友皇子==十市女王   草壁王    大伯女王   大津王
         〈蘇我赤兄娘  〈伊賀采女  〈額田女王〉  〈葛城皇子娘    〈葛城皇子娘 
          常陸郎女〉   宅子郎女〉           鵜野讃良皇女〉   太田皇女〉

【年表】
 640年頃 誕生(古人皇子×???)1歳
 645年  乙巳の変→父・古人皇子暗殺 6歳
 667年  近江遷都 27歳
 668年  葛城皇子即位→立后 28歳
 669年  中臣鎌足死去 29歳
 671年  大友皇子が太政大臣に→大海人皇子が吉野へ去る→夫、葛城皇子薨去 31歳
 672年  壬申の乱 32歳

この年表を書く意味があるのかと、随分と悩みました。
いくら調べても、いつどこで何をしていたのか、さっぱりわからないのです、この人。
わからなさ過ぎて一度考察を放棄したのですが、鎌足さんの策略の被害者として、
やっぱり彼女は外してはならんだろうな、と調べて足掛け2年以上。夕陽さん、頑張った☆
……それでもわからんのですよ。一応、史実とされているのは、

@ 古人皇子の娘らしい。母親は未詳。
A 葛城皇子(天智天皇)の皇后であった。子は無かった。
B 葛城皇子が病床にて実弟・大海人皇子に皇位継承を打診した際に、病気を理由に断られた上で、
  「皇后(倭姫王)が継いで、大友皇子を皇太子にすればどうですか?」と提案された。
C 葛城皇子の薨去前後に詠んだという歌が4首ある in 万葉集。


以上です。え、これだけ?と思われるかもしれませんが、これだけなんです。
これだけで考察しろって言うの!? 倭さん、あんた鬼だ。鎌足さん以上に鬼畜だ!(なんという暴言……)
他に、可能性として言われていることは、

D 倭という名前から、東漢(やまとのあや)氏で養育されたか?
E 近江遷都の後、葛城皇子が大海人皇子から(強引に)引き取った大伯、大津姉弟を育てたか?
F 葛城皇子薨去後に即位したあるいは称政を布いていたか?
G 滋賀県大津市滋賀里にある倭神社は倭女王の墓か?


ふう、少しはわかりやすくなってきた。これらの真偽を確かめていきます。


まず@の「古人皇子の娘」説。根拠となるのは、日本書紀のこの記事のみ。

天智天皇七年二月戊寅 立古人大兄皇子女倭姫王為皇后。遂納四嬪。
(668年2月23日 倭女王は古人大兄皇子であるため、皇后に立った。他に四人の嬪がいた。)


これが"倭女王"と呼ばれる女性の存在が確認される最初の記事です。
「初めて出て来て、こんにちは。私は古人皇子の遺児でございます」って宣言したんですか、あなた!?
今まで一体どこにいたの!?と突っ込みをいれたい。
だって、古人皇子の子供は吉野で殺され、妃妾の自害したことになっているからです。
なんで倭女王だけ見逃されたの? 女性でも皇位継承の可能性はゼロじゃないのですよ!
更におかしいのは、彼女の母親が誰なのかがまったくの不明ということです。
以前考察した「汝、結婚せよ。古代皇后の系譜」の歴代皇后の出自をご覧下さい。
母親の出自がわからないのは、倭女王と広姫のみ。
しかし、広姫は他田皇子(おさだのみこ・敏達帝)の最初の正妃ではあっても、
政治的な権力を持つ皇后であったとは言い難い側面があります。
また、額田部皇女が皇位に就いて以降、皇后の重要性は増す一方。両親の出自は大事。
それなのに倭さんのママは不明ってどういうこと??

@ 母親は蘇我蝦夷あるいは入鹿の血筋であり、逆賊の縁者として名前を伏せられた。
   …Dの東漢氏養育説が補強されます。東漢氏は元は朝鮮系の一族で、
    仏教布教に力を入れた蘇我馬子以来、蘇我氏とは強い繋がりがあります。

A 母親の身分があまりに低すぎたため、本当にどこの誰なのかわからなかった。
   …入鹿の言いなりだったであろう古人皇子が自分から好きになった女性って、どんな人??と
    妄想したくなります。皇位継承の可能性が低いと見なされ、生かされた要因にも成り得る。

B 実は古人皇子の娘などではない!
   皇后不在だと大王の権威に関わるので、亡き異母兄の遺児という設定でダミーを用意した。
   …葛城皇子と鎌足なら、このくらいはやるだろうとの偏見。

個人的にはBが一押し!なんですが、これはBと矛盾する可能性があるのです。


Aの「葛城皇子の皇后であった。子は無かった」説は事実としまして、
問題のB「倭女王、即位を勧められる」説を考えましょう。
「汝、結婚せよ。古代皇后の系譜」で考察した通り、皇后の出自は大事です。
何と言っても、当時の皇后には皇位継承の可能性がありますからね。
しかも、前例である額田部皇女(推古天皇)、宝女王(皇極天皇、斉明天皇)の即位状況を見ると、
「他の皇位継承候補者が即位すると戦乱の可能性がある」という緊急事態による即位でした。
額田部皇女の即位の目的は、夫の長男である押坂彦人大兄皇子の即位を阻止し、
自分が生んだ竹田皇子(幼少)か甥で娘婿の厩戸皇子(20歳前後)への皇位継承を実現するためでした。
母方の叔父である蘇我馬子の「蘇我氏の血を引く大王を擁立し続けたい」という意向も大きかったはずです。
宝女王の即位の目的は、有力な王族であった山背大兄王の即位を阻止するためでした。
古人大兄皇子(蘇我蝦夷の甥、宝女王にとっては夫の子)を即位させたいという蝦夷の要請であり、
その見返りには宝女王の娘である間人皇女と古人大兄皇子の婚姻が約束されていたと私は睨んでいます。
つまり、間人皇女が皇后になり、また即位する可能性を、宝女王と蝦夷は見据えていたわけです。

で、倭女王の場合なのですが、立后した668年時点において葛城皇子は既に42歳(626年生まれ)。
今後皇位継承に足る皇子が生まれても、その資質を見極める時間は葛城には残っていません。
ということは、皇后に立った倭女王の即位の可能性は668年時点でも有でした。
つまり、即位の可能性から考えれば、彼女は何が何でも「古人皇子の娘」じゃなければならないのです。

ただし、額田部皇女や宝女王の即位時とは、大きく異なる点があります。
それは葛城皇子には大海人皇子という同母弟がいたことです。
本来であれば、唐突に皇后に仕立てた倭女王より、既に政治に深く関わっていた弟が継承する方が妥当です。
しかし、朝鮮半島への出兵をきっかけに、この兄弟の間には微妙な緊張関係にありました。
(参照:中臣鎌足考察D「ロイヤルファミリーのプライド 間人皇女」
それ以前から疑い深くなっていた葛城は、658年に有間皇子を処刑して以来、
疑心暗鬼の矛先が大海人に向くようなっていましたし。
(参照:中臣鎌足考察E「生きるための法則 有間皇子」
大海人への皇位継承を葛城が本気で考えていたのか、疑問視すべきところです。
もっとも、一時期は険悪だった兄弟関係もある程度は修復していた可能性もあります。
大海人の長女である十市女王が大友皇子の正妃となり、
また葛城の養子格でもある大津王(大海人の四男)と娘の山辺皇女には既に婚約の約束があったと思われますので。
(参照:「ただ私らしく 十市皇女」「大津皇子 許されざる皇位」
果たして、倭女王と大海人皇子のどちらを次の大王に立てるか、葛城皇子の心は揺れていたのか、いなかったのか。

さて、時は飛んで671年。(鎌足さんは669年に他界していますが、そこは気にしない。)
葛城皇子は長男の大友皇子(24歳)を太政大臣という初お目見えの地位に任命します。
飛鳥時代は律令政治導入期。鎌足さんと葛城の国家戦略構想では、
有力豪族(蘇我氏など)の力を排除して、大王に主権を集中させる必要がありました。
だからこそ、大臣(おおおみ)や大連(おおむらじ)など有力豪族が歴任してきた地位の上に
"太政大臣"(政治を行う大臣達の中心)と言うポストを設置したわけです
それまで、皇族の政治参加は大王以外には皇后と皇太子(複数の場合有)に限られていました。
葛城は既に皇太子(皇太弟)に大海人を任命していたとされています。(持統天皇時代の創作情報との説もあります。)
それで、大友も"大友大兄皇子"にしてしまいますと、
「あんな身分の低い皇子を皇太子にするなんて!」と非難轟々間違いなし。大海人だっていい気はしない。
しかも二人の仲を取り成してくれた鎌足は既にいない……苦肉の策が太政大臣への任命だったわけです。
大友の優秀さを政治の世界で発揮させ、実力で大王に相応しいことを認めさせる。
息子への皇位継承を成し遂げるために、葛城には他に手段がなかったのです。

あれ? 何で他に手段がなかったのでしょうかね。
だって、葛城皇子には皇后である倭女王がいるではありませんか!
大海人皇子だって、671年10月17日に病床の兄に呼び出された際に
「皇后が即位すれば良いでしょう」と言っているのです。BY 嘘だらけの日本書紀。

天智天皇十年十月庚辰 天皇疾病弥留。
           勅喚東宮、引入臥内。詔曰。朕疾甚。以後事属汝。云々。
           於是再拝称疾固辞不受曰。「請奉洪業、付属大后。
           令大友王、奉宣諸政。臣請願、奉為天皇出家脩道。」(以下、略しました)
(671年10月17日 大王(葛城皇子)は病気が重くなった。(注 同年9月から体調を崩しているらしいです。)
        皇太子(大海人皇子)を病床に呼びつけ、「病気が重いので後はお前に任せる」と詔をした。
        皇太子は自分も病気だからと何度も固辞して、「大后(倭女王)に皇位を継承し、
        政治は大友皇子を任せて下さい。私は大王の為に出家します。」と言った。)


大海人にこう言われるまでもなく、皇后に譲っちゃたら良かったんじゃないの?
それなのに葛城は、大海人にこんなことを言われてさえも、倭さんを即位させることなく、
結局は薨去後に大友皇子が継承するという最悪の選択をしてしまいました

それが戦乱の元だと言うことを、彼は理解していなかったのでしょうか?
いやいや、まさか。ママである宝女王の事例の効果を一番良く知っているのは葛城です。
ってことはですね、倭女王が(正式に)即位しなかったのは葛城の意図ではなく、
倭さん自身に差しさわりがあったと考えるべきではないでしょうか。

@ 倭女王は傀儡にすらできないほど、君主に向いていなかったから。
   …だって、いきなり政治とか言われてもねえ。

A 近江朝に対し、非協力的だったから。
   …有り得ます。いきなり連れて来られて、唐突に皇后にされてもねえ。

B 古人大兄皇子の娘なんて、やっぱり嘘なんです〜。
   …ものすごくしっくり来ます。

万が一、理由がBだった場合、大海人の台詞は超意味深ということになります。
皇后に継承したら?と打診しておきながら、心中では偽者の即位などできるわけがないと高をくくっていたとか。
病床の葛城はものすごくムッときただろうなあ。ああ、怖い怖い。


さて、Cの「葛城皇子の薨去前後に詠んだ歌が4首 in 万葉集」。
私は歌の解説があまり得意ではない、と言うより、
「鎌足さんの「ピカチュウ☆ゲットだぜ!」?」並みの暴言大会になってしまうので自粛します。
あくまで雑感なのですが、倭女王の歌はものすごく儀礼的です。
いっぱい修飾語を使って飾り立てて、「はい、読んだ。これでいいでしょ」感が否めないです。
他の和歌集と比較して万葉集の特徴と言われる"おおらかさ"が感じられないのです。
この時にしか歌を読んでいないことからも、倭さんは普段から人前で歌を詠むようなことはなく、
夫の死に際しても、心から自分が望んで詠んだわけではないのだと思います。
詠んでと言われたか、皇后として詠んだ方がいいかもと義務感が湧いたか。
まさか、誰かに作らせたなんてことは……何せ心の篭もってない歌だしなあ。有り得る気がします。


さて、あとは文献に残ってはいないものの、可能性として考えられることです。

Dの「倭女王は東漢(やまとのあや)氏で養育された」説は、@の説明で申し上げた通り、有り得る話です。
蘇我鞍作入鹿はおそらく、飛鳥大仏の作者である鞍作止利(くらつくりのとり)の出身である鞍作氏で育っています。
倭女王の父とされる古人皇子は、別名を古人大市皇子と言うそうで、彼の宮「大市宮」を表しています。
古代の皆さんの名前って出身や後ろ盾がわかるので、結構便利ですねえ。
ただ、@の「倭女王は古人皇子の娘」説が嘘だとすると、話は厄介なことになります。
私は倭さんのことを「倭女王」と記述していますが、普通は「倭姫王」と書かれまして、
この「倭姫」という名前が厄介です。古代史上にはもう一人「倭姫」がいるのです。
おそらく、今回の考察の倭さんよりも、この倭姫命(やまとひめのみこと)の方がよく知られています。
この人は日本武尊(やまとたけるのみこと)の叔母さんに当たる人で、伊勢神宮の初代斎宮らしいです。
あちこち征伐に行かされている日本武尊に、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)なる剣を与えていますが、
これがですね、別名を草薙剣(くさなぎのつるぎ)と言いまして、「三種の神器」の一つなんです。
後に草壁皇子が藤原不比等に賜ったことで、二人の信頼を表す小道具となった代物でもあります。
現在は名古屋の熱田神宮にあるとか、実は安徳天皇と一緒に壇ノ浦に沈んだとか、色々と曰く付き。
何が言いたいかと申しますと、この倭姫命は日本の神道史の中で重要な役目を果たしているわけなんですね。
皇女であり巫女。大王(皇室)の主権を補完する要素として、巫女の宗教的能力は欠かせません。
その役割を果たした倭姫命と同じ名を持つ女性が、大王への権力集中を目指す葛城皇子の皇后だなんて
いくら同名が珍しくない古代史だからって、 ちょっと出来好きではないかと思います。
単なる偶然だと、鎌足さんは言い張るかもしれませんが、そこは疑わないと!

さて、Eの「大伯皇女、大津皇子の養母」説は巷でよく目にします。
私も個人的には好きな説なので、拙作「残暑の怪談」(創作部屋にあります)などでも使っていますが、
実はこれ、根拠がないようです。文献には見当たらないのに、何故か流布しています。
小説か漫画の影響ではないかと睨んでいますが、どうなんでしょう?(ご存知の方、教えて頂けると有難いです)
可能性としては、ゼロではないという程度です。
葛城皇子が大津皇子を自分の養子格として扱い、後継者にしたがっていた可能性を考えれば、
正妻である倭女王が大津皇子やその実姉である大伯皇女の養母格となるのは、まあ有り得るかと。
ただ、実際に二人を育てていたり親交があったりしたかどうかは、
倭さんのやる気の無い性格(私の勝手な想像です…)から考えると、微妙なところだと思います。

Fの「葛城皇子薨去後に即位、あるいは称政」説は、Bで説明した通り、ないと思います。
彼女が政治のトップに立てていたのなら、壬申の乱なんて起こっていません。

ラストのG「滋賀県大津市滋賀里にある倭神社は倭女王の墓」説は、おまけです。
この倭神社、「やまとじんじゃ」ではなく「しどりじんじゃ」と読みます。
古墳作成の年代から「皇后の墓」説は否定されていて、しかも何を祀っているのか不詳……かなり謎です。
でも、神社の場所自体はかつて近江宮にあった所に結構近いので、
倭さんにまつわる何らかの逸話や伝承が地元に根付いて、今の神社に至るのかもしれませんね。


葛城皇子の死に対する歌を捧げて以来、倭さんの行方は知れません。
壬申の乱の時も生きていたのかはわかりませんし、その後も勿論不明です。
最後まで他人のいいように流れ流されて、主体性のない人生を送ったということでしょうか。
皇后の先輩である間人皇女や後輩の鵜野讃良皇女とは似ても似つかず、何ともやる気のない人。
反発心から向上心を起こして女帝になる!という道もゼロではなかったはずなのですが、
そんなことに興味すら持てなかったのか、ひっそりと流れるままに舞台を去って行きました。

ですが、「流れる」こと自体が彼女の選択だったように私には思えます。
「倭女王」の正体が何にしろ、彼女に逆らう術などなかったのではないでしょうか。
彼女が古人皇子の娘ならば、彼女が生き延びたこと自体が奇跡なのです。
そして古人皇子の娘ではないならば、ダミーとしての生き方しかできないように定められていたのです。
逆らったって何も変わらない、流れに身を任せることが一番楽に生きる方法だと知っていたのかもしれませんね。
もし彼女の立場に自分が置かれた時、果たしてどんな生き方ができるのか、考えるだけでも怖いです。
絶望に打ちひしがれて自棄を起こすか、完全に無気力な人形と化すのか、
それとも実力も伴わないのに反発して消されるか……どれも嫌ですね。
荒事に気力も労力も割くことはなく、なるように流れに身を任せることにも努力が必要だったはず。
悲惨な歴史を辿ったこの時代、少しでも自分の身から悲劇を遠ざけ、心を守る方法だったのかもしれません。
だから他の皇后のように華々しい活躍はなく、史上に軌跡は残していませんが、
きっと彼女の幸せは史実に乗らない別の所で、ひっそりと咲いていたのでしょう。そうあって欲しいです。

(中臣鎌足F「流されて浮かぶ花 倭女王」終わり 2009.9.26−2010.6.13)


(G 鏡女王)
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