いにしへの奈良の都の八重桜

   今宵ばかりは 墨染めに咲け

Act.5

 庇を跳び過ぎ、渡り廊下を駆け抜けた先は行く手にも分かれていた。三人のクルーは迷うことなく、香りが強い方向へと走り続ける。
「まるで犬ね」
 楽しそうに皮肉るヨーコだが、順路に不満があるわけではない。
 最後尾のシュリは時折背後を振り返る。姿はないが、追ってくる者の気配をはっきりと感じた。距離をつけた上で旧皇国の者と接触しなければならない。
「シュリ、振り向くな。スピードが落ちる。止まらなければ、追いつかれはしない」
「はいっ」
 シュリを連れて来たのは正解だった。その細い身体のどこに潜んでいるのかと不思議に思うほどの体力と脚力のおかげで、彼女は自分の体重とほぼ同量の武器を背負っても、全速力で走るアウリヤから遅れない。
 常識で言えば、白兵戦経験があるロスを同行させるのが筋ではあったが、シュリに一人でスコルピウスの相手をさせるのは心許なかった。それが思いがけなく適材適所になったことは、面倒中の幸いと言ったところである。
 広い宮廷内をかなり走り続けて、花の香りは少しずつ近くなっている。
 突然、渡殿が途切れた。先は破壊されていて行き場所が無い。池が広がる庭へ飛び降りたとは考えがたかった。
 一瞬の逡巡の後、アウリヤは横の部屋へと跳び込む。
 玉座の間同様、物のない空間だった。壊された仕切りにかけられた布が風になびいている。
「少佐、風が」
 シュリの指摘に、アウリヤはわかっているとうなずく。
 今、この街に風は吹いていない。だから、おかしい。
 仕切りごと布をめくると、草を編んで作られた分厚い絨毯のような物が置いてあった。香りをまとった風はその下から吹いている。かなり重いそれを持ち上げると、睨んだ通りに隠し階段が現れた。
 遠くで追手の声が聞こえる。迷っている暇はない。アウリヤの先導で、三人は中に滑り込む。追撃を逃れられるように、それが無理でも時間稼ぎになるように、元通りにふたをして。
 階段を下りると、見せかけの板間によって遮断された地下空間に、人の気配が感じられた。
 帳によって巧妙に隠された細い通路が続く。香りを辿って追い続けると、この建物には珍しく、三方を壁に囲まれた部屋を見つけた。
 甘酸っぱい香りがしっとりと漂う。
「お待ちしておりました」
 三人が暗闇の中を慎重に踏み出すのと、声をかけられるのはほぼ同時だった。
 声の主の姿は闇に紛れて判別することはできないが、声からすればシュリと変わらない、あるいは更に年若い少女であると推定できる。
 すぐ反応できなかったアウリヤ達の沈黙を警戒と受け取ったのか、少女は再び口を開いた。
「申し遅れました。私は、サクヤ皇朝第四十九代ハルマチトキワノミヤの御世のコウバイノダイナゴンが孫娘に御座います」
 名乗られたはいいが、アウリヤ達にはその自己紹介が何を意味するか、ほとんど把握できなかった。わかったのは、彼女が旧サクヤ皇国の人間であり、コウバイノダイナゴンとかいう者の孫であり、その関係でWINDプロジェクトのクルーを先導する役目を仰せつかったらしい、ということくらいだった。
「そうか。我々はウインド・プロジェクトのクルー、私が艦長のイェンヌです」
 必要はないと思いながらも軽く敬礼したアウリヤに、シュリも追随した。
「同じく、軍事官のミン シュリです」
「私は医務官のミカサ。よろしく」
 ヨーコだけは外務官のように握手を求めた。相手にはその習慣がないらしく、少し戸惑ったような間があってから、手が差し出された。
「こちらこそ」
 ようやく闇に慣れた目が、少女の全身像を捉える。
 随分と小柄で、声から想像された姿よりもずっと幼い。緩く結い上げた、艶のある黒髪と漆黒の大きな瞳。暗い中でも、雪肌が確認できる。
 花のような少女に目を奪われて、一瞬惚けた思考を慌てて戻す。
「連邦政府からサクヤ皇国に託されたモノがあるのだが」
 アウリヤの言葉に頷き、少女は三人を見回した。
「それで、殿下は何処においでなのでしょうか?」
 しばし、沈黙。
「――これを」
 アウリヤは腰から剣を抜いて、差し出した。
「我々が正式に託されたのは、これだけだ」
「そんな……そんなはずはありません! わたくしは殿下をお迎えせよと申し付かりました」
 興奮で半泣きになりながら、少女は必死に訴える。
「確かに、その剣は我が国における皇位の証であり、皇太子殿下の御帰還と共に戻って来ると伺いました。しかし、殿下がおいでにならないはずがありません」
「そうか。やはり、そうなのだな」
 アウリヤが独り言のようにつぶやくのと、遠くで爆音が挙がるのとは、瞬時の差だった。
「来たか」
「スコルピウスですか?」
 既に武器を抱えたシュリは、音の方へと駆け出さんばかりの勢い。
 それを制して、アウリヤは自らも大きな銃を肩に担いだ。
「ロスでも奴らを抑え切れなかったか。カシムがまだこの建物の中にいる以上、旧宮への爆撃は最小限のはずだ。おそらく、スコルピウス兵がここまで来る」
 スコルピウスという単語に、旧皇国の少女は紅潮させていたであろう顔から、色を失ったらしい。眩暈を起こしたのか、ヘナヘナと座り込んでしまった。
 そんな彼女を無理に立たせ、アウリヤは言い聞かせた。
「安心しなさい。奴らには皇太子に指一本触れさせない。だから、早く仲間の下へ案内して欲しい。それが、あなたがやらなくてはならないことだ」
 少女は目を見開いて何とかうなずいたが、アウリヤが渡そうとした宝剣を受け取ることもできないほどに怯えている。
 アウリヤは舌打ちを何とか押し殺して、剣を床に投げた。いくら皇位継承の証でも、所詮は物でしかない。本当に必要ならば、後で平和になってから回収すればよいのだから。
「奴らの狙いは皇太子一人だ。早く安全な所へ」
「少佐?」
 軍事司令官の意図が読めなかったシュリは、自分もここに残ると言おうとしたが、それをヨーコが遮った。
「どういうこと? 皇太子って、まさか――」
 濡れ羽色の瞳に射抜かれて、シュリは慌てて首を左右に振る。
 説明を求めるように、二人の視線がアウリヤに注がれる。
「コマ・ベレニケス政府の提示した資料から考えると、皇朝の生き残りは前女皇の甥か姪の子供だ。そして、サクヤの皇族は旧東アジア系。よって、カシムとロスと私は除かれる。以上だ。」
 ヨーコのように身体的特徴は示していないが、シュリの苗字も旧東アジア系の人々の間で使われているものであり、まったく可能性がないわけではない。
「しかし、それだけでは――」
「シュリ、ここは私が食い止める。一刻も早く、皇国の支持者と合流しろ」
 シュリが皇太子である可能性は否定しきれないが、それ以上にヨーコの身の安全を守ることが先決だった。
「ちょっと待って! そんな話聞いたこともないわ。何かの間違いよ」
 そう言いながらも、ヨーコは逃げる気満々だった。彼女も任務前に戦闘訓練を受けてはいるのだが、百戦錬磨の軍人であるアウリヤに比べれば、完全に戦力外。撃ち合いになれば、足を引っ張りかねない。
 シュリも同様だった。仮初ではあっても平和な時代に育った士官訓練生。初めての白兵戦には場が悪すぎる。
 そのことは十分わかっているらしく、シュリは唇を噛み締めながらも、それ以上は言い募らなかった。深くうなずいて、少女を促す。
「案内をお願いします」
「こ、こちらでございます」
 少女は後方の壁を裏返して走り出し、シュリが、そしてヨーコも後に続く。
 三人が完全に去ったのを確認すると、壁を元のように固定し、アウリヤは元来た道へと身を翻した。
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