魔女ノ安息地3周年企画 高市皇子 / Copyright (c) 2010 夕陽@魔女ノ安息地 All rights reserved.

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中臣鎌足考察 特別編
永遠に続く君への思い 高市皇子(たけちのみこ)

高市皇子に後皇子尊(のちのみこのみこと)という尊称が贈られているのは、
母親の身分の低さから、王の器と思われながらも大王にはならなかった彼を偲んでのことでしょう。
ですが、彼は何の野心もなく、臣下の立場に甘んじていたのでしょうか?
彼は自分の能力に自信があったはずです。頂点への野心だって。
しかし、彼は慎重でした。その自信を過信して、王座を奪うことはしませんでした。
それは何故? 皇女を母に持つ異母弟、大津皇子の失脚を目の当たりにしたからでしょうか?
いいえ、それは決定打にはなったかもしれませんが、きっかけはもっと過去のことでした。

まずはお約束、家系図と年表を確認しましょう。

【系図】 @
胸形君徳善         _________
     |         |            |
胸形尼子郎女=大海人皇子=額田女王  葛城皇子=伊賀采女宅子郎女
         |        |              |
      高市皇子     十市皇女=====大友皇子

【系図】A
葛城皇子
  |___________________
  |                      |     |
鵜野讃良皇女==大海人皇子      |     |
         |      |        |     |
         |   高市皇子=御名部皇女    |
       草壁皇子============阿閇皇女

【年表概略】(皇子や王などの敬称は、その当時の立場で表記)
648年 十市女王誕生(654年前後説有り)、大友王誕生
654年 高市王誕生か? 1歳
658年 有間皇子刑死 5歳
661年 大王・宝女王(斉明天皇)崩御 8歳
     阿閇女王(実姉は御名部女王)誕生
662年 異母弟・草壁王誕生 9歳
668年 近江遷都、葛城皇子即位(天智天皇) 15歳
669年 内臣・中臣鎌足死去 16歳
671年 大友皇子が太政大臣に就任 18歳
     父・大海人皇子は正妃・鵜野讃良皇女ら数名と共に吉野へ辞す
     葛城皇子崩御、大友皇子即位(弘文天皇)?、十市女王立后?
672年 壬申の乱勃発、大津京を脱出して父の将軍に任命される 19歳
      →近江方が敗北し、大友皇子は自尽
673年 大海人皇子即位(天武天皇) 20歳
678年 十市皇女薨去(671年に立后していたなら、崩御) 25歳
679年 吉野の盟約 26歳
680年 草壁皇子の第一子・氷高女王(後の元正天皇)誕生 27歳
684年頃 嫡子・長屋王誕生 31歳
685年 冠位四十八階の制が制定され、浄広弐を賜る(草壁皇子、大津皇子に次ぐ) 32歳
686年 大海人皇子崩御、大津皇子自尽 33歳
689年 草壁皇子薨去 36歳
690年 鵜野讃良皇女即位(持統天皇)に伴い、太政大臣に就任 37歳
696年 薨去 43歳

高市皇子は大海人皇子の最初の息子として、654年頃に誕生しました。
母親は現在の福岡県に拠点を持つ地方豪族、胸形(宗像)氏の娘です。
ロイヤルファミリーの一員である大海人皇子と一族の娘を娶わせることで、
胸形氏が中央政権への足がかりを掴もうとしたのかもしれません。
大海人皇子は次男坊、この頃はまだ若きお気楽プリンスであり、後継ぎの心配もそれほどなかったのですが、
生まれた長男を引き取って、大王の直轄地である高市県(たけちのあがた)で養育させます。
ちなみに額田女王との間に先に生まれていた長女、十市皇女のことも同様に十市県で養育させています。

同時期の648年に、大海人皇子の実兄であり、大兄皇子(皇太子)の地位にあった葛城皇子にも
采女の伊賀宅子郎女との間に次男が生まれていました。
その子は大友皇子と名付けられ、名前から考えると、大伴氏の庇護下で養育されていたと思われます。
大友皇子は葛城皇子の最年長の息子ではありましたが、母親の身分の低さから皇位に就く可能性は無く、
葛城皇子に嫡子に相応しい息子が生まれれば、その子が後継者になることは間違いありませんでした。

それだけではありません。
葛城皇子には同母弟である大海人皇子がいるのですから、もし葛城皇子に嫡子が無ければ、
大海人皇子が皇位に就くことになると考えられていました。(当時、兄弟間相続は当たり前でした。)
その大海人皇子の長男である高市皇子も立場は同様で、父がいかなる地位や財産を手にしても、
それを継ぐのはこれから生まれてくる嫡子に相応しい子供達でした。


しかし、大海人皇子を取り巻く状況は少しずつ、そして確実に変化していきました。
高市皇子が生まれた654年頃の葛城皇子は、大海人皇子を後継者として考えていたようです。
しかし、有間皇子の変(658年)やその後の朝鮮半島への出兵を経て、二人は対立するようになりました。
仲違いの原因は政策上の意見の対立だけでなく、葛城皇子の疑心暗鬼も大きかったと考えられます。
(参照:中臣鎌足考察D間人皇女E有間皇子
その間に、大海人皇子には彼の嫡子候補が相次いで生まれました。
662年に葛城皇子の次女、鵜野讃良皇女が草壁皇子を、翌年には同長女の太田皇女が大津皇子を出産します。
(この皇女達は蘇我氏の母から生まれた同母姉妹であり、葛城皇子の娘達の中でも最も身分の高い娘達です。)
この時点では姉である太田皇女が産んだ大津皇子が、大海人皇子の嫡子の立場でありました。
葛城皇子は血筋は良いものの、嫡子ではない草壁皇子を実弟から預かり、自分の下で養育します。
近江に遷都してからは、草壁皇子と入れ替えるようにして、母を亡くした大津皇子を引き取っています。
嫡子がいない葛城皇子にとっては二人は直系の孫とも言える存在なので、
彼らを葛城皇子の後継者候補として扱うことについて、大海人皇子も文句は言えない状況でした。
いえ、大海人皇子にも打算はありました。
実の兄に睨まれているこの状況では、自分が下手に動けば謀反の疑いをかけられる可能性がありました。
だから、自分の息子達をかすがいにして政治の実権を握る方が安全策だったのです。

しかし、子供時代の高市皇子はそんな状況の蚊帳の外に居ました。
父がいかなる立場になろうとも、自分には嫡子になる可能性は無いのです。
皇族としての政治的地位を確かなものにする方が賢い選択ですし、
あるいは高市皇子の優秀さを見抜いた大海人皇子が、積極的に教育の機会を与えた可能性もあります。
後の世で王の器と言われた性質は、子供の頃からの意志や教育の賜物だったのかもしれません。

では、一方の大友皇子はどうでしょうか?
母親の身分はほぼ変わりの無い(あるいは、服従の証である采女の宅子郎女の方が身分は低い)二人ですが、
嫡男になる可能性のほとんどない高市皇子とは違い、大友皇子は微妙な立場にありました。
父の葛城皇子には嫡子に相応しい息子がおらず(長男の建皇子は鵜野讃良皇女の同母弟だが、夭折)、
身分の高くない母親から生まれた中では、大友皇子が最年長の息子です。
ですが、父には同母弟がいて、しかし仲違いが始まって云々かんぬん……落ち着きません。
しかも、大友皇子もまた、高市皇子と同様に非凡な才能の持ち主であったようです。
『懐風藻』によれば、体格や容貌が共に優れていて、博学で文武の才にも長けていたとのこと。
彼の后妃としては高市皇子の異母姉である十市皇女があまりにも有名ですが、
実は鎌足さんの娘の耳面刀自(みみものとじ)が妻の一人になっています。
(参照:中臣鎌足考察番外編 鎌足さん家の家庭事情
もし大友皇子が葛城皇子の息子というだけの平凡な人物であれば、
鎌足さんが自分の数少ない娘の一人と娶わせるなんて危険な真似はしなかったはずです。
葛城皇子も、大友皇子の幼少期は「自分には(嫡出の)息子が居ない」とまで言い放っていたようですが(BY 岡寺の伝承)、
息子が成長するにつれて、その能力を認めるようになったと思われます。
更に、大海人皇子もまた大友皇子の器を見極めていた一人です。
大友皇子の后となった長女の十市皇女の母は、文化的にも祭礼的にも少なからぬ影響を与える額田女王。
娘である十市皇女にも何かしら巫女的な要素が期待されていたに違いありません。
その娘を、葛城皇子の意向が強かったとはいえ、大友皇子の正妃として差し出しているのは、
絶対的な高貴な血を誇る大海人皇子ですら、大友皇子の存在を認めざるを得なかった証拠です。

高市皇子が自分と似ていて少し異なる大友皇子の立場に、注目しなかったはずがありません。
同じような血筋、はっきりと自覚できる非凡な才能、父親から受けるちょっと微妙な期待。似ています。
しかし、高市皇子にとって皇位は程遠い場所にありました。
同じなのに違う。違いすぎるのに同じ。
高市皇子の心に無意識に生まれたのは仲間意識であり、同属嫌悪であり、敵対意識であり、劣等感でもあり……
とにかく複雑な思いを抱かざるを得なかったのではないかと思います。勝手に心のライバル。
加えて、飛鳥から遠く離れた九州に拠点を持つ胸形氏からは、高市皇子に大きな期待がかかっていました。
彼自身が皇位には就けなくても、一族が中央で伸し上がる足掛かりにできるはずだと目論んでいたことでしょう。
母の実家からの期待に応えようとする思いが高市皇子に芽生えるのは当然のことですし、
それにも増して、持て余し気味の自分の才覚をどう発散させればいいのかと悩んだことでしょう。
しかし、現実には自分より遥かに高貴な血筋で、有力な豪族のバックアップがある異母弟達がいるのです。
そして、父の大海人皇子ですら皇位への道が年々危うくなって行きます。


さて、ここで恋愛ゴシップに話題を移しましょう。
高市皇子と言えば、異母姉の十市皇女への熱烈な恋慕説がとても有名です。
彼女が急死した際に、万葉集に三首の挽歌を残していることが根拠になっています。
(私は歌は不得手なのもので、いつも以上の暴言大会になりかねないので、解説はご勘弁願います。
 他の歌にまつわる暴言大会が読みたいと仰る稀有な方は、こちらへどうぞ:
 鎌足さんの「ピカチュウ☆ゲットだぜ!」?中臣鎌足考察G鏡女王
果たして高市皇子が十市皇女に懸想していたか、否か。
私はアリだと思います。ただし、高市皇子の一方的な片想いであろうと思っています。(袋叩きはご勘弁下さい)
十市皇女からのアプローチの証拠は一切残っていませんし、そもそも二人の身分には差があり過ぎます。
額田女王というカリスマ的な母親を持つ十市皇女が、身分の低い母から生まれた高市皇子と婚姻する可能性は
彼らの子供時代には絶対に有り得ないことでした。
え? 高市皇子の正妃は御名部皇女(みなべのひめみこ)で、彼女の方が十市皇女よりも身分が高いじゃないかって?
確かに、御名部皇女は阿閇皇女(あへのひめみこ 草壁皇子の正妃、後の元明天皇)の実のお姉さんですし、
鵜野讃良皇女(大海人皇子の正妃、後の持統天皇)とは異母妹にして従姉妹という濃い血筋の関係です。(母親同士が姉妹)
ですが、それは大海人皇子が即位して、彼のファミリーによって皇親政治が始まったことで、
大王の嫡男ではないが長男であり、壬申の乱で大きな功績を挙げた高市皇子の存在が大きくなってからのこと。
子供時代の高市皇子が腹違いの綺麗なお姉さんに恋をしたとしても、それは叶うはずがありませんでした。
しかし、よりによって、その綺麗なお姉さんが自分の心のライバル、大友皇子と結婚してしまうなんて!
大友皇子への皇位継承が現実味を帯びていく中で、十市皇女は将来の皇后として彼と結婚したわけです。
コレは葛城皇子と大海人皇子の契約であると同時に、十市皇女の意志でもあると私は思っています。
(参照:2008年 お年玉企画@十市皇女

また、近江に政権が移ってからは、葛城皇子の手元には利発さを増していく大津皇子が、
父の大海人皇子の手元には、亡き太田皇女に代わって正妃となった鵜野讃良皇女の一人息子である
草壁皇子が戻されています。(飛鳥にいる間は、葛城皇子の手元に預けられていたようです。)
また、高市皇子と同様に身分の低い母から生まれた忍壁皇子もいましたが、
彼の母親である穀媛娘(かじのいらつめ,かじは木+穀が本来の標記です)は
どうやらかなり大海人皇子の寵愛を受けていた様子で、沢山の子を産んでいます。
(参照:2008年 お年玉企画C忍壁皇子
実の兄弟姉妹のいない高市皇子とは若干立場が異なっているように思います。

高市皇子はそんなことを気にするような器の小さな人間でなければ、こんな状況を気にすることなく、
自分の才能を活かして勉学に励み、将来のサポート役を目指したかもしれません。
しかし、鵜野讃良皇女が大王となった後の彼の行動を見る限り、高市皇子が本当は野心家であり、
政治の中心に立つことに並々ならぬ関心を寄せ続けていた、と言わざるを得ません。
もし大友皇子の存在がなければ、高市皇子も自分が皇位継承に絡むなんていうことは夢絵空事だと
諦めきってしまうことができたでしょう。でも、できなかったのです。
自分の夢見る物を状況変化によって次々に手に入れてしまう大友皇子の姿を、
高市皇子はただ遠くから眺めるしかありませんでした。


これらを踏まえると、高市皇子の十市皇女への想いは所謂恋愛感情とは異なっているように思います。
幼い頃の恋心を引き摺っている面はあるにしても、それ以上に大友皇子への過剰なライバル意識があったからこそ、
高市皇子は十市皇女を最上の女性と思い込み、異常な執着を見せたのではないでしょうか。
十市皇女はそんな高市皇子の心を読み切っていて、大友皇子の死後も絶対に靡かなかったのかもしれませんね。
実は高市皇子は長い間正妃を持たず、嫡子の長屋王(ながやのおおきみ)が生まれたのは684年頃です。この時、三十一歳。
御名部皇女といつ結婚したのかはわかりませんが、草壁皇子と阿閇皇女が婚姻するより前か同時期だったはずです。
御名部皇女と阿閇皇女は同母姉妹ですから、妹の阿閇皇女の方が先に結婚するということはないでしょう。
草壁皇子には680年に氷高皇女(ひだかのひめみこ)が誕生しています。
高市皇子と草壁皇子とは八歳差なので、長屋王の誕生は少し遅い気がします。
678年に十市皇女が亡くなり、679年頃に高市皇子はようやく正妃を持つことを承諾した、と結論したくなる、この状況証拠。
十市皇女を得ることにこだわり続けたせいで、御名部皇女との婚姻を頑なに断っていたんじゃ……と疑ってしまいます。
この頑固さには大海人皇子も、皇后の鵜野讃良皇女も呆れ果てたことでしょう。
鵜野讃良皇女にしてみれば、御名部皇女は腹違いではあるけれど同母妹とも言える存在です。
高市皇子が皇親政治の中で力を付けていくためには、身分の高い女性を正妃にすることが不可欠でした。
後の史実を見ると、鵜野讃良皇女は高市皇子の能力を誰よりも買っていたようで、
自分の御世には高市皇子を太政大臣(実質の皇太子)に任命し、孫の珂瑠皇子(かるのみこ)が皇太子となった後も、
幼い皇太子の後見人として頼みにしていたようです。
高市皇子の死後においても、長屋王と吉備皇女(きびのひめみこ 氷高皇女や珂瑠皇子の同母妹)との
結婚を決めるなど、高市皇子一家への入れ込みようは半端ではありません。
彼の新しい勢力作りのために、御名部皇女との婚姻を積極的に推し進めようとしたと言うのに、
当の高市皇子にやる気が無い……十市皇女を斎宮にしようと画策したのは、鵜野讃良皇女なのかもしれませんね。

そして更に、高市皇子は高い身分にあった皇族にしては異例で、
妻は正妃の御名部皇女一人しか確認できず、子供の数も少ないのです。
彼の異母弟達、草壁皇子や大津皇子は若くして亡くなっているので、正妃しかわからないのは当然ですし、
忍壁皇子は彼に関する記述そのものが少ないので、妃が一人しかわかっていなくても仕方ありません。
しかし、高市皇子は太政大臣(皇太子候補)の座にあり、四十歳代まで生きているのです。
十市皇女の死後もずっと、彼女への想いに固執して、他の恋愛ができなかったんじゃなかろうか……
よく言えば一途な想いなのでしょうが、これは単純な恋愛精神ではありません。
十市皇女への、いや大友皇子へのこだわりを、二人の死後もずっと抱き続けていたようです。

そんな様子を伺わせる史実があります。
『万葉集』によると、高市皇子の宮には異母妹の但馬皇女(たじまのひめみこ)が居たとされています。
彼女の立場が単なる居候だったという説もあるのですが、それはないでしょう。
何故なら、但馬皇女の母親は藤原不比等の姉である氷上郎女(ひかみのいらつめ)ですので、
着々と権力を得ていた藤原不比等が、姪にあたる皇女を時の権力者である高市皇子に差し出した、と考えるのが適当です。
(氷上郎女は不比等の同母姉の可能性が高いので、血筋的にかなり近い存在です。)
しかし、但馬皇女本人は別の異母兄である穂積皇子(ほづみのみこ)と相思相愛だったようで、
お互いを想って詠んだ歌が『万葉集』に残っています。
それについて高市皇子が怒ったか、と言うと、そうでもなさそうなのです。
穂積皇子は692年〜701年の記録がなく、その間は但馬皇女との密通がばれたせいで左遷されていた、
という説があるのですが、仮にそれが真実だとしても、高市皇子が手を下したのではなく、
姪を藤原氏の手駒にしようとして失敗した不比等による報復だったのではないでしょうか。
高市皇子が左遷を命じたのであれば、彼が亡くなった696年頃には中央に戻されて然るべきです。
妃が不倫しようとも特に気にしなかった辺り、高市皇子の十市皇女至上主義が伺われます。


「高市皇子様に限ってそんな馬鹿なことがあるか!」と思われますか?
いやいや、高市皇子が大友皇子にこだわっていた、いえ、大友皇子の人生に呪縛されていた証拠
十市皇女への執着心以外にもあるのです。
冒頭の疑問に話を戻しますと、どうして彼は臣下の立場に甘んじていたのでしょうか?
高市皇子は太政大臣という実質的な皇太子の立場まで上っているのです。
自分の上には大王の位についた鵜野讃良皇女がいるのみ。
幼い珂瑠皇子のことを一時的にでも差し置いて、自分が大王になることを考えなかったのでしょうか?
鵜野讃良皇女の陰で藤原不比等が権力を得るより前、それこそ鵜野讃良皇女の即位のすぐ後で動いてしまえば、
彼が政権を奪取する、あるいは鵜野讃良皇女から譲り受けることだって不可能ではなかったはずです。
そもそも病弱な珂瑠皇子に皇位を渡してしまうことに、現実主義の鵜野讃良皇女が躊躇しなかったはずがないのです。
いっそのこと高市皇子に皇位を渡してしまえば、皇后は御名部皇女ですし、その後を継ぐのは嫡男の長屋王。
彼と氷高皇女か吉備皇女とを結婚させれば、亡き我が子、草壁皇子の血統は守られます。
これは娘の宮子を珂瑠皇子の夫人に差し出していた藤原不比等には面白くない展開ですが、
まだ権力の座を確立できていなかった頃の不比等が、わざわざ高市皇子の皇位継承を妨害したとは思えません。
それに不比等は高市皇子への接近策として、前述の通り、姪の但馬皇女を高市皇子の妻として送り込んでいます。
(後には次女の長娥子(ながこ)を長屋王の妻に差し出して、懐柔しようとしています。)
大友皇子の例を見ると、太政大臣という当時初お目見えの地位に慌しく就いた後に、大王に昇格した、とされています。
(参照:中臣鎌足考察F倭女王
大友皇子とは違って、高市皇子にはずっと皇親政治を支え、実力も発揮してきた経緯があり
高市皇子を大王に推す豪族は少なくなかったはずなのです。
これだけの条件が揃っていながら、何故高市皇子は臣下であり続けたのでしょうか。
もしかして、本当はこっそり皇位を狙っていたのでしょうか?

高市皇子は皇位を狙う気持ちは持ち続けていました。でも、動けませんでした。
彼には大友皇子の末路が忘れられなかったのです。
十市皇女を正妃とし、蘇我氏や大伴氏などの有力豪族からも支援を受けていながら、最終的には次々に裏切られ、
物部麻呂(もののべのまろ 後の右大臣・石上麻呂)一人とわずかな舎人が付き従うだけで、自害に追い込まれた大友皇子。
高市皇子が皇位に就いたとして、豪族達が裏切らない、反乱を起こさないという保証はないのです。
この時、草壁皇子と大津皇子という最も身分の高い異母弟達はこの世の人ではありませんでしたが、
高市皇子より身分の高い異母弟はあと五人もいたのです。
特に葛城皇子の娘を母に持つ弟達の存在は、高市皇子にとって脅威でした。
まず、新田部皇女(にいたべのひめみこ 母は阿倍橘郎女)から生まれた舎人皇子(とねりみこ)が有力です。
大海人皇子の十番目の息子で、高市皇子よりかなり若いですが、何と言っても名門阿倍氏の支援があります。
大江皇女(おおえのひめみこ 母は地方豪族の娘か?)を母に持つ長皇子(ながのみこ)、弓削皇子(ゆげのみこ)も
こちらは年はそれほど若くはないようですし、充分に皇位を狙える立場です。
蘇我赤兄の娘である大ぬ娘(おおぬのいらつめ ぬは表記できませんでした…)を母にもつ穂積皇子、
不比等の甥にあたる新田部皇子(にいたべのみこ 母は不比等の異母妹である五百重郎女)もいます。
忍壁皇子と磯城皇子(しきのみこ)兄弟以外は高市皇子よりも血筋が良く、それだけ豪族からの支援が受けやすい立場にあります。
どんなに皇位が近付いて来る状況にあっても、高市皇子は大友皇子の二の舞は踏めませんでした。


もし大友皇子が存在しなければ、高市皇子は皇位に手を伸ばしていたかもしれません。
いや、大友皇子がいたからこそ皇位に目を向けてしまい、心穏やかな日々を送れなかったのであって……
様々な状況と歴史が重なって、高市皇子は大友皇子の最大の理解者にならざるを得ませんでした。
それゆえに彼の存在に縛られ続けてきたことを運命と言ってしまうのは皮肉すぎるでしょうか。
こんな状況でなければ、二人はきっとお互いの良き理解者となることができて、
お互いをより高め合える親友的な存在になり得たはずなのに、と残念に思います。

(中臣鎌足考察特別編「永遠に続く君への思い 高市皇子」 おわり)2010.7.14

※ タイトル「永遠に続く君への思い」はEXILE『永遠』の歌詞から拝借しました。
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