中臣鎌足【なかとみのかまたり】(614 〜 669年) / Copyright (c) 2009 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.

(D 間人皇女)
E 生きるための法則 有間皇子
【家系図】 658年までに亡くなった人を、この色で書いています。
蘇我馬子
__|_____ _________
| | | 【舒明】 | |
倉麻呂 蝦夷 法提=田村王=宝女王【皇極・斉明】 |
|____ | | |______ | 阿倍内麻呂(倉梯麻呂)
| | 入鹿 古人皇子 | | | | |
倉山田 赤兄 | | | 間人皇女=軽王(孝徳)=小足媛
石川麻呂 | 倭女王==葛 | |
| 常陸郎女=======城 | 有間皇子
遠智郎女========== 皇 |
| 子 |
大田皇女=========大海人
鵜野讃良皇女=======皇子
【年表】
640年 誕生(軽王×阿倍小足媛) 1歳
645年 乙巳の変→父・軽王が即位→孝徳天皇 6歳
649年 外祖父・阿倍内麻呂病死 謀反の罪で蘇我倉山田石川麻呂が自害 10歳
653年 皇太子・葛城皇子が飛鳥への帰京を提案、実行 14歳
654年 父・軽王、病にて崩御 15歳
655年 前大王・宝女王重祚→斉明天皇 16歳
657年 精神療養のためとして、紀伊の温泉を訪れる 18歳
658年 謀反の罪により、紀伊の地で殺害される 19歳
まず言いたいこと。たった19歳ですよ! 謀反の罪に問われる年齢ですか、これが!?
今まで散々、葛城皇子と中臣鎌足の陰湿さと執念深さを説いてきたような気がしますが、
だからって、たった19歳の青年を手にかける必要がありますかね?
このコンビが無実の罪で殺した人々の年齢を考えると、有間だけが異常に若いのですよ。
わかっている人だけでも、ピックアップしてみましょう。(正史に載っていないだけで、本当はもっといると思われます)
・ 蘇我入鹿 : 30歳代前半
・ 古人大兄皇子 : 25歳前後
・ 蘇我倉山田石川麻呂 : 次女・遠智郎女が643年までに葛城と結婚しているので、40歳代半ばか?
他の誰が10歳代で殺されていますか!?
もっと前の例を見ると、山背大兄王がやはり謀反の罪を問われていますが、おそらく50歳代。
後世の例を見ても、大津皇子(686年 24歳)、長屋王(729年 54歳)、吉備皇女(40歳代前半)です。
やっぱりどう考えても、謀反の罪にかけられるには有間は若過ぎるのです。
「本当は無実なんだから、年齢なんて関係ないじゃん!」と思われるかもしれませんが、
あまりに若過ぎると謀反の嫌疑をかけるのは、難しいのではないでしょうか。
嘘だらけの日本書紀にすら、こんな記述が有ります。
"有間皇子が謀反の意を打ち明けた際、「皇子はまだ19歳で、(挙兵は)早すぎる」と諫めた者がいた。"
当時の皇族の成人年齢は、男性については今と同じで20歳ぐらいと考えられていたようです。
645年乙巳の変後の例をあげましょう。(参照 中臣鎌足考察C古人大兄皇子)
大王・宝女王が譲位を決めた時、有力な大王候補は三人いました。
宝女王の実弟・軽王、亡き田村王の長男・古人大兄皇子、そして宝女王の嫡男・葛城皇子です。
宝女王の実子である葛城がすぐに継がなかった理由として、拙サイトでも色々と書き綴っていますが、
表向きは鎌足に「あなたはまだ若過ぎる」と言われたことが要因とされています。
当時の葛城は20歳。ようやく政治に関わり始めたばかりで、実績はゼロでした。
やはり20歳以下というのは、当時の感覚でも若過ぎるわけです。
それにも関わらず、有間に謀反の疑いがかけられて、処刑に至ったのは何故だったのか。
その経緯は二つ考えられます。
@ 有間皇子は無実だった。
しかし自分が早熟だった葛城は、「19歳なら謀反をでっち上げるのも可能だ!」と思い込んでいた。
そして、鎌足は葛城の勘違いを止めなかった(悪い奴だねぇ……)
A 有間皇子は本当に謀反を考えていた。
@の説は葛城ならやりかねない、という偏見に基づいた説です(笑)
いくら鎌足の口車に乗ったとは言え、彼は20歳で大臣・入鹿を殺した度胸と根性の持ち主です。
「自分は特別勇敢だけど、他のヤツにもできないわけじゃない」という風に思っていたに違いない。
だからこそ人を信じることができなくなってしまい、殺さないと気が済まなかったのですから。
ここまで行くと、かなりノイローゼ気味です。ある意味、すごく可哀想な人ですね、彼は。
(鎌足よ、葛城をそういう道に引きずり込んだお主の罪は重いぞよ!!)
では、Aの方はどうでしょうか? 私は、可能性はゼロじゃないと思います。
でも、皇位が欲しかったわけではありません。有間は「自分の身を守るために叛旗を翻さざるを得なかった」のです。
その直接の原因は、疑い深い性格が日に日に強くなっている皇太子・葛城でした。
葛城は前大王の軽王の嫡男である有間の存在を、どうしても無視できなかったのです。
前回考察でも述べましたが、有間の父・軽王と葛城の仲は上手くいっていませんでした。
葛城、と言うか鎌足が悪いんですけれどね。
だから、軽王は自分の大事な家族である小足媛や有間に危害が及ぶ可能性も考えていました。
その発端は、649年の蘇我倉山田石川麻呂の事件です。これも鎌足の策略でした。
石川麻呂は葛城との忠誠の証に、次女・遠智との婚姻を推し進め、二人の間には娘もいたのです。
それなのにあっさりと裏切った冷酷さに、軽王は戦慄を覚えます。
また、葛城は異母兄・古人大兄皇子にも謀反の罪を着せて暗殺しています。
このままではいつ軽王とその家族に危害が及ぶか、わかったものではありません。
しかし、危惧はしていても、軽王に葛城を倒す手立てなどありませんでした。
いくら葛城が若造とは言え、その背後には鎌足が常に潜んでいるのです。
自分中心に世界が回っていると思っている実姉・宝女王とは違って、
軽王はごく一般の常識的な神経と見解とを持った、実に常識的な人物だったことでしょう。
(とんでもなく非常識な姉がいたからこそ、軽王は常識的な弟に育ったんですよ!)
だから、自分が鎌足の策略に勝てるなんて、そんな非常識なことは考えませんでした。
だからと言って防御策を講じなければ、妻と息子は殺されてしまいます。
臨終の間際、軽王は遺す息子にこう言い残したのではないでしょうか? 「狂人を装え」、と。
かつて古人大兄皇子は出家したのにも関わらず、死から逃れることはできませんでした。
出家しようが何しようが、大王になる可能性がある限り、葛城&鎌足は見逃すつもりはないのです。
それなら、"誰もが大王になることを認めない"人物になるしかありません。
それが有間が"狂人"を装わなければならない理由でした。
別に葛城や鎌足に嘘だと見抜かれたって、全然構わないのです。
目的は、豪族達に「あの皇子はアホだから、皇位継承を支持したって仕方ない」と思わせて、放っておいてもらうこと。
支持基盤がなければ、いくら皇子でも大王になることはできませんからね。
(古人大兄皇子は蘇我氏以外にも支持基盤がありました。だからこそ、早い段階で暗殺されています。)
654年に軽い父が崩御した後、ひたすら狂人のフリをし続けた有間皇子。
彼が唯一寛げる場所は母の小足媛の傍以外になかったのでしょう。
ですが、そこはノイローゼ気味の葛城のこと。放っておいてはくれませんでした。
そしてもう一人、どうしても有間を放っておきたくない男がいました。
その男は蘇我赤兄。葛城と鎌足に自害させられた倉山田石川麻呂の弟に当たる人物でした。
蘇我赤兄自身の生い立ちについてはここでは割愛します。(執筆予定の山辺皇女考察で出て来るので、ご確認下さい。)
簡単に説明すると、赤兄は有力豪族・蘇我氏の一員ではありますが、蘇我家の頭領ではありませんでした。
また蘇我氏頭領は当時不在の状況で、立場的に一番相応しいのは赤兄でした。
ですが、下手に蘇我氏のリーダーになると、葛城&鎌足に危険視されてしまい、
従兄の入鹿や異母兄の石川麻呂のように抹殺されてしまうかもしれません。
(一応、連子という異母兄が蘇我氏で最高の役職にありましたが、やる気がある人じゃなかったようです)
赤兄は入鹿や石川麻呂の敗因を考えます。
彼らは葛城には有力豪族の一員として付き合いました。臣下として絶対的に敬うという態度ではありません。
また、出自が大したことのない鎌足に対しては、対等かそれ以下の存在として扱いました。
赤兄が同じ態度を取れば、入鹿や石川麻呂の二の舞です。
だから、赤兄は葛城と鎌足に絶対服従することによって、自分の身の安全が保障されることを選んだのです。
という風に赤兄が一方的に思ったところで、葛城や鎌足が信用するはずがありません。
葛城にとって絶対的な信頼を置いているのは、鎌足に対してだけ。
鎌足は葛城に完全服従ではなく共謀者的立場ではありましたが、葛城の唯一の忠臣と言っても過言ではありません。
そんなツーカーな関係に割り込むのは無理としても、
臣下としてある程度の信頼を置かれるためには、赤兄もまた何らかの"共謀者"となる必要がありました。
かつて、軽王や石川麻呂が乙巳の変で協力させられたように。
しかし、赤兄が待てど暮らせど、葛城も鎌足も何一つ指示は出して来ません。赤兄は焦ります。
うかうかしていたら、自分の居場所はなくなってしまう。それどころか、異母兄のように殺されるかもしれない。
もしかしたら、もう既に不要の存在として"消す"算段を立てられているのではないだろうか。
疑心暗鬼の赤兄は、それでも冷静に考えます。
葛城や鎌足が既に、「赤兄は信用するに値しない」と考えているのならば、このまま葛城に仕えるのは無意味だ。
それよりも新たな主を見つけて、"対等な臣下"として扱われて、自分の権力を掴んだ方がいい。
いや、もし葛城に有益と見なされたとしても、それは僕(しもべ)としての価値しかない。
鎌足がいる以上、信用も権力もおこぼれ程度だ。それならば、いっそのこと……
そんな赤兄が、亡き大王の一人息子・有間皇子に目を付けたのは当然の成り行きでした。
汚い手を用いてでも大王中心政権を作ろうとするがゆえに、豪族からの怨みも大きい葛城皇子と鎌足。
まったく政治に携わっていないにも関わらず孤立無援で、同情だけは集まる有間皇子。
どちらの傘下に入るか、赤兄でなくてもこれは迷うところです。
あまり近付きすぎると謀反の疑いをかけられるので、赤兄はこっそりとそれとなく有間に近付きます。。
放っておいて欲しい有間は、「また訳のわからない権力好きがやって来たな」とため息をついたことでしょう。
既に、有間のもとには権力獲得にわずかな望みを繋ごうとする連中が、
あるいは葛城の気を引くために有間の本心を見破ろうとする連中が、わんさかやって来ていたはずです。
そういう輩はまず「先帝の皇子様がこんなにも落ちぶれて、何とおいたわしい」と涙ながらに同情を述べ、
あるいは「あなたの今の姿を亡きお父上が御覧になったら、どんなに悲しまれるか」と諭すように述べ、
そして最終的には「あなたは先帝の皇子です。どうか皇位にお就き下さい」と懇願するのです。
「皇子様をお慕いしております」「私はあなたの味方です。真に皇子様のことを案ずる者です」
「だから、皇位に就いて私を出世させて下さい」 or 「謀反の尻尾を出して、私の手柄になって下さい」ってわけです。
まったくもって、鬱陶しい。何とか狂人のフリを貫き通して、やって来る豪族共を追っ払います。
他の豪族達が騙されたところを見ると、有間の演技力は相当なものだったのでしょう。
しかし、赤兄は有間を正常だと判断します。それだけでなく、有間の心の内をもじっくりと読み取ったのです。
「有間皇子は古人皇子とは違う。葛城皇子のために大人しく死ぬ気などさらさらないのだ」、と。
殺されても仕方が無いと少しでも思っているのなら、狂人のフリなんかする必要はありませんからね。
最初は亡き父に言われたことを守っていて狂人を演じていた有間でしたが、
次第に自分が生きている意味について考えているようになっていったようです。
「私は皇子を辞めることはできない。生きるためには、皇位を狙わざるを得ない」
それが有間の心に芽生えた決意でした。
その思いを赤兄は読み取ります。彼がこれを利用しないわけがありません。
一方で、赤兄は葛城に拝礼し、こう言いました。
「有間皇子様は狂人でいらっしゃる。大兄皇子様もさぞかしご心配でしょう。
僭越ながらこの私めが何も悪いことのないように見守り、また大兄皇子様にご報告差し上げます」
葛城は「何を見え透いたことを」と思ったことでしょう。他の豪族達から見ても、下手なご機嫌取りにしか見えません。
「命惜しさにあからさまに有間皇子を見張ろうとするなんて、良い度胸をしてるじゃないか」と嘲笑したことでしょう。
それでも、赤兄は粛々と道化のフリを続けます。
彼は気付いていたのです。葛城が即位する為には、有間皇子が必ず障害になることを。
そのことを葛城が実は酷く気にしていて、しかし先帝の皇子である以上はなかなか手が出せずにいることを。
そして、内心では「上手いこと有間を葬ってくれる輩がいないものか」と思っていることを。
古人大兄皇子の時は入鹿&蝦夷の謀反疑惑にこじつけて、あっと言う間に葬り去ることができましたが、
有間は強力な後ろ盾も存在せず、また若いが故に政治的なことは何一つ関わっていない身。
彼に謀反の疑いがあるという筋書きは、さすがの鎌足さんも画策できかねる状況だったわけです。
何せ鎌足さん、内臣(うちつおみ)という国家の重役に就いて、既に数年が経っているのです。
葛城皇子の影の参謀として暗躍していた乙巳の変やその後の二、三年の状態とは訳が違います。
その状況を赤兄は的確に把握していました。だからこそ、葛城と鎌足に近付いたのです。
葛城に話しかける赤兄でしたが、その言葉の裏には鎌足に対するメッセージが籠められていました。
「かつてあなたが行っていた穢い役を、この私が引き受けましょう」、と。
勿論、鎌足はそれに気がつきますが、赤兄にどの程度の器量があるのかは疑問視するところ。
しかし、利用したい存在ではあります。とりあえず、鎌足さんとしてはそ知らぬふりを続けることにします。
何も持たない孤独な有間、権力のためなら手段を選ばない葛城と鎌足、そして赤兄を始めとした豪族達。
1対2対多数での拮抗状態が続く中、有間は自分が生き延びる方法を一つだけ見つけていました。
それは"葛城皇子の自滅を待つこと"でした。
鎌足がそそのかし、葛城が着手した権力奪取は既存の政治構造を叩き壊し、恐怖政治に陥れていました。
だからこそ、豪族は有間への期待を膨らましていた、という側面もあります。
実は打つ手がないのは葛城も同じ。下手に有間を陥れれば、ますます豪族達の心は離れて行きます。
しかし、何もせずに手をこまねいている内に、いつ有間に寝首を掻かれるかわかったものではありません。
また、大きなことを言った割には、赤兄は何の働きも見せません。苛々は募るばかりです。
「実は、赤兄は腹の底では既に有間に仕えることを決めているのではないか。いや、奴だけでなく他の豪族も……」
葛城の中で膨れ上がる疑心暗鬼。「某氏は謀反を企んでいるかもしれない」と言い出しては、
鎌足さんがなだめすかして、話題を変えさせていたことでしょう。ご苦労様です。
そもそも葛城がこういう疑い深い性格になったのは鎌足のせいですから、自業自得ですね。
しかし、鎌足さんの忍耐力を以ってしても、こればかりはどうしようもありません。
葛城の酷い疑心暗鬼は豪族達に伝わり、ますます動揺が広がります。
このまま葛城皇子に従っていては、何もしていなくても疑いをかけられるかもしれない。
まして、有間皇子の元を一度でも訪れたことがある者には、その意図がなくても謀反を疑われるかもしれない。
それならばいっそのこと、一致団結して葛城&鎌足に立ち向かった方がいいのではないか。
その先頭に立ってもらうのは、正統な皇位継承者でなければ道理がない。
自然と、今までとは違った意味で豪族達の注目は有間に集まり始めます。
それこそが有間が待っていた時です。
時を稼げば稼ぐほど、従う者の数が葛城を越え、それはそのまま権力奪取の勢力図に置き換わります。
その気配を葛城が察して焦れば焦るほど、有間は何もしていないのに有利になっていくのです。
その気配を察して、他の豪族達とは真逆の動きを見せたのが赤兄でした。
他大勢が有間へと心を傾けた途端、奴は堂々とかけていた二股を葛城&鎌足の方面へと切り替えたのです。
上手く目立って、尚且つその時点で力がある方にすかさずアピールする。
それが赤兄が選んだ道でした。他の豪族から見れば意地汚い手ですが、これが最も有効だったのです。
案の定、あの冷静で疑り深い鎌足さんがこの時点で赤兄の接近に飛びつきました。
……あれれ、鎌足さんに一体何があったのでしょうか? こういう陰謀の対処は鎌足さんのお得意のはずなのに。
有間の策ぐらい鎌足さんならすぐに見破れたはずなのだから、早期に自分で手を打てば良かったのに、
結果的に赤兄に任せっきりだったのは、どうしてなのでしょうか。
いえいえ、鎌足さんはこの件に参加したくても参加できない事情があったのです。
それは前回考察でもお話した対外政策の問題でした。
この時期、朝鮮半島との交易が盛んに行われていました。また東北地方の蝦夷との戦いもありました。
派手好きの大王・宝女王は海外の客人をもてなすことに財力を注ぎ込み、浪費を繰り返します。
民の心は大王から離れ、当然こういう時には反体制勢力の動きも活発になります。
こちらにも目を光らせなければならないし、内外の相手とも渡り合わなければならない。
もうオーバーワークです。これに有間の件を加えたら、いくら鎌足さんでも過労死します。
というわけで、「以前申し上げたでしょう? 有間皇子の件をすべて私にお任せ下さい。代わりにその後は……」と
タイミングよく擦り寄ってきた赤兄に、一任せざるを得なかったのです。
もし鎌足さんに余裕があって、他の抹殺事件と同様に彼が裏で動いていたのならば、
決して葛城皇子に非難の声が上がるような余地を残すことなく、上手く策を弄したことでしょう。
ですが、結果はご存知のとおり。赤兄は時期的に謀反など起こすはずがなかった有間に
無理やり謀反の罪を着せて、強引過ぎる手で死に追い込みました。
鎌足とはまったく違い、赤兄の行動は「卑怯者」の名に相応しい働きです。
鎌足が赤兄に直接指示をしていたのではないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、
もうそうであれば、聡い有間のことです。「天と赤兄のみぞ知る」ではなく、「天と鎌足のみぞ知る」と
はっきりと首謀者を見抜いた発言をしたことと思います。
有間の処刑によって、予測どおりに豪族達は葛城と鎌足から距離を置き出します。
鎌足は約束どおりに、だけでなく、人員不足解消のためにも赤兄を重用せざるを得なくなります。
いまだに有力豪族ではあり続ける蘇我氏の力を弱めたいのに、はい、これで本末転倒。
結局、赤兄をリーダーとする蘇我氏の一派は近江朝でも権力を握ることになります。
さて、有間の死を招いた要因は、有間自身にもありました。
長期に渡って狂人のふりをし続けた有間は、誰が何を言おうとも決して信じることができませんでした。
元々は感性豊かな歌詠みだったそうですから、その反動は凄まじく、鉄壁の人間不信に陥っていたことでしょう。
もし有間が赤兄に信頼を寄せ、他の豪族達と十把一絡げで"利用"するのではなく、"共謀"を望んでいれば、
赤兄は葛城より達よりも評価してくれる有間のために働き、絶対的な信頼を得ることを選んだでしょう。
そう、赤兄は異母兄の日向とは違い、決して根っからの卑怯者ではありませんでした。
ただ自分や家族の命が惜しいばかりに、誰にでも尻尾を振る奴ではないのです。
その証拠に、彼は壬申の乱の際には、最後の最後まで近江朝の大友皇子を裏切らず、
重臣として配流の身になることを甘んじて受け入れました。
そう、赤兄は自分を信じてくれた者に対しては、実力はどうであれ忠臣であろうとしているのです。
赤兄の姿勢を読み切れず、利用し利用されることしか考えられなかったことが、
結果として有間自身の死を招いてしまいました。
歴史にifはありませんが、これこそ「もし、有間皇子が……」と願わずにはいられません。
宿命というにはあまりにも悲しい事実の積み重ねです。
この有間の死を最後に、葛城と鎌足による皇族・王族・豪族殺しは終わります。
ですが、この間に葛城が負った心の傷はあまりに大きすぎました。疑心暗鬼の嵐です。
この結果、その矛先は自分以外の唯一正統な皇位継承者である実弟・大海人皇子に向けられることになり、
皮肉なことに、壬申の乱の遠因となっていくのです。
(中臣鎌足E「生きるための法則 有間皇子」終わり 2009.5.5)
参考:魔女ノ安息地>創作部屋>詩>歴史もの>優しい嘘 -有間皇子を想う-
(F 倭女王)
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