中臣鎌足【なかとみのかまたり】(614 〜 669年) / Copyright (c) 2007-2009 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.


(A 蘇我入鹿)

B 喰えない母子 宝女王&葛城皇子

さて、旻先生の所で宿敵・蘇我入鹿と運命の出逢いを果たした鎌足さん。
入鹿クンとはライバル関係が深まるばかりで、仲良くオトモダチって感じではありませんでした。
そして、他の豪族の子息からも蘇我氏総本家への不満を感じます。
そこで何故か「私が蘇我氏を倒すのだ」と、思い込みが激しい鎌足さん。
その思い込みのきっかけの一つは南淵先生の講義でした。
蘇我氏にゴマをする旻先生と違って、南淵先生は蘇我氏を暗に批判することを恐れませんでした。
当然、蘇我氏総本家には睨まれる立場。
鎌足さんはそこで学びながら、打倒蘇我氏プランを練り始めたのであります。

そんな鎌足さんに、もう一つの運命の出逢いが訪れます。
そのお相手は、南淵請安という遣唐使帰りの学者の所に勉強に来ていた葛城皇子です。
時の大王である田村王と皇后の宝女王との間の長男です。
 ※  普通は「田村皇子」「宝皇女」と表記しますが、田村は敏達天皇の孫、
    宝さんに至っては曾祖父の欽明天皇まで遡らなければいけません。
     このサイトでは、「田村王」「宝女王」という表記を使います。
「南淵ナントカって誰? 二人の出会いが私の知ってる話と違う〜」と思った方もいらっしゃると思います。
そう、一般に有名な葛城(中大兄)皇子と中臣鎌足との出逢いは…

  葛城皇子が法興寺(現在の飛鳥寺の前身)で蹴鞠の会に参加していた。
  蹴った拍子に靴が脱げたのを、見物していた鎌足が拾って差し出した。
  それをきっかけに二人は非常に親しくなり、やがて打倒蘇我氏の策を練り出した。

こんな話ですよね。これは(夕陽さんの考察以上に)眉唾物です。
法興寺は蘇我氏の氏寺ですので、蹴鞠の会は蘇我氏総本家の頭領である蘇我蝦夷の主催だったと考えられます。
つまり、蘇我氏の目がばっちり届く場所であるわけです。
そんな場所で皇子様と親しくなろうとするなんて、そんな鎌足さんは軽率すぎます。
不審な行動を蝦夷に見咎められて、目を付けられたらどうするの!
まあ当時の鎌足さんなんて、蝦夷の視界の端にも引っ掛からなかったでしょうが、でもねぇ。
しかもこの時に、「実は私は蘇我氏を憎んでおりまして」とか何とか、鎌足さんが言ったという説が……
そんなアホなこと喋るわけないでしょーが! 葛城皇子が蝦夷に恩を売るような人間だったらどーすんの!?
第一、そんなこと囁くために蹴鞠を見物していたんですか……それじゃ、ストーカーじゃん!

鎌足さんが打倒☆蘇我氏を葛城に打ち明けた理由は、葛城皇子の人格や考え方がわかっていたからです。
持ちかければ必ず乗って来るという自信があったからこそ、鎌足は葛城を選んだのです。
共に学ぶ内に、「この皇子なら打倒蘇我氏のリーダーに打ってつけだ」と思ったわけです。
他にも、鎌足さんが利用できそうな皇子や王族はいました。
現に一度は現皇后の実弟にして大王の甥である軽王に誘いかけますが、彼の凡庸さに呆れて撤回します。
そして、その中から選ばれたのが当時まだ少年の葛城だったのです。

当時、葛城皇子が置かれていた立場を確認しましょう。

【家系図】
(蘇我氏)
稲目
 |______________________
 |                                | 
 |                  【欽明】======堅塩媛
 |                    |        |
馬子                  【敏達】       |
 |        ________|        |_______
 |        |           |        |          |
 |     糠手姫皇女===押坂彦人皇子  桜井皇子     額田部皇女【推古】(敏達皇后)
蝦夷               |      |     |          |
 |___           |    茅淳王==吉備女王     田眼皇女(田村王正妃)
 |    |          |         |______________
 |    |          |         |                    |
入鹿  法提郎女====田村王====宝女王【後の皇極・斉明】   軽王【後の孝徳】
            |   【舒明】  |_______________
            |          |          |          |
          古人皇子    葛城皇子     間人皇女      大海人皇子
                   【後の天智】    (後の孝徳皇后)  【後の天武】

葛城皇子のパパ田村王(舒明天皇)は蘇我氏の血を引かない天皇です。
そんな田村王を皇位に押し上げたのは、当時の蘇我氏本家の頭領である蝦夷でした。(系図の左側におります)
厩戸皇子(聖徳太子)一族のように、蝦夷の意向には沿わない蘇我氏出身者が多数出て来たので、
いっそのこと蘇我氏が離れて、陰の暮らしをしている人を引っ張り出したのだと思われます。
(詳しくは、2008年お年玉企画「砂の城砦 蘇我蝦夷」をご覧ください)
そして、蘇我氏の血を皇室に再投入するべく、政略結婚開始でございます。
蝦夷の妹(おそらく同母妹)である法提郎娘が妃になり、ここに田村王の長男として古人皇子(ふるひとのみこ)が生まれます。
しかし、法提郎女は豪族の娘であり、皇后にはなれません。
実は、額田部皇女(推古天皇)の娘である田眼皇女が皇后候補として、田村王と結婚していました。
ところが、彼女は早くに亡くなったようで、子供もいなかったらしい。
代わって后となったのは、額田部皇女の実弟である桜井皇子の孫娘にあたる宝女王でした。
父親の茅淳王が田村王の異母兄であるという点も勿論考慮されたでしょうが
母親の吉備女王(吉備姫王)が蘇我馬子から経済的援助を受けていたらしく、かなり蘇我氏に依存していたようです。
というわけで、蘇我氏の血を引かない田村君ですが、主な奥さんはみんな蘇我系
子供は母方で育てられるのが当時の習慣ですから、跡継ぎにできる子供達も皆蘇我氏に育てられ……
完全に蘇我氏に制圧された天皇生活を送っていたわけです、田村君は。

さてさて、今の大王は田村王でいいとして、後継者は誰にしましょうか?
蝦夷にとって望ましいのは、田村×法提郎女の息子である古人"大兄"皇子です。自分の甥っ子ですもの。
しかし、ここで問題。田村王には法提郎女より位の高い妻、宝女王がいて、皇子が二人(葛城と大海人)がいます。
ここはやっぱり皇后の息子達が優先されるのが筋……とならないから、古代史はややこしい。
宝さんが皇后になれたのは、蘇我氏の血を引く王族だったからです。ただの王族じゃだめなんです。
大事なのは当時最大の金持ち集団であり、政治権力のトップの座にある「蘇我氏」の血を引くこと。
しかも、蘇我総本家に近いことが大事です。この時は蝦夷に近いことが大事でした。
宝さんの蘇我の血は、母方の曾祖母・堅塩媛(きたしひめ)まで遡らなくてはいけません。蝦夷とは随分遠いです。
そんな宝女王に期待されたのは「古人大兄皇子に相応しい皇后候補を産むこと」です。
蝦夷が欲しかったのは、宝さんが産む皇女だったわけ。葛城&大海人は放っておかれました。
だから、葛城皇子の教育は必ずしも「将来の大王になるためのもの」ではなかったと思われます。
ゆえに、南淵先生の所にふらふらやって来て、勝手なことをしていても咎められなかったのです。


そんなこんなで打倒☆蘇我氏の策を練って、実行しちゃったお二人さん。(時間の流れが速いですが、ご勘弁)
当時、田村王は亡くなっていて、時代は宝女王(皇極天皇)の在位でした。
お気に入りだった入鹿を目の前でザシュッと殺された宝さん、かなりご機嫌斜め。
「わらわ、もう知らないわん」とばかりに大王を辞めちゃいます。
辞めさせられたのかもしれませんが、どっちにしても葛城や鎌足は苦労させられたことでしょう。

乙巳の変で活躍した葛城皇子ですが、まだ20歳の若さ。
当時の大王は多少傀儡的な存在ではありましたが、いくらなんでも若過ぎますので、鎌足さんは一計を案じます。
「葛城皇子が将来大王になるためには、葛城と血縁が近い者を今大王にしなければならない」
そして血縁の深い者以外は、消しませう!
まずは蘇我蝦夷や入鹿に擁立されていた古人大兄皇子に皇位を勧めます。モチロン罠。
その年内に古人皇子は殺されます。(参照:すべてを奪われて 古人大兄皇子
一方で葛城皇子と血縁が近い皇位適齢期の皇族を捜し、白羽の矢が立ったのは宝女王の実弟である軽王(かるのおおきみ)。
葛城とは叔父・甥の関係に当たるし、葛城の実妹である間人皇女(はしひとのひめみこ)を皇后として娶わせます。
当時の政治と性事を合わせ見てみると…

   政治                   性事=後宮事情&他の婚姻事情
   大王=軽王(孝徳天皇)
   皇太子=葛城皇子             皇后=間人皇女
   左大臣=阿倍内麻呂(小足媛の父)   妃=阿倍小足媛(有間皇子の母 cf.妹の橘郎女は葛城皇子の嬪
   右大臣=蘇我倉山田石川麻呂      妃=乳郎女(蘇我倉山田石川麻呂の娘 cf.姉妹の遠智郎女と姪郎女は、葛城の嬪
   内臣=中臣鎌足
   国博士=旻(僧)と高向玄理

政治的立場と性事的立場は、はっきりと比較対照できますね。実にわかりやすい。
阿倍内麻呂は娘の小足媛が既に有間皇子を産んでいるので、将来の外祖父の地位を夢見たかもしれません。
石川麻呂も同じような意図で、乳郎女を軽王と結婚させます。
しかし、二人共考えることは一緒。「真の実力者=葛城皇子」であることは承知していました。
内麻呂は橘郎女を、石川麻呂は姪郎女を、それぞれ葛城と結婚させます。
(遠智郎女は以前から葛城と結婚していて、乙巳の変があった645年には第二子の鵜野讃良皇女が生まれています)
軽王の在位が短期間で終わり、近い内に葛城が皇位に就く可能性を考えていたに違いありません。
しかし、意外にも軽王の政権は646年から形式上は654年まで続きます。
葛城や鎌足の傀儡でしかない軽王政権が、どうして8年にも及んだのでしょうか。
実は8年にも及んだ裏には、ちゃんと鎌足さんの策略があったのです。
ズバリ、「葛城皇子即位までに汚い仕事は全部済ましておこう☆大作戦」(ネーミングセンス・ゼロだな)

まずは648年、鎌足さんは今までの役職制度が改変します。具体的には重臣の冠の色を一新します。
ところが、左右大臣だけは従来通りの冠を被ることとなりました。
左大臣は阿倍内麻呂、右大臣は蘇我倉山田石川麻呂。この二人を新しい役職制度から排斥したのです。
乙巳の変で味方となった石川麻呂も、所詮は小うるさい蘇我氏に過ぎません。利用価値がなくなれば邪魔なだけ。
古くからの豪族である阿倍氏の内麻呂も、元は蘇我馬子の側近であり、裏切る可能性はゼロじゃない。
二人を高い役職に就けて懐柔しておきながら、二年後には二人を遠ざけます。

そして翌年649年、まずは阿倍内麻呂は亡くなります。
その数ヵ月後、今度は石川麻呂が殺されます。誰によって?…モッチロン鎌足さん。
表向きは『石川麻呂の異母弟・日向が「兄が皇太子に対して謀反を企んでます」と訴えて、
「何、それはいかん。理由を聞かねば」と迎えの軍を出したら、石川麻呂が妻子共々自殺しちゃって、
その後「実は日向の嘘でした」とわかったので、日向を大宰府に左遷した』となっていますが、嘘ですね。
真相はこうでしょう。

   そろそろ石川麻呂を追い落としたかった葛城皇子と中臣鎌足は、蘇我日向を呼びつけた。
   「石川麻呂がいなくなれば、次の蘇我総本家トップはお前だぞ」と焚きつけ、
   「私の異母兄が謀反を企んでおります」と芝居を打せた。
   それを理由に石川麻呂一家を氏寺の山田寺へ追い込み、「今死ねば、娘達は助けてやるぞ」と脅し、自殺に追い込んだ。


これの方がよっぽど信憑性あると思うんですけれど。
かつて山背大兄王が蘇我入鹿(が率いる宝女王の軍勢)に倒された際、女子供すべてが自害したのに対し、
石川麻呂の自害に従ったのは、妻と嫡男の一家だけのようです。
葛城の妻となった遠智郎女と姪郎女、軽王の妻となった乳郎女は無傷だったのです。もちろん、その子供達も。

さて邪魔者をどんどん消して、いよいよ葛城皇子即位へのお膳立てをしなくてはなりません。
葛城は649年で24歳でまだまだ血気盛ん。年齢的にも大王の座が見えて来ました。
そろそろ葛城皇子後、つまり葛城の後継者のことも考えなくてはなりません。
当時の葛城には、遠智郎女との間に太田皇女と鵜野讃良皇女、采女の宅子郎女との間に大友皇子がいました。
まだ次の皇太子に相応しい人物は生まれていなかったのです。(その後もずっとそうなのですが)
当時の基準で、大王になるためには母親の社会的立場が物を言います。
蘇我氏の出身であれば大王の母となるに相応しかった時代はまだ継続中ですが、
鎌足としては新しい性事制度にしたいところです。今までの豪族の常識を打ち破りたかったのですからね。
母方から蘇我氏の血を引かず、蘇我氏の意図も汲まない皇太子を立てたいところ。
だから蘇我系の、特に倉山田石川麻呂の娘達のことは無視して、
社会的にも忘れ去られた存在にしてしまいたいところです。

651年、遠智郎女が建皇子(たけるのみこ)を産んで間もなく亡くなります。
遺されたのは太田皇女と鵜野讃良皇女、そして乳児の建皇子。
石川麻呂亡き今、叔母に当たる姪郎女が細々と面倒をみるしかありません。
しかも建皇子には聾唖の障害があり、将来皇太子となる可能性はありませんでした。
遠智郎女の子供達は性事情勢から忘れ去られようとしていました。鎌足さんの思うツボ。
ところが! 邪魔が入りました。ここでしゃしゃり出て来たのは、なんとなんと祖母に当たる宝女王!
きっと、大王を辞めて超お暇だったのでしょうね。
「なら、わらわが育てるわん」と遠智郎女の遺児三人を引き取ってしまいます。
特に末子の建皇子をベタベタに可愛がっていたらしい。墓の中にまで連れて行きました。(嘘ではない)
要するに、蘇我氏という一族自体はかつての栄光を失わされ、後ろ盾とはならないけれど、
女系で蘇我氏の血を引く宝女王が、皇族蘇我氏の女長として君臨してしまったのです。
当然、姪郎女だって宝女王の庇護下に入ったことでしょう。(後に葛城皇子との間に、御名部皇女と阿閇皇女のニ人を産みます)
蘇我氏の総本家やら石川麻呂やらを倒してホッと一息ついていた鎌足にしてみれば、宝さんは頭痛の種。
一難去って、また一難。説得しようにも難しい。って言うか、無理。
宝さんが鎌足ごとき(失礼!)の言うことを聞いてくれるはずがなく、
難癖をつけて反対しても鼻であしらわれ、嫌味を言われ、時にはつまみ出され……たかどうかは知りません。


更に、難題は続きます。よりによって共犯者の葛城皇子が、厄介な問題を持ち込んでくるのです。
ここで状況確認。軽王即位後、葛城の地位は日嗣皇子(皇太子)です。
元々は「日嗣皇子の地位なんて有名無実」みたいな雰囲気があったのですが、
この時は葛城(&鎌足)は実質の権力者で、むしろ大王(軽王)の方が有名無実でした。
利用されていることがわかっていたはずなのに、軽王はなぜ葛城の隠れ蓑になり続けたのでしょうか?
いくら大王とは言え、利用価値がなくなったら内麻呂や石川麻呂のように消されてしまうかもしれないのに。
その答えはもちろん、葛城が「協力しないと殺す!」という勢いだったからでしょうね。
でも脅すだけじゃなく、身の安全を保障するという態度を示し、軽を安心させました。
でも態度だけでは軽も信用しません。行動で示さなきゃ。
だから、葛城は可愛い妹・間人皇女を軽の皇后として娶わせたのです。
叔父との間柄を更に強固に繋ぐために。(参照:ロイヤルファミリーのプライド 間人皇女
葛城が間人をとても可愛がっている事実があったからこそ、この婚姻には意味がありました。
そしてこの筋書きを書いたのは、モチロン鎌足さん☆ 策略の陰に鎌足ありです。すべて奴を疑え!

で、上手く行っていたはずでした。
が、「葛城即位までに汚い仕事は全部済ませておこう☆大作戦」(晶さんに褒めてもらえたので名称続使用!)が
あまりに上手く行き過ぎてしまい、葛城クンはふと思ったわけです。
別に叔父貴の力なんて必要ないじゃんか」と。上手くいくと調子に乗ってくれますね、この人は。
軽が間人を一番に大事にしていないことも、葛城には許せないことだったのかも知れません。
「私の世界一可愛い妹が気に喰わないとでも言うのかっ!」とね。
軽が一番大切なのは、長年連れ添った妻の阿倍小足媛(あべのおたらしひめ)であり、その息子の有間皇子です。
オシドリ夫婦で仲良し家族だったことでしょう。
それに比べれば間人との婚姻は政略結婚の極み。素直に喜べる訳がない。
葛城と軽との間の溝は次第に深まるばかりです。
しかし、溝を深めてもらっては困るのは、裏方の鎌足さんです。
今までコトが上手く運んでいたのは、裏でコソコソ行動した鎌足さんのおかげ。
彼のたゆまぬ"執念"と"思い込み"と"ねちっこさ"の賜物です。(敢えて"たゆまぬ努力"とは言いません)
「葛城即位までに汚い仕事〜(略)」が完成するまでは、何とか仲良くしておいてもらいたいところ。
が、今だ血気盛んな葛城クンは鎌足さんの助言(という名の命令?)に耳を貸しません。早く間人と軽を別れさせろ、と息巻きます。

さて、鎌足さんは困りました。
軽王の方も、以前ほど従順ではなくなっています。
葛城と鎌足が次々に重臣を抹殺していく中、軽さんの感じた恐怖は計り知れないものでしょう。
自分や家族が殺されるのではないかと、ますます頑なになっていきました。(その予感は彼の死後に的中します)
利用できなくなった軽王に見切りをつけた鎌足は、次なる作戦に打って出ました。
主な敵は既に討ったものの、まだまだ汚い仕事は残っています。
葛城の即位の時にはすべての豪族を完全に従わせておく。それが鎌足の目指すところです。
だから葛城の即位はまだ先でなければなりません。
そこで、鎌足はある人物に近付きます。
そして、こう誘いかけたのです。「再び大王になる気はありませんか?」と。
その人物こそ前大王、ご存知、宝女王様でございます。
暇だったんですね、女王様は。「そうね、いいわん 協力してあ・げ・る」と温かいお言葉。
この時鎌足さんが少しでも感謝したとすると、彼は後に死ぬほど後悔したことでしょう。
即位後、「協力してあげたの、誰だっけぇ?」と脅されて、大量の石造物建築を承認させられるはめになります。

まあ、そんな後の話は置いておきまして。
とにかく替えの大王は確保しましたので、もう軽王は用済みです。
ですが、辞めさせる必要もありませんでした。軽が病に倒れたのです。
そこで鎌足は葛城に進言し、葛城はその計略を持って病床の軽の元に参上しました。
そして、冷たく言い放ったのです。「大王を辞せ」、と。
軽は勿論反対します。形ばかりの大王とは言え、大王の地位にあったからこそ、辛うじて今まで無事だったのです。
自分と家族を守るためには、大王の座だけは渡すわけにはいきませんでした。
しかし、それこそ葛城と鎌足の思う壺でした。
「そうですか。では私達が去りましょう」と葛城は難波を出て行きます。当然、敗走したわけではありません。
葛城は前大王であり次の大王となる母の宝女王、皇后である妹の間人皇女も伴い、
かつての都である飛鳥に帰ってしまったのです。
かつての都、と書きましたが、たかだが8年前の話です。人が沢山住んでいますし、豪族だって拠点を置いたままです。
葛城の帰京は、"真の王者の帰還"となったわけです。
葛城や鎌足がいなくなった難波京では、大慌てでお引越しが始まります。
難波の宮は火が消えたように誰もいなくなりました。その主、大王・軽王とわずか一部を除いては。
誰が真の権力者であったのか、誰もが思い知ったことでしょう。鎌足さん、タダじゃ撤退しません。一石二鳥を狙いました。


さてさて、ここからまだまだ鎌足さんは宝&葛城にお付き合いしていくことになるのですが、
最後まで追っていくと鎌足さんが死んでしまいますので、この辺でいったん終了。ああ、長かった。

(中臣鎌足考察B「喰えない母子 宝女王&葛城皇子」 終わり)

(C 古人皇子)

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