中臣鎌足【なかとみのかまたり】(614 〜 669年) / Copyright (c) 2007-2008 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.


(B 宝女王&葛城皇子)

C すべてを奪われて 古人皇子

第三回からぐっと過去に戻りまして、第二回あたりまで時期は遡ります。
しつこくて鬱陶しいですが、再び系図に登場してもらいましょう。
灰色字は644年までに鬼籍に入っている人です。

【家系図】
(蘇我氏)
稲目
 |______________________
 |                                | 
 |                  【欽明】======堅塩媛
 |                    |       |
馬子                  【敏達】      |
 |        ________|       |_________________
 |        |           |       |          |              |
 |     糠手姫皇女==押坂彦人皇子 桜井皇子  額田部皇女【推古】(敏達皇后)  【用明】
蝦夷             |      |     |                          |
 |___         |    茅淳王==吉備女王       刀自古郎女====厩戸皇子
 |    |        |         |______   (蘇我馬子の娘)  |
 |    |        |         |        |              山背王
入鹿  法提郎女===田村王====宝女王     軽王
            |    【舒明】 |  【皇極・斉明】  【孝徳】
            |         |_______________
            |          |          |          |
          古人皇子    葛城皇子     間人皇女      大海人皇子
            |      【後の天智】    (後の孝徳皇后)  【後の天武】
          倭女王
         (後の天智皇后)

古人皇子。通称は古人大兄皇子で、古人大市皇子(ふるひとのおおちのみこ)とも呼ばれます。
血筋は「蘇我氏の血を引かない田村王×蘇我蝦夷の妹・法提郎女」という組み合わせです。
ここで、"大兄"という言葉について補足。
「日嗣皇子(皇太子)」という意味と同義語と考えて良いと思います。
良く知られた"大兄"といえば、中大兄皇子=葛城皇子ですね。彼は軽王〜宝女王二回目時代の"大兄"でした。
というわけで、古人"大兄"という名からして、田村王の時代に彼が皇太子であったことは間違いありません。

ところが、同時代にもう一人"大兄"がいるんです。
こちらもご存知、厩戸皇子(聖徳太子)の息子である山背"大兄"王です。
彼がいつ皇太子だったのかは正確にはわかりませんが、おそらく額田部皇女(推古天皇)時代です。
随分と前に自分の息子に先立たれていた推古女帝は、
自分の娘婿でもあった亡き厩戸皇子の嫡男である山背王を暫定的に"大兄"にしたのです。
山背王の母は蘇我馬子の娘である刀自古郎女(とじこのいらつめ)ですので、
当時の最有力者であった大臣の馬子とも利害が一致しました。
しかし女帝と馬子が亡くなると、山背王を即位させるメリットは誰にもなくなりました
確かに山背王は馬子の血を引いてはいましたが、どうやら蝦夷と刀自古郎女は異母姉弟だったらしく、
蝦夷は自分と同じ血を引く"大兄"を欲しがりました。(参照:砂の城砦 蘇我蝦夷
そこで、蝦夷は次期大王と目星を付けた田村王に自分の同母妹の法提郎女を娶わせて、
そのまた次の大王の実家として勢力を振るおうとしました。
そうして生まれたのが、田村王の第一皇子である古人大兄皇子です。蝦夷待望の"同族の皇子"でした。
またまたしつこくて鬱陶しいですが、今度は年表の登場です。
(私の考察のネタは基本的に家系図&年表なので、あしからず)

は書物に載っている年齢。は夕陽作成の年齢です。
古人大兄皇子
(621年誕生)
蘇我入鹿
(616年)
宝女王
(594年誕生)
葛城皇子
(626年)
蘇我蝦夷
(586年)
その他
621年 誕生 1歳
6歳 28歳   37歳
626 6歳 11歳 第二子・葛城出産 33歳 誕生 1歳 42歳 蘇我馬子死去
628 8歳 13歳 35歳 3歳 44歳 推古女帝崩御
630 皇太子候補 10歳 15歳 皇后に 37歳 5歳 46歳 田村王即位
 →舒明天皇
641 21歳 26歳 48歳 16歳 57歳 田村王崩御
642 22歳 27歳 大王に 49歳 17歳 58歳 皇極天皇即位
643 23歳 父から大臣位を譲渡 28歳 50歳 18歳 病気で引退 59歳 山背大兄王一家が滅びる
645 殺される 25歳 殺される 30歳 同母弟・軽王に譲位 52歳 入鹿を殺す 20歳 自害 61歳 乙巳の変

621年頃に誕生した古人皇子は母の実家、つまり母の同母兄である蝦夷の手元で育てられます。
おそらく、この屋敷には蝦夷の嫡男である入鹿も共に暮らしていたと考えられます。
普通、子供は父方ではなく母方で育てられることが多いのですが、
古人皇子が生まれたことによって、入鹿は父親の屋敷に連れて来られたと私は考えています。
根拠は無いのですが、奈良時代の初期に似たような例があるのです。
藤原不比等は娘が生んだ首皇子(珂瑠皇子=文武天皇の息子)を自分の屋敷で育てるのですが、
その養育係として嫡男である武智麻呂(正妻・蘇我娼子との間の長男)を屋敷に呼び寄せています。
それまでは武智麻呂は母方(蘇我石川氏)で育っていると考えられます。

馬子の死後、絶大な権力を手にした蝦夷の手元で、古人は「将来の日嗣皇子」として育てられます
古人は数歳年上の入鹿を兄と慕い、彼と共に国を統べるという未来を夢見ました。
入鹿もまた古人を弟のように慈しみ、古人が大王になった時には彼を全力で支えるつもりだったことでしょう。
歴史関係の書物には、大化の改新(乙巳の変)について次のように記述している物が多く見られます。

  入鹿が自分の意のままに動かせる古人大兄皇子を皇位に就けようと画策した。
  それどころか、自分が大王になろうとすら考えた。
  中大兄皇子(葛城皇子)はそれを阻止せんと、忠臣・中臣鎌足と共に入鹿を討った。


うわ〜、誰が忠臣だよ。嘘言っちゃいかんよ、鎌足さん!
いえいえ、突っ込むところはそこじゃないですね、ハイ。
間違っているのは入鹿が「大王になろうとすら考えた」という部分。
これはないですね。大王になったって、何もいいコトないんだもの。
お飾りに祀り上げられて、政治権力は重臣に奪われているというのが当時の大王です。
だからこそ後に葛城や鎌足が「大王中心の政治」を目指し、時間をかけて暗躍したのです。
よって入鹿は大王になって絶対的権力を握ろうとしたわけではなく、
弟のように可愛がっていた古人を即位させ、その傍を離れない忠臣になろうとしたのではないでしょうか。
そうすることが、彼にとって最大の利益になるからです。

こんな感じで育てられていた古人皇子は、田村王の存命中は"大兄"として扱われていました。
ところが、誤算が起こります。642年に父の田村王が崩御してしまうのです。
当時の古人は22歳頃と考えられます。当時の大王としては少し若すぎました。
しかも、一つ問題がありました。
元"大兄"とも言うべき、山背王が自分の皇位継承を主張したのです。
山背王は田村王の即位時にも、自分の即位を求めていましたので、今度こそはという感じです。
彼の勢力は決して小さくなかったため、古人が即位した場合には内乱が起こる可能性がありました。
蝦夷は頭を悩ませますが、山背に皇位を渡すことだけは断じてできません。
折衷策として、自分のテコ入れで田村王と結婚させ、皇后となっている宝女王を即位させます。
かつて敏達天皇崩御の後、皇后・額田部皇女が即位したのと同じ形式です。


古人自身は皇位継承について、どのように考えていたのでしょうか。
おそらくは確定的な運命として受け入れていたのだと思います。
彼の生きた頃から40年後にも、別の日嗣皇子が同じような運命を静かに受け入れています。
時は大海人皇子の時代、681年に立太子した草壁皇子です。(参照:草壁皇子 死の真相
草壁には優秀で実績のある異母兄の高市皇子がいました。
そして、草壁と同じ血筋でありながらも様々な理由で皇位に就けない異母弟がいました。
ご存知、草壁より一つだけ年下の大津皇子です。(参照:大津皇子 許されざる皇位
また、強い権力と信念を持った母、鵜野讃良皇女の絶対的存在もありました。
草壁皇子が運命を受け入れる時には支えてくれる家族の存在があったように、古人皇子の傍には兄と慕う入鹿がいました。
過去も今もそして未来も入鹿が守ってくれる、絶対的な安心感
何一つ恐れることなく、皇位継承を受け入れることができたことでしょう。

結婚についても、早くから決められていました。
古人が即位する時、彼に相応しい皇后がいればもっと華々しいです。
そこで蘇我蝦夷は田村王×宝女王の娘である間人皇女を古人の皇后と決めました
皇后となるためには皇族か王族である必要がありましたので、相手が皇女ならばうってつけです。
母親である宝女王が蘇我氏の血を引く皇后なので、身分には申し分なし。
古人は未来の妻である異母妹を、彼なりに大切にしていたのではないでしょうか。
時々歌を贈っていたりしたのかな。綺麗な季節の花とかを添えて。
それが多少シスコンの気がある葛城には気に喰わなかったと(笑)

しかし、古人が教えられてきた未来は幻でした。
中臣鎌足がぶち壊したのです。(注 コレは鎌足考察です)
葛城皇子の即位を望む鎌足にとって、古人の存在は必ず消さなければならない存在でした。
ですが、古人の傍には鎌足の宿敵(と書いて"ライバル"と読む)である入鹿がいます。
鎌足が葛城を大王にしたいように、入鹿は古人を大王にしたかったのです。
皇位への執着は古人より葛城の方が強いものの、状況は古人&入鹿サイドが有利!
双方とも一歩も譲らず、睨み合いの日々です。バチバチバチッとな。

しかし、入鹿サイドを不利に陥れる事態が起きました。
山背大兄王一家を滅ぼした入鹿は宝女王と蜜月関係にありましたが、その仲は次第に悪くなっていきます。
その原因は図らずも、古人皇子の存在でした。(参照:宝女王 この世はわらわのためにある
入鹿が宝女王の後ろ盾を失ったと悟るや否や、鎌足は行動を起こします。
まず倒すべきは因縁の、いやむしろ運命の宿敵である蘇我入鹿。
普通ゲームのラスボスは最後に倒しますが、鎌足はそうはしなかった。
入鹿さえ倒せば、古人皇子や蝦夷など後でどうとでもなると判断したのです。
その目論見は当たりました。
入鹿を失った蝦夷は戦うことすらできずに自害。蘇我氏総本家は滅びます。
おそらくこの時、古人の母であり蝦夷の実妹である法提郎女も亡くなったのでしょう。
あるいは、それ以前に亡くなっていたか。
古人は頼りにする入鹿をはじめ、実家勢力をすべて失ってしまいました。

そして、彼自身に対する罠もすぐに仕掛けられました。
蘇我氏総本家が滅びた後、宝女王は皇位を譲渡(放棄?)することを決めます。
そこで現"大兄"である古人に皇位継承の話が持ち込まれます。
それは罠であり、引き受ければ殺されることは明白でした。
当然、古人は断ります。それに、入鹿が亡き今、即位などしたくなかったのです。

それで一安心、とは残念ながらいきませんでした。
鎌足さんは古人皇子が生きることすら黙認できなかったのです。
いえ、むしろ黙認できなかったのは異母弟である葛城の方でしょうか。
執念深く政権転覆を図り、どんなことでもやれる覚悟ができていた鎌足とは違い、
葛城は若さの勢いで行動してしまった部分が少なからずあります。
殺戮の後に興奮が冷めて、やって来たのは深い疑心暗鬼。
どんなに異母兄が即位を固辞しても、いつ権力を手にして復讐に乗り出すやもしれない。
その可能性は古人の性格を考えれば皆無に近いのに、疑いを拭えませんでした。
そんな葛城の性質を良く知っていたからなのか、古人の行動はすばやいものでした。
彼は我が身を守るために僧形となり、飛鳥の南にある吉野山に去ります。
僧となればさすがに葛城も疑いを解くかもしれないと、淡い期待を抱いたのでしょうか。
ですが、葛城は疑いを深めるばかり。古人は謀反を企てたとして、吉野で殺されます。

兵に囲まれた時、古人は何を思ったのでしょうか。
「何とか生きる術はないか」と必死に模索していたか、
それとも「やはり葛城は私の存在を無視できなかったか」という諦観の境地だったか。
私は後者だと思います。
乙巳の変で頼れるすべてを失った古人は、ある程度自分の死を覚悟していたことでしょう。
よりによって、葛城の傍にいるのは入鹿の宿敵だった鎌足。観念するしかありません。
「兄(入鹿)が死んだ時、私の人生もまた死んだのだ」と思っていたのかもしれません。

(中臣鎌足考察C「すべてを奪われて 古人皇子」 終わり)

参考:魔女ノ安息地>創作部屋>小説>歴史もの>翡翠

(D 間人皇女)

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