吉備皇女【きびのひめみこ】(690年頃 〜 729年) / Copyright (c) 2010-2015 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.


吉備皇女あるいは吉備内親王。
父は早世した皇太子で、母と姉と兄は大王となりました。
それだけのロイヤルファミリーに生まれていながら、彼女自身は……
皇族の要であった従兄と結婚して息子三人と娘を得たものの、夫や息子達諸共、謀反の疑いで殺害されました。
いわゆる「長屋王の変」です。これが藤原不比等の息子達による濡れ衣であったことは間違いありません。
(ただし、兄弟四人全員の一致した意見であったか、という点については疑問の余地が有ります。)
これは臣下による皇族殺しで、しかもほぼ皇太子に匹敵するような立場の人間を殺したことになります。

皇族を臣下や他の皇族が殺した例が他にないわけではありません。
例えば、飛鳥時代の泊瀬部皇子(はつせべのみこ、崇俊天皇)暗殺を指示したのは蘇我馬子だと伝えられていますし、
その実兄である穴穂部皇子(あなほべのみこ)もまた蘇我馬子に滅ぼされたのだと言われています。(真偽は謎です)
また、厩戸皇子の嫡男と言われる山背王(やましろのおおきみ)一家を殲滅したのは蘇我入鹿です。
その黒幕は大兄皇子(次の大王候補のこと)の地位を狙っていた軽王(かるのおおきみ、後の孝徳天皇)だったとか、
実は大王の宝女王(たからのおおきみ、皇極天皇)だったとか、色んな説があるようですけれどね。
有間皇子(ありまのみこ)も権力闘争に巻き込まれて、蘇我赤兄(そがのあかえ)や中臣鎌足の陰謀で刑死。
大友皇子(即位していれば、弘文天皇)は壬申の乱で敗走して、追い詰められて自害しています。

等々、色々な皇族殺しがあるわけですが、その中でも吉備皇女は非常に特殊です。
だって、彼女は「皇女」なんですもの。
皇位継承争いで亡くなった女性皇族というと、他には山背王の異母妹で正妃の舂米女王(つきしねのおおきみ)がいます。
しかし彼女は厩戸皇子(うまやどのみこ)の娘とは言え、母親の身分があまり高くない三世女王ですので、
皇位継承権があった吉備皇女とはかなり状況が異なります。

そんな驚くべき最期を迎えた人でありながら、彼女自身のことはよくわかっていません。
まず、この時代にはよくあることですが、いつ生まれたのかが定かではありません。
次に、これだけのロイヤルファミリーに生まれていながら母親についての記述が存在しません。
そして、一見単なる政略結婚に見える従兄との婚姻の経緯についても大きな謎があります。
最期に死に至った経緯や方法、その後についても謎が残るところです。
そんな彼女の生い立ちを探っていきます。

傘を差すマリオネット 吉備皇女

【系図】
※「親王」「内親王」という称号は大宝律令制定(701年)後に使われるようになりました。
  701年以前の生まれの人は「皇女」、以降は「内親王」という形で誕生時に合わせた称号表記に統一しています。

  葛城皇子《天智》===蘇我姪郎女(鵜野讃良皇女の母とは姉妹)
     _____|_____________
    |       ______           |
    |      |        |          |
御名部皇女==高市皇子  草壁皇子==阿閇皇女《元明》  藤原不比等
        |           ___|_____        |____
        |          |    |       |       |     |
       長屋王===
吉備皇女  氷高皇女  珂瑠皇子==宮子     |
       ___|____     《元正》    《文武》  |        |
      |    |     |               首皇子《聖武》===安宿媛(光明子)
    膳夫王  葛木王  鉤取王              |         |___________
                                     |         |                |
                                  安積親王   阿倍内親王《孝謙・称徳》  某王(「基親王」説あり)

【年表】敬称(女王、皇女など)はその当時のものです。
680年 氷高女王誕生(草壁皇子×阿閇皇女 長女)
681年 草壁皇子立太子
683年 珂瑠王誕生(草壁皇子×阿閇皇女 長男)
684年頃 長屋王誕生(高市皇子×御名部皇女)
684年〜690年頃 吉備女王誕生(草壁皇子×阿閇皇女 次女)
686年 大海人皇子《天武》崩御、大津皇子(草壁皇子の異母弟)賜死
689年 草壁皇子薨去
690年 鵜野讃良皇女即位《持統》
694年 藤原京遷都
696年 高市皇子(太政大臣)薨去
697年 鵜野讃良皇女譲位《持統》→珂瑠王(皇子)即位《文武》
701年 首皇子誕生(珂瑠皇子×藤原宮子)、安宿媛誕生(藤原不比等×県犬養三千代)
     大宝律令制定・施行
702年 鵜野讃良皇女《持統》崩御
704年 長屋王が正四位上に初叙される
704年頃 膳夫王誕生(長屋王×吉備皇女 長男)
707年 珂瑠皇子崩御→阿閇皇女即位《元明》
710年 平城京遷都
714年 首皇子立太子、氷高皇女はこの年以前に二品に叙されている
715年 阿閇皇女譲位《元明》→氷高皇女は最高位の一品に叙されて即位《元正》
     膳夫王ら吉備皇女の息子が皇孫待遇になり、吉備皇女は三品に叙される
717年 井上内親王誕生(首皇子×県犬養広刀自 長女)
718年 阿倍内親王誕生(首皇子×藤原安宿媛 次女)
720年 藤原不比等死去
721年 阿閇皇女崩御《元明》、長屋王が左大臣に(臣下として当時の最高位)
724年 氷高皇女譲位《元正》→首皇子即位《聖武》
     膳夫王は従四位下に初叙、吉備皇女は二品に叙される
727年 某王誕生(首皇子×藤原安宿媛 長男)
728年 某王薨去、安積親王誕生(首皇子×県犬養広刀自 次男)
729年 長屋王の変(長屋王、吉備皇女薨去 自害?)

まず、ざっと吉備皇女の略歴をご説明しましょう。

吉備皇女は684年から690年の間(飛鳥時代末期)に飛鳥の地に生まれました。
父は当時、日嗣皇子(皇太子)であった草壁皇子(彼の父親の大海人皇子が当時の大王)、
母は未詳ですが、草壁皇子の正妃である阿閇皇女(あへのひめみこ、後の元明天皇)と考えられます。
同母姉兄に氷高皇女(ひだかのひめみこ、後の元正天皇)と珂瑠皇子(かるのみこ、後の文武天皇)がいます。
689年に草壁皇子が亡くなり、吉備皇女は皇位を継承した祖母・鵜野讃良皇女(持統天皇、阿閇皇女の異母姉)の庇護下で育ちます。
700年頃に吉備皇女は母方の従兄(母親同士が同母姉妹、父親同士は異母兄弟)である長屋王(ながやのおおきみ)と結婚し、
704年頃に長男の膳夫王(かしわでのおおきみ)を出産しています。他に息子が二人いるようです。

その数年後に兄の珂瑠皇子が若死にし、母の阿閇皇女が皇位を継承します。彼女が元明天皇です。
阿閇皇女は珂瑠皇子の遺児、首皇子(おびとのみこ)に皇位を伝えるための中継ぎと評価されがちですが、
そうとは言い切れない部分があります。彼女は首皇子への譲位を「まだ頼りない」という理由で留意し、
715年には皇位を独身の長女である氷高皇女に継がせました。彼女が元正天皇です。
阿閇皇女は 同時期に次女の吉備皇女に高い位(三品)を与え、その息子達を皇孫(自分の内孫)として扱うことを決めます。
吉備皇女の夫である長屋王は三世王ですが、その母は阿閇皇女の同母姉である御名部皇女(みなべのひめみこ)です。
また、彼の父親は壬申の乱から天武・持統朝を支え続けきた高市皇子(たけちのみこ 最高位は太政大臣)です。
長屋王は臣下でありながらも皇位継承にもっとも相応しい血筋と位置づけられ、
吉備皇女が産んだ子供達を含めて、長屋王と吉備皇女の一家は特別扱いされるようになりました。

しかし720年に藤原不比等が死に、721年に阿閇皇女が崩御すると、藤原氏との間に亀裂が入り始めます。
首皇子の貢献役である藤原武智麻呂(不比等の嫡男)ら藤原四子の要求を抑えきれず、724年に氷高皇女は首皇子に譲位します。
ただし、氷高皇女は妹夫婦への皇位継承の可能性は捨てていなかったようで、妹の吉備皇女を二品に昇格させ、
更に当時ちょうど成年(20歳頃)に達していた膳夫王には従四位下を与えます。
吉備皇女の嫡男を成人した皇族の一員として扱うことで、夫婦の息子達にも皇位継承権を与えようとしたのです。
これは異母妹の安宿媛(あすかべひめ、光明子)を首皇子に添わせていた武智麻呂達としては面白くない展開です。
安宿媛は718年に阿倍内親王を出産していましたが、首皇子には他の夫人との間にも男児がおらず、
このまま男児が生まれなければ、皇位は長屋王・吉備皇女夫妻のものになることは見えていました。

そんな中での727年、某王(基親王との説もありますが、ここでは「某」が「基」と誤転記されたという説を採用します)が誕生。
喜んだ首皇子や武智麻呂達はまだ赤子の某王の立太子を強行しますが、翌年に某王は夭折します。
追い討ちをかけるように、県犬養広刀自が首皇子の次男となる安積親王(あさかしんのう)を出産します。
十五年以上連れ添ってきた首皇子と安宿媛に今後健康な男児が生まれる可能性は多くなく、武智麻呂達は焦ります。
そうして皇位を長屋王・吉備皇女夫妻とその息子達に渡すことを阻止するために仕組まれたのが、所謂「長屋王の変」です。
奈良時代は唐から仕入れた仏教の影響なのか、呪術(左道)を用いて奇跡や悪事を起こせるという考えが流布していました。
武智麻呂達は長屋王が某王を呪い殺したとして、長屋王の館を宮廷の軍隊によって包囲します。
そして長屋王を詰問して一家を自害に追い込んだとされていますが、長屋王は無実潔白であったことが後に判明していますので、
長屋王と吉備皇女、その息子達など皇位継承権のある一家は全員襲われて殺害されたと考えられます。


以上の略歴は私の考察を混ぜたものです。(青字部分)
当時のロイヤルファミリーメンバーにしては記録が少なすぎる吉備皇女なのですが、
何故このような略歴を書くことができたのかを、これからご説明いたします。

時系列がバラバラになりますが、704年頃に膳夫王が生まれたと言える理由をまず述べます。
そう断定できる理由は、724年に膳夫王が「従四位下」という地位を初叙されているからです。
当時は「蔭位制」という「親の地位に応じて、初叙の地位を決める」という親の七光り的な制度があり、
この「従四位下」は皇族の男子が成人した時に初めて貰う地位として定められていました。
当時の成人年齢は数え年の21歳(今で言う20歳)なので、「724―20=704」年というわけです。

さて、膳夫王の父親である長屋王の生年ですが、彼は704年に「正四位上」を初叙されています。
ということは、長屋王はその二十年前に当たる684年生まれだと思われます。
あれ、初叙の地位は従四位下じゃないの?と思うところですが、これは皇室側の事情があったようです。
696年に高市皇子(太政大臣)、702年に鵜野讃良皇女(太政天皇)が亡くなって、
実際に政治を担っているロイヤルファミリーメンバーが少なくなってしまったため、
将来の皇族幹部候補として、当時の大王であった珂瑠皇子は妹婿にして従弟の長屋王を高い地位に就けたようです。
いや、太政天皇であった亡き鵜野讃良皇女の遺言であったと考えるべきですね。
鵜野讃良皇女にとって高市皇子は片腕でしたし、御名部皇女は血筋の非常に近い異母妹(母親同士が姉妹)です。
長屋王のことも身内同然と考えていて、吉備皇女との結婚によって更に近い存在にしようとしたのでしょう。

では肝心の吉備皇女ですが、女性の場合は成人に伴う初叙があるわけではないので、断定が難しいです。
彼女が683年生まれの珂瑠皇子の妹(年下)というのは間違いないようなので、684年以降の生まれということになります。
また、彼女の父親である草壁皇子は689年に亡くなっているので、その翌年までに吉備皇女は誕生していることになります。
以上より、684年〜690年の間の生まれであると言えます。
690年生まれだと、704年に数え年の15歳(今で言う14歳)で第一子を産んだことになるのですが、
当時の皇女は基本的に早婚なので有り得ない話ではありません。
彼女の祖母である鵜野讃良皇女は数え年13歳で大海人皇子に嫁ぎ、18歳で草壁皇子を産んでいます。

また、吉備皇女の母親はどこにも明記されていないのですが、阿閇皇女であると断言できます。
吉備皇女の子供達は715年に皇孫待遇になっています。
草壁皇子が即位していない以上、吉備皇女の子供達は阿閇皇女の実の孫でなければならないのです。
更にもう一点。吉備皇女は絶対に珂瑠皇子の異母妹であるはずがないのです。
もし珂瑠皇子と母親が違うのなら、吉備皇女は珂瑠皇子の妻に、いや皇后になるべき存在です。
そして、二人の間に生まれた子供が皇位を継承するという展開が望まれたはずです。

現実には、珂瑠皇子には皇族どころか王族の妃すらおらず、彼の三人の妻はいずれも臣下の娘です。
珂瑠皇子の母親が阿閇皇女であることは確実なので、吉備皇女は阿閇皇女の娘ということになります。


吉備皇女の生まれについての謎はこれで大方解決です。
次は彼女の結婚について考えます。実はこれが非常に大きな謎を孕んでいるのです。
先に述べた通り、吉備皇女は従兄の長屋王と結婚しています。
母親同士が同母姉妹、父親同士は異母兄弟という近親結婚の頂点のような婚姻ですが、血筋的も年齢的にもお似合いの相手です。
しかし長屋王にはもう一人、血筋の釣り合う女性がいました。吉備皇女の実の姉、氷高皇女です。
680年生まれの氷高皇女は吉備皇女よりも10歳〜4歳年上です。
皇女は身分の釣り合う相手がいなければ未婚を通すのが普通だったようで、平安時代を舞台にした『源氏物語』では
帝が自分の娘に相応しい結婚相手を見繕うのに苦心する姿が描かれています。
しかし長屋王が居る以上、氷高皇女の婿候補がゼロだったは言えないのです。
未婚の姉を差し置いて、どうして吉備皇女が長屋王と結婚したのでしょうか?

氷高皇女の方が長屋王よりも年上のようですが、草壁皇子と阿閇皇女のカップルも阿閇皇女の方が年上なので、
女性が年上になる婚姻がタブーだったとは考えにくいです。
氷高皇女が即位する可能性を見越して未婚を通させられた、という説もあるようですが、それもないでしょう。
弟の珂瑠皇子は確かに病弱でしたが、701年には藤原氏の宮子との間に男児が生まれいますし、
時期は未詳ですが石川氏の刀子娘(とねのいらつめ)との間にも広成、広世という男児が居ます。
また、それまでの女帝三人は天皇の皇后であり、皇太子(あるいは大王になる資格がある血筋の皇子)の母親でした。
吉備皇女の結婚の時点で、氷高皇女が未婚のまま即位する可能性はかなり低かったはずです。

この謎の重要なファクターとなるのが702年、鵜野讃良皇女《持統》の崩御ではないかと思います。
鵜野讃良皇女は大海人皇子《天武》の子供達が政権に関わるのをできるだけ避けていた節があります。
身内同士での争いや壬申の乱を経験した彼女らしい考えだとは思いますが、
重用したのは夫の息子の中でも母親の身分が低い高市皇子と忍壁皇子だけだったという露骨さ……
次男の忍壁皇子はしばらく政権から離れていた時期があり、子供も居なかったようです。
(参照:2008年お年玉企画C真実を胸に秘め 忍壁皇子
長男の高市皇子は正式な結婚までに色々あった可能性がありますが、
とりあえず鵜野讃良皇女には重用されて、御名部皇女との間に長屋王が生まれています。
(参照:サイト3周年企画 永遠に続く君への思い 高市皇子
しかし696年に高市皇子は薨去して、翌697年には鵜野讃良皇女は珂瑠皇子に譲位を行っています。
人望も実力もある高市皇子は珂瑠皇子の競争相手に成り得るので、鵜野讃良皇女は完全な身内としては扱っていなかったと思います。
しかし、父の後ろ盾を失った長屋王ならば格下の身内として取り込んでしまうことに不都合はありません。
「いずれは孫娘のどちらかと結婚させて、身内として珂瑠皇子を補佐させよう」と考えていたことでしょう。
自分の体力が衰えていくのを感じて、できるだけ早い内から珂瑠皇子に味方を作ってやりたいという祖母心です。
できれば自分の目の黒い内にひ孫の姿を確認できれば尚良いと思っていたかもしれませんね。
更に先の話ですが、珂瑠皇子の息子と長屋王の娘という組み合わせは、身内同士の大変望ましいものですし。

702年の時点で氷高皇女は22歳です。吉備皇女は18〜12歳。
吉備皇女が草壁皇子薨去後に生まれたとすると、やっと12歳の少女。初潮を迎えた頃だったかもしれません。
出産という観点から考えると、氷高皇女は初潮を迎えていなかったのではないでしょうか。
生理が無い=子供は産めない、という状況では長屋王と結婚させる意味がありません。
鵜野讃良皇女は自分が13歳で結婚していますので、早い内から「長屋と結婚させるのは吉備」と決めていたのかもしれません。
氷高皇女には他に相応しい相手も居ないという理由で未婚を通させようとした、というところだと思います。
もし氷高皇女が、例えば大海人皇子の息子の誰かと結婚するようなことがあれば、
その相手が氷高皇女を皇后にすることを前提に皇位継承権を主張するに決まっています。
それだけは鵜野讃良皇女には許せないことでした。
そして氷高皇女はおばあ様の言いつけに従ったのか、自らの意志なのか、生涯非婚を貫きます。

鵜野讃良皇女が亡くなった二年後、長屋王は大人として初叙され、また吉備皇女はこの頃に長男を産みました。
吉備皇女もまた姉と同様に祖母に従い、あるいは自分の意志で結婚し、出産したわけです。
自分の意志と言っても、周囲の期待に応えるという義務感が強かったのではないでしょうか。
幼くして(あるいは生まれる前に)父親を失い、頼りとなる伯父の高市皇子も亡くなり、そして大黒柱だった祖母も居なくなった。
皆は私に皇室を守る役割を期待している。私はその役割を果たす。
操り人形のように他人の意志に応えながらも、これが自分の生まれた理由なのだと、粛々と受け入れていたことでしょう。
運命を受け入れると言うと、父の仇である葛城皇子の皇后になった倭女王も運命のままに生きた人でした。
(参照:中臣鎌足考察F流されて浮かぶ花 倭女王
しかし、すべてを失って流れ流れた倭女王と吉備皇女には決定的な違いがあります。
吉備皇女には守るものが多過ぎました。
病弱な珂瑠皇子と、彼を守ろうとする母と、彼女を支えようとする伯母の御名部皇女。
美貌の姉は自らが政変のきっかけにならぬよう独り身を貫くことを決め、頼りの長屋王はまだ経験も浅く若すぎる。
彼女は自分に用意された道が安泰だとは全く思っていなかったことでしょう。

私の考えでは、吉備皇女は草壁皇子の死後に生まれています。(参照:草壁皇子 死の真相
自分の誕生が父の自害の引き金になったと知ったとしたら、世間知らずなお気楽プリンセスではいられないでしょうね。
と言うより、彼女の心は相当歪んでいたのではないかと思います。
家族の誰もが草壁皇子の死の真相を隠して、吉備皇女のせいではないと思おうとしたことでしょう。
何も知らずに生まれた可愛そうな少女が、のびのびと育つように心を砕いたことでしょう。
その分、何かのきっかけで真実を知った時に、吉備皇女の素直な心はひび割れてしまったのではないでしょうか。
愛されていると信じていたのに、彼女に家族が見せてきたのは「責めてはいけない」と心を律した結果の優しさだとしたら……
皇室を守るために長屋王の妻になり、子供を産むという選択肢を突きつけられた時、彼女はまったく躊躇せず受け入れたと思います。
皆は私に期待している。私はその役割を果たす。
父に捨てられた自分、家族に実は疎まれていたかもしれない自分の居場所を確保するために、
彼女は自分にしかできないことをやろうとしたのかもしれません。
氷高皇女は母親から譲位される際に「美人だ」とわざわざ言われる程の美貌だったようですが、
吉備皇女は美人と言うより愛らしい風貌の女性だったのではないかと想像しています。
いつも幸せそうな顔で微笑んで、心の奥では冷め切った表情で自分の運命を見つめていたのではないでしょうか。
と言うのは、何の根拠も無い私の妄想です。


鵜野讃良皇女が何とか繋げようとした皇統は、しかし彼女の崩御後五年でピンチに陥ります。
707年に、まだ数え年で25歳の珂瑠皇子が病死してしまうのです。
娘の宮子を珂瑠皇子に娶わせていた不比等にとって、これは大きな誤算でした。
珂瑠皇子と宮子の間には、701年に首皇子が首尾よく生まれてはいますが、まだ数え年7歳の子供です。
孫の首皇子の即位を成し遂げるためには、何が何でも「珂瑠皇子の家族」から皇位を動かすわけにはいきません。
間違っても、大海人皇子の他の息子達の系統に皇位を渡すわけにはいかないのです。
しかし残っている「家族」と言うと、この三人だけです。
・阿閇皇女(珂瑠皇子の母で、鵜野讃良皇女の異母妹で、前皇太子・草壁皇子の正妃)
・氷高皇女(珂瑠皇子の実姉で、前皇太子・草壁皇子の長女)
・吉備皇女(珂瑠皇子の実妹で、前皇太子・草壁皇子の次女で、長屋王の正妃)
この中で首皇子への皇位継承がスムーズに行きそうなのは誰か。それはもう、首皇子の祖母である阿閇皇女でしょう。
何せ「鵜野讃良皇女から珂瑠皇子」という祖母から孫息子への継承の実例があるのですから。
不比等としては「阿閇皇女から首皇子へ」というルートを是非とも実現させたいところです。
不比等は死の床にある珂瑠皇子に、母親への譲位を促します。
いや、促した実行犯は不比等の正妻にして、珂瑠皇子の乳母である県犬養三千代(後の橘三千代)でしょうね。
三千代は珂瑠皇子の乳母として、珂瑠皇子本人だけでなく阿閇皇女からも絶大な信頼を寄せられていました。
更に、三千代は珂瑠皇子と宮子の間に生まれた首皇子の乳母でもあるのです。
突然差し出された大王の座に戸惑う阿閇皇女を説得できたのも、三千代が居たからこそです。
独身で子供の居ない氷高皇女に皇位を、という選択肢も不比等の脳内にはあったと思います。
でも、首皇子が成長した暁に「お年を召されたのですから、御譲位を」と不比等が言い易いのは阿閇皇女の方です。
それに氷高皇女の即位を認めると、吉備皇女の即位の可能性を認めることになります。
もし氷高皇女が若くして倒れた場合、既に長屋王の息子を産んでいる吉備皇女が即位、なんてことになりかねません。
その頃には皇族男性の代表として力を得ているであろう長屋王が即位、ということも有り得ます。
夫婦のどちらが皇位についたとしても、その後を襲うのは二人の嫡男である膳夫王であり、首皇子ではありません。

当人の阿閇皇女は何を考えて大王になることを承諾したのか。彼女自身も明確な答えは持っていなかったと思います。
かつて夫の草壁皇子を突然失い、異母姉にして姑である鵜野讃良皇女と助け合いながら何とか三人の子供を成長させ、
珂瑠皇子が思惑通り大王となり、吉備皇女が長屋王との間に孫息子を産んで、ホッとしていたところにやって来た息子の死。
夫の死の原因になった皇位という存在に、阿閇皇女は決して好意的では無かったことでしょう。
しかし、自分も娘達も皇位継承という残酷な戦いから逃れられないことを、阿閇皇女は悟っていました。
何と言っても彼女は葛城皇子の娘であり、そして蘇我氏の母を持つ皇女です。
苦境の中でも、先を見据えて割り切れる強さがあったのだと思います。
その一方で、自分が天皇になることで、少しでも娘達をこの戦いから遠ざけたいという気持ちもあったかもしれません。

こんな状態で阿閇皇女《元明》の即位ですが、娘の吉備皇女は複雑な気持ちでした。
祖母から期待された自分の役割は皇室に繋がる子供を産み育てること。息子を産んで一息吐いたところに、兄の死です。
とりあえず母が皇位に就きましたが、そこで浮き足立ったのが夫の長屋王でした。
何せ長屋王の母は、阿閇皇女の実姉である御名部皇女なのです。彼女は鵜野讃良皇女の異母妹でもあります。
姉妹間で皇位継承をした事例は有りませんが、兄弟では異母兄弟間でも継承しています。
今までの女帝は全て大王の正妃でしたが、阿閇皇女はそうではありません。しかも、息子からの継承という世代を遡った継承です。
阿閇皇女の異例尽くしの即位が、御名部皇女と長屋王に皇位継承の可能性を期待させました。
自分達は高市皇子系統の家族であり、直接の皇位継承権はありませんが、現大王の娘である吉備皇女という切り札があります。
珂瑠皇子の系統を廃して吉備皇女の即位を。いや、一足飛びに長屋王の即位を。皇位継承者は膳夫王に。
兄の死と母の即位によって、今度は姑と夫からの期待が、吉備皇女に大きく圧し掛かってきたのです。

こう書くと吉備皇女が一方的な被害者のようですが、そうではありません。
この状況は吉備皇女に新たな役割をもたらすことになりました。
阿閇皇女から首皇子へと皇位が継承されれば、吉備皇女は皇統とは何も関係ない人間になります。
自分は「家族」から何も期待されない、価値の無い人間になっていくのです。
だから、新しい「家族」から期待されることを望みました。
彼女の切り札は誰よりも高貴な自身の血筋と、有力皇族の血筋である夫と姑、そして息子達。
自分が皇位に就くかどうは置いておいて、夫や息子達の地位を押し上げることが自らに課した役割になりました。
彼女は権力を握りたかったわけではありません。
鵜野讃良皇女のように争いを避けるために皇統を得ようとしたわけでもありません。
皇室に残された母や姉を思う気持ちはあったでしょうけれど、皇室自体はどうでも良かったのかもしれません。
吉備皇女は自分を孤独に押しやった皇位を憎んでいました。
しかし、皇位を以ってしか自分の存在価値が無いことも理解していました。

時の情勢と長屋王自身の自負もあって、彼は着々と位を上げていきます。
不比等や他の豪族、王族達も長屋王の存在を無視することはできません。
次の皇位継承の可能性を考えて、彼らは身内の女性を長屋王に娶わせるようになりました。
わかっているだけで、長屋王に吉備皇女以外にこれだけ妻が居ます。
・藤原長娥子(藤原不比等の次女。安宿王、黄文王、山背王、教勝を産む)
・石川夫人(蘇我氏の血筋である石川氏出身。桑田王の母という説有り)
・安倍大刀自(阿倍広庭の娘。その父は、壬申の乱の功臣である阿倍御主人。賀茂女王を産む)
・智努女王(円方女王を産む) ※智努女王は円方女王の姉、つまり長屋王の娘という説もあります。
中でも、後に四人もの子供を産む長娥子の存在は、吉備皇女にとって見過ごせないものでした。
一夫多妻のシステムの中では、子供の多さは夫婦の親密さ、ではなくて実家と夫と繋がりの強さを表していました。
嫌らしい言い方になりますが、長娥子は父の権力の強さを背景に、長屋王が自分を訪れる回数を確保していました。
もちろん、それが長娥子の意志というわけではありません。不比等の思惑と言った方が正しいです。
本来は長屋王には皇位継承権は無いのに、まるで彼自身が親王(701年以降、皇子は親王の改称)であるかのような扱い。
毎晩のように別の女のもとに通う夫を、吉備皇女がどう見ていたか。
二人の間に愛情が無かったとは言いませんが、吉備にとっては自分の居場所=皇室を守る気持ちの方が強かったことでしょう。
長屋王と他の女性との間にに何人子供が生まれたところで、吉備皇女の息子達の優位性は変わりません。
それに不比等達の行動は長屋王の皇位継承の可能性を考えている証拠であり、吉備皇女に不利なものではありません。
「せいぜい不比等達と上手くやってよね」くらいの冷めた気持ちでいたのかもしれません。

長屋王には上手くやってもらうとして、問題は首皇子の存在でした。
不比等は長屋王を丸め込もうとしていますが、まずは第一に首皇子の即位を望んでいました。
何と言っても首皇子の養母は自分の正妻の三千代ですし、嫡男の武智麻呂を首皇子の養育係に当てています。
更に、阿閇皇女に藤原京の不便な点やら何やらを説いて、710年に平城京への遷都を実行しています。
藤原京は排水の悪くて不衛生、都にするには狭すぎる等の欠点があったと考えられます。
地理的には飛鳥に近いので古い豪族の影響力が大きいのも、不比等が忌避した点でした。
既に50歳を越えていた不比等は、平城京で移って落ち着いた頃に首皇子の即位を成し遂げたいと思っていました。
首皇子は両親に似て虚弱な子供でしたが、714年に不比等は首皇子の立太子を断行します。

しかし、阿閇皇女は首皇子にまったく期待をしていなかったようです。
第一の理由は、その貧弱さに天皇の器を見出せなかったということ。
第二の理由は、不比等の娘(宮子)から産まれ、不比等の正妻(橘三千代)に育てられ、
そして不比等の娘(安宿媛)が妻になる予定の首皇子を身内だと思えなかったのでしょうね。
まあ、藤原氏の傀儡になることがわかりきっている首皇子に期待しろ、という方が無理な話です。
それに阿閇皇女は、不比等&三千代連合の力がこれ以上強くなることにも危機感を抱いていました。
皇室を乗っ取る気満々の不比等達を押さえ込める勢力が必要です。
他の豪族は不比等に尻尾を振るばかりなので、長屋王くらいしか当てが無いのですが、
当の長屋王が不比等に狙われている始末。
つまり首皇子に匹敵する力を持つことができ、かつ不比等の勢力に取り込まれることのない人物と言うと、
それはもう氷高皇女と吉備皇女しかいないのです。
何と言っても吉備皇女には成年に達しようとする息子達が居ます。父親の身分も申し分ない。
それに阿閇皇女にとっては、同じ孫でも吉備皇女の産んだ子供達の方が余程身内だと感じられます。
しかし不比等の圧力がある以上、首皇子を無視して吉備皇女一家を皇位に近づけるのは至難の業です。
そこで阿閇皇女はウルトラCをやってのけます。
まずは首皇子が皇太子となった714年に、氷高皇女を二品という高い位に昇格させます。
首皇子の立太子を成し遂げることだけに目が行っていた不比等は、難無く氷高皇女の昇格を容認したことでしょう。
そして翌715年、阿閇皇女は譲位を行います。皇太子である首皇子に、ではありません。
大王になったのは独身の長女、氷高皇女でした。(同時に最高位の一品に昇格しています。)
祖母から孫への譲位再来を画策していた不比等には、天変地異のような事件です。
母から娘への譲位の次は、姉から妹へ、つまり氷高皇女から吉備皇女への譲位の可能性だって有り得ます。
その後は夫の長屋王がでしゃばるか、母から息子への譲位が成されるか。
兎にも角にも、首皇子即位に布石を打ってきた不比等には由々しき事態となりました。
更に阿閇皇女は畳み掛けます。
もう一人の娘である吉備皇女は三品に、そして彼女が産んだ孫達は皇孫扱いにするのです。
これで吉備皇女とその息子達(+吉備皇女の夫である長屋王)への皇位継承の可能性がぐっと高まったわけです。

不比等と三千代は吉備皇女一家に対抗する措置をとります。
その方法とは首皇子に皇位継承者を誕生させることです。
唯一皇位継承が可能な男皇子である首皇子に、更に息子が生まれていれば、その安定性は高まります。
現時点で首皇子に息子が生まれれば、その子は三世王に過ぎない膳夫王よりも高い地位に置かれるからです。
不比等と三千代が散々に発破をかけ、首皇子の妻となった少女達も妊娠のために出来得る限りのことをさせられたことでしょう。
まずは717年、県犬養広刀自が井上内親王を産みます。
先に広刀自が身篭ったことに安宿媛は危機を感じたことでしょうけれど、これで首皇子が子を成せることが証明できました。
広刀自は三千代の同族で、到底藤原氏に適う家柄ではありません。
しかも彼女の産んだのは女の子だったので、不比等は安宿媛に皇子を産むことを大いに期待します。
広刀自に負けじと、翌718年に安宿媛が阿倍内親王を産みます。そう、彼女が産んだのも女の子でした。
(参照 天平・ガール・ウォーズ 阿倍内親王
その他の夫人を含めて、暫くは誰も首皇子の子を産めませんでした。不比等と三千代の作戦は失敗に終わったわけです。
この頃、吉備皇女は30歳前後になっていました。息子達は次々に成人して、夫は地位を高める一方。
この時点で彼女は不比等に大いに勝利していたことになります。
そう、これは彼女が自分の存在価値をかけた戦いなのです。同時に心底馬鹿馬鹿しくて、どうでもいい権力闘争でもありました。
彼女は帝王学を学んだわけでも無く、皇位に就くことを求められて育ってはいないのです。
周りの状況が彼女を皇位の方向へと押し出しているだけです。
彼女の本音は「ご勝手に戦ってちょうだい。私は現状維持なんだから、迷惑をかけないでね」ってところでしょうね。

吉備皇女一家に対抗できる存在を生み出せなかった不比等は、失意の中で720年にこの世を去ります。
これで藤原氏の野望は費えたかに見えましたが、その翌年に太政天皇である阿閇皇女《元明》が崩御しました。
これまでは不比等と阿閇皇女の代理戦争をやっていただけの吉備皇女でしたが、
これからは不比等の後継者である藤原四兄弟と戦わなくてはなりません。
姉で天皇の氷高皇女《元正》や夫の長屋王はまだ権力を確立できておらず、
豪族達の支持も首皇子を擁立する藤原氏と皇室との間で揺れ動いています。
むしろ藤原四兄弟は、自らの結婚により他の豪族達の支持を取り付けていました。
・長男 武智麻呂:安倍氏の阿倍貞媛を正妻とする→豊成、仲麻呂が産まれる
・次男 房前:橘三千代の娘である牟漏女王(安宿媛の異父姉)を正妻とする→永手、真楯などが産まれる
・三男 宇合:石上麻呂の娘を正妻とする→広嗣等が産まれる
また、この三人は蘇我氏から名を変えた石川氏の娼子を母としています。
その縁もあって、没落しかけの石川氏も藤原氏に擦り寄っていた可能性があります。
せめて膳夫王達が要職に就くまで阿閇皇女が生きていたら、祖母の七光りで豪族達の支持を集めることもできたでしょう。
しかし、ここから一転して吉備皇女は不利な戦いを強いられることになりました。


(傘を差すマリオネット 吉備皇女)つづく 2017.04.09
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