いにしへの奈良の都の八重桜

   今宵ばかりは 墨染めに咲け

エピローグ

 かつて京の都では、高貴な者の姿を見ることは畏れ多いとされ、簾や几帳を用いて見えないようにしたのだと言う。
 その名残がこの国には残っていた。しかし、その用途は観念的なものではなく、実務的なもの。老竹色に染められた硬質素材製の御簾は、如何なる銃弾も通さない難攻不落の結界として、為政者を守護している。
 強固な守りに囲まれた場所は、その主のみが座り、その傍には侍女が一人、二人。多くの者は更に下がった位置で、頭を垂れていた。
 一体どれだけの者が真に頭を下げているのか。
 その自嘲を皇太子は辛うじて呑み込んだ。考えても無意味なことだ。誰が頭を下げようと下げまいと、どんな思いでいようと、それは瑣末なことでしかない。
 以前より少し憂いを帯びた瞳で、皇太子は新たなる来訪者を迎えた。
 春の装いをした官吏の中で、招かれた少女達の墨染めの衣は否応にも無く目立っていた。
 墨染めは喪の色だ。母親の喪に服する、悲しみの色だ。
「はるばるの来訪、大儀である」
 皇太子の言葉として、女官の声が御殿に朗々と響き渡る。
 客人に対する気使いの欠片もないそれに、少女達は無言で平伏した。顔は見えないが、長く切り揃えた烏羽色の髪は母親譲りの艶やかさを誇っている。
 弔慰、感謝、そして謝罪と償い。皇太子の口は何か言葉を編み出そうと開きかけていた。しかし、何も出て来ない。
 この少女達を即位式に招くことは、官吏の決議だった。意味のないことだと言っても、示しがつかない、と誰もが言い張る。母親が皇太子を守った英雄であると、知らせるのは妥当だと。
 愚かな意見ばかりだ。
 死ぬべきだったのはヨーコではない。彼女を殺すくらいなら、この国なんて滅びてしまっても良かったのに。
 ため息をつく間にも、勝手に会話は進められていく。
「殿下は、可能な限りのお力添えをなさりたいと仰せです」
 皇太子にとって、その心意気は事実だった。死した者には何一つ償うことはできない。せめて、その息女達に何かできないものか。
 応えを待つことしばし、姉と思しき少女が口を開く。
「温かなお心遣いには感謝いたします。ですが、どうぞ私達のことはお忘れ下さい。連邦政府からの見舞金がありますし、生活に何一つ不自由を感じてはいません」
 ただ一つ、母がいないこと以外には。
 幼いながら、鮮やかな拒絶だった。
 ふと、妹の方が視線を上げた。闇よりも黒い双眸は、見えない御簾の内を一瞬とらえて、すぐにまた伏せられてしまった。喪服の袖に隠された幼い手が小さく握り締められる。
 皇太子はすぐにでも立ち上がりたかった。
 あの子の側に走り寄りたい。彼女らには、愛する母親を自分達から奪ったこの女を罵倒するべきなのに、どうして自分はここでのうのうと座っているのか。
 一人自嘲しても、仕方のないことなのに。
 退出して行く小さな背中を見つめながら、唇を固く噛み締める。
 無力。今の自分には何もできない。
 皇太子はおぼつかない足で、背後の小部屋へと移動した。
「殿下、お待ち下さい。次の賓客が――」
 呼びかける声は耳に届いたが、無視して歩き続ける。一刻も早くあの場所から逃げたかった。
 外では既に夜の帳がしめやかに下りていた。春の夜の深い闇は先刻の瞳を思い起こさせる。
 自嘲に混じりの笑みを浮かべて、皇太子は闇に手を伸ばした。
 と、廊下の向こうから、軽やかに走り寄る足音が聞こえてきた。思わず振り返ってみれば、黒髪の、しかし紅梅の襲をまとった少女だった。何かを抱えて、息を弾ませながらこちらへ向かって来る。
「皇太子殿下、ご覧下さいませ。サクラでございます。この四十年、一度も咲かなかった枝が」
 差し出された八重桜の枝には、今まさに咲かんと光を放つ蕾であふれていた。
「明日の即位式をお待ち申し上げていたのでしょう」
 付き従っていた老女官の涙混じりの声に、また自嘲が零れる。
「せめて今夜だけでも、喪に服せばいいものを」
「殿下、何かおっしゃいましたか?」
 不思議そうに見上げる少女に、皇太子は無言で首を振る。
 即位式を終えれば、皇太子は女皇として政務を司る。多くの民のために、心を砕き続ける日々が始まる。
 それが無駄なことだとは決して思わないし、決して好きと言える国ではないけれど、自らの使命からは決して逃げたくない。そのために、自分は守られたのだから。
 だから、皆に自覚していて欲しい。今ある幸せが、人の犠牲の上にあるということを。決して降って湧いた幸運などではなく、守られた結果なのだということを。せめて、今宵だけでも……
 空は晴れることなく、雲間の朧月は光ることを拒むよう。幾重にもなった薄紅の蕾も、どっしりとした樺色の幹も若々しい枝も、今は闇に染まっている。
 一刻でも長く、この夜が続けばいい。
 さもなくば、散華となるがいい。春を待たずに散った者のために。
 少し肌寒い春の夜の風が枝を揺らす。それは幾度も覆い被さった蕾から一枚の色を奪い、虚空の闇へと消えて行った。


逢里宿楽宮皇太子殿下 即位前夜之御歌
   古の奈良の都の八重桜 今宵ばかりは墨染めに咲け

 UE1417年、サクヤ皇朝第五十代逢里宿楽宮即位。

                                    終

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